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錯乱ピエロ Ver.1
〜プロローグ〜
まず、準備をしてくれ。
ポップコーンと、コーラ、もし、小腹が空いてるってぇんなら、ホットドックか、ピザがお勧め。
ホットドックには、マスタードと、ケチャップ、それにピクルスをたっぷりと。
ピザは、トマトベースの、サラミなんかが乗ってるような、うんと下品な味がするやつが良い。
なんの準備かって?
これから、とっておきに、如何わしく、不気味で、可愛い話に付き合う準備をしろって事さ。
プロローグは、どんな風が良い?
そうさな。
セオリー通り、思わせぶりにいこうじゃないか。
つまりは、この話の始まりは、彼女と一切関係のない場所で、数年も前から紡がれていたって事だよ。
彼女の名前?
歌川百合子。
決まってるじゃないか、この物語の主人公さ。
幽霊船や、髪の伸びる人形、呪われた肖像画のような都市伝説。
アレと同じ類の怪談話。
サーカス。
真っ赤な血の色のテント。
いつの間にか、あんたの街で開催されている。
ピエロがジャグリングを披露して、色取り取りの風船を、ぬいぐるみなんかが子供に配っているだろう。
チラシを受け取った事があるのかい?
じゃあ、思い返して御覧。
あんた
その時
黒いリボンをしていたね?
誘われるまま、赤いテントに入っちまったら、もうお仕舞い。
一生、あんたはサーカスの住人さ。
さぁて、どうだい?
あんた、サーカスに行ったかい?
覚えてない?
怪しいなぁ。
じゃあ、質問を変えるよ。
あんた
本当に
自分があんた自身かって断言できる?
いつの間にか 「人形」の あんたになっちまってるかもしれないよ?
さぁて!
錯乱ピエロ! Ver.1!
いよいよ開幕! いよいよ開幕!
見逃したら、末代までの大損だよ?
〜Ver.1〜
涼やかで甘く、だが微かにスパイシーな香りは、この男によく似合っている。
茶色の髪をかきあげて、俯き気味に手帳に視線を走らせていた兎月原が、ひょいと予期せぬタイミングで視線を上げて、その横顔を凝視していた百合子に顔を向けた瞬間、不覚にも、そう、百合子にとっては「大いに」不覚にも、少し動揺してしまった。
「…どうしたの?」
甘い笑みを唇に刷き、そう問い掛けられて百合子は「前の香水より、今の物の方が私は好きよ」と褒めてやる。
「前のは、ちょっと下品だったわ」
そう指摘すれば、愉快気に唇を持ち上げ「そう」とだけ兔月原は答えた。
空気清浄機が静かな音を立てていた。
適度な湿度が保たれた、快適な部屋で、ぬくぬくとした温度で太ももをくるんでくれるふわふわのカーペットにべったりと足を伸ばし「そろそろ、用意しなきゃいけないわよ?」と兎月原に言いながら、自分は、映画雑誌なんかを呑気に捲ってみる。
「百合子が、スーツを着せてくれるんじゃなきゃ、何処にも行かない」
そう甘えたような口調で言う兎月原に呆れたような視線を送れば、にっこりと、どれだけの女性を虜にしてきたのか分からぬ魅力的な笑みを浮かべ、「それに、ネクタイだって君に締めて貰わなきゃならないし、爪だってほら?」と言いつつ、百合子の目の前で大きな、だが美しい形の手を閃かせて「伸びてきちゃった。 いつもみたいに切ってよ」と強請ってくる。
あ、この人のいつもの手だ。
百合子は眉根を寄せて、薄い色合いの唇をきゅっと引き結ぶ。
甘えたら許されると思ってる。
私は貴女のママじゃないんだからね?
「…まだ、拗ねてるの?」
多分、兎月原でなければ分らなかったであろう、百合子の微妙な表情の変化に気付き、顔を覗きこんでくるものだから「拗ねてないわ」と答えて、それからわざとらしく顔を顰めて見せた。
先日の話だ。
大事な客だった。
業界用語では、所謂「太い客」と呼ばれる類に位置するだろう、その上客の予約をよりにもよって「忘れてた」という理由によりすっぽかした兔月原は、その日のニュースを散々賑わせ、暫くの間情報メディアの場にて話題の的となり続けた、青山にある高層ビル「メサイア」にて起きた、爆破事故と異形の化け物騒動に何らかの関わりを持った挙句、百合子が焦がれて止まない「千年王宮」にまで、二度も! そう、二度もお呼ばれなんぞをしてきたらしい。
その間、百合子と言えば、客の矢ような催促とクレームの対応に追われ、ヒーヒーと言っていたというのに、何が一番気に入らないって、漸く連絡が取れるようになった兎月原に現状を説明し、客に詫びの連絡を入れて貰った瞬間、相手の態度もコロリと変わった所だろう。
埋め合わせに…とスペシャルなもてなしで機嫌を取れば、客は多いに満足してくれたらしく、「貴方にも急なご予定ってあるものね? いいのよ。 私の事は気にしないで。 いずれ会えるのなら、焦りはしないわ」なんて言葉まで賜ってきたらしい。
「まぁ、こんなもんだよ」なんて、百合子へのお詫びの品の、大好きな洋菓子店のマカロンを片手に、そう笑って告げた兎月原に対して、案外凶暴なところのある百合子が、クッションを思いっきり投げつけるだけで抗議が済んだのは、兎月原にとっては極めて幸運だった言えるだろう。
目の前の女性に対しては、誠実に心砕き、その女性が、幸せな時を過ごせるよう隙なく振舞える男だが、それはある種計算よりも「本能」による部分も大きいらしく、こうやって客の目の前でない場所では、中々怠惰で、仕事に対しても、不埒な言動を取りがちな兎月原の意識を、仕事に向けてコントロールするのは至難の技だ。
百合子は、ともすれば自分が生意気な子供のベビーシッターになったような錯覚に、囚われることもある。
思い通りになんて一つだっていかない相手。
まぁ、自分の思い通りになる人間の傍になんて、退屈が過ぎていたくないというのも本音だが。
それにしたって、一筋縄じゃ行かない。
自分の知らない所で、滅多と味わえないような、面白い経験をしている事も踏まえての話だ。
ある異種族の少女に纏わる悲しい出来事にて、その存在を知った「異空間」に存在するという「千年王宮」。
そこの住人である、竜子とは、3日間寝食を共にし、親しくなったものの、その後は会える機会にも恵まれず、不思議とロマンの巣窟らしい、千年王宮に足を踏み入れる機会にはとんと恵まれてはいない。
兎月原も彼女に嫉まれるのを恐れてか、「千年王宮」を訪ねた事こそ、教えてはくれたものの、一体どんな経験をしたのか、王宮とはいかなる場所だったのかは教えてくれず、ならば、あの「メサイアビル」で起きた騒動、そして、屋上に姿を現したという異形の生き物は一体如何なる正体を持っていたのか?と聞けども、それにも適当な言葉を並べ立て、百合子を誤魔化そうとしかしてくれない。
「楽しい事から、私を仲間外れにしたら、承知しないわよ?」なんて兎月原には、重々言っておいたというのに、この体たらく。
一体、自分はどれだけの機会を逸したのだろうと考えると臍を噛むほど悔しくて、「どうして呼んでくれなかったの?」と恨み言の一つや、二つや、三つほどは兎月原にぶつけたくもなろうってなものだった。
勿論、彼が悪いわけではないのだ。
自分の運が悪いという自覚もある。
兔月原は、そもそも、百合子を危ない目に合わせる事自体を良しとしておらず、あの見るからに危ない状況だったのだと分る「メサイア」ビルでの出来事や、どうも危険に満ちている場所らしい「千年王宮」にとて彼から百合子への召集が掛かる等と言う事は有り得ないのだとも理解していた。
だけど、それにしたって、不満に思う気持ちが収まるはずもないわけで、それでも、大人なので仕事は仕事と割り切って、えいやと、百合子は気を取り直す。
「スーツは今日は、何処のブランドのが良いの? 今日のお客様は、女性下着メーカーの経営者だったわよね? 確か、あんまりカッチリしすぎないファッションの方が好みだったと思うのだけど…。 でも、予約を取ってあるレストランって、今回グレードが高めなのよね…。 レストランのドレスコードとの兼ね合いも考えて、ネクタイで少し遊んでみる?」
実のところ、ファッションのコーディネイト等、一切合財興味のない百合子ではあったが、仕事ともなれば、そうは言っていられない。
兎月原から得た情報や、客からの要望メールにて知り得た顧客の好みにフィットするファッションをあつらえるべく、これまでの顧客の反応の良かった組み合わせを羅列したメモを眺めてそう提案する。
ドレッサーの中には、客からのプレゼントや取り寄せたもの、本人が時折、「ストレス解消に」等とOLめいた事をいって、大量購入してくるもの等々、唸る程に様々な服が取り揃えられ吊り下げられてくる。
そのどれもが、馬鹿馬鹿しいほどに値が張る事も百合子は承知していて、彼女なりに、手入れに気を使い、ドライクリーニングに小まめに出したり、湿気を取り除いたり、丁寧にアイロンを当てたりと、苦労させられてはいるのだが、そんな努力は何処吹く風とばかりに、兔月原はつまらなさ気にドレッサーを眺め、「んー…」と怠惰な唸り声を一つもらした。
そして、スタッフらしく仕事をしようとしている百合子の意気を削ぐように「何でも良いよ。 ドレスコードに引っ掛かろうが、俺、その店の上客だし、即座に個室に案内されるし、まさか、入店を断わられる事はないからね」とやる気のない声で言い、あまつさえ「あふっ」と欠伸すら漏らしてみせる。
「大体彼女はね、何が一番好みって、俺が服着てない姿が一番お好みだからね、関係ないの。 ファッションなんて」
そう言う兎月原に、細い眉を逆立てて「セクハラ!」とビシッと指差し注意をすると、「だからって、裸で行っちゃう訳にはいかないでしょ? 捕まっちゃうわ!」と、なんだかズれた事を百合子は言う。
そして、むーっと膨れると「真面目に考えてよーう!」と、拳をブンブンと上下に振った。
「いいよ。 君のセンスで」と言われれば、「今日の晩御飯何が良い?」と家族に問うて、「何でも良い」と答えられた主婦の如くの苛立ちを覚え「い・や・です! そんな事言うなら、全身タイツで放り出すわよ?! しかも、肌色! リアル肌色! 極薄フィット! いや! 気持ち悪い!」と、全身タイツ姿の兎月原が妙に爽やかに笑う姿を思い浮かべて、ブルリと震え「気持ち悪いので、自分で考えてください!」と、更に言葉を重ねる。
そんな一人でわーわー騒ぐ百合子を面白そうに眺めた後、「はぁい」と子供のような返事をすると「まぁ、百合子で充分遊べたし、今日行くレストラン、アラカルトでオーダーできるアミューズとか、小食向けのラインナップが充実してるか確認しておきたかったからね」と呟き、漸く、仕事準備を始める兎月原に、百合子はカクンと首を傾けた。
「小食向けの…確認…?」
小さく小さく呟いて、ごく上品な、極めて上質の材料を、「この大きな皿に、これだけ?」と、ともすればけち臭い事すら頭に浮かぶ盛り付けを旨としている店で、更に小食向けのメニューが充実してるかどうかなんて、病人ほどに食の細い客がいるのだろうか?
いや、プライベートの時間において、必要にかられなければ、客の事を思い出す事などない兎月原が、仕事前に気にする程の相手という事は、ごく私的な間柄の人間なのだろう。
一体、誰なんだろう?
これ程、公私共に時間を過ごしているのに、それでも、兎月原の人間関係を把握し切れてないという事実が、少し気に入らなくて、思わず詮索してしまう。
だって、この人、私の事は、なんだってお見通しなんだもの。
ええ、掛け値なしの、なんだってよ?
なのに、私が知らない事があるなんて、不公平だわ!
「随分気に入ってるレストランなのに、まだ、チェックを入れなきゃならない位、他にどなたか大事な人でも連れてくアテがあるの?」
そう百合子が無邪気を装って問えば、まるで、自分が無意識に考えていた事を口に出してしまっていたかのような、いや、むしろ、思っても見ない事が口から飛び出したかのような、自分自身に驚いているかのような表情を見せて固まった兎月原が、ギ、ギギギと軋む動作で首を振り、「いや。 全然。 予定なんて。 ない」と何故か不自然に一言一言区切って百合子の言葉を否定した。
なんだか青ざめたその表情が、ちょっと可哀想で、面白くて、いい気味で「ふうん」とだけ言って頷くと、とりあえず百合子は「がんばってね?」とだけ応援しておく。
実のところ、兎月原の人間関係を把握できてないというその事だけが不満なだけで、個人主義甚だしく、他人の付き合いに対して執着まで出来ない百合子は、兎月原の動揺を目の当たりにして満足すると、あっさりと、追及の手をここで止める。
「何を?」
「チェックを」
百合子がそう答えれば、益々兔月原は眉根を寄せるが、これ以上、このやりとりを続けることに危険を感じたかの如く身を引いて、「うん、『お仕事』を頑張ってくるよ」とさっきまでの態度からすれば、空々しくしか聞こえない台詞をシレッと口にした。
待ち合わせの予定時刻ギリギリに、部屋を出て行く兎月原を見送って、百合子は「んー!」と両手を天井に向けて突き上げ、伸びをする。
そして、はふっと、全身を虚脱させると、意味もなく部屋の中を見回した。
埃一つない程に、美しい部屋。
掃除が然程好きではない百合子だが、それでもする事のなさの余りに、毎日続けてきた清掃活動の結果が如実に現れてる部屋に対しても、何だか憂鬱を感じてしまう。
「あーあ! 退屈ぅぅ!」
兎月原を仕事に送り出してしまえば、百合子ができる事など、それほどない。
月島の片隅にある小さな映画館で今日封切のB級ホラー映画でも観に行ってしまおうかしら?と思案しつつ、兎月原の家でカーペットに転がって、そのまま文字通りゴロゴロ転がってみる百合子。
一応、予約の対応や、次の仕事の準備、場所のセッティング等は百合子の仕事ではあるのだが、一時期百合子から見ても「異常」と思えるほどに仕事を請けていた兎月原は、此処最近、それまでの仕事の鬼っぷりが嘘のように落ち着いてしまっている。
「あんまり、たくさん仕事したくない気分なんだよね」なんて、気紛れを絵に描いたような調子で百合子に言う兎月原を、宥め、おだてて、その気にさせるのも百合子の大事な仕事ではあったのだが、此処最近は、どんな手を講じようとも、兎月原は笑って受け流すだけで、一向に彼の労働意欲を向上させる事など出来なかった。
あまつさえ、「それはあんまりにもだらしないから」と断り続けている「もう、色々面倒くさいから一緒に住んじゃおうよ」という提案を、最近、兎月原はしつこく持ちかけるようになってきて、冗談のように「百合子が、もう此処から何処にも行かないっていうのなら、仕事してもいいよ?」なんて持ちかけてくるから尚更性質が悪い。
あんな我侭で、怠惰で、面倒臭い人のお世話をしなきゃいけないなんて、ゾッとするわ!なんて、他の女性がそう提案されようものなら、飛び上がって喜びそうな申し出を顔を顰めて一蹴してみせる百合子の価値観はかなり独特で、逆に他の人が一顧だにせぬようなつまらぬものに価値を見出し、夢中になるような所もあった。
だが、だからこそ、兎月原は自分を傍に置くのだ…という事も百合子は重々承知している。
絶対に自分を想い焦がれる事などない相手と共にいる。
恋になど落ちる筈のない相手だからこそ、甘えられる。
馬鹿にしてるわ。
百合子は憤慨する。
「好きになったりしない」「好きになられる事もない」って確信した上でのああいう態度って、とっても、私のことを女性として馬鹿にしてると思うの。
もし、私が、兎月原さんの言動や、態度に流されて、とっても、とっても兎月原さんの事を好きになって、それで好きな気持ちの余り無理心中でも図ろうとしたら、あの人どんな顔をするのかしら?
出刃包丁あたりがむしろいい。
劇的な道具より、身近な道具の方がドラマティックでロマンチックだ。
赤い縄なんかも、素敵ね。
あの首にぐいっと巻きつけ締め上げる。
でも、私は非力だから、多分無理ね。 想いを遂げられない。
そうして、私は嘆きの余り目の前で死んでやるの。
こんなに貴方の事が好きなのに…!という証明の為に。
きっとびっくりするわ。
とても。
あの人びっくりして、後悔するわ。
とても。
うっとりと夢想して、それからパチリとスイッチを切り替えるように「まぁ、そんな事するわけないけどね」と呟く。
人間観察のプロ、それも女性に関しては100発100中の的中率を誇る、兎月原の慧眼が百合子の性質を読み違えているなんて事はありえない。
「無理心中なら、やっぱり『本当に』好きな人とするべきよ。 偽装なんて、ロマンがないわ」と呟いて、うんうんうんと、自分の言葉に頷く。
百合子は、地球の自転が逆回転を始め、西からお日様が昇るような事態よりも自分が兎月原に恋焦がれる事は起こり得ないと「知って」いたし、兎月原も例え世界が滅びて自分と最後の二人になってしまったとしても百合子を恋愛対象にはしないであろうと百合子は理解していた。
そういう二人なのだ。
言語化するのは難しくて、余りに野暮なので、どちらも別段明らかにしたいとは思っていなかったが、兎月原と百合子は、まぁ、そういう、いわば「とても仲の良い兄妹」のような、そういう二人なのだ。
百合子は、一頻り妄想を楽しんだ後、とろとろと、億劫気に起き上がり、ふらりと仕事用のPC前に腰を下ろす。
間違っても、仕事の為なぞではなく、今から赴こうと考えている映画館の上映スケジュールを調べてみるためだった。
だが、メールBOXに届いている予約メールの数をうっかり確認してしまい、その数にクラリと眩暈を覚える。
個人営業のホスト。
しかも、余り派手に活動しては、職業柄、然程ガラの良くない連中から目をつけられるし、基本的に縄張りのしっかりしている職種故、営業行為もごくごく控え、口コミで此方の情報を入手した客のみ相手にするようなひっそりとした仕事振りを心がけている割に、客層も、この需要過多の状況も「派手」と表現せざるを得ない。
「いいのかなあ…?」と思わず、ぽややんと声で百合子は呟いてしまう
これ、多分、どこかの面子を潰してたり、誰かの気分をとんでもなく害したりする状況なんだろうなぁ…と思うが、まぁ、風営法等の法律には引っかからないよう、抜け目なく申請はしてあるので、誰に咎められる事もないと胸は張れるのだろう。
とはいえ、このやり方が、言い抜けようもなく同業者の縄張りを荒らす行為であることは、世俗に疎い百合子でも肌で感じずにはいられなかった。
何処のシマにも属さず水商売をやっているのだ。
「みかじめ料」等というものも、何処の組にも納めていない。
そのやり方自体が「舐めてんのか!」と、その筋の人間からいつ怒鳴り込まれたとて不思議はなく、ホストには、ホストの組合があるのだが、勿論、そこに所属しているわけでもない為に、同業者から目の敵にされても文句は言えない。
一匹狼といえば聞こえは良いが、同業者のアガリを攫って回っていると言われても仕方がない状態だ。
実際、そんな兎月原をよく思わぬ連中や、後ろ暗い組織の人間らしき男達によって何度か危険な状況に見舞われてもいたようだが、本人の腕が尋常でない程立つ事と、捕まえた客層のバッグボーンが余りにも強大だった為に、手を出せば、逆に自分達が危うくなると連中も悟ったのだろう。
今では「治外法権」ともいうべき立場に兎月原はなっていた。
まぁ、じゃあ、この状況に彼がはりきり、バリバリ客を捕まえに行くかというと、それも本人のやる気しだいで、突然新規の客を一気に獲得してきたと思えば、愁嘆めいた悲痛な言葉で兎月原と会う事を望む女達を一切無視して、全く仕事をしなくなる時期もある。
予約メールの熱烈な文面に視線を走らせ、溜息を一つ。
このメールに、スケジュールが一杯ですと、お断りメールを出す時が一番百合子にとって辛い瞬間だった。
それでも、メールでの予約しか受け付けないとしている為、断る際もメールにて、如何にも事務的な決まりきった文面で一括返信すれば事が済むが、これで、もし、今の時代にPCなぞという便利な道具が存在せず、いちいち電話で対応せねばならないとしたら、一体如何なる思いをする事になろうか…想像しただけでぶるりと震える。
兎月原は、馬鹿な男ではないので、自分がスタッフとして、若い女を、しかも、ただのスタッフの範疇を越える程に甘やかしながら傍に置いている等と、客が知ったら、どのような感情を抱くか、如実に理解できていた。
百合子を雇う際には、そこら辺も重々承知の上で、彼女の存在が客に知られぬように慮り、百合子自身にも言い聞かせている。
ただ、そこら辺にはとんと無頓着な百合子。
そもそも、勤めだした当初は、兎月原の魅力を一切解さず「別に、こんなにみんなに好かれる程は、かっこよくないよね」なんて、心中で彼の事を評価しているせいもあり、時々、何の考慮もなく客に姿を見られたり、あまつさえ兎月原を想う余りに、「会いたい」と何度も何度も乞う客を可哀想に想い「そんなに思いつめて辛い思いをするよりも、他の人を好きになった方が良いと思います。 大体、兎月原さんは、昨日、折角私が用意してあげた夜ご飯の付け合せのにんじんのグラッセを残しました。 あんなに格好つけてるのに、にんじんが食べられないんですよ? 酷いと思いませんか? 兎なのに! 兎なのに!」と返信したところ、その女性客より「貴女誰?!」の追求だの、百合子を見かけた女性客達からの「あの女は何なの?!」という苛烈な詮索に見舞われて、兎月原にはこってりと叱られた事もある。
「百合子…いいかい? ドミノってあるだろ? 日本人が何故か大好きな、小さな板を延々、延々並べる遊びだ。 君はね、地方の町おこしイベントで、地元の人たちが、半日かけてずっとドミノを並べてきた体育館を突如襲った地震のような存在だ。 勿論、俺が地元民。 しかも、ドミノにもう、数時間以上時を費やし、額の汗とか拭いつつ『さぁ! もうちょっとだ、みんな張ろう!』って励ましたりしている、そういうかなりしゃかりきで、若干鬱陶しいなぁ…とみんなに思われてる地元民な訳だよ。 ナイアガラの滝をやろう!とか、難易度の高い仕掛けを提案して『わぁ。 面倒臭い』って思われてる、そんな存在さ。 君は、周囲の人間との軋轢すらものともせずに張り切ってる俺が、懸命にずっと築き上げてきたものを『えい』って、物凄い気軽に、全部崩壊させてしまおうとしたんだよ?」
そう、混乱と焦燥の余り「回りくどい!!っていうか、意味が分からない!」な例え話をする兎月原に「えー? でも、ドミノなんててつまんないじゃない! ロマンがないわ? ロマンが。 そんなものより、多分地震の私は『みんなで映画を見たほうが楽しいよ?』な気持ちを伝えたくて、揺れたんだと思うなぁ」とリリカルだか、なんなんだかな答えをニコニコと返し「うん! 伝わってないな! 俺の気持ち! でも、確かに伝えようとして、この例え話はねぇよ…な例え話クォリティだったのでしょうがない! それは、俺が悪い!! と、反省する! 反省するから、お願いだから! 俺の好き嫌いとかを! 客に教えないで下さい! あと、客からのメールに返信とか、不用意に姿を見られたりとかもしないで下さい!!!」と、あっさり、シンプルに懇願されてしまった。
そんなに、にんじんが食べられない事を知られるのが嫌なのか…と、その時に及んでも、かなり激しく勘違いしていた百合子ではあったが、流石に今ともなれば、自分が凄絶なまでの嫉妬の対象になる立場にある事は理解できている。
「なのに、なぁんで、そんな私を雇ってるかなぁ?」
まるで他人事のように百合子は呟く。
事務スタッフとはいえ、目を見張る程能力が高いとは思えぬし、兎月原の面倒を見ているつもりだが正直自分がお世話して貰ってるなぁ…と思わされる時も多々あって、しかも、存在を客に知られる事すら危ういスタッフなんか、誰が好き好んで雇うというのだろう。
「変人なんだわ。 あの人」
自分こそが、誰かと会う度に他人から得ている評価を、そう胸中で兎月原に与えると「最近益々変だし」と更に呟いた。
そう。 最近兎月原は、ちょっと「変」なのである。
仕事は然程熱心に取り組んでいないのに、時々念入りに、そう百合子から見れば、滑稽なほどに自分の身支度を整えて、何だか不機嫌とご機嫌がない混ぜになったような、やけにソワソワした調子で出かけていってしまう。
前々から、しつこいほどに、その日は空けてよくように…!と指定を受ける日には、そうやって兎月原は一日中まんじりともせず、時計を見上げて溜息をついていたと思えば、突然やけに陽気に振舞って、普段は余り好んで聞かないJポップなんかを大音響で掛けてみたり、百合子相手に名調子で喋り散らしてみたり、騒がしいな…と思っていると、また、眉間に皺を寄せて何かを悩んでいる様子だったり…そうして散々情緒不安定に振舞った後、めかしこんで出かけて行く訳だから、そりゃあ、自分の唯一の雇い主であり、彼の一番傍にいる百合子が、兎月原の変調に気付かずにいられるはずもなかった。
まるで、思春期の女学生みたい…と思いかけ、兎月原の風体を思い浮かべて、いや、適切でないと即座に翻意すると、三月の兎みたいと思い、これだ…!としっくりくる例えに深く頷く。
自分でも制御できないほどに、気持ちがあっちこっちしているような兎月原を気の毒に思うことなどは一切なく(というか、百合子は他人に対して、役にも立たぬ同情心を抱くことはそうそうない)興味深く眺めている自分を意地が悪いとも思うが、しかし、今まで散々自分を除け者にした報いだと、良い気味に思う気持ちは抑えられない。
多分、今兎月原がおかしくなってる原因は、千年王宮に関わる中で得た感情なのだろう…と百合子は理解していた。
それ以外で、兎月原が自分の目の届かぬ場所にいたことはないし、共にいて起こった出来事により、今兎月原が変調をきたしているのだとすれば、百合子が原因を察せぬ筈はない。
いくら謎が多いとはいえ、それでも兎月原の事をこの世の誰よりも理解できている百合子からすれば、自分が彼について知らぬ事は、すなわち自分が傍にいない間に起こった出来事でしかなく、一体如何なる出来事が今まで、絶世の美女と逢瀬を重ねても、肝が冷える程の恐ろしい場面に居合わせても、さほどの動揺を露にしてこなかった彼を、ここまでおかしくさせてしまったのか、やはり気になってしまう。
「どうして私ばっかり!っていう話よ」
小さな鞄の中に、お気に入りの「黒いハンカチ」、お財布と携帯電話と、ハンドクリームだけを放り込む。
化粧気が殆どない為に、化粧ポーチすら持たず、ただ、おでかけだから…とせめてものお洒落に、百合子は最近、雑貨屋で見かけ気に入って購入した「黒いリボンがあしらわれた」ヘアバンドをつける事にした。
白い肌と小柄な体、見た目もどこか幼い彼女が、そのヘアバンドをつけると、益々童顔が際立つのだが、鏡をのぞいて、そんな自分の姿に「まぁ、こんなもんね」と無感動に呟くと、百合子は部屋の戸締りを確認する。
とはいえ、近代的な外観のマンションはセキュリティもばっちりで、兎月原の部屋のあるフロアまでは指紋認証でセキュリティロックを開錠せねばエレベーターが上がって来れぬようになっているし、マンション内にも足を踏み入れられない。
「そういう意味では私、お留守番係としても役立たずなのよね」と腹立たしげに呟いて、「兎月原さんが悪いわ。 私の労働意欲ってものを、少しも掻き立ててくれないんですもの!」と、ふん!と鼻息荒く口に出す。
何とも自由な……、一般的社会人からすれば、羨ましいとしか言いようのない勤務態度ではあるのだが、兎月原は、百合子に対して制限らしい制限を一つも与えず、勤務態度に対しても、何一つといって良いほど望んでくる事はなかったので、こうして百合子は、明るい日差し差し込む平日の最中、堂々と遊びに出ることが出来ていた。
まぁ、普段は後ろめたさも手伝って、自由にしてていいよ?といわれても、この部屋に篭って掃除なり、食事の支度なり、名簿の整理なり、雑用や家事をこなすのだが今日はなんだかおとなしく働いている気分にはなれない。
百合子は軽い足取りで職場でもある兎月原の部屋を出る。
今から月島に向かい、映画を見た後、お昼にもんじゃ焼きなんぞを食べて帰ってくれば、大体兎月原の帰宅時間と同じ位になるだろう。
「ゾンビと、もんじゃと、ラムネ♪」
鼻歌交じりに、エレベーターを降りて外に出る。
ヒュルリと吹く風はまだ冷たいが、日差しは春の明るさを帯び、道脇にある花壇からも明るい色合いの花の蕾が揺れている。
雑草の間からはポツポツと白や黄色の花弁が見られ、春が近いことを視覚的に百合子に知らせてくれた。
そのまま、最寄り駅へと向かい、乗り継いで目的地の月島で下車する。
さて、では早速、映画館へ…!と向かいかけた百合子の視界の端を、色鮮やかな色彩が掠め、思わず彼女は足を止めた。
「…ふーせん……?」」
ぽつんと呟く声すら、空に上って吸い込まれそうな、そんな心地がした。
首を傾げる百合子の目に、スーパーの前でオルガンの陽気な、だが、どこか物悲しいBGMと共にピエロが軽妙な動作でジャグリングを披露し、その隣でどこか間抜けな容貌の狸のぬいぐるみが子供達に風船を配っていた。
赤・黄色・緑・青色・ピンク色……。
色とりどりの風船が水色の空の下で揺れている。
狸は、何だか不器用な姿で、風船を一つ一つ、子供に手渡していた。
ピエロのジャグリングの腕前は、見事といって良いもので、銀色の我がクルクルと周り宙を舞う姿に、皆が口を開けて見入っている。
だが、百合子はそこそこの人だかりの中、子供がぬいぐるみに相対した際に見せる、ごく真っ当な反応して、ぼこすか殴りかかったり、蹴りつけてくるのを、大人の目がジャグリングに奪われているのをいいことに、間抜けな容貌のまま、しかも、子供の夢クラッシャーともいうべきかなり本気の反撃を見せる狸に目を奪われた。
あの仕草。 何だか見覚えあるような…?
ククク…と首を傾げる百合子の耳に「だぁぁぁぁ! あんまあたいを舐めてっと、てめぇら、ただじゃすまねぇぞ!!」と狸が怒鳴る声が微かに届き「ああ…」と何だか、脱力感すら覚えてしまう。
時計を見れば映画の上映時間が迫っていた。
今から映画館に走ればなんとか間に合うかどうか?といったところだ。
「さて…」
少し口をへの字に曲げて、百合子は呟く。
そして、人の歩行の邪魔にならぬ道の端へと寄ると、そのまま背中を壁に凭れさせ、狸の奮闘を見守ることにした。
「ごくろーさま」
どうしても語尾が幼い余韻を残す口調でそう労い、竜子に冷たいスポーツ飲料のペットボトルを差し出せば、ぽかんとした表情で振り返られた。
「……百合子?」
「あら、嬉しい。 覚えててくれたのね」
にこりと笑って答えつつ、別段、どちらでもよかったのだけど…なんて胸中で呟いて、その隣に座り込む。
スーパー前のベンチに腰を下ろし、額の汗を拭っていた竜子は突如現れた百合子の姿を、何度も何度も瞬き眺め、それからようやく視界に認識が追いついたかのように「ひっさしぶりだなぁ! 元気だったか!」と嬉しげに言ってきた。
「ええ。 まぁまぁよ。 貴女は、元気そうね。 狸、可愛かったわよ?」
そう言えば、また、竜子はぱちぱちと瞬いて、それから、パッと頬を赤らめた。
「な…内緒にしててくれよ?」
そう請われ、「どうして?」と思わず問い返す。
「だ…って、だせぇじゃん。 ぬいぐるみの…バイトなんて…」
そうごにょごにょという竜子に「ばかね」と思わず言ってしまう。
「犯罪以外の全ての仕事は、何一つださくなんてないわ。 どれも、立派なお仕事よ」
百合子の言葉に、ぱちぱちと長い睫を瞬かせ、それから竜子は「うん。 ごめん」と侘びの言葉を口にした。
その素直な性質を、天邪鬼な百合子は愛しくすら思いつつ「別に、私は狸じゃないから、謝られてもね…」なんて嘯いて、それから、ぐいぐいとペットボトルを押し付ける。
「な、何だよ?」と怯む竜子に、「汗をかいた後は速やかな水分補給が必要なんだからぁ! さぁ、飲んで、すぐ飲んで、今すぐ飲んで!」と、冗談めかして強引な口調で言ってやれば、「いや、なんで、お前の好意はそう凶暴なんだ!」と怯みつつも、百合子の手からペットボトルを受け取った。
自覚はないが好意を抱く相手には、どうも屈折した愛情表現を行ってしまうきらいのある百合子。
大人しげな姿と、その時折相対する人間が怯む程の捻くれ行為とのギャップに、驚く人間も多いのだが、竜子にしてみても、百合子という人間は、さっぱり、きっぱり理解不能に分類されているらしい。
「変な奴ぅ〜!」と、呟いて横目で視線をくれる竜子に対して「そんなことないよぉ!」とだけ言い返しておく。
そして、私は、ごくごく普通の感性を持った一般人よ!なんて、胸中にて、ただの一度も、誰にも認められた事のない主張を喚き散らした。
ペットボトルを持余し気味に手の中で弄ぶ竜子を、百合子は受け取ってくれた事そのものが嬉しくて、にこにことを眺める。
一見無軌道にしか見えない、その一連の百合子の動作を、まるで珍しい動物にでも相対しているかのように、何だかびくびくしながらも受け入れた竜子は「あんがと」と礼を述べ、こくこくと中身を煽った。
ロマンだわ。
その姿に、膝の上に両手を組み合わせて置き、満足げに心中で呟く。
バイトに勤しむ友人に、差し入れをするだなんて、今まで私の経験した類とは、また一線を画すロマンだわ。
余人の理解及ばぬ満足感に、微笑を浮かべていると、喉が余程渇いていたのか、一気にペットボトルの中ほどまで液体を飲み干した竜子が「はひっ!」と息を吐き出して、「うんまぃ!」と一度唸った。
オレンジ色の長袖のTシャツと、いかにも作業着めいた赤いツナギ。
金色の髪を「黒いバンダナ」で束ねた竜子は、今日も今日とてド派手な化粧を顔面に施している。
化粧気もなく、大人しげで如何にも育ちの良さそうな百合子とは対極を行く竜子との2ショットは中々人目を引くらしく、チラチラとスーパーから出た客がこちらを興味深げに見る眼差しが気になった。
「で? 狸さんのバイトは、もう終わったの?」
百合子が問えば竜子は頷く。
「時給が良かったもんだから、飛びついたはいいんだけど、肝心の目的がサーカスの宣伝でさ、ただ、風船を配るだけじゃなくって、団員まで一緒にジャグリングなんかをしてくれるもんだから参ったぜ」とぶーたれる竜子に「どうして? 人が自然に集まってくれるから、むしろ仕事がしやすいんじゃないの?」と疑問をぶつければ「だって、見ちゃって仕事になんねぇんだもん」と何とも、能天気な答えが返ってくる。
「一体何が、どうなってんだか! 見てたか? 百合子。 色んなものを自由自在に扱ったり、手品に、パントマイムまで! ピエロっつうのは器用なもんだなぁって、あたいはつくづく感心したよ」
そう竜子の言葉に頷いて「そもそもクラウンって、サーカスの中でもトップレベルの技能者がやるものだからね。 あのピエロは、団員の中でもかなりの実力者の筈よ」と百合子は言い、それから「サーカス、やるの?」と首を傾げた。
「ああ、月島の、どっかの空き地にでかいテントをたてて、今日から暫く興行するらしい」と言い、それから、ポケットからごそごそとチケットを二枚取り出してみせる。
「あたいがあんまりジャグリング、楽しそうに見てるから、これ、貰っちまった。 良かったら、友達と観においでってさ」と言い、今日の公演のチケットらしきものを閃かせる。
「まぁ!」と思わず嬉しげな声をあげた後、慌てて口を覆う百合子。
だって、竜子は自分と一緒に行こうだなんて、きっと考えていないに違いない。
彼女は、随分とたくさんのお友達がいるようだし、それに自分とよりも、きっと一緒に行きたい相手がいるはず…なんて思って口を両手で覆ったまま上目遣いで竜子を眺めれば「公演までまだ時間があるからさ、もんじゃでも喰いにいこうぜ?」と、まるで、当然のように百合子を誘い、それから、ああ…と思い出したかのように「百合子、これから時間ある?」と尋ねてきた。
百合子は、あんまりにも満面の笑みを浮かべてしまう自分が少し恥ずかしくて、隠したくて、両手で口を覆ったままコクンと頷くと、多分自分より早く帰宅する事になるであろう兎月原に、携帯の留守番電話サービスの伝言に「ごめんなさい、今日は竜子ちゃんと一緒にサーカスに行ってきます。 今夜のお夕食は、出前でもとってください」と胸中で手を合わせ、頭を下げつつ吹き込んだ。
「専門学校?」
「おう。 バイクのな」
じゅうじゅうと鉄板から立ち上る匂いも香ばしく、二人は仲良くもんじゃを小さなヘラでこそげながら、「あふっ! あっふっ!」等と熱さに悶え、冷たいラムネで口中を冷やし、月島名物の味を堪能する。
「入学金とか、学費は面倒見てやるつってくれてんだけど、何から何まで世話になるわきゃあいけねぇだろ? とりあえず、入学金だけでもさ、自分で払えたらと思って…」
そう竜子が語る展望は、バイクの整備士を養成する専門学校に入学して、ゆくゆくは整備工になりたいという彼女ならではの将来の夢で、彼女の現・保護者兼雇い主が、その支援を申し出てはいるが、竜子の性格上、全部の費用を賄って貰うことをよしとはしていないらしい。
これまでも、バイト等にて金を貯め、なんとか入学金位は自分で払える位まではきたらしいのだが、お陰で、今度は勉強がはかどっておらず、随分と苦戦してるそうで、あぐぅとヘラに歯を立て悔しげに、「ったく、こんな事になるくらいなら、ちったぁ、学生の自分に勉強しておくんだったよ。 あたいさぁ、バイクの学校だから、バイクのことだけ分かってりゃあ、合格できるって思い込んでたんだけどよぉ、全然そんな事ねぇのな」と唇を尖らせながら言った。
一体受験を何だと思ってるんだ…なんて、百合子は思えども、まぁ、そういう思い込みも彼女らしいか…と考えてしまう。
「確かに、将来自分に必要になる知識さえ持っていれば、他の事って無用なのかもね…」と、百合子自身然程勉学が好きではなかったせいか、竜子の自分の極めて都合のいいシンプルな思考に頷けば「ったく、学校行くためにバイトして、その肝心の学校に合格出来ねぇなんて事になったら、とんだ本末転倒だよ」と、ぶつぶつ文句を重ねて、不意にじぃっと上目遣いに百合子の顔を眺めてきた。
「あら、なぁに?」
百合子が小首を傾げれば、竜子は「そっちのも、おいしそう…」と、どこか舌足らずな声で言う。
見れば自分の分はキレイに平らげてしまっていて「クゥン」と鼻で鳴きそうな、その物欲しげな竜子の表情に、思わず頭をくしゃくしゃと撫でまわしたくなった。
よく見れば整った容貌をしているが、一切の近寄り難さを醸し出さない、その気安く人懐っこい仕草と言動は、何かと人見知りがちな百合子にしてみれば美点として目に映り、羨ましさも手伝って、「欲しいの?」と意地悪っぽく聞いてみる。
しかし、竜子は微かな悪意にすら気付かぬ様子で、「うん」と頷き、にこにことこちらを眺めてきて「うーん、参った!」と百合子は心中で白旗をあげた。
可愛いと、思わされたら、負けよね…!なんて、ちょっと悔しくなりつつも、明太子と、刻んだ餅の入ったもんじゃをじーっと眺めてくる竜子に、くふっと小さく噴出して「食べていいよ?」と言ってやる。
実際、炭酸と炭水化物の組み合わせは、百合子の小さな胃袋を圧迫していて、嬉しげに手を伸ばしてくる竜子の旺盛な食欲に微笑ましさを覚えつつも、何から何まで、健康的な竜子の有様を、また、少し羨んでしまった。
「明太子も、んまいね」
「ね」
幼い口調に、そういやこの子、自分より随分年下だっけと思い至る。
竜子が大人びてる訳でなく自分が幼いのだとは自覚していたが、こうやって他愛もない会話をしていると、何だか自分も学生時代に戻ったようで、気分が浮き立たずにはいられない。
「そいで、百合子は今日は月島に何の用事で来たんだよ」
「私はねぇ、ほんとは映画観に行くつもりだったの。 あのね、あのね、ゾンビの映画! 火星からやってきた宇宙ゾンビが地球を襲撃して、人類と壮絶な戦いを繰り広げるの! 噛まれたら24時間以内にワクチンを打たないと、完全にゾンビになっちゃうんだよ? 特にね、ヒロインが徐々にゾンビになってく様が切なくてとってもロマンなんだって…!」
「うん、宇宙ゾンビっていうのがまず、分からない。 何故に宇宙? そして、ゾンビ? だって、ゾンビってあれだろ? 死体とかがなるやつだろ? 元・人間とかなわけだろ? じゃあ、火星からくる意味なくね? 火星から来てる時点で、ゾンビの定義から外れね? 宇宙人でよくね? もしくは、ゾンビだけでよくね?」
「うるさいなぁ。 そういう、整合性とかは、ゾンビの前には無意味なの! ロマンだけで、ゾンビは出来てるんだからぁ! 理屈なんていう不純物なんて、不必要なのよ」
そう言い合い「とにかく一度見てみれば、ゾンビの良さが伝わるはず! また、今度、一緒に観に行こうよぉ!」と誘い、即座に「無理!」と映画の誘いの断り文句としては、いささか斬新な台詞で断られているうちに、そろそろサーカスの開演時間が近くなる。
「自分の分は自分で払うよ」と遠慮する竜子を「えい」とデコピンで黙らせて、二人分の料金を無理やり支払い、店から出れば、そこは既に夕焼けの世界。
果汁100%のオレンジジュースに満たされているかのような空の下、チケットに記載されていた地図に従い、店から程近い場所にある空き地へと向かえば、そこには真っ赤な布で張られたテントが出来上がっており、風船を持った家族連れや、カップル、友人同士のグループが続々とテントに吸い込まれていく姿が見える。
百合子は、その人々が集う様子に、不意にある「共通項」がある事に気付き、一種の予感めいた直感に従い、鞄から慌てて、「黒いハンカチ」を取り出すと、空き地の柵に結びつけた。
「念のため…」
そう小さく呟いて、頓着なく空き地の足を踏み入れた竜子に追いつき、その背中に触る。
「お揃いね!」
そして百合子は集う皆を見回して、先ほど気になった事を口にした。
「んあ?」と首を傾げる竜子に向かって「黒いリボン!」と百合子は笑って告げる。
見渡せば、そのいずれの者も皆、体の何処かしらに「黒いリボン」をつけていた。
髪留め、リボンタイ、服の装飾、帽子の飾り…etc。
竜子は眉を顰め立ち止まると、「どういう事だ?」と一度唸る。
そして、不意に自分の髪を「リボン結び」で纏めているバンダナに手を伸ばし、それから百合子の「黒いリボンの付いた」ヘアーバンドもじっと眺めた。
「ただの偶然にしちゃあ、ちぃと気味悪いじゃないか…」
その呟きに、百合子は背筋が寒くなるような興奮を覚える。
ようやく私の出番って感じじゃない?
「百合子、やめよう。 こりゃあ、なんか悪い予感がする」
そう言う竜子に首を振り、百合子は「もう、後戻り出来ないわ」と振り返る。
同じく首をめぐらせた竜子が目を見開き息を呑んだ。
入ってきた筈の空き地の入り口が消えている。
まるで、赤い炎の壁が立ち塞がるように、オレンジ色の世界が入り口の向こうを塞いでいた。
「行きましょう。 私達お呼ばれしちゃったのよ」
百合子の言葉に竜子が青ざめながら、テントを振り返る。
まるで、客は皆いつの間にかテントに吸い込まれていた。
入り口に立つ、呼び込みのピエロがにいいっと笑って此方を手招いてくる。
「さぁ! 間もなく開演! 間もなく開演!! サーカスだよ! サーカスだよ! 見逃したら、末代までの大損だよ?」
ピエロの陽気な声に背中を押されるように、百合子と竜子は二人並んで、テントに向かって歩き出した。
〜to be continue〜
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