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<東京怪談ノベル(シングル)>


 沈み込む悪意 1


 広くもなく、狭くもなく。
 備え付けのドレッサーと姿見。部屋の中央に置かれた一組のテーブルと、どこにでもあるような質素なベッド。
 寛ぐというよりも、生活することを主とした簡素な部屋の中に、一人の女性の姿があった。
 バスローブで隠されていてもなお、隠し切れない豊かな、それでいて美しい曲線を持った体躯。湯上りを表すような僅かに上気した肌に、乾かしたばかりの美しい髪が纏わり、滑らかな輪郭を彩っていた。
 その理知的な容貌は、殺風景な場所にそぐわない。むしろもっと、華やかで豪勢な場所で、美しいドレスを身にまとうことこそが相応しい。だが、その瞳に宿る光はこのような場所でこそ煌くのだと、はっきりと告げていた。
 女性の名は、高科瑞穂。弱冠二十歳にして、自衛隊に極秘裏に存在する特殊機関、近衛特殊警備課に所属する一級のエージェントである。

 唯一の光源である蛍光灯の下で、瑞穂はバスローブを脱ぎ去った。ばさり、と音を立てて足元に蟠るコットンから抜け出し、既に用意していた下着を身に付けていく。豊かな膨らみと、ウエストから芸術的なラインを描くヒップを真白のレースで覆い、ベッドの上に無造作に置かれたワンピースへと手を伸ばす。
 黒の布地は地味にも思えるが、そのデザインは一般的なそれと一線を画していた。
 大きめにカットされたスクエアネックから覗く華奢な鎖骨と、パフスリーブの膨らみから伸びる白い腕。その丈は、弾けるようなふとももを半ばほど隠しているだけだ。
 何度も身につけ、馴染んだものを着るように、瑞穂はその複雑な手順をこなしていく。
 淡く透けるようなペチコートを履くと、たっぷりとした布地のフレアスカートが程よく広がり、さらにそのレースに覆われたふとももの存在を明らかにする。
 一度姿見でワンピースの具合を確かめた瑞穂は、ベッドの上に腰を降ろした。手にしたニーソックスを、その長くしなやかな足へと通していく。少しずつ隠されていく領域は、どこか禁忌の匂いを漂わせた。
 予め身に着けておいたガーターベルトから伸びるクリップで止めると、あとは仕上げを残すのみである。
 レースをふんだんにあしらったカチューシャと、同じく黒のチョーカー。そして、フリルのついた白いエプロン。
 そのすべてを身につけた瑞穂が再び鏡の前に立つと、そこにはどこから見ても完璧なメイドの姿があった。
 
 エージェントである瑞穂が、こんな所でメイドの格好をしている理由。それは、所属部隊である特殊警備課の仕事に他ならない。
 特殊警備課の仕事は、主に通常戦力では対抗し得ない超常現象及び、異能力の排斥にある。
 その為、瑞穂は特殊警備課より危険分子と名指しされたターゲットの排斥を命じられていた。
 その結果が、このメイド姿である。 
 現在、ターゲットが寄り代としている組織へと、メイドの一人として潜りこんで早一週間。
 ついに今日、目ぼしい動きがあった。
 ターゲットがこの屋敷に表れるという情報を得たのである。

――早く片付けて、家に帰りたいわ。  

 最早馴染んでしまったといっても過言ではないメイド服を脱いで、自宅へ帰って寛ぎたい。瑞穂はそんな思いに駆られながら、再びベッドへと腰を降ろした。
 ベッドサイドに置かれたロングブーツを引き寄せて、ターゲットの情報を思い起こす。
 鬼鮫、という通り名と、写真で見る限りの無骨な姿。それは殺戮に魅せられた哀れな武人、という印象を瑞穂に抱かせた。
 程好く筋力に覆われた形の良いふくらはぎを覆うブーツのボタンを留め、編み上げの紐をホックに通していく。一編み毎にこれから対峙する相手との戦闘への昂ぶりと、それを押さえる為の集中力が増していく。
 勿論、メイド服での任務など今回が初めてである。だが、それを補って余りあるだけの経験と自信が、瑞穂のうちに溢れていた。
 人の身でありながら、異能の如き振る舞いをする鬼鮫を排斥する――その能力が自分にはあると、瑞穂は確信していた。
 
 時刻は午後六時。
 すでにこの場から、戦闘は開始されていたのである。









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 鬼鮫は、自分の跡を追う者の存在に気づいていた。
 数日前から身辺に感じていた不穏な気配。それは恐らく、跡をつけている者が嗅ぎ回るものだったのだろう。
 隠せないのか、隠すつもりがないのか、ちらちらと蠢く気配は、まるで挑発するようにつきまとう。

――いい加減、煩いと思っていたところだ。

 目障りなその存在を確認、或いは相手が超常能力者であったなら排除する為に、進路を変更する。フロアから外れた場所にある、地下へと続く階段。
 狭い、逃げ道のない地下室へと誘導されていることなど承知しているだろうに、背後の気配は躊躇うことなく追ってくる。
 臆することなく続く気配は、その自信ゆえか、それとも愚かさゆえか。

――ああ、久し振りの獲物か?

 鬼鮫の中に、昏い欲望が渦を巻く。
 コンクリートの剥き出しの地下室には窓もなく、まとわりつくような湿り気と、黴臭さが充満していた。蛍光灯の青白い光に照らされ、そこかしこに資材が放置されている他には椅子のひとつもない。元々、取引用の荷物や、それに変わる人間を入れておくような場所だ。そのようなものなど必要がないのだろう。
 四角く区切られただけの空間に、一足毎に鬼鮫の足音が響き渡る。中ほどまで進んだ所で、もうひとつ、わざと高らかに鳴らされた足音が混じった。
 気づかせる為だけに鳴らされた、まるで警鐘にも似た音に、鬼鮫はゆっくりと振り返った。
 淡い光の辛うじて届くドアの前に佇む人影。
 その姿を認識し、鬼鮫は相手に悟らせぬ程度に息を飲んだ。
 そこに立っていたのは、屋敷で働く者の身に付ける服を着た若い女であった。
 年の程はようやく二十歳を越えたところだろう。けれどその美しい顔に浮かべる表情や、メイド服に身を包んだ肉体は、少女の頃をとうに過ぎ、女としての色香を十分に漂わせていた。
 静かに鬼鮫が視察する前で、その鮮やかな紅唇が言葉を紡ぐ。
「地下室なんて、まさにねずみに相応しい場所ですね」
 嘲りをはっきりと滲ませた口調に、鬼鮫は苦笑して見せた。
「おいおい、ネズミはどっちだお嬢さん。人の後をこそこそと嗅ぎまわりやがって……ここに連れ込まれたことにも気づかねぇのか?」
「いいえ、まさか。この方がこちらにとっても都合が良かっただけです。あまり騒ぎを大きくしたくありませんから」
 その言葉に、鬼鮫はほぅと息を吸い込んだ。
「それで、こんな人気のない場所でどんなご奉仕をしてくれるんだ?メイドさんよ」
 神経を逆撫でるように放った言葉は、けれど真っ直ぐに受け止められる。
「望むなら地獄まで。――できれば早く終らせて地上に戻りたいですけど」
 その言葉と、その自信を表すように、女が戦闘態勢に入ったのを鬼鮫は感覚で捕らえた。
「俺相手に接近戦を挑もうってのか?」
 思わず、口角が吊り上がる。
 それでも構える姿には隙がなく、鬼鮫が相手のその実力を見定めるより早く、女――瑞穂は動いていた。しなやかな長い足がコンクリートを蹴ると、密室に地面をこすり付けるような音が響く。音と共に数メートルの距離を僅か数歩で縮めたその体躯が身を沈め、鬼鮫の視界から消えた。刹那、鳩尾に鋭い衝撃が走る。
 十分にスピードを乗った肘打ちは瑞穂の軽い身体を補うのに足り、無防備だった急所への致命的な一撃となり得るはずであった――もしも鬼鮫が、普通の人間であれば。
 鍛え上げられた肉体と、魔物の力を宿した鬼鮫にとって、それは耐えうるものであった。ゆえに、よろめくように後退さったのは己の認識の誤りに気づいたからに過ぎない。

――ただのメイドじゃねえってわけか。

 とうに攻撃射程より逃れた瑞穂を見て、鬼鮫は再び笑みを浮かべた。殺戮者としての血が滾り、目標を補足する目が霞む。異常なまでの興奮で白む視界の中で、瑞穂もまた笑みを浮かべていた。
 嫣然と、誘うように。
「悪名高い殺戮者と聞いていたのに、案外大したことないんですね」
「小娘が、調子に乗るなよ!」
 瑞穂の軽い挑発に、意識がすぐに飛ぶ。既に失いかけている怒りに、憎悪が重なり、今度こそ鬼鮫は高らかに哄笑していた。
「楽には逝かせねぇ……」
 地下室を取り巻く悪意の渦に、瑞穂は何かを見定めるように目を細めた。


 夜はまだ、始ったばかりであった。