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花、墜つ。 (2)
夢を、見ていた。
どんな人間にも、現在がある以上、過去がある。
その過去を、夢に見ていた。
ふわりふわりと漂う意識の中で、浮かんでは消えていく幾つかの夢を。
それらは懐かしい何かで、自分でも忘れていたようなことで―――。
「起きろ」
どすん、と腹部に叩きこまれた蹴りに、高科瑞穂は、はっと目を覚ました。同時に喉から、自分の意思とは無関係に熱いものを吐き出す。
赤い…、血と胃液が混じったものだった。
ああ、ああ。そうだ。
私は、負けたのだ。完全に。
意識を軽く失っていたため、どれくらい時間が経ったのか感覚が分からないが、実際はごく短い間だろう。何故なら、その敗北した相手が、まだ目の前に立っているのだから。
負けた、という事実に、瑞穂はただ呆然としていた。瑞穂自身は、決して自惚れの強い性格ではないし、理性的な性格だが、自衛隊の中でも極秘とされている、近衛特務警備課の一員であるプライドがあった。それが今まさに、粉々に砕かれてしまっていることに、ただ唖然としていた。
だが。
このままでいいのだろうか。
もちろん、このままでは瑞穂自身の命の危険が発生するだろう。いや、生命の危機どころではない。世間では決して公にされていない、特殊な軍隊の所属である以上、拷問にかけられて情報を吐く可能性もある。
なにより、瑞穂の誇りが許せなかった。呆然としていた意識が、段々と闘争心に燃える。
このままにできない。できるわけがない。
死ぬのが嫌だというよりも、負けたままの屈辱を何とかして、払拭したい。
軋む身体を、腕で支えて、ゆっくりと瑞穂は立ち上がった。
眼前の男―――確か、鬼鮫と名乗った―――は、それをじっと見降ろしていた。まるで瑞穂が立ち上がるのを、そっと期待していたように。無表情だった顔が、どことなく嬉しそうになる。唇の端を上げ、少し歯を見せた。
「良い子だ」
「はッ、はぁ…っ」
鈍い痛みが引くことはなかった。せめて、せめて一太刀浴びせてやらなければ、気が済まない。
あくまで潜入捜査であるため、銃火器の類は一切持ってきていない。当然だ。発砲音がすれば、潜入の意味がなくなってしまう。
鬼鮫が応援を呼ばないのも、銃火器を使わないのも、とりあえずは幸運だ。彼はそれほど腕に自信があるのだろう。実際に瑞穂は、完膚なきまでに敗北したのだから。
するり、とグローブを嵌めた手が、スカートの中に伸びる。
距離は良し。スカートの下から、抜き身のナイフ。
ぎちっ、と皮が軋む音が響くほどに握りしめ、相手の懐に飛び込むとのと同時に、それを突きたてようとした。
ドッ! と重い打撃音と共に、拳が脇腹にめり込む。
「がっ…は、っ」
瑞穂の動きが止まる。当然だ。次いで鳩尾に一撃、生理的な涙が眼尻に滲む。直後、胸にまた強烈な強打。身体が支えれなくなり、すぐ背後の壁に、背中を撃ちつけた。強かに打ち付けた為、瑞穂はその痛みにも、小さく呻く。
息がままならない。床に転がった彼女は、床に爪を立て、醜い苦悶の声を挙げてのたうち回った。涙が頬を濡らし、喘息を患っているような、ひゅーひゅーと空気の抜ける音を立てた。
「ここまでか?」
くっ、と鬼鮫が喉で笑う。この男は、この戦いを楽しんでいる。瑞穂が起き上がり、それを打ちのめすのに、ほの暗い快感を得ている。そう思えばまた悔しさを煽った。
「…っ、はー、はー…―――っ!」
飛びかかる程の体力がもうないのは、自分の身体のことだ、よく分かっている。
ナイフを鬼鮫の顔面目掛けて投擲すると、彼は利き腕でそれを受け止めた。手首よりやや下に、ナイフが深く突き刺さり、瑞穂はようやく反撃の手口を掴んだと思った。
命を取ることができなくとも、これで利き腕の攻撃は緩むに違いない。
だが…、
なんでもないような態度で、鬼鮫はそのナイフを抜いて床に放った。カランと音を立てて、血に濡れたナイフが落ちる。
次の瞬間、ナイフで貫かれていたはずの彼の腕は、瞬時に再生を果たしていた。テープを逆再生したような錯覚を受けた。
「…っえ?」
「その格好からの反撃にしては、大したモンだったな」
にやり、とまたもあの笑みを浮かべる鬼鮫に、いよいよ瑞穂は恐怖心を抱き始めた。
「に…ん、げんじゃ、ない?」
「言い忘れたな。俺は、鬼鮫。IO2所属の―――」
そこまでの情報は、既に瑞穂は知っていた。つい数十分前に本人が名乗ったのだから。
その先は、未知。
「トロールのジーンキャリアだ」
「―――!!」
驚愕に瑞穂は目を見開いた。ジーンキャリアについては耳にしたことがある。
魔物の遺伝子を人工的に組み込んだ者。大概の人間ならば忌むべきことを、この男はやってのけたのだ。
道理は全て解った。この男のとてつもない腕力、そして今見せた再生能力。トロールの特徴そのままだ。
説明は終わりだと言わんばかりに、鬼鮫が強烈なパンチを瑞穂に繰り出した。顔面に的確に当たり、思わず仰け反る。だが彼は、何度も何度も、瑞穂の拳の何倍もある拳を、瑞穂の顔に撃ち当てた。
ふらつく彼女に、左右から頬を叩かれ、
「ぶは…っ」
先ほどまでの凛とした姿や表情は、どこへ消えてしまったのだろうと、憐れに思わざるを得ないほど、醜い姿を彼女は晒していた。
壁にもたれながら、ずるずると崩れ落ちていければ幸せだったろうが、鬼鮫はそれも許さず。崩れ落ちるところを、彼女の美しいブラウンの髪を掴む。
半分口を開き、いくつも打撃を加えられた瑞穂は、虫の息と言っても差し支えない醜態を見せていた。乱れたメイド服の下の整ったボディラインが、整いすぎている為に余計憐れだった。
「まだ寝るんじゃねえぞ」
そう言い、鬼鮫は何度も平手を繰り返す。
ばちん! ばちん! とその音が響くにつれて、瑞穂の頬が赤く腫れた。打たれる度に悲鳴を挙げた。髪を離したと思いきや、厚い掌が瑞穂の両頬を掴む。
完全に、彼女は遊ばれていた。頬を引っ張られ、また押しつけられ。それせ合わせて顔が変化する。まるで子供同士が、にらめっこをして遊んでいる時のように。
瑞穂に屈辱を味あわせるためだけに―――。
それも飽きたのか、鈍く重い音が響き、鐘のように頭の中が回った。頭突きをされたのだ。
「あぁ…ぎぃ…あ!」
悲鳴ともつかない声を挙げ、瑞穂はくらりと倒れることも許されず、二度、三度と頭突きは続く。そもそもジーンキャリアとは、身体の性能が違う。
その攻撃がようやく終わる頃には、瑞穂はびくりびくりと痙攣し、痛みに涙を流して呻くばかりだった…。
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