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Broken sword - 4
「ずいぶんおとなしくなったな、おい。さっきまでの威勢はどこ行ったんだ?」
鬼鮫は右手で瑞穂の髪をつかんだまま、左手で顎を持ち上げた。血と涙でぐしゃぐしゃになったその顔が、陽光の下に照らされる。見開かれたままの瞳はヒクヒクと細動し、その脈動と同じリズムで全身が痙攣した。
「まるで、釣り上げられた魚みたいだぜ?」
その侮辱どおり、瑞穂は打ち上げられた魚のようにビクビクと体を震わせるだけだった。
「いや、魚っつーよりミミズのほうがピッタリだな」
鬼鮫の言葉に、瑞穂は何も答えなかった。ただ荒い呼吸をくりかえしながら、目だけは力を残して鬼鮫を睨みつけている。
「まだ反抗的な目をしてやがるな」
言いざま、鬼鮫の膝がふたたび瑞穂の腹部に叩き込まれた。
「げぶ……っ」
くぐもった悲鳴を漏らしながら、血と唾液を吐き散らす瑞穂。髪をつかんでいた鬼鮫の右手が開かれると、彼女の体は重力に引かれて真下に落ちた。落ちていくその途中で、鬼鮫の膝が顔面をとらえた。ゴシャッという、骨の砕けるような音。強烈な一撃だった。
瑞穂の体が宙に浮いて、そのまま後方へ吹っ飛んだ。背中が壁にぶつかり、バウンドするように跳ね返って床にころがる。崩れた煉瓦のカケラや土埃が、バラバラと彼女の上に降りそそいだ。
「ああ……、ぐぅ……!」
血まみれの顔をおさえながら、瑞穂は床の上をのたうちまわった。鬼鮫のセリフどおり、その姿は太陽に炙られるミミズそのものだった。乱れきった修道服はもはやボロ布のようなありさまで、純白だったケープは元の色がわからないほど血や砂埃で汚れきっている。おおきく裂けたスリットから覗く瑞穂の太腿だけが、奇跡のように白さをとどめていた。
「もう終わりか? 自衛隊もたいしたことねぇな。よっぽど人手不足なんじゃねぇのか?」
鬼鮫は床の上から酒瓶を拾い上げると、ゆっくりした動作で口元に持っていった。噛み切るような勢いでボトルをくわえ、真上を向いて胃の中にウイスキーを流し込む。残り少なかった中身は、それで一気にカラになってしまった。
「……っと。もうなくなっちまった。運動したあとは酒がよく進むぜ」
カラになったボトルを手に持ったまま、機嫌良さそうに鬼鮫は言った。
床に這いつくばりながら、瑞穂は鬼鮫の姿を見つめていた。
そのとき、ふと気付いた。手を伸ばせばとどく距離に、サーベルが落ちている。あれさえ手にできれば──。鬼鮫に気付かれないよう、慎重な動作で彼女はその方向へ這い寄っていった。
鬼鮫は気付かなかった。もしかすると、あえて見逃したのかもしれない。
ともかく、瑞穂は右手にサーベルをつかんだ。そして、それを杖代わりにして立ち上がった。杖で体をささえなければ立っていられないような状態だったが、まず立たなければ活路が開けなかった。
「おっと。俺としたことが油断したぜ。剣をとられちまった」
わざとらしく、鬼鮫は笑ってみせた。
ほんとうに油断していたのかどうかなど、瑞穂にとってどうでもいいことだった。そんなことを考える余裕はなかった。なにがなんでも勝たなければならない。敗北は許されない。そういう仕事なのだ。
「おまえみたいなヤツに負けるわけにいかない」
瑞穂は大きく足を開き、右足を前にして半身になった。剣先をひきずるようにしながら、最下段にサーベルを構える。その低い姿勢のまま、じりっと前に進んだ。
「そんなんで斬れるのかよ、おい」
カラになったウイスキーボトルで、鬼鮫はトントンと肩を叩いた。
瑞穂は何も応えず、黙って距離をつめた。本来片手で持つサーベルを、いまは両手で構えている。構えているというより引きずっているというほうが近いかもしれない。片手で振り切る体力が残っていないのだ。いや、振るだけなら出来るかもしれない。しかし、鬼鮫を斬るには全身全霊をこめた一振りが必要だった。
瑞穂はまだ諦めてはいなかった。剣さえあればどうにかなる。そう信じていた。あるいは、信じようとしていた。
「まぁ、ためしにやってみろよ。つきあってやる」
かかってこいという具合に、鬼鮫は人差し指を立ててクイッと動かした。
瑞穂は残されていた体力すべてを使って、一気に踏み込んだ。これだけのダメージを受けている状態であることを考慮すれば超人的な瞬発力だったが、万全の状態の彼女から見ればアクビの出るほど緩慢な動作でしかなかった。
自らの体が思ったように動かないことに苛立ちながらも、瑞穂は遮二無二攻撃を繰り出した。必死だった。間合いに入った瞬間、渾身の気合をこめてサーベルを跳ね上げた。床から天井に向かって、銀色の光条が走りぬける。鬼鮫の股間を狙った攻撃だった。
「おおう」
おどろいたように、鬼鮫は一歩後ろへ跳びのいた。いかに優れた再生能力があるとはいえ、斬られれば痛みはある。しかも股間を斬られるのは彼としても願い下げだった。
瑞穂はさらに踏み込みながら、振り上げた剣をクルリと方向転換させて振り下ろした。みごとな剣撃だったが、あいにく鬼鮫には通じなかった。彼には剣術の心得があるのだ。全力の瑞穂なら話は別だが、いまの彼女の剣をかわすことなど造作もなかった。
するりと剣をかわした直後、鬼鮫の右腕がかるく動いた。その手から酒瓶が飛んで、瑞穂の肩に命中した。それだけで、彼女の手からサーベルが落ちた。
「あっ」という声が漏れたところへ、鬼鮫の平手打ちが飛んだ。パン、と音をたてて瑞穂の顔が横にはじける。平手打ちとは思えない威力だった。たまらず、瑞穂は壁に手をついた。
「話にならねぇな」
鬼鮫の声が冷たく響いた。その足が大きく振り上げられて、つよく踏み下ろされる。相撲の四股でも踏むような要領。
バキン、と金属音を鳴らしてサーベルが折れた。瑞穂の顔が絶望に歪み、鬼鮫は爬虫類のような笑みを浮かべた。
「さて、お遊戯の時間もそろそろ終わりだな」
言ったとたん、鬼鮫が素早く動いた。いままでの動きすべてがお遊びだったとでも言わんばかりの機敏な動作。あっというまに、彼は瑞穂の背後をとっていた。太い腕が蛇のように瑞穂の首元へ入り込み、巻きつけるように締め上げる。
瑞穂の体が浮き上がり、呼吸が止まって顔が真っ赤になった。
瑞穂は鬼鮫の腕をかきむしったが、ただ引っ掻き傷ができただけだった。踵で股間を蹴り上げるとさすがの鬼鮫も苦痛の声をあげたが、それでも獲物を離すことはなかった。
「痛ぇだろ、このアマ」
ゴツッ、と鬼鮫の頭が瑞穂の脳天を直撃した。鼻血が飛び散って、彼女の顔や鬼鮫の腕に跳ねる。さらに鬼鮫の膝が彼女の尻を蹴り上げ、背中を蹴り上げた。その一撃ごとに、瑞穂の体は宙に跳ね上がった。
瑞穂はもういちど鬼鮫の股間を蹴り上げたが、もはや何の効果もなかった。ただいたずらに鬼鮫の怒りを買うだけで、結果彼女は十回以上も臀部や背中に膝蹴りを浴びることになった。
最後の一撃とばかりに鬼鮫の拳が背骨に叩き込まれると、瑞穂は獣のような悲鳴を上げて悶絶した。真っ赤になっていた顔は、もはや血の気を失って真っ青に変色していた。鬼鮫の腕の中で、彼女はモーターの壊れたロボットのようにガクガクと痙攣するだけだった。
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