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<東京怪談ノベル(シングル)>


沈み込む悪意 2


 地下室に、男女の声が響く。
 けれどそれは予測されるような艶めいたものではなく、それでいて和やかなものでもない。時折落とされる熱い息は、命の鼓動を刻んでいた。

「もう終わりですか?」
 互いの攻撃が届くぎりぎりのラインを見定めて、女――高科瑞穂がその唇を開く。重ねた攻撃で上気した頬が、元来の白さを更に際立たせ、凄絶な美しさを演出していた。
 対峙した鬼鮫は目を細め、その姿を観察する。
 己の実力に絶対的な自信を持っているであろう女は、それに相応しい身のこなしで鬼鮫を翻弄する。さほど広くないはずの地下室が無限にも感じられるほど、素早く、隙のない動き。その激しさは、接近して近づく度に香る甘さだけが、相対するものが女であると思い出させる程であった。
「ぬかせ」
 短く返した応えに、まるでそれが合図であったかのように瑞穂は攻撃を再開した。
 一気に距離を詰め、剥き出しの首筋に手刀を叩き込む。それがそれほどの効力をもたらさなくとも、鬼鮫の上体が僅かに反らされる。その隙を突いて、瑞穂はその身を低く屈めた。
 ふとももを惜しげもなく晒すように伸ばし、片方の膝を強く曲げる。ふっくらと柔らかな内股に、光が届くよりも早く。巨木を薙ぎ倒すように、鬼鮫の、その重心の乗った軸足を払う。
「くっ、」
 短い呻きと共に、鬼鮫が前側へと姿勢を崩す。それこそが、瑞穂の狙いであった。
 素早く立ち上がり上体を正すと、レースに縁取られた形の良い膝頭を鬼鮫の腹部、鳩尾へと叩き込む。同時に、まるで覆いかぶさるように、両の肘を違わず脊椎へと落とした。
「ぐがっ……!」
 鬼鮫がまるで人とは思えない声で悶絶する。いかに魔の力を宿す身としても、その体が人の形を模している以上、中枢への攻撃はやはり堪える。致命傷に程遠いとはいえ、それなりの効果をもたらした攻撃へ、鬼鮫は更に瑞穂への憎悪を募らせた。
 そこにまるで見せつけるように裾を翻した瑞穂の回し蹴りが炸裂する。浮き上がった体がその重力に伴って着地するのに合わせ、豊かな膨らみが上下する。ただそれだけ。それ以外に一糸乱れぬ瑞穂に鋭い視線を投げかけながら、鬼鮫はよろめくように距離をとった。
「逃げているだけではなにも変わりませんよ?それとも、もうそろそろ降参ですか?」
 背中へのダメージを癒す為に呼吸を整える鬼鮫の耳に、瑞穂の声が歌うように届く。絶対的優位に立つものの余裕に、鬼鮫は気づかれぬように笑みを落とした。
 そしてその身を走らせる。筋力に覆われた肉体を忘れさせる程のスピードを持った鋭い攻撃は、それでも一撃一撃にその重量が加算される。ぶんっ、と耳元で風を切る拳を避けながら、瑞穂は慎重に攻撃の間合いを計った。
 当たれば致命的。

――当たれば、ね。

 瑞穂の目にはまるで愚鈍にも思える鬼鮫の動きを観察し、胸中で笑う。
 ぶんぶんと当たらぬ攻撃を繰り返す様は、ただの捨て鉢にも思える。あの体格ではすぐに力尽きてしまうだろう、瑞穂は冷静にそう判断した。
 それでも攻撃の手は休むことなく、鬼鮫に襲い掛かる。少しずつ、まるで命を削り取るように、的確に急所へと与えられる衝撃。そのすべてをかわすことは、戦いなれた鬼鮫を以ってしても不可能であった。
 それを見た瑞穂の瞳が、少しずつ勝利を確信へと変えていく。
 ただ単調な攻撃を繰り返す男はもう、ほとんど戦う力を残してはいないだろう。
 鬼鮫の攻撃が外れ、がくん、と一際大きく上体を崩したところで、瑞穂は叫んだ。
「これで終わりです!」
 ブーツの踵で地面を踏みつけ、身体を捻るようにしてバランスを取りながら、瑞穂は止めの一撃となる蹴りを放った。体重を乗せた足技が、ブーツの先端ごと鬼鮫の頭部に叩き込まれる。
 がくんと頭部が揺さぶられ、その衝撃がすべてその場所へ集約される。これで終わりとなるはずであった――鬼鮫がもし、常人であったなら。
「なっ、」
 俯いた顔の中から鋭い光を持った目だけが向けられ、瑞穂は思わず息を飲んだ。同時に、鬼鮫の無骨な手が瑞穂の柔らかなふとももを捕らえる。
 瑞穂が己の失態を悟った時、すべてはもう手遅れであった。
「やっと捕まえた」
 くつくつと笑いを零しながら、鬼鮫が上体を元の場所へと正していく。肩口にその踵を捕らえられた瑞穂は、そのまま鬼鮫に向かって開脚するような姿勢をとらされる。
「くっ、」
 ふとももを掴まれたまま足を開かれるという屈辱的な体勢の前に、瑞穂の顔に自然と悔しげな表情が浮かぶ。
 まさに鬼鮫は、この瞬間を待っていたのだ。
 どれだけ瑞穂が優れていようと、生身であることに変わりはない。少しずつ瑞穂の体力を削りながら、捕らえる隙を伺っていたのだ。それはまさに、草原で獲物を追う肉食獣の狩り。いつの間にか自分が捕捉される立場であると気づかずに、美しく舞い続けた獲物に向かい、鬼鮫は口角を上げた。
 その目を、怒りに燃えた瞳が見返してくる。
「ゲームオーバーだ、お嬢さん」
 その瞳を覗き込みながら、鬼鮫は拳を瑞穂の鳩尾に放った。
「ぐがっ、」
 拳がエプロンの間にめり込むと、瑞穂の口から苦痛の悲鳴が上がる。苦悶の表情を浮かべて、それでもなお気丈に睨み上げる瑞穂に、鬼鮫はさらに続けた。
「いや、違うな。ゲームはこれからだ。そうだろう?」
 少し汗ばんで吸い付くようなふとももをわざと撫で上げ、なすすべもなく苦痛に耐える瑞穂を、鬼鮫は捕食者の目で見下ろして笑った。
 そして再び、鳩尾に向かい拳を落とす。既に半ば以上、力の抜けていた急所への攻撃に、ぐふっと残された息を吐き出した瑞穂の体が人形のように力なく跳ねる。開かれた唇を唾液が伝い、ぽたぽたとコンクリートを汚す。その表情は、更に苦痛を滲ませていた。
 荒い呼吸を繰り返す身体に、もう一発。
「うぐぁああっ」
 重くうねるような拳を鳩尾で受けた身体は、片足立ちという不安定な状態と相まって、くるりと身をかわすように、鬼鮫の身体へともたれかかる。
「まだ終わりじゃねぇだろ?」
 言いながら、もう一度。今度は鬼鮫の体が支えとなり、その衝撃が違わず瑞穂の中へと吸収されていく。
「うっ、ぁあぁ、いっああっく、っつ」
 堪えきれず発した呻きが、意味を成さない悲鳴となって零れ落ちる。その薄れかけた視界に、鬼鮫の凶悪な光を宿した瞳が写りこんだ。俯く額に手をかけて仰け反らせた鬼鮫は、再び容赦なく拳を鳩尾へと埋め込んでいく。
 最早悲鳴を上げることもなく、瑞穂の体がその衝撃のままくずおれる。浮き上がった足が空を掻き、糸の切れた操り人形のようになった身体から、鬼鮫はようやく手を離した。
 ぐしゃり、と無残な音を発てて、瑞穂の肢体が地面へと叩きつけられる。顔から落ちた所為で洩れた声を細く響かせ、どこかに逃れるように、手や足が地面を這う。痛む腹部を庇うように腰を曲げて這うその姿は、捕らわれ貼りつけにされた蝶の姿を思わせた。
 乱れ始めた衣服に隠された肢体は、こんな時でもなお美しく、鬼鮫の目を楽しませた。衝撃でニーハイソックスがずり落ち、剥き出しになったふとももの上でクリップが踊り、動きに押されるようにして隠されていた場所が剥き出しになる。
 めくれ上がったスカートの下、淡い布地に覆われた形の良いヒップを揺らめかせる姿が、いやがうえにも鬼鮫の嗜虐心を煽っていく。
「っあぁああっ!」
 その突き出すように掲げられた臀部を踏み抜くと、耐え切れぬ苦痛が地下室へと木霊した。

――そうだ、この声が聞きたかった。

 知らず、己の唇を舐め、鬼島が嗤う。そして更に、額を地面に押し付けて、痛みに耐える瑞穂の後頭部目掛けて、足を踏み降ろす。がぎっと足元で嫌な音が鳴った。
 鉛の仕込まれたブーツの爪先で頭部を押さえつけると、あれほど鮮やかに鬼鮫に向かって攻撃を放っていた腕が、一度びくんと大きく痙攣する。漣だつように背筋を震わせて瑞穂が悶えるさまを、鬼鮫は笑いながら見下ろしていた。