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〜ヒトの音色〜
「ええ、一時的なものです。ショックが大きいと、こういう状態に陥りやすくなるんですよ。ただし…」
「ただし?」
「いつ回復するかは不明です。何しろ、視神経には何の問題もない訳ですからな、あとは本人次第なんですよ」
本人次第、と来生一義(きすぎ・かずよし)は頭の中で繰り返した。
何とも頼りない言葉だ、「本人次第」という言葉は。
しかも、今回のこの現象は、本人の意思だけではどうにもならないのだから。
「数日間、入院されるといいでしょう。生活も不便でしょうから」
「ありがとうございます」
一義は医師に深々と頭を下げた。
ベッドが埋まっていることが多いと言われるこの大学病院で、入院が許されるなら喜ばしいことだ。
医師が去って行くのを見送り、一義は改めて白いベッドを見下ろした。
頭に真っ白な包帯を巻き、ふとんからはみ出た腕も傷だらけだ。
「彼」にしては、珍しい失態である。
「…っ」
ようやく「彼」は意識を取り戻したらしい。
痛みに顔をしかめながら、薄く目を開き、かすれた声でこうつぶやいた。
「ここは…どこだ?」
「病院だ、十四郎」
「兄貴か…?」
何度か瞬きをしながら、こちらに顔を向けた十四郎が、驚いたような表情に一変する。
「おい…?何だよ、これ…」
「ああ、今説明する」
一義は近くにあった丸椅子を引き寄せて、そこに腰を下ろした。
そして、そっと十四郎の手を取る。
「どうやらお前は、家に帰って来る途中、歩道橋の階段から落ちたらしい。怪我自体は足の捻挫だけで、大したことはないんだが、少し頭を打ったらしくてな、一時的に目が見えなくなってるそうだ」
「何だって…?!」
「だが、目に異常はないらしいから、本当の失明ではないんだ」
ちっ、と十四郎は舌打ちした。
よりにもよって、目が見えなくなるとは。
確実に仕事に支障が出ることになる。
「医者は何日か入院した方がいいだろうと言っている」
「ああ?!」
十四郎は見えない目を兄のいる方に向けて、不機嫌な唸り声をあげた。
「こんなところに何日もいられるかよ!俺は今すぐ帰るからな!!」
「だが、目が見えないと生活に支障が…」
「病院はうるさくて落ち着かねぇんだよ!ただ回復を待つしかないなら家にいても同じだろ?!」
「それはそうだが…病院にいた方が何かあった時に…」
「うるせえ!!!帰るっつったら帰るんだよ!さっさと支度しろ!!」
「今はまだ真夜中だぞ?!」
「関係ねぇ!」
一義の制止もきかず、十四郎はふとんを剥ぎ取り、病室を出て行こうとした。
慌ててその腕をつかまえ、一義はタクシーを呼ぶから待つよう言った。
「さっさとしろよ!」
病院なんかには一秒たりともいたくないと顔に書いて、十四郎はぶっきらぼうにそう言った。
ため息をつき、一義は受付で会計を済ませ、病院の入り口にあった電話でタクシーを呼んだ。
松葉杖をつき、兄の手を借りながら、十四郎はタクシーに乗り込む。
いつの間にか、あんなにうるさかった騒音が、減っていた。
翌日。
兄の助けを借りながら、十四郎は編集部に電話をかけた。
かけ慣れた番号だったはずだ。
なのに、何度押しても、編集部へつながらない。
見かねた一義が、十四郎の手から受話器を取り上げ、その番号にかけてやった。
そして、当面休むと連絡を入れると、電話すらまともにかけられないことにため息をついた。
何年も住み続けたこの家の中でさえ、視界が真っ暗では見知らぬ場所のようだった。
それでなくとも、あらゆるもので散らかっているのだ、右へ行っては向こう脛を嫌というほどぶつけ、左へ行っては積まれた雑誌の山に蹴つまづき、踏んだり蹴ったりの様相を呈していた。
仕方なく、自分の机の前に座り込み、兄のくれた茶をすすっていた。
そんな弟の背中を見るにつけ、一義は何と声をかけていいのか迷っていた。
すると、いきなり十四郎はこちらを振り返り、苛々した表情で怒鳴りつけてきた。
「何でこんな時に音楽なんかかけてんだ!!」
「音楽?!」
一義は耳を澄ませた。
自分がかけていない以上、周りの部屋のどこかが、かけているのかも知れなかったからだ。
こんなボロアパートの薄壁だ、音のひとつやふたつ、洩れていてもおかしくはない。
だが、どんなに沈黙を続けても、風の音ひとつ聞こえて来なかった。
「十四郎、俺は音楽はかけていないし、周りからも聞こえて来ないんだが」
「そんなはずねぇだろ?!こんなに大きな音で…」
十四郎は怒った表情のまま、もう一度耳を澄ませる。
(何だ、これは…)
十四郎は眉をしかめた。
病院では方々から聞こえていた音楽が、今は一曲しか聞こえず、兄の気配が遠ざかると音楽も遠ざかり、近づくとボリュームが大きくなる。
(どういうことだ…?)
怪訝そうな顔になった十四郎を見やり、一義はそっと声をかけた。
「今夜は酒を飲んでもいいぞ。少しなら自分も晩酌に付き合うから…」
「珍しいことを言うじゃねぇか。いいのかよ、ホントに」
半分驚きを交えて、十四郎はそう答える。
いつものようにさらに茶化そうとして、はっとあることに気が付いた。
そう、兄の声は普段と変わらなかった。
だが、明らかに変わったものがある。
(音楽が…)
さっきから鳴り続けている音楽が、トーンを下げ、悲しい曲調に変わったのだ。
その時、十四郎は確信した。
音楽は、現実にかかっている訳ではない。
この耳にだけ、聞こえるのだと。
そして、その音楽は、人間の感情そのものなのだ、と。
〜ライターより〜
いつもお世話になっております。
ライターの藤沢麗です。
遅くなりましたが、今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
十四郎さん、これは新しい能力ですか?!
感情だけはウソがつけませんから、怖いですね…。
逆に、人の気持ちに敏感になって、
つい先回りして動いてしまうこともあるかも知れませんしね。
ただ、十四郎さんだけに、
人の感情がわかったとしても、
「へぇ〜、だから?」ということにならないとも限りませんが…(^_^;)
それではまた未来のお話を綴る機会がありましたら、
とても光栄です!
この度はご依頼、
本当にありがとうございました!
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