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<東京怪談ノベル(シングル)>


玻璃の向かう先(3)
 痛みはまだ、引かなかった。
 それどころか、ますます強くなる気すらした。


 鈍い痛み、それに勝る恐怖に、ただ高科・瑞穂はおびえていた。
 痙攣するように身体が震えるのも、そのせいなのだろう。敗北者であることを示すように、瑞穂は身体を横たえていた。腕で上半身を支え、編上げのブーツとガーターベルトをつけた足を、惜しげもなくミニスカートの下から見せていた。
「…負け犬、か」
 静かにそれを見下ろしていた男が、ぽつりと呟いた。
 たった今、瑞穂が敗北した相手…。長身の身体は黒のロングコートで包まれており、サングラスの向こうの表情は、瑞穂からは窺い知ることはできない。巨体に似合わず、こうしてただ立つだけならば、極めて彼は、静かだった。
 先ほどまでの瑞穂であれば、そのセリフにもすぐさま、反発しただろう。だが、それはできなかった。実際に…先ほど彼女は負けてしまったのだから。
 この身体の痛み、この心を支配する恐怖。それが針で刺すように、確かにその事実を突き付けている。
「……っい」
 唇から溢れるのは、ただ恐れる、か弱い悲鳴だけだ。男―――鬼鮫と名乗った―――が、かつん、と一歩歩を進める。もちろん瑞穂のほうに、だ。
「…っ、いや……がはっ!」
 男の足が、無造作に瑞穂を蹴りあげた。恐怖に震える瑞穂の声は、耳を塞ぎたくなるような濁声に変わった。脇腹に入った蹴りが、余程強烈だったのだろう。
 身体を横向きにし、痛みに涙を零して彼女はそれをなんとか、堪えようとしていた。とにかくもう、この男に近付きたくない。それは言葉にすらならないほどの、本能的な恐怖であったが、瑞穂の身体を突き動かした。
 落ちつけ、落ちつけ、と何度も心の中で繰り返す。恐怖で凍てついた心を解し、立ち向かうにしろ逃げるにしろ、冷静さを取り戻そうとした。
 少しずつ、ずるずると身体を引きずって逃げようとするのを、鬼鮫は歩み寄り、横四方から抑え込むようにして覆いかぶさった。
「…!」
 腕を抑え込まれることを恐れ、脇を通そうとする瑞穂の動きは、すぐさま読まれた。ぎゅっと脇を抑え込まれ、そこから手首の関節を極めにかかる。
「痛っ、いた、いたいいいい!」
 握力では到底敵わないため、逃げるのも難しい。頬で固定し、さらに力をかけられると、瑞穂は堪らず悲鳴をあげた。
 手首は関節の中でも、非常に弱い。今の瑞穂のように、極まるのもあっという間だ。抜け出せたとしても、回復するまでにはずいぶん時間がかかる。
 でも、でもまだ、私は死んではいない。負けを認めてはいない。
 その気持ちだけは、瑞穂の中でごく細い糸のように、だが確かに残っていた。朦朧としそうな痛みの中で、何か…、脱出手段になりえないかと、辺りを見渡す。
 資料棚…は無理だ。瑞穂には軽いものならば持ち上げる程の、いわゆる超能力が備わっているが、それはごく弱い。
 いや、資料棚のトレイなら…?
 関節の痛みに、涙を湛えながらも、ぼんやりと見える資料棚のアクリルトレイに、意識を集中させる。
 すーーっ、と音を立てずトレイが引き出され、それは不安定な状態ながらも、中の資料を納めたまま、浮いていた。
(…行け!)
 強い思念が念じると、トレイは弾かれたように、鬼鮫の後頭部に直撃した。
「うっ…!」
 鬼鮫が呻き、関節を極めていた手を緩める。ほぼ体当たりのような状態で突き飛ばし、瑞穂は男から距離を取った。
「やっ、た…」
 思わず瑞穂の口から、歓喜の声が発せられた。
 カタン! とトレイが音を立てて落ち、資料が空中にいくつも漂う。ゆっくりと羽根が落ちるような動きで、やがて床に散らばった。
 抜け出したものの、瑞穂の痛みが消えるはずもなく。床を引っ掻くようにもがき。
 経ちあがるのも辛い、今の彼女の状態を顕著に表していたが、それでも瑞穂は、資料棚に手をかけて立ち上がった。まだ存在していると、証を立てるように。
「…サイコキネシスか。よく関節を極められた中で動かせたものだ」
 頭を振るようにしてこちらを見る鬼鮫が、そう呟く。
 瑞穂は、青ざめた顔で、唇をぎゅっと引き締めた。
 こいつを…、こいつを倒さなければ。
 関節を極められた左手は、使い物にならない。だが瑞穂の利き腕は右手だ。
「まだ、まだ負けてはいない!」
 鬼鮫に飛びかかり、鳩尾に一撃拳を打ち込む。次いで膝蹴りを、やはり男の鳩尾に叩きこんだ。
 しかし威力のある攻撃も、長くは続かなかった。当然だ。今の今まで、痛みに震えていたのだから、身体は疲弊しきっている。
「度胸だけは、褒めてやってもいいがな」
 抑揚のない、鬼鮫の声は、辺りに響いた。
「お返しだ」
 鬼鮫の太い腕から、ストレートのパンチが繰り出され、瑞穂の顎にぶち当たった。よろめき、それでも倒れないのは、瑞穂にとってある意味、不幸だったのかも知れない。
 頬を何度も殴られ、トドメとばかりに脳天に両の拳を組んだものが振り下ろされる。
「ぐっ、あああ! ああああ!」
 瑞穂が叫び、それでも彼女は鬼鮫に拳を叩きこんだ。明らかに瑞穂の攻撃は精細さを欠いており、力も先に比べれば、随分と弱弱しい。
 ばちん! と戦意を喪失させるような、強い平手が瑞穂の頬に当てられる。何度も、一撃一撃力の込められた平手は、先ほど頬に受けた拳の痛みを、殊更増幅させた。
「うっ、う…、う…」
 涙をまたも、ぼろぼろ零す瑞穂に、鬼鮫が慈悲をかけるわけもなく。
 どすん、と何かが落ちる音に似た、低い音が響く。
 鬼鮫のボディブローが、瑞穂の腹部にめり込み、崩れ落ちることすら許さないとばかりに、しつこく腹に拳を当てられる。
 たっぷり一分はそれが続いただろうか…。ようやく終わる頃には、瑞穂は再び地面に伏し。
 拳を打ち込まれた分、頬は腫れ、腹を庇うように身体を丸めていたが、呼吸もここまらないのだろう。すーすー、と息の抜ける奇妙な音だけが、地下室に響いていた。
 その中で、彼女の心の内を示すように、右の拳がぎゅっと、握られた。