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<東京怪談ノベル(シングル)>


 Secret(2)


 月明かりも届かぬ地下の部屋。
 廊下から漏れる僅かな光の下に届くのは、獣の咆哮か、生存競争に負けた獲物の悲鳴か。
 ぴちゃり、ぴちゃりと言う音だけが漏れ出ていた。


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 高科瑞穂(たかしなみずほ)は、長く艶やかな髪を千切れんばかりに掴まれ、口の中で悲鳴を上げていた。ただ、声が漏れない。
 ガチガチガチガチ。
 本来、春はまだ遠い季節とは言えど、屋敷の中は地下でも温かいはずである。しかし、背中から凍るような冷たさが瑞穂を包み、それが歯噛みを生み、ガチガチガチガチと言う震える音を生み出しているのである。
 震えた瑞穂の唇からは、声が漏れない。
 喉でつっかえて言葉にならないのだ。出るのは捕食時に牙を立てられる前の獲物の絶望を伝える鳴き声ばかり。そう。誰もそんな声を出しても助けてくれないのだ。
 このまま力を込めたら皮膚ごと髪が抜け落ちるんじゃなかろうか、と言う位にきつく掴まれて髪が、頭が、皮膚が痛い。
「何だその顔は」
「え……?」
 突然、ぴちゃりと言う舌なめずりの音が途絶えた。
 掴まれた髪がほどける。
 少し虚を突かれて床に崩れ落ちそうになった時だった。
「ぐふっっ!!」
 腹を押さえてうずくまった。
 鬼鮫が手を離した直後、瑞穂の腹に蹴りを入れたのだ。
「何だその目は」
「え……」
「まるで屈しないと言う目……脅えたように見えても自分は折れないと言う目。弱者の分際で」
 鬼鮫は怒っている?
 訳が分からない。
 鬼鮫は膝を折った瑞穂の腹をなおも踏み抜こうとするのを、瑞穂は転がって回避した。
 が。
 瑞穂が転がった先に鬼鮫は手を伸ばし、またも瑞穂の長い髪を千切れんばかりに引っ掴んだ。
「その目が、その目が邪魔だ!!」
 鬼鮫は瑞穂の髪をきつくきつく掴んで持ち上げ、このまま近付けばキスができそうな位に顔を近付けた。その近付いた顔の眉間には深く皺が刻まれ、血管が浮き出ていた。サングラスで隠された目はきっとぎょろりと白目を剥いているのであろう。
 鬼鮫は怒っている。
 さっきの疑問が確信に変わった瞬間、瑞穂は頬を大きな音を立てて殴られた。
 何度も何度も、浴びせられるように頬を殴られる。
 頬の感触が変わっていくのが分かる。今ここが暗くて鏡にも窓にも自分の姿が映らなくて本当によかった。今の自分の顔は、きっとゴム鞠みたいになっているであろう。
「うぅ……!!」
 唇を噛んだ。出る声出る声がいちいちみっともないと、そう思ったのである。
 ああ、そうか。それで鬼鮫は怒っているのだ。
 その時になってようやく瑞穂が気がついた。
 パワーバランスは圧倒的にあちらの方に軍配が上がっている。しかし尚も鬼鮫がこちらに怒気をはらむのは、ひとえにこちらの心が完全に折れていないと、相手はそう思っているからだ。
 怒って、判断が鈍くなっているのなら、まだこちらにも勝機はある?
 瑞穂はそう考えた。
 考えた瞬間、それを見透かされたかのように腹に再度、大きな蹴りが入った。
「ガッハ……」
 口から飛び出た唾は、鉄の味がした。
 掴まれていた髪から鬼鮫の手が離れた。
 それを見越して、ようやく瑞穂は転がって、立ち上がった。
 床で何度も転がり回ったせいか、メイド服は埃っぽくなり、せっかく柔らかかったはずの布地がぼろ雑巾のように煤汚れてしまったのが残念だとぼんやりと思った。床を転がり回った時に床に引っ掛けたのだろう。ニーソックスもあちこち伝線してしまっている。
 でも……。
 お生憎様。私はまだ生きているわ。まだ屈してはいない。
 何度も頬を殴られ、蹴りを入れられ、正直酸素が足りないのか呼吸を上手く整える事ができない。故に立っても重心をきちんと定める事ができない。しかし、それが勝ち負けを決めるのではない。
 瑞穂は鬼鮫を見た。
 逆上するなら逆上しなさい。私はお前に屈しない。
「その目が、その目がその目がその目がその目がその目が邪魔なんだぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 鬼鮫は歯を剥いた。
 肉食動物の捕食の時である。
 しかし。
 瑞穂もまた、本来は肉食動物の部類なのだ。
 瑞穂は向かってくる鬼鮫に対して、ここで引く訳には行かないのだ。
 瑞穂は、ふらつく脚をこらえて、床を踏み締め構えを取った。
 私の筋力だったら、手で攻撃しても致命傷は与えられない。
 使うのは、脚。
「てやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 ブチブチブチッッ

 瑞穂は片脚で思い切り床を蹴り上げ、もう片方の脚を大きく突き上げた。
 ガーターベルトが脚の無理な動きに耐え切れなくなり、醜い音を立てて壊れ、クリップが飛び散った。ニーソックスの伝線は大きくなり、もうソックスとしての機能は果たしていない。
 タイヤのような胸板は狙わない。
 狙うは急所。首。
 しかし、瑞穂の脚は届かない。
「ぐぅぅぅぅぅぅ………」
「……それだけか?」
 鬼鮫は冷たい声を出す。
 鬼鮫は瑞穂の高速の脚を受け止めていた。
 手の力は強い。
 痛い。いたい。イタイ。
 逃れようともう片方の脚を蹴り上げて飛び、そのまま鬼鮫の腹を蹴り上げようとしたが、もう片方の脚も掴まれ、持ち上げられた。
 瑞穂は結果的に両脚を掴まれ、釣り下がる形となった。
「まだ逆らうか? お前は」
 瑞穂が反抗して身体をガクガク揺さぶるが、鬼鮫はその手を離しはしない。むしろ足首を砕きそうな力を込めて脚を強く掴む。
「もっと歪め。もっと醜い顔をしろ。お前にその目は必要ない」
 鬼鮫の声は、呪詛そのものだった。
 鬼鮫はそのまま瑞穂を床に叩きつける。さながら椅子で床を叩く、その様に。
「はうぅぅぅっっっっ!!」
 背中から聞いた事のない音が響き、その衝撃に悲鳴を上げる。
 骨に、ひびが入った?
 一瞬そう思うが、もう次の瞬間瑞穂の思考は消し飛んだ。
 鬼鮫は瑞穂をそのまま寝かせるような事はせず、また無造作に髪を掴んで持ち上げ、腹に膝蹴りを入れたのだ。それはさながらボールのように。
 瑞穂は激痛で構えを取る事も、受け身を取る事もできずにそのままボールそのもののように床に転がった。
 起き上がろうとするものの、瑞穂はそこで頭に固いものが当たっているのに気がついた。
 そうだ。ここは壁だ。
 入り口からのみ漏れるわずかな光を見た。
 あそこまでは、とても遠い。
「さあ、もう逃げ場はない」
 鬼鮫は瑞穂の顔を踏みつけた。
「ガァァァァァァァァ!!!!」
 瑞穂は何度目かの悲鳴を上げた。
 鼻血が止まらない。
 鬼鮫が強く踏んだ衝撃で、鼻が折れたのだ。
「それでいい」
 鬼鮫の声は優しい。
「敗者にはそれが相応しい」
 その優しさは、自分の勝利を確信した者だけが見せる憐憫の優しさである。
 髪は再度掴まれ、顔を持ち上げられた。
 食われる。
 捕食が始まった。


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 捕食で食われたものは、瑞穂の美しさであった。
 鬼鮫はサンドバッグのように瑞穂に情け容赦なく頬を叩いた。
「あっ!! う!! あっ!!」
 瑞穂の悲鳴は最初は続いたが、だんだん痛さがなくなってきた。
 感覚が鈍ってきたのである。
 鈍ってきたのは感覚だけではなく、意識も、闇に溶け込もうとしていた。
「誰が寝ていいと言った?」
 鬼鮫が掌を握って頬に打ちつけた。
「がぁぁぁぁぁ!!!」
 歯が折れた。
「終わりだ」
 ようやく、満足したのか、鬼鮫はにんまり笑って、瑞穂の顔を掴んだ。
 瑞穂は、ぼろ雑巾であった。

<Secret(2)・了>