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Plastic dream
そばにいて。そばにいて。
おまえの声をきかせておくれ。
しゃらしゃら揺れる、硝子のような、その声を。
きかせておくれ。ねむくなるまで。
ささやくような歌声が聞こえて、海原みなもは目を覚ました。
最初に見えたのは、真っ白な壁。そして、天井から吊り下げられた白熱灯。
どこかの地下室だということは、すぐにわかった。寒い。冷えついた空気はシンと静まりかえって、うっすらとシンナーの匂いがする。
ここ、どこだろう──。
ぼんやりとした頭で、みなもは思い出そうとした。うまくいかない。まるで夢の中のように、頭がふわふわしている。もしかすると、目がさめたという夢を見てるのかもしれない。そんな風に思った。
そういえば、さっきの歌──。
ふと気がついたとき、ひとりの男が彼女の視界に入ってきた。
見覚えのある男だった。歳は四十前後。病み上がりみたいに痩せこけた頬と、ひとつも似合っていない無精ひげが目立つ。身につけた服はどことなく垢じみて、全体的に荒んだ雰囲気だ。ベルトには拳銃が差し込まれていて、みなもの目にはそれが玩具のようにも見えた。
ああ、そうだ。この人は──。
思い出して、みなもはそっと息をついた。そう、この人は──。
指を動かそうとして、ようやく彼女は気が付いた。体が、まったく動かないことに。かろうじて動くのは、まぶただけ。それ以外、指一本うごかせない。なにか言葉を発しようにも、唇をひらくことさえできないのだった。
ああ、つかまっちゃったのかな──。
それでもなお、みなもはぼんやりと考えを巡らせていた。
彼女は椅子に座らされていた。ゆったりした作りの肘掛け椅子。座らされているだけではない。その足元から座面の高さまで、なにか透明なもので固められている。可塑性のプラスチック樹脂だ。
固められているのは、椅子だけではなかった。みなもの爪先から腰あたりまで、椅子もろとも樹脂に塗り込められている。古風なデザインのスカートは膝の下まで伸びて彼女の足を隠し、その上を透明な樹脂が覆い尽くしている。まだ固まりきっていないプラスチックの表面は白熱灯の明かりを照りかえして水面のようにきらめき、制服姿のみなもは水浴びをしているようにも見えるのだった。
男の両手には、溶けたプラスチックが山盛りになっていた。熱湯をかけるだけで柔らかくなる種類の樹脂だ。それを両手でこねながら、男は夢遊病者のような足どりで、みなもに近付いてくる。その唇は薄くひらいて、調子はずれの歌が淀みなく紡ぎ出されている。
しずかに、しずかに。
おまえの歌を聞かせておくれ。
いつか歌った、あの歌を。
いつか語った、あの愛を。
聞かせておくれ。夢を見るまで。
歌いながら、男はみなもの体に透明な樹脂を塗りつけてゆく。
目の焦点は合っていないが、その作業は恐ろしく緻密だ。セーラー服の裾にはシワが寄らないよう丁寧に指で押さえ、髪は一本一本ととのえながら、完璧な均質さを保って樹脂の中に埋め込んでゆく。病的なまでに細密な作業。彼女の体を可能なかぎり美しく保存しようという意思が、そこには溢れているようだった。
みなもは知っていた。この男が、何故こうなったのかということを。何故、自分がこんな状況に置かれているのかということを。
男には、娘がいた。髪の長い、美しい娘だったという。その娘が、あるとき失踪した。なにかの事件に巻き込まれたのか、自らの意思で行方をくらましたのか、それはわからない。ただ彼女は二度と自宅にもどらず、男は失意と絶望に沈んで心を病んだ。以来、このあたりでは何人もの少女たちが行方不明になっている──。
それらのことを、みなもは草間武彦とともに調べ上げたのだった。そして犯人の目星をつけ、一人でこの屋敷にやってきた。つかまえるためではなく、自首をうながすために。
みなもは、男に何の恨みもなかった。それどころか、同情や憐憫の気持ちさえ抱いていた。だから、こうした事態になるとは夢にも思わなかった。簡単に言えば、甘さがあったのである。しかし、それでもなお彼女の中に怒りや恨みの心はなかった。あるのは、ただただ男に対する哀れみの気持ちだけだった。
どうすればいいだろう──。と、みなもはそればかりを考えている。
彼女は弛緩剤を飲まされていた。指も動かせず、言葉も発せない。考えること以外、なにもできなかった。
男は同じ歌を何度も何度も口にしながら、みなもの全身を透明な樹脂で塗り固めてゆく。ゆっくり、ゆっくりと。やがて、なだらかな胸部が透明な樹脂に覆われ、肘掛けごと腕が塗り込められると、残るところは肩から上だけになった。
男は額の汗をぬぐうと、これまで以上に慎重な手つきでみなもの髪を塗り固めていった。クセのないまっすぐな髪は、彼女の自慢だ。男は美容師さながらの手つきで彼女の髪をとかし、まとめ、ゲル状の樹脂を流していった。きらきら輝くプラスチックは濡れたようにつやめいて、みなもの髪を青水晶のごとくにさえ見せるのだった。
男は終わりのない歌を歌い続ける。
ちかよるな。ちかよるな。
だれにも聞かれてなるものか。
だれにも知られてなるものか。
しゃらしゃら揺れる、硝子のような、その声を。
しゃらしゃら崩れる、硝子のような、この心を。
どうすれば、彼の魂を救えるだろう──。
首から下のほとんどを椅子と一緒に塗り固められながら、みなもはそんなことを考えていた。このままあたしが椅子になったとしても、彼は決して救われない。いっときのやすらぎを得ることはできるかもしれないけれど、根本的な解決にならないのは明らかだ。やはり、方法は一つしかない。
「自首、しませんか……?」
かすれた声で、みなもは言った。ようやく弛緩剤が切れてきたらしい。
男の歌が、ぴたりと止まった。
彼はみなもの顔をじっと覗きこみ、すこし考えるようなそぶりを見せたあとで、にっこりと幸せそうに笑った。なぜ笑ったのか、みなもにはよくわからなかった。
その直後。ものすごい音をたててドアが破られた。
同時に、十人ちかくの警官がなだれこんできた。いずれも、手に拳銃を握っていた。
男は、それまでの動作が演技だったかのような素早さで拳銃を抜き放った。一瞬で、表情が変わっていた。それまでのやさしげな瞳の色は消え失せて、氷のような冷たさが目の中に浮かんだ。
「撃てっ!」
警官たちの怒号が響きわたり、何発もの銃声が地下室の空気を震わせた。
男は無数の弾丸を浴びて背中から壁にぶつかり、そのまま床に崩れ落ちた。
彼はみなもを見つめ、何か言おうと口をひらいたが、出てきたのは血のかたまりだけだった。そうして、彼はこときれた。すべてが、あっというまのできごとだった。
「みなも! 無事か!?」
警官たちをかきわけるようにして、草間が姿を見せた。その声音も表情も、ひきつったようにこわばっている。いつもの冷静さはカケラもなかった。
「だいじょうぶです。……ごめんなさい」
床に倒れた男のほうを見つめたまま、みなもは答えた。
謝罪の言葉は草間に向けたものなのか、それとも犯人に向けたものなのか。彼女自身にもわからなかった。わかったのは、ただこの事件が終わったということだけだった。
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