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Deep Forest - 2
瑞穂は、かるく踵を上げてリズムをとりはじめた。軽快なステップで、体を左右に振る。ボクサーのような動き。しかし、すぐには攻撃しなかった。様子をうかがったのだ。
もちろん、瑞穂は自分の腕に自信を持っていた。相手が能力者だろうと何だろうと、負けるつもりはなかった。それどころか、能力者の大部分には勝てる自信があった。
自衛隊にはいくつもの秘密部署が存在するが、瑞穂はその中の近衛特務警備課に所属している。訓練の厳しさと隊員の錬度にかけては定評のある部署だ。正面突破を挑んでくるわけでもない泥棒ネズミ一匹に負ける理由などないと、彼女は自負していた。
それでも、瑞穂は油断しなかった。どんなときでもそれが命取りになることを、彼女はよく知っていたのだ。だから、警戒は解かなかった。警戒しながら、彼女は慎重に攻撃を加えていった。
かるいフットワークで距離を保ちながら、瑞穂は右のボディフックを放った。当たったとしても決定的なダメージにはならない。しかし確実に体力を奪える種類の打撃。
鬼鮫は避けるそぶりすら見せず、真正面からこれを食らった。
硬い音がした。石壁のような腹筋。かるいパンチで打ち破れるものではなかった。
ちっ、と瑞穂は舌打ちした。容易な相手ではない。そのことが、いまの一撃で理解できたのだ。
すこし距離をつめて、彼女はもういちどボディブローを放った。今度は、体重をのせた一撃だった。やはり、鬼鮫は避けなかった。サンドバッグを叩くような音がして、彼はわずかによろけた。
流れるように、瑞穂の左足が跳ね上がった。編み上げブーツの先端が楕円軌道を描いて、鬼鮫の頭部をとらえた。ゴツンという衝撃音。絶妙なコンビネーションだった。鬼鮫の体が揺れて、そのまま横倒しに倒れた。
とどめをさして制圧しようとした瑞穂だったが、それより先に鬼鮫が立ち上がった。立っただけではなかった。鬼鮫は、にんまりと笑っていた。それは、どこか白痴めいたような、狂気の片鱗を感じさせる笑みだった。
「強ぇな」と、鬼鮫は言った。
「降参する?」
と、瑞穂。
「ふざけんな」
答えたとき、鬼鮫の体が前によろけた。
好機とばかりに、瑞穂は動いた。よろけた鬼鮫の顔に向かって、渾身のハイキックを見舞ったのだ。
びぅ、と空気の裂ける音がした。蹴り足の先端は、衝撃波さえ生じそうな速度を持っていた。あたれば、頭蓋骨を粉砕するほどの蹴り。
しかし、蹴りは当たらなかった。──否。あたらなかったわけではない。鬼鮫が、片腕でブロックしたのだ。ボギッという音とともに、腕が折れた。
しかし、それだけだった。鬼鮫は止まらなかった。腕一本と引き換えに、彼は間合いをつめた。最初から、折らせるつもりだったのだ。
「あ……っ!?」
瑞穂にとって、それはあまりに予想外のできごとだった。
油断したのだ。腕を折られて前に出てくる人間など、普通いない。たとえそういう意思があったとしても、痛みで動きが鈍る。それが普通だ。そういう思い込み、油断が瑞穂にはあった。しかるに、今回の相手はまったく動きが鈍らなかった。むしろ、腕を折られて余計に動きが早くなったようですらあった。一瞬の油断。しかし、致命的な油断だった。
鬼鮫は、すりぬけるように瑞穂の横へ移動した。そして、体を横へひねりながら膝蹴りを放った。距離が近すぎて、膝以外の攻撃手段がなかったのかもしれない。いずれにせよ、それは完全なる逆転の一撃だった。
巨大な鉄槌のような膝が、瑞穂の背後から襲いかかった。殺気と破滅を孕んだ音が、大気を震わせる。背骨か脊髄を蹴られるものと思い、瑞穂はその箇所を守ろうと体を前に折りたたんだ。必然、尻が突き出るような姿勢になった。
瑞穂の予想は、ことごとく外れた。突き出された臀部を、鬼鮫の膝が蹴り上げたのだ。
ぐしゃっ、という音がした。肉のつぶれる音。そして、骨に響く音。
「ひぐぅっ!」
こらえようのない悲鳴が、瑞穂の唇からほとばしった。
痛烈な一撃だった。おおよそ、どんな攻撃でも、予想できたものなら大抵は耐えることができる。あるいは、まったく予想できない攻撃だとしても、意識を失うほどの打撃なら、それはそれで救われる。尻への攻撃は、そのどちらでもなかった。それはあまりに予想外のものであり、かつ痛覚のかたまりのような攻撃であった。──そう。鬼鮫は、彼女に痛みを与えるためだけにこの攻撃を選んだのだ。
瑞穂は両手で尻をおさえ、バランスを崩して地面に倒れた。仮に痛みがなかったとしても、立っていられるものではなかった。強烈な膝蹴りだった。
尻をおさえていたせいで、瑞穂はほとんど顔から地面に倒れるような形になった。地面がアスファルトやコンクリートでなく土だったのは、彼女にとって救いだったに違いない。すくなくとも、顔に傷を残さないという点においては。──いずれにせよ、彼女の運命に変わりはなかったが。
倒れた瑞穂に向かって、鬼鮫の蹴りが飛んだ。革靴の爪先がとらえたのは、腹だった。ドボッ、という音。水の詰まったビニール袋を叩くような音だった。瑞穂は両手で腹部をかかえたが、その上から更に鬼鮫の蹴りが叩き込まれた。もういちど、水袋をつぶすような音がした。
「ぉふ……っ!」
胃の中のものを吐き出しながら、瑞穂は横へ転がって逃げた。
動けたのは大した距離ではなかったが、鬼鮫はそれを追わなかった。追う必要がないと判断したのかもしれない。手加減や慈悲の心などというものを、彼は持ち合わせていなかった。ただ冷たい目で、鬼鮫は瑞穂を見下ろしていた。腕が折られていることなど、その表情からは想像もつかないほどだった。
のたうちまわるように地面をころがりながら、それでも瑞穂はどうにか立ち上がった。膝が震えている。膝だけではない。体全体──とくに腰まわりが、どうしようもないほど震えている。最初の膝蹴りが効いているのだ。
油断した──。ふるえる唇で、瑞穂は小さくつぶやいた。相手の腕を折ったとき、勝負がついたと思ってしまったのだ。みくびっていたのである。その結果が、このザマだった。
それにしても──と瑞穂は思う。いま起こったことが信じられない。尻をおさえて地面に倒れるなど、軍人としてありえないことだ。軍人としてだけでなく、女としてもありえない。まるで幼児のような痴態をさらしてしまった。
羞恥に顔を赤らめた瑞穂の腹部に向かって、休むヒマなく鬼鮫の蹴りが伸びてきた。ストレートな攻撃。おぼつかない足取りで、それでもどうにか瑞穂はこれをかわした。そこへ、左のフックが飛んだ。
パアン、と空気の破裂する音が響いた。
鬼鮫は拳を握っていなかった。平手で、瑞穂の頬を張ったのだ。横にはじけた彼女の頬を、反対側からもういちど平手が襲った。瑞穂はスウェーして避けようとしたが、さがった距離の分を鬼鮫が踏み込んだ。
ふたたび空気を震わせる、小気味良い破裂音。
たちまち、瑞穂の両頬は真っ赤になった。それは、もはや羞恥のためだけではなかった。痛烈な平手打ちが、彼女の頬を腫れあがらせたのだ。赤い月影の下、瑞穂の顔はフラッドライトを浴びたように鮮烈な色で染め返されていた。
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