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Troll - 4
なぜ──?
信じられない思いで、私は床を見つめていた。
なぜ、こんな男に私が負けるの──?
ありえない。ありえてはいけないことだった。
なにもかもが、現実とは思えない。けれど、目の前にあるのは床に広がった血の池。それ以外、なにも見えなかった。
呼吸するたびに、左の脇腹が激痛を訴えてくる。あばら骨を折られたせいだ。もしかすると、折れた骨が内臓のどこかに刺さったのかもしれない。のどの奥からこみあげてくる血は、何回吐き出しても次から次へと湧いてきた。
錆びた金属のような、腐った魚のような、そんな匂いが鼻をついた。血の匂いだ。吐き気とめまいで、頭も体もマヒしそうだった。
ひとつだけ、わかったことがある。
この男は、戦いをたのしんでいるということだ。そうでなかったら、倒れたままの私を攻撃せず黙って見ているのは説明がつかない。つまり、こいつはそういう人間なのだ。ごくまれに、そういう人種がいる。戦闘中毒としか言いようがない連中。例外なく犯罪者だ。この男も、例に漏れない。唾棄すべき連中だ。
問題は──と思う。
そう。問題は、どうやって勝つかだ。相手は、トロールのジーンキャリアと名乗った。途方もない再生力と腕力を与える遺伝子だ。再生のヒマを与えず、一方的にダメージを加えつづけるか、瞬時に命を刈り取るか、どちらかしかない。
いまの自分に、そのどちらかができるだろうか──。いや、できるだろうかじゃない。やらなければならない。そうでなければ、殺されるだけだ。
肘と膝に力をこめ、私は立ち上がった。
立った瞬間、ひどい立ちくらみがする。脳震盪のダメージが抜けきっていないせいだ。口の中に血があふれてくるせいで、ちゃんと呼吸ができないのも原因かもしれない。
それでも、どうにか私は足をささえた。ほとんど気力だけだった。
男をにらむと、薄笑いが返ってきた。唇が大きく吊りあがり、声をたてずに笑っている。ほんとうに面白いらしい。最高の娯楽映画でも見たあとのような、そういう笑顔だった。
私は右半身を前にして構えた。
フットワークは使えない。膝が震えている。じっくりと、すり足で前に出ていった。
前に出ながら、体のあちこちをチェックした。左の肋骨が折られているせいで、左半身は満足に動かない。髪や歯の抜けた痛みは、あまり感じなかった。アドレナリンの作用だ。
かまえた右腕が、ひどく重かった。かるく開いた手のひらは、血と汗でぬめっている。ワンピースの袖のボタンがいつのまにか外れていて、そんなどうでもいいことが頭のどこかに引っかかった。
男は、ろくに構えもとらず近寄ってきた。
間合いに入る寸前、私は足をもつれさせた。同時に、右腕のガードが下がった。
男が、ためらいも見せずに左拳を突き出してきた。
チャンスだった。わざと、足をもつれさせたのだから。相手の攻撃を誘ったのだ。
私は体を横にさばき、男の左腕を右手でつかんだ。つかんだのは手首だ。それを、パンチの勢いそのままに、ひねりを加えながら引き寄せた。手首をつかんだまま、左手を男の腕に絡ませる。上腕をつかみ、肘を固定して、手首をさらにひねった。
男の重心が、おおきく崩れた。その崩れた方向に向かって力を加えてやると、男の体はいとも簡単に床に転がった。合気道の技だ。
男が倒れても、手首は離さなかった。肩の関節を固めて、思いきり手首をねじった。
ゴリッという音。男の手首が折れたのだ。しかし、それだけでは終わらせなかった。手首をつかんだまま、私はありったけの力をこめて男の顔を踏みつぶした。ブーツの底に、頭蓋骨の砕ける音が響いた。
──勝った!
そう思った。
それでも油断はしなかった。もういちど足を振り上げ、脳味噌をまきちらせとばかりに私は靴底を踏みおろした。踏んだのは、床のカーペットだった。
瞬間。ぞくりとする感覚が背中を走り抜けた。
男が、私の足をつかんできた。飛びのこうにも、間に合わなかった。足をとられながら、私は男の頭を殴った。男の上から、右の拳を、何度も振り下ろした。硬いグローブが、男の耳や頬を裂いた。
男は防御しなかった。その顔や首に向けて、遮二無二パンチを打ち下ろした。倒されたら終わりだと思った。残った体力すべてを、この乱打に注ぎ込んだ。
男は止まらなかった。のしかかるように、体重をかけてきた。
膝をかかえこまれて、私は完全にバランスを失った。倒れるまぎわ、右膝を男の頭に叩きつけた。まちがいなく、頭蓋骨の割れる音がした。べっこりと、頭の一部が陥没している。生きているのが信じられないぐらいだった。
それでも、男は更に体重を加えてきた。
もう、立ってはいられなかった。私は頭をガードしながら、後ろへ倒れこもうとした。このまま男の腕をとって三角絞めに──。そう思った瞬間、男の姿がスルリと消えた。
信じられなかった。そんなに素早く動けるとは、思いもしなかった。それに、いくらトロールの再生力があるといっても、脳に受けたダメージは深刻なはず──。
男は、背中にまわりこんでいた。腰のあたりをつかまれ、熱い体温が伝わってきた。
そのとき、ふわっと体が浮いた。
一瞬、重力がなくなったように感じた。かわりに、風を切る速度があった。なにをされたのか、まったくわからなかった。重力がもどってきたときには、床と天井が入れ替わっていた。
すさまじい衝撃が、脳天に砕けた。体をかかえられて、脳天から床に落とされたのだ。まるで、プロレスだった。いや、プロレスそのものだ。
そのまま、私は床に転がされた。足が動かない。どうやってみても、立てなかった。立つどころか、指さえ動かない。意識はあるのに、脳と体をつなぐ神経がひとつ残らず切断されてしまったようだった。
男が、のっそり立ち上がった。顔は見えなかった。見えたのは足だけだ。ヒモの結ばれた革靴。それが、私の胸に叩き込まれた。
痛みのあまりに、声も出なかった。呼吸もできない。体を丸めて身を守ろうにも、それさえできなかった。
男の足が、もういちど動いた。今度は脇腹だった。折れた肋骨の場所。全身を激痛が貫いた。悲鳴を上げる間もなく、次は顔を蹴られた。鼻血がしぶいて、目の中に血が流れ込んだ。一瞬、意識が遠ざかった。
男は、蹴るのをやめなかった。
胸や腹を何度も蹴られ、つづいて腕や足を蹴られた。さらには、背中まで蹴られた。無傷な箇所をひとつも残したくないような、そんな蹴りかただった。いっそ神経質と言ってもいいぐらい、それは執拗な蹴りかただった。もう、私はサッカーボールと変わりなかった。
殺される──。
初めて、そう覚悟した。どんなふうに考えてみても、私の勝ち目はなかった。私にできるのは、命乞いをするか、舌を噛み切るか、二つに一つだった。
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