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Night Walker 〜long long good bye〜
花が咲いても、雨に散るのよ
生きてる限り、別れは定めね
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トンッ、とつまさきで蹴った地面は、わずかぬかるんでいるようだった。
春遠からずの今日、雨など降った覚えはないのに道は柔らかだ。透き通った緑石の瞳を持つ少女──千影は、ひとり、夜道を歩いていた。後ろで手を組み、跳ねるような軽い足取りで。
ここが何処か、なんて千影は知る由もないし、知ろうとも思わない。好奇心が強い千影ではあるが、今はそんな詮索よりも、見渡す風景に心躍らせることのほうがよっぽど重要だからだ。
道の両脇に、花の並木が連なっている。薄紅色の房を重たげに揺らすその花の名を、千影は知っていた。
桜────満開の、しだれ桜。
東京の季節を考えればまだ開花には早いのに、ここの桜は総て、五枚の花弁を開ききっている。
と、わかるくらいに花がよく見えるのも、考えてみれば不審だ。夜も深まり草木も眠る刻限、とろりとした漆黒の闇が辺りを満たしてるというのに、花自ら発光しているかの鮮やさ。さほど強くもない風に揺れる枝は、まるで何かを囁いているようだ。
不思議な夜の道。妖しささえ纏う夜の桜。
しかし千影は、そんな奇異を気にする風もなく、ただまっすぐ、花に導かれるままに夜の散策を楽しんでいる。
だって、キレイだから。
大好きな、主たる少年に見せてあげたいと思うくらいに。
この桜道は、とても、キレイだから。
そうして、いかほど歩いたのだろうか。
不意に、風が吹いた。
漂う花弁が一気に吹き上げられ、乱れ舞う。頬をかすめていた温い微風ではなく、とっさに目を瞑ってしまうほどに激しい烈風。千影は思わず身を縮める。
風が収まるのを待ってから、うっすらと瞼を押し上げた。幾枚もの花々が、はらりはらりと散り落ちて、千影はその向こう、見知らぬ人影に気がついた。
赤紫の背中にこぼれる、白銀の髪。見上げる背丈のその人は、注意深く辺りを見回していた。ここは何処かと不審を露わに、心持ち引いた顎が警戒心を表している。
その横顔が背後の千影に気づき、振り返る。真っ先に目がいったのは、彼の紫電の双眸。作り物のように美しいそれが、驚きに見開いて千影を見つめる。千影はきょとんと、その視線を受け止めた。
二人の間の闇が刹那凍り付き、無彩色の中空を薄紅の花弁が斜めに舞う。
やがて、彼が唇を三日月の形にした。
「こんな夜更けに、どちらへおいでですか?」
彼は身体ごと千影に向き直り、片手を胸へ、恭しく頭を垂れる。
「お初にお目にかかります。私は、」
「こんばんは! あたしチカ」
と、彼が口上を言い切る前に、千影の殊更元気な声が飛んだ。
出鼻をくじかれ呆気にとられる彼は、口をぽかんとまぬけ面。逆に、首を傾げ、下から彼を覗きこむ千影の瞳はきらきら輝いている。
「ねえ、貴方は? お名前なんていうの?」
「な、名前、ですか」
うんっ! と千影は大きく首を縦に振る。
何処とも知れない夜の中で、キレイな桜が咲き乱れ、そこに突然彼が現れた。興味をひかれた人には、まずきちんと、元気な挨拶から始めるのが千影流。つまり、彼のことを知りたくてわくわくしているのだ。
そんな少女の無邪気さに圧倒され、言葉を失っていたらしい彼は、やがてコホンと、仕切り直しにか咳払いをした。
「予測を裏切ってくださる方ほど、魅力的とも言いますからね」
「んう?」
「チカさん、でしたね。初めまして、私は嵯峨野ユキと申します。お好きなようにお呼びくださって、結構ですよ?」
「えーと、じゃあユキちゃん!」
「ユ、ユキちゃ……!」
「うにゃん? いや?」
「い、いいえとんでもないです。……ふふ、そうですね、貴女にはそう呼ばれてしかるべきかもしれません」
何か勝手に考え自己完結で納得しているユキをよそに、千影はにっこり笑って彼を呼ぶ。
「ねえ、ユキちゃん。ユキちゃんは何しに来たの? チカはねえ、夜のお散歩中なんだよ!」
「というと、貴女はここが何処だか、ご存知でいらっしゃると?」
「ううん、全然。チカね、歩いてたらいつの間にかお花があって、それでスゴーイ! って思ってどんどん進んできたんだよ。ね、ユキちゃん、お花キレイだね〜」
「ええ……確かに、刮目に値する絶景、ですが」
二人が話す間にも、桜は薄紅の振袖を風に揺らし、枝を離れた儚い欠片が、はらりひらりと闇にたゆたう。
誘われた千影が手を伸ばし、掌を天へと開く。迷い子のような花弁が一枚、そこにふわりと舞い降りた。千影はそれを、大事そうに両手で包んだ。
「私は、探しモノをしているのです」
不意にユキが言う。
さがしもの? 千影は鸚鵡返しする。
「ええ。“この世で一番美しいモノ”という、絶対唯一の宝を」
「この世で一番? じゃあそれって、すっごくキレイなんだね!」
花を拳に握りしめ、千影はぴょんと飛び跳ねる。ユキは微笑ましさに口許を綻ばせ、頷く。ええ、きっと。
そしてまた、遠くへと視線を投げる。花の霞の遙か彼方を、彼は見透かすようだった。
「私はそれを見つけなければならない。そのためならば、こんな夢とも現ともつかぬ場所にも参りましょう。……チカさん」
「なあに?」
「貴女は、あの声を聞かれましたか?」
声? それは知らない、と千影が目をぱちくりする。
「清水のように澄んだ、誘う声でした。この世で一番美しい盃を見たくはないか、と」
「さかずき? って、なあにユキちゃん?」
「片手に収まるほど小さな、底の浅い器のことです。主に、お酒を入れて飲むモノですね」
「んーと……あ、ちっちゃなコップってことだね! うん、チカ、わかったよ!」
「……理解としては、決して誤りでないところがミソですね」
少々頭を抱えたユキに気づきもせず、千影はユキの話を整理した。つまり彼は、そのキレイなコップなるものを探しているらしい。だからここに来て、自分に出逢ったということか。
そこまで考えて、ピン、と千影は閃いた。
「ねえねえユキちゃん、それ、チカが手伝ってあげよっか?」
「ご一緒に、探してくださると?」
「うん! 一人より、二人のほうがきっと早く見つかるよ!」
言うなり、返事を待たずに彼の手を取る。自分より一回り大きな青年の手を引いて、千影は弾む足取りで駆け出した。
「ほらユキちゃん、行っくよ〜!」
「っとと!」
急に引かれてたたらを踏んだユキは、跳ねるツインテールに苦笑しつつも歩調をそろえる。
「……仰せのままに、愛らしい方」
■
どうぞ一献、飲んで頂戴
最後くらいは、わがまま聞いて
花が咲いても、雨に散るのよ
生きてる限り、別れは定めね
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行けども行けども桜の道は果てず、円やかな微風に舞う花弁も尽きることがない。
不思議と脚に疲れは感じず、花に誘われ花に惑い、千影はユキと手を繋いだまま歩き続けていた。
「コップ、見つからないねぇ〜」
きょろきょろと首を廻らすも、薄紅色を湛えた枝、その間から垣間見える煤色の太い幹意外何も見えない、他は夜の闇。人には会わず鳥も虫をも見かけないここに、果たして彼の探しモノはあるのだろうか。
「折角足を運んだのですから、何がしか見つからないと悔しいですね。……まあ尤も、斯くも幻想的な春宵に、貴女という花の様な方とお会いできただけでも私にとっては、」
「あ、ねえユキちゃん! ここ座ろっ!」
千影が木の根元を指して手を引く。何故かユキが前につんのめっていて、千影は首を傾げた。
「どうかしたの、ユキちゃん?」
「いいえ、どうぞお気になさらずっ」
大地に爪を立てたかに隆起した根に腰掛けて、千影はユキと花霞を見上げた。
漆黒の夜空を隠すほどの無数の花々が、こうも鮮明に見えるのはやはり不審だ。見つめていると、あまりの満開さに身さえ覆われるような錯覚に囚われる。一枚一枚は儚いのに、それらが寄り集まったこの天蓋は、まるで宇宙そのもののようだ。
長い一房が座る千影の目の高さに垂れていて、千影はその花弁に触れる。花は、色に反してひいやりとしていた。
「ユキちゃん。チカね、いっこ聞きたいの」
「私の答えで貴女にご満足いただけるのならば、如何ほどにも」
「じゃあね、ユキちゃんは、何でコップを探してるの?」
ユキは迷わず即答した。
「お逢いしたい方がいるからです」
おあいしたいかた。反芻した千影に、ユキは花に視線を投げたまま頷く。
「私に、命と名前をくださった方です。その方は今お隠れになっていて、“この世で一番美しいモノ”のみがその方に辿り着く手掛かり。ゆえに私は、そのモノを手に入れなければならないのです」
「ん〜? その人は、ユキちゃんの大事な人?」
「そうですね。掛け替えのない方、ですね」
「チカにもいるよ!」
語尾に被せるように千影が声を張り上げた。
少々面食らったユキの瞳に映る千影は、喜色満面とはかくやらん。溢れ出る愛情を惜しげもなく表した笑顔で、千影は言った。
「チカにも、大事な人いるから。だからね、ユキちゃんの逢いたいって気持ち、わかるよ。大好きで、一緒にいたいの。一緒にいなきゃ、ダメなの」
一言一言を、その“大事な人”に向かって紡ぐかの彼女に、ユキは眩しそうに目を細める。
「貴女にそこまで言わしめるだなんて、妬けますね」
再び風が吹いたのは、その時だった。
ユキが現れた時と同じ、激しい突風が吹き抜ける。垂れた枝を叩くように打ち上げ、千影は咄嗟に腕で目を覆った。
今度は、収まるまでに時間を要した。恐る恐る目を開けていくと、花の向こうにまたしても見覚えのない人影が現れていた。
人は二人、共に女で長い髪は流れる川の様。服装は和装、裾も袂も地に広がるほどの豪奢な衣に身を包み、二人の女は向かい合って座している。
あまりにも唐突な光景に、千影は目を瞬かせる。傍らのユキが、「あ」と小さく声を上げた。
「どしたの?」
彼の視線の先を辿れば、女達の手許に辿り着く。彼女らの持つ朱色の小さな器を見て、千影もはっと思い当たった。もしかしてあれが、ユキの言っていた盃、なのではないか。
“この世で一番美しい、盃”?
「ユキちゃん」
千影は繋いだ手を引き、ユキを促そうとする。しかし不思議なことに、立ち上がろうとする力が脚に入らない。ユキも同じなのだろうか、呆然と女達を見つめたままの姿勢で動こうとしない。
まるで、自分達は観客でしかないと定められたかのように、目の前の舞台に上がることが出来ない。
ただ、観ているだけの、花の桟敷に。
片方の女が自分の盃を置き、用意されていた提子を手に取る。
もう片方の女が盃を差し出し、注がれる酒を無言で受ける。
女はどちらも微笑んでいた。
何かを諦め、何かに満足し、互いだけを見つめ、互いだけを感じている。
『どうぞ一献、飲んで頂戴』
注いだ女が囁くように言う。提子の口が上向いて、名残の酒が一滴、盃の水面に波紋を落とす。
受けた女は笑んだ形で唇を開かず、愛しげに盃を見つめるのみ。
『最後くらいは、わがまま聞いて』
盃が、口許に運ばれる。女は一息にそれを干した。そして再び、相手の女に差し出す。
そこにはらりと、風に乗った花が落ちた。盃に酒が満たされ、水面に花が浮かび上がる。
『花が咲いても、雨に散るのよ』
受ける女は旅立つ人、注ぐ女は見送る人。
比翼の鳥のように傍にいた友と友とが、避けられぬ運命のために道を違える。今宵は、その最後の日。
旅立つ女が、今生ではこれきりとなる友からの酒を飲みきり、呟いた。
『……生きてる限り、別れは定めね』
カンッ、と硬質な音が響いて、千影は我に返った。
見れば、目の前にいたはずの女達は既に影も形も無い。跡形もなく消え去ったその場には、女が持っていたのと同じ、朱塗りの盃がぽつんと在った。
呪縛から解かれた脚で立ち上がる。一歩、二歩と踏み出して、唯一遺された盃を千影は手に取った。ためつすがめつしても、何の変哲も無いただの盃。
後ろから、声が飛んできた。
「何故、それが、この世で一番美しい盃なのですか?」
振り返ると、ユキが至極不機嫌そうな表情で立っていた。花の幕内から進み出て、千影の手許、盃をまじまじと見つめる。その眉間の皺が深く刻まれる。
「何の意匠も無い、どこにでもある盃です。私には理解出来ません、私を呼んだ声が、これを美しいと称したその理由を」
「チカ、わかるよ?」
え、とユキが意外そうに目を瞠る。
「あのね、きっと、あの人達にとってはキレイなモノなの。大事な想い出が詰まったものだから、これを見るとね、それを思い出すの。楽しかったこと、嬉しかったこと、哀しかったことも忘れたくないのかもしれない」
だから。
「そういう、想い出がいっぱい咲くの。ここのお花みたいにね、満開に。とっても……キレイに」
大事な人の面影を瞼の裏によみがえらせて、千影は温かな心でそう紡ぐ。
向かい合うユキは対照的な表情。痛みを堪えるように、胸の辺りをきゅっと握り締めた。
「私には解らない感覚です。私には、貴女の言う“想い出”なんて……ありませんから」
「じゃあ」
ふわり、と千影は笑顔を綻ばせる。
「じゃあ、ユキちゃん? これから、作ればいいんだよ?」
「作る?」
「えっとね、今日、チカと逢ったことも想い出になるでしょ? チカは、なったよ?」
ユキは暫し言葉を失ったかに沈黙した。
しかしやがて、笑みを零して。
「そうですね、貴女の仰る通りです。私の心に、貴女との逢瀬という美しい花を、咲かせ続けましょう」
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ぱちり、と千影は瞬きをした。そこは、見慣れた夜の街だった。
「あれ、ユキちゃん?」
呼べども彼はどこにもいない。あんなに無数にあった桜並木も見当たらない。夢? と千影は訝しんだが、すぐに思い直す形見は手の中に在った。
「ああっ!」
握っていたのは、この世で一番美しい盃。千影の胸に残る、大事な“想い出”の花。あれは夢ではなく総てが真実だと、その盃が静かに告げていた。
「ユキちゃん、また、逢えるかな?」
弾む声で言いながら千影は踵を返す。向かうは千影の唯一の人の許。
夜の中を、少女は軽やかに走り出した。
了
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