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Broken sword - 3
「どうした、姉ちゃん。俺を殺すんじゃなかったのかよ」
ひはははははっ、と高い声で笑いながら、鬼鮫はウイスキーのボトルを拾い上げた。さっきまで飲んでいたものだ。まだ半分以上残っている。それを大きくあおって、ごくりと飲み込んだ。ボトルをつかんでいる手には、いつのまにか指が生えそろっている。胸や首から噴き出していたはずの血も、すでに止まっていた。
鬼鮫は、トロールの遺伝子を持つジーンキャリアだった。その能力は、人知を超えた腕力と再生力。なまなかな相手ではない。
「再生能力、か……」
床にうずくまりながら、瑞穂は低い声で言った。
「おお、よくわかったな。だから言ったろ? なにをやってもムダだってよ」
「それは、どうかしらね……」
ぐっ、と腕に力をこめて、瑞穂は立ち上がった。
驚いたように、鬼鮫が口笛を鳴らす。驚いたのではなく、からかったのかもしれない。
「まだやれるのか? じゃあかかってこい。俺の酔拳で相手してやるよ」
「ふざけたことを……!」
カッとなって跳びかかろうとした瑞穂だったが、相手の能力を思い出して足を止めた。再生能力を持った相手と素手で真正面にやりあったところで、勝ち目はうすい。剣を使って首を切り離すか、心臓をえぐりだすか、それぐらいしなければ──。彼女はサーベルをさがして床に目をやった。
「さがしものはアレか?」
鬼鮫が、自分の後ろを指差した。そこに、瑞穂のサーベルが転がっていた。どうやったところで手のとどかない場所である。鬼鮫を倒すか、すくなくとも少しのあいだ足止めするしかない。どちらも、ひどく困難な道だった。
「そこをどきなさい。それは私の剣よ」
「ふざけんな。ほしけりゃ、俺を倒してみろ。まぁどうやったってムリだがな」
「……ちっ」
おもわず舌打ちして、瑞穂は徒手格闘の構えをとった。腹や尻にかなりの痛みがある。鼻血もまだ止まっていない。それでも、まだ戦闘不能になるほどのダメージは負っていなかった。十分戦える。
「かかってきな」
もう一口ウイスキーをあおって、鬼鮫は足元にボトルを置いた。
無論、瑞穂はその隙を見逃さなかった。一気に間合いをつめると、鬼鮫の頭部めがけて右足を跳ね上げた。ムエタイ流の蹴りである。膝が前に出て、えぐりこむように脛が走る。修道服の裾がめくれあがり、剣撃にも劣らない鮮やかな軌道が空中に描き出された。
「ひゅう」
鬼鮫は左腕でそれをブロックした。が、その腕ごと横へ吹っ飛ばすような蹴りだった。体重差を考えると、驚異的な威力だ。鬼鮫が酔っぱらっていたせいもあるかもしれないが、それにしても完璧なキックだった。
横へよろけた鬼鮫の側頭部に向かって、瑞穂の右ストレートが伸びた。鬼鮫は無防備だった。この攻撃はきれいに命中した。鬼鮫は足をもつれさせて壁にぶつかり、その格好のままで笑い声を上げた。
「くははははっ。あー、おもしれぇ」
「なに笑ってるのよ」
「このザコが。おまえ、そんなんで俺を倒せると思ってんのか」
「…………」
無論、素手で倒せるとは瑞穂も思っていなかった。しかし、剣があればどうにかなる。いまは、そのための布石を打っているところだった。
「私のスピードについてこれないなら、そう言いなさい」
瑞穂は走り寄り、鬼鮫の足を刈り取るようにローキックを放った。足さえ殺してしまえばサーベルを拾うこともできる。剣があれば負ける気はしなかった。さっきのは、すこし油断しただけだ。私が負けるわけがない──。瑞穂は、自分に言い聞かせていた。
ガスッ、という音。ローキックは狙いどおりに鬼鮫の足をとらえたが、狙いどおりのダメージを与えることはできなかった。鬼鮫は微動だにせずその蹴りを受け止めると、無造作な感じで右の拳を突き出した。
かんたんに避けられるパンチだった。瑞穂は横にステップしてそれをさばき、もう一発ローキックを放っていった。さっきと同じ箇所に命中した。するどい蹴りだった。
が、まるで効いてはいなかった。鬼鮫は更に半歩つめよって、力任せのミドルキックを繰り出した。型も何もない、滅茶苦茶な蹴りだ。それでも、当たればタダでは済まないほどの蹴りだった。
瑞穂は後ろへ下がろうとしたが、間に合わないと悟って右腕でブロックした。ドン、と重い音がして、瑞穂の体は横へはじけた。クルマにでも撥ね飛ばされたような衝撃だった。
脇腹を押さえ、ごろりと床で一回転して瑞穂は立ち上がった。そこへ、おなじようなミドルキックがもういちど飛んできた。今度は胸だった。瑞穂は両腕でガードしたが、やはり重い音をたてて後ろへ吹っ飛ばされた。
まるで、大人と子供だった。体重差がありすぎるのだ。格闘においては最重要のファクターである。瑞穂の唯一の武器となる素早さも、いまは大部分が失われていた。主観的に見ても客観的に見ても、瑞穂にほとんど勝ち目はなかった。
「く……っ」
右手で胸を、左手で脇腹をおさえながら、瑞穂は歯噛みした。ギリッと歯の軋む音が、鬼鮫の耳にまでとどいた。修道服もケープも、いつのまにか汚れきっている。ストッキングは膝の下までずり落ちて、あちこち破れているありさまだった。いつもの彼女からは想像もつかないほどみじめな姿。
「足が止まってきたぜ?」
あざけるように言いながら、鬼鮫は前に出た。
その言葉どおり、瑞穂の膝は震えていた。ダメージと疲労のためだ。鬼鮫の攻撃は容赦なかった。ローキックが瑞穂の足を刈り、よろけたところへショートフックが顔面を打ち抜き、完全に姿勢が崩れたところへ脳天にエルボーが落とされた。
そのすべてを、瑞穂はマトモに食らった。朦朧として酔っぱらいのような千鳥足になったところへ、鬼鮫が左右のフックを同時に放った。万力で押しつぶされたように頬をゆがめる瑞穂。血と涙が勢いよく弾けて、鬼鮫の顔にまで飛び散った。
「二度と見れない顔にしてやるよ」
瑞穂の頭を両腕でおさえつけながら、鬼鮫は彼女の顔面に膝蹴りを叩き込んだ。岩石さえ打ち砕くような膝蹴り。どうにか両手で防いだものの、次の膝蹴りが鳩尾に入ると瑞穂は血を吐き、悶絶した。
次の顔面への膝蹴りは防げなかった。轟音をあげて上昇する膝に突き上げられて、瑞穂は大きく後ろへのけぞった。
「おら。もう一発!」
みだれた髪をつかんで、鬼鮫が瑞穂の頭を引きもどした。そして、もういちど膝蹴りを叩きこんだ。血と汗をまきちらして、瑞穂の上半身が再び後ろへ倒れた。
鬼鮫は髪をはなさず、さらに引っ張った。もどってきた瑞穂の腹に、もういちど膝蹴りが打ち込まれた。おなじことを、また繰りかえした。執拗な膝蹴りの嵐。もはや瑞穂は、されるがままだった。
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