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<東京怪談ノベル(シングル)>


the close of winter

 一条里子は薄い香を漂わせる畳紙を広げると、一つ小さく息を吐いた。
 ずしりと重みを持ったそれをゆっくりと開けば、中からは桃色を主体に色鮮やかな柄を配した振り袖が現われる。
 帯は鮮やかな紅に金糸銀糸で鞠の図案を描いて、華やかに女の子らしいものだ。
「これを着て、あれだけ動けるなんてねぇ……」
雛祭が平日であった為、繰り上げて日曜日、娘の友人も招待して小さな会を催したのだが、類は友を呼ぶというもので。
 女の子だけのしとやかな集まりは、いつの間にか効果的、且つ見栄えする蹴り技研究発表会と化し、振り袖の裾をからげて架空の敵に空中殺法を繰り出す娘の姿に眩暈を覚えたものだった。
 遠くを見る里子の視界に、雛飾りが入り込む。
 瓜実顔に、微笑んだように目の細い、特徴的な京雛の十五対の眼差しが里子に向けられている。
 一条家の雛飾りは、睦まじく並ぶ内裏雛、三人官女の次に五人囃子が続き、右大臣と左大臣、仕丁三名が付き従う総勢十五名の大所帯だ。
 北海道在住時と違い、東京のマンション住まいに七段雛は些か大きすぎるきらいがあるが、雛飾りの収納ばかりはトランクルームを活用して凌いでいる。
 女親として、娘の成長を寿ぐ桃の節句だけは外せない。
 けれどもそんな苦労を余所に、愛娘は自身の気の進まない行事についに改善案を見出していた。
 雛壇の脇、段ボールを重ねて作ったチープな飾り段が、里子の希望と娘の主張、その間に隔たる深い谷間に掛かる細い吊り橋と言えた。
 最上段の右に無口さがニヒルな巨大化ヒーロー、左には彼の永遠のライバル、笑い声の素敵な鋏手の宇宙怪人。すぐ下の段にはもさっとした質感の赤い怪獣を真ん中にナメクジを彷彿とさせる黄色い生き物と、がま口によく似た頭部を持つ方等、こちらも総勢十五体が思い思いのポーズで陳列されていた。
「これは……どっちがどっちなのかしらね」
ヒーローと怪人の立ち位置に、里子はしばし頭を悩ませる。
 京雛ならば古式ゆかしく、男雛が右、女雛を左に配するが、関東に来ると現代風に左右を逆に飾る。
 里子はしばし頭を悩ませたが、考えても詮無いこと、と軽く頭を振ると、振り袖を再び畳紙に収めた。
 来年はどうしてやろうか、と雪辱に燃えるある種前向きに切り替えた思考を、来客を告げるチャイムが中断した。
 平日の日中、予定や連絡もなく訪れるのは勧誘か訪問販売である確率が高い。
 入居当時、幽霊マンションの噂が健在であった頃は、その憂いもなかったのだが、最近はその効果も薄れてきてか、時折アポなしの販売員が訪れるようになっていた。
 最も、一条家に関してだけは、その他に分類される来客の存在を無視出来ないが、彼等が呼び鈴を鳴らすことはまずない為、その可能性は除外する。
 しばしの間を置いて、もう一度。
 応対を求めて繰り返されるチャイムに、里子は重い腰を上げた。
 今度のボーナスで、インターフォンの設置を主張するべきかと思いながら、ドアスコープ越しに扉の外に立つ人物を確認する。
「……あら」
レンズ越しに歪む小さな視界に、三揃えをかっちりと着込んだ若者の姿が映り込んだ。
 長い白髪を後ろで一つに纏め、薄いグレイに細い縦縞の入った生地は、見るからに上質で品がよい。
「あらあらあら」
スコープから目を離さないまま、里子は左手でドアチェーンとロックを外すと、迷わず扉を開いた。
「いらっしゃい、何の御用?」
鍵を開く音に一歩後ろに退き、扉の開く場所を開けていた来訪者は、里子の満面の笑顔に迎えられて少し戸惑った風に頭を下げる……その額に、小さな角が二本、確かな存在感を放っていた。


「あなたはコーヒー、大丈夫?」
台所でお茶の準備をしながら、里子は来訪者に呼びかけた。
「どうぞ、おかまいなく」
耳に快いハスキーボイスで遠慮する……白鬼に、里子は笑みを崩さぬまま振り返る。
「そう言わないで。おしゃべりにお茶とお菓子は必須だもの」
「……では、コーヒーを」
鬼の全てが豆アレルギーではないらしい、と新たな事実に感心しながら、里子は鼻歌交じりにコーヒーメーカーのスイッチを押した。
 時折、人でない存在が里子の家を訪れては、自分の抱えている問題に何某かの解決策を……人の視点から見て、効果的な方法を求めて訪れる。
 妖怪相談所の看板を掲げているわけではないが、風の噂を頼りにやって来る彼等を無碍にすることなど里子に出来よう筈もない。
 コーヒーが大丈夫なら、他の豆も平気だろうと、里子は近所に新しく出来たパン屋で売っている、中にピーナッツバターを仕込んだクッキーを茶菓子に選ぶ。
 二人分のコーヒーと茶菓子を整えた盆を手に、テーブルに戻った里子は、凛と背を伸ばして座る白鬼の佇まいに思わず息を吐いた。
 眉目秀麗とはこのことを言うのだろう。
 すっきりと通った鼻筋に、切れ長の眼は黒目の部分が大きくしっとりと濡れていて、和の趣がある。
 明るい顔立ちの里子にはない落ち着きが、目に麗しく形を結んでいれば、見惚れてしまうのが人間心理というものだ。
 所作の一つ一つからして切れが良く、本人の性質を滲ませている。
 思わぬ目の保養を堪能しながら、テーブルを整えた里子が腰を落ち着けるのを見て、白鬼は丁寧に頭を下げる。
「お礼とご挨拶が遅れまして。その節は、部下が大変お世話になりました」
やはり赤鬼関係者であったかと心中に納得しながら、里子は微笑んで謝礼の言葉を受け取り、問い返す。
「さぞご心配でしたでしょうね。それで、彼は元気にしてます?」
時節的には、もう地獄に帰った頃だ。
 そうあたりをつけ、何気なく近況を聞いたつもりだが、白鬼は僅かにその秀眉を寄せた。
「……それがまだ、戻らぬのです」
「はい?」
里子はカップに投じようとしていたスティックシュガーの先を誤り、ソーサーにグラニュー糖を注いでしまう。
 地獄と現世の出入り口は幾つかあるのだが、幾つか不便な規約が存在し、出た場所から戻らねばならないというのがその一つであると、里子は認識している。
 それ以外の方法では、正しく地獄に下る、即ち、罪人として地獄落ちする亡者に付いて行くより他ない。
 どちらの方法を取るにせよ、もうとうに戻れたものと思い……否、すっかり忘れ去っていた里子には寝耳に水だ。
「地獄も慢性的な人手不足に悩まされているので、本来長期の休暇を認めてはいないのですが」
休暇というよりも不可抗力に近い形で職場を不在にさぜるを得なかった赤鬼だが、現世での活動、間違いなく刑期が長期間に及ぶ罪過を未然に防いだ功が認められて、一年の長期出張扱いになっていたのだと言う。
 その期間も終え、戻って来るかと思えば一向に音沙汰がない。
 実績を鑑み、本人の意見を参考にして、今後現世に派遣員の設置を考えようという企画も上がっている折の事態に、直属の上司である白鬼が直接捜索に訪れたのだという。
「彼が出逢った人々に話を伺って回り、最後に行き着いたのが一条様でして」
最後ということは、他に手がかりが得られなかったということか。
 里子は一旦落ち着こうと、結果的に砂糖の入っていないコーヒーを口に含む……その思わぬ苦さに、思考が加速度的に動き出す。
「残念だけど、私は赤鬼さんと連絡を取り合ってるわけじゃないから、居所までは解らないわ」
苦さを呑み込み、里子は持っている情報の全てを端的に告げる。
「……そうですか」
僅かならぬ落胆を滲ませる、それでいて平坦な声音に里子は手にしたカップを受皿に戻した。
 カップの底が、砂糖に当たってジャリリと擦れる。
「心当たりは、なくもないの。ただ、とっても気掛かりなことがあるから、一つだけ教えて貰えるかしら……?」
交換条件を持ち出した里子に、白鬼が居住まいを正した。
 それを是と取り、里子は僅かに身を乗り出す。
「あなた、女の子でしょう? 赤鬼さんを彼って言うときにちょっと含みを感じたりするんだけど、公的には上司部下でも、私的にはどんなご関係なのかしらっ」
わくわくと胸躍らせる里子に、白鬼は目に見えて肩の力を抜いた。


 里子は白鬼を伴って街へと繰り出した。
 まだ肌寒さは残るが、防寒目的でない薄め上着でお洒落の楽しめる良い季節だ。
 とはいえ、呑気に四季の移り変わりを堪能している場合ではない。
 里子は気掛かりそのものを白鬼に確認して貰うべく、休日に若者の多く集まる界隈を目指し呈した。
 その手には、雨の予報もないのにしっかりと愛用の傘が握られている。
「私も、テレビで観ただけなんだけどね?」
横を歩く白鬼に視線を合わせようとすれば、行き過ぎようとした高校生と思しき少女達と視線が合う。
 少女達は意味ない悲鳴を上げると、「えーっ、マジヤバくなくない?!」「てかマジヤバいーッ!」などと口々に言いながら小走りに走り去って行く。
「何か問題があるのでしょうか」
若者の過剰とも言える反応に困惑し、白鬼は肘を上げて自分の姿を不審気に見下ろしている。
「それはあなたがカッコイイからよ」
長身の白鬼は、よく見れば女性と判じられるが、その中性的な趣は傍目に魅力的だ。
 背広も普段から着慣れているらしく、無理がない。
 その彼女が、赤鬼と婚約関係にあるということを先に聞き、里子は何やら感慨深いものを感じる。
「赤鬼さんとのデートの時も、それで?」
「はい。業務終了後に合う事が多いので」
里子自身、連れ歩くに誇らしいが、デートの際はどうだろうか……何せ、相方の赤鬼のビジュアルもビジュアルである。
 甘やかな男女の会話を楽しむことなど可能なのだろうかと、老婆心ながら心配になってしまう。
「ねぇ、次のデートにはお着物にしたらどうかしら? 持ってる?」
ふと思いついての提案に、白鬼は首を傾げる。
「着物……ですか。見合いの時に作った振り袖でしたら」
「え、赤鬼さんとはお見合いで?」
職場が同じであるという以外に接点を見出せない二人の関係に、納得が行かなくはないが、周囲に纏められての関係を白鬼は否定した。
 見合いの席に乱入し、赤鬼はその場で白鬼に結婚を申し込んだのだと言う。
「まぁ……ロマンね。でも意外だわー、彼にそんな」
甲斐性があるなんて。と続けかけて里子は思わず口を噤む。
「上司部下以前には、お隣の僕、でもあったんですよ?」
懐かしげな口ぶりから、ある程度の年の差も窺える。
 男装の麗人と、職務質問一歩手前の赤鬼……お似合いね、とは口が裂けても言えないが、婚約者のことを語る際に柔らかくなる白鬼の眼差しと、ふいと女の香る所作に混じって、赤鬼に対する想いが伝わるようで、里子はほぅと息を吐いた。
「やっぱり、恋よね……」
そう、里子は長年の悩みにある種の光明を見出していた。
 年々増していく娘のやっちゃっぷりを抑える手段、それは恋。
 女だてらに地獄の獄卒の上に立つ白鬼から、ささやかながら乙女を香らせる効用を持つ、それが恋。
 この絶大なる効果ならば、女らしさのスイッチを入れることも可能だろうと、里子は期待に高鳴る胸に、足取りも軽くなる。
 そうすれば、デパートに出掛けた際に男の子向け玩具売り場に突進されることなく、ファッションやアクセサリーを二人眺めて楽しむことも出来るし、二人してお菓子作りに台所に立つ、なんてことも可能だろう。
 うきうきしながらも、里子は視線を通行人に走らせていた。
 若者向けの店舗が並んだ通りは、人通りが多く、そう簡単に周囲を見渡すことはできない。
 けれども求めるものが確率しているだけあって、里子はほどなくその存在を白鬼に示すことが出来た。
「あ、ほら見てあの子」
携帯電話を並べた店先で、友人と談笑しながら新型機種を覗いている少年を指し示す。
「……ッ、あれは……ッ!」
 白鬼が声を失うのも無理はない。
 肌は直に緑にペイントされ、真っ青なアフロ、そして黒地に茶色の迷彩柄をしたニッカポッカ。
 誰かを、甚だしく彷彿させる。
「おい、お前」
白鬼はツカツカと、目に優しい緑の彩色に、今にも光合成を初めても不思議のない少年に歩み寄った。
「どうやってこちらに出て来た。所属部隊は何処だ」
あれがデフォルトなのか。里子の驚愕を余所に、詰問口調の白鬼に、少年は戸惑いながらも律儀に答えようとする。
「え? で、電車ですけど……部隊?」
「白鬼さん、多分その子、普通の人間だから……」
里子のフォローに、白鬼は眉を寄せると、少年のアフロの生え際を掻き分けた。
 鬼ならば本来、あるべき場所に角がないのを確かめると、「失礼」と短く謝罪して里子に向き直るが、どう問えばいいのかも解らないのだろう……無言の困惑を察して、里子は白鬼に変わって少年に問う。
「随分本格的でカッコイイわね。最近流行ってるんでしょ?」
心からの賞賛を向けられて、少年は肋の浮いた幼い胸を張って見せた。
「でしょー。でもオレくらいのレベルはそういないしねッ」
三月に入ったばかりで、半裸を晒す剛の者もそうはいない……が、少年のように行き過ぎた者だけではなく、肌に直接色を乗せ、極力外に出したアフロヘアーの少年、時に少女がそこここに散見する。
「どういうことだ……」
「え、何知らないの? カッコイイんだよ、ホラ、今日も10位以内に入ってる」
呆然とする白鬼を、少年は道向かいにある本屋に誘導した。
 売り上げ上位の書籍がディスプレイされているショウウィンドウの一画を緑の指が指し示すのは、薄手の写真集だ。
「これは……」
朝日の昇る日本海を望む崖の先端に立つ後ろ姿が、表紙を飾っている。
 真っ赤な肌、真っ赤なアフロ、そして虎斑模様のニッカポッカ。
 逆光にも鮮やかな色彩に、彼が誰かは即座に解る。
『地獄にも花は咲く』そんな題字が力強い筆文字で浮かび上がっている、凝った装幀だ。
 表紙の下半分を覆う帯には、『彼は素晴らしいよ!』という吹き出しと共に、某大物キャスターが感服の表情を見せていた。
「あら、こんな本が出てたのね」
里子の感心を受け継いで、少年の連れも本を覗き込んで得意気に答える。
「100質とかさぁ、生き方とかさぁ、載っててさぁ。俺らに近いってーか、マジ沁みるってーか、カッコイイってーか」
「上から目線じゃないのがいいんだよね、苦労とか自慢話にするじゃん、大人って」
必要以上の低姿勢が、何やら若い世代に受け、リスペクトまでされているらしい。
 里子も最近のファッション事情を特集したコーナーを見た際、おかしな格好が流行るものねと軽く流してしまったが、普通、知人が流行の発生源とは思いがたいものだ。
 しかし、発生源と言うよりも、感染源な気がするのはどうしてだろうか。
 立派になってと目元を拭いたい気持ちにならぬまま、里子は少年達に同意する。
「そうよね、私もニュースで観たことあるわ……でも最近、あまり見ないわよね。どうしちゃったの? 彼」
勿論、嘘である。
 書籍が発行される程名が売れているなど、微塵も知らなかった里子だが認知度の高さ、及びテレビ番組の後ろ盾を鑑みて、ヤマをかけたのだが、それは見事に的を射ていたらしい。
「うーん……先月までは深夜の特番とかさぁ、やってたのを見てたんだけどさぁ、ホラさっきお前駅前で声かけられてたじゃん」
連れに肘で小突かれて、鬼の扮装をした少年は、ニッカポッカのポケットから、几帳面に折り畳まれたチラシを取り出した。
「ほらコレ。そっくりさんとかならいいけど、マジ本人だったら行き過ぎでイヤすぎ」
天を自分に向け、里子と白鬼が見易いように渡されたチラシには、『地獄は実在する!』と不吉におどろおどろしいフォントを赤で塗りつぶして、見る者の恐怖心を煽ろうとしている。
「人間は誰しも罪人です。生きれば生きるほど罪を重ねる人生に今日こそ別れを告げてみませんか? 今ならば死後、罪の軽減に関するお話しをあの方から伺うことが出来ます……?」
里子は傘を小脇に、両手でチラシを拡げて読み上げる。
 チラシには丸く囲われたスペースに、アフロと解る人物のシルエットが胸にクエスチョンマークを貼り付けて、ピースサインを掲げていた。
「彼だ」
白鬼が、何を根拠にしてかは解らないが、力強く断言する。
「ありがとうね、僕たち。このチラシ貰ってもいいかな?」
何かお礼を、と言いかける里子に、鬼の少年が笑って手を振った。
「いいよ、持ってる物が人の役に立つなら惜しまないってのが、赤鬼さんの信条なんだって」
自分もそれに倣うのだと、緑の頬を緩ませて笑う少年は、何処か誇らしい。
「ありがとう。心からの感謝を」
白鬼に手を握られて、少年はくすぐったそうに笑い……くしゃんと大きくくしゃみをした。
 流石にこの時節、諸肌で戸外を闊歩するものではない。
 早く何処かであったまってねと言い置いて、里子は白鬼と共にその場を後にした。
 講演会の日付は今日、場所は短期貸し出しを行っているオフィスビルの一階。
 チラシの場所へ足を向けながら、里子は白鬼に開催団体の名を指し示した。
「阿毘守……アビス会って読むのかしら。英語で、地獄のことよね。何か心当たり、ある?」
地獄の業務に関連している可能性を思い、問う里子に白鬼は苦々しい横顔で答える。
「心当たりがあるといえばあります。あちらの地獄の輩が、響きだけを好んで使うと」
言われてみれば、西洋・東洋共に地獄の概念は存在する。
「ただ、あちらに期間は存在せず世界の終末まで罪人を嬲るだけだ。罪を贖うことすら出来ない、ただの責め苦です」
西と東で、何やら思うことがあるらしい。
「昨今は、思想と宗教が混じり合っていますからね。あちらも、こちらの亡者を取り込もうと画策していると聞きましたが、まさかこんな手段を取るとは」
何やら壮大な陰謀が、香ばしく漂い始めて来た。
「……赤鬼さんの知名度を利用して、あっちの地獄にご招待って感じでいいのかしら?」
里子は手首にかけていた傘の枝を、クンと回して掴み直す。
「どちらにせよ、彼は取り戻します」
ふーぅ、と長く息を吐き出し、白鬼は力を込めて両手の五指を曲げる。
 公演会場は、先の場所から徒歩五分もない位置にあった。
 出入り口には、如何にも……というには程遠い、メタルファッションに身を包んだ柄の悪い複数人、あちらで言う悪魔がたむろしている。
「及ばずながら、助太刀するわ。王子が囚われちゃったら、助け出すのは姫の役目だものね」
「助かります」
その会話の間に、相手もこちらに気付いたのか、中からまた同じような姿をした仲間が顔をだす。
「何だよてめぇら……」
相手が牽制するより先に、里子は地面を蹴った。
 世界の命運をかけた戦いというものは、ご近所にわりかし転がっているものだなと、感心しながら里子は声を張る。
「まとめて問答無用です!」
露払いを請け負った里子が切り伏せた悪魔を踏み越え、白鬼が屋内に飛び込む。
「頑張れ女の子!」
襲い来る悪魔を叩き伏せ、ぐっと片拳を握った里子の声援には些か不似合いな、断末魔の如き悲鳴がビル内から街中に谺した。


 カトン、と立った乾いた音に、里子は郵便物の到来に気付いた。
 いつもの配達時間ではない。またピザのデリバリーサービスの広告かと、里子は窓から身を乗り出して、マンションの出入り口の通路に目を凝らした。
 しかし人の姿はなく、訝しく思いながらも何か気になって、出入り口に設置されているポストへと向かった。
 一条と苗字だけを記してある銀色のポストに、葉書と思しき厚紙の端が覗いているのに、何気なく取り出した里子は写真葉書であることを確認するなり、破顔した。
 写真には、角隠しを身に着けた白鬼と、紋付き袴を纏った赤鬼とが映っている。
 三ヶ月前、赤鬼奪回作戦を決行した時の感動の風景が、里子の目には今も焼き付いていた。
 実際には不甲斐ない赤鬼に白鬼のボディブローが決り、気絶した彼を彼女が抱き留めるというパワフルな光景だったのだが、夕陽を背景に、一年ぶりの再会に抱擁を交わした……とも見える風景は里子の心のフィルターを通して更に美化され、オプションとして、有り得ない星と花とが舞い飛んでいる。
「……やっぱり恋よねぇ、女を輝かせるのは」
ほぅ、と溜息をついて、いつか娘にもそんな日がと夢想する里子だが、残念なことに娘の恋の相手役のビジョンは存在しない。
「あ、メッセージもついてる」
表、住所の下にメッセージスペースがあることに気付いて、里子は葉書を裏返した。
「えーと。『結婚しました。つきましては小さいながらも新居を構えましたので、冥途の道行きの際は是非お立ち寄り下さい』……?」
若夫婦のお宅訪問が出来る日は、限りなく遠そうである。