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<東京怪談ノベル(シングル)>


不思議の国のハートの3


 マンホールに落ちたんだ。
 みなもはそう思った。
 だって、道路を歩いていて落ちたのだから。舗装道路に空いている穴と言ったらマンホールしかない。
 見上げると、ビー玉ほどの大きさの穴から光が差し込んでいるのが見える。どうやらずいぶん深くまで落ちてしまったらしい。ここを登るのは相当大変、と言うか、無理だろう。
 でも運が良かった。ちょうど茂みの上に落ちたから怪我もない。
 ――何か、非常な違和感がみなもの中を駆け抜ける。
 が、それはほんの一瞬のことで、次の瞬間には違和感を覚えたことすらさっぱりと消え去ってしまった。
 制服のスカートにかぎ裂きを作らないようゆっくりと茂みから抜け出ると、そこは林の中だった。青々と茂った広葉樹の葉蔭から柔らかな光が差し込んでいる。木々の間をぬって細い道が通っており、ちょうどその道を一匹のウサギが歩いてくるところだった。チョッキを着てステッキを持ったその姿に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。
 ウサギはみなもの前で足を止めると、赤い眼を不機嫌そうに細めて言った。
「お前、こんな所で何をしているんだね。手紙を届けるよう言いつけただろう。終わったのか?」
「え、あ、あたしは……」
 みなもが戸惑っていると、ウサギは苛立ったようにステッキを振り上げてぴしりと地面を叩いた。
「言い訳は結構! 早く行きなさい!」
「は、はい!」
 再び振り上げられたステッキが今度は自分に向けて振り下ろされそうになり、みなもは慌てて走り出した。


 しばらく走ったところでみなもはふと立ち止まった。いったいどこへ向かえばいいのか判らないことに気づいたからだ。ウサギは手紙を届けろと言っていたが、そもそもその手紙すら持っていない。
「……困ったなぁ」
「そう、そりゃ良かった」
 みなもが呟くのとほぼ同時に、頭の上から声がした。
 驚いて見上げると、でっぷりと太った虎縞のネコが木の枝に座ってにやにやと笑っている。
「で、何を困っているの?」
「あの、手紙を届けなければならないのに、その手紙を持っていないんです。どこへ届けるかも判らないし」
 みなもがそう言うと、ネコは金の眼をぐうっと大きく見開いてしっぽを振った。
「ところで、君の名前は?」
「あたしは海原みなもです」
 ネコは一つ頷いて、ぐるりとしっぽを回した。
「そう。じゃあ僕は何?」
「何って、ネコですよね?」
「そう。ネコだよ。で、どう?」
「どうって言われても……」
 ネコはネコだ。通学路やら友達の家やらでみなもがよく見るネコと何も変わりない。
 普通です、と返すと、ネコはますますにやにや笑った。そして納得したように一人で何度も頷いて、しっぽをぐるぐると回す。何度か回転した後、しっぽは不意に一方を指して止まった。
「女王のところへ行くんだね。それがいいよ」
 ネコのしっぽの先にはいつの間にか小さなアーチが現れており、森は途切れて垣根のある庭園が広がっていた。


 探すまでもなく女王には会うことができた。みなもが庭に入って行った時、女王は丁度家来を引き連れての散歩の最中で、こちらに気づくと兵隊に何事か命じた。すると槍を持ったトランプの兵隊がすぐにみなもを取り囲み、女王の前へと引っ張っていく。
 兵隊に囲まれて縮こまるみなもを一瞥し、女王はレースの扇子で顔を仰いだ。
「そなた、わたくしの庭に何の用です」
 威厳のある声にみなもは一瞬身をすくめたが、気を取り直してどうにか自分の状況を説明した。女王は終始気のない表情で聞いていたが、みなもが話し終わるとパチリと扇子を閉じて、高らかに宣言した。
「相判った! そなたには死刑を言い渡す!」
「……ど、どうしてですか?」
 一気に空気が不穏なものへと変わった。周囲の兵隊が一斉に槍を構え、警戒する態勢を取る。
 女王は眉を寄せ、扇子でみなもを指して言った。
「どうしても何も、そなたは重要な手紙を失くしたのでしょう。罪は重いに決まっています」
「いえ、重要かどうかも判らないし、そもそも最初から手紙を持っていないんですけど……」
「ならばなお悪い!」
 みなもが口答えをしたせいで、女王は目に見えて不機嫌になった。苛立ったようにブーツの踵を二、三度蹴り上げ、扇子を掌に打ち付ける。これ以上どう言ったらいいのか判らずに立ち尽くしているだけのみなもの姿が、さらに女王を苛立たせた。
「もうよい、処刑じゃ! この子の首を刎ねておしまい!」
 女王の命令と共に、忠実な兵隊たちが即座にみなもを取り囲む。みなもは慌てて身を翻そうとしたが、逃げようにももう、みなもの周りにはトランプの壁が出来上がっていて、槍を突き付けられ取り押さえられてしまった。
 そうしてみなもを捕まえてしまうと、兵隊たちは二列に整然と並んで道を開けた。
 その道を仮面の男がのっそりと歩いてくる。
 手には大きな斧――首切り役人だ。
 女王は目を細めて役人を見、冷たい口調で言った。
「頼むぞ。くれぐれもこの間のようなことはないようにしておくれ」
「なに、ご心配なく。今日はぴかぴかに研いでありますからね」
 ほれこの通り、と役人は斧を持ち上げ、鈍色に光る刃先をみなもの首筋に当てた。冷たい感触にみなもは思わず息を呑む。
 役人が少しずつ刃を滑らせると、薄い皮膚がぱくりと裂けて鮮やかな血が一筋流れ出た。
「……おや」
 それを見て、女王の眉がぴくりと動く。
 扇子の先を唇に当ててしばらく考え込んだ後、女王は今までの不機嫌さとは打って変わった笑顔を浮かべた。
「気が変わった。処刑は取り止めじゃ」
 驚いたように顔を上げた首切り役人を押しのけて、女王はみなもの前に立った。震えるみなもの頭から足先まで眺め回して、納得したように頷く。それから兵隊の一人を呼びつけてこう尋ねた。
「今、足りないのはいくつです?」
「はっ。『8』が四日前、『3』が十日前に首を刎ねられて欠員となっております」
「では、この子を『3』にしよう」
 みなもの髪を指先で撫でて女王はにいっと唇を釣り上げた。みなもには、それが牙を剥いたように見えた。


 人間の二、三人が寝てまだ余るほどの大きな木製の台が運ばれてきて、みなもは服を剥ぎ取られその上に寝かされた。
 羞恥心など湧き上がる余裕もなく、ただただ恐ろしい。心臓がおかしなリズムで脈打っている。
 これならば首切りのほうがまだいい。何をされるか判らない、理解できないと言うことほど怖いものはないのだ。出来ることならば眼を閉じて気を失ってしまいたかったが、恐怖が大きすぎるせいか、目蓋も体もまるで言うことを聞いてくれない。
 大人しくなったみなもに気を良くして、女王はみなもの頭の側に腰を下ろしてその髪を撫でている。それに飽きると、兵隊が持ってきた瓶とグラスを手にしてうっすらと微笑んだ。
 白い液体がワイングラスに注がれ、みなもの口元に押し付けられる。口の中に流し込まれたそれはインクのような匂いと埃っぽい味がした。
 顔をそむけようとしたみなもの顎を強引に掴んで口を開けさせ、無理矢理に全て飲ませてしまってから、女王は猫撫で声で言った。
「大丈夫、ただの染料ですよ」
 ――染料?
 不思議に思いながら自分の体に目をやると、その言葉の意味が判った。
 みなもの体は、喉元から次第に白く染まっていくところだった。文字通り、染料なのだ。
 肌の白さより何倍も純粋な、白紙のような白。
 みなもの爪先までがその色に染まってしまうと、今度はどこからか巨大な棒が運ばれてきた。一抱えほどもあるそれは台の足元の方にごろりと転がされる。
 何をされるのか薄々と判ってしまい、みなもは思わず女王を見上げた。女王はまた牙を剥く笑顔を浮かべると、すっと立ち上がって台から下りていく。
 それが合図だったかのように、兵隊たちが棒を転がし始めた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、それはみなもの足先に迫ってくる。みなもは動けなかった。
 まず、指先が下敷きになった。
「いや……ぁ!」
 圧迫感の後に鈍い痛みがあり、一瞬間をおいて激痛が襲った。
 体の端から硬いものに潰されていく――その感触と痛みは確かにあったのだが、棒が通り過ぎたみなもの足首から先はただ、クッキーの生地のように薄く平らに伸びただけだった。
 兵隊たちに躊躇はない。みなもの脛を平らにし、腿を平らにし、腕を平らにし。そうやって全身を薄く伸ばしていく。
 はじめのうちは痛みに声をあげていたみなもも、下半身が全て平らになってしまう頃にはもう感覚が麻痺して、痛みではなく熱さとしか感じなくなってしまった。
 兵隊たちはみなもの体を丁寧に伸ばし、薄く四角い形に整えた。
 それから、まさにクッキーの型にしか見えないトランプの兵隊の型で、みなもを型抜きした。
 四角く、薄く、申し訳程度に頭と手足のついたトランプになったみなもは、型抜きをして余った自分がどこかへ持ち去られていくのをぼんやり眺めていた。
 最後に、真っ赤なインクでハートの刻印を三つ付けられて、みなもは『3』になった。
「さて、散歩の続きじゃ」
 女王がスカートを摘み上げて歩き出す。兵隊たちは慌ててその後に続き、みなもも『2』と『4』の間で行進を始めた。


 それから、みなもは女王に仕えて過ごした。
 クロケー、ティーパーティ、ダンスパーティ。ドレスの仕立てにバラの世話、そして裁判に首切り。
 気まぐれな女王に振り回されて、ただ首を切られないようにと命令に従うだけの日々だ。
 そんなある日の、クロケーの最中のこと。
「やあ、久しぶりだね」
 ゲートの役目をしていたみなもに誰かが声をかけた。周りを見回してみるが誰もいない。
「上だよ。こっち」
 その声で、何とか首だけをひねって上を見上げると、木の枝に太った虎縞のネコが座って笑っていた。
 久しぶりだね、とネコはもう一度言い、みなもは曖昧に微笑んだ。どこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せなかった。
「何をしてるの?」
「ゲートになっているんです」
「そりゃあいいね」
 ネコは楽しげに一声鳴いて、ぐるりとしっぽを回した。
「――ところで、君の名前は?」
「あたしは――……」
 それには答えられなかった。
 自分の名前が思い出せなかったのだ。
 みなもが黙り込むと、ネコはますます楽しげに笑い、しっぽをぐるぐると回す。
「ああ、君はもう、だめだね」
 ただのトランプだ。
 両耳に届くほどに口の端を持ち上げて、ネコは甲高く笑った。いつまでも笑っていた。


 揺さぶられて眼を開けると、心配そうな老人の顔があった。
「ああ、良かった。大丈夫かい?」
「……?」
 状況が掴めず、みなもは慌てて体を起こして周りを見回す。
 石畳の歩道と、街路樹。いつもの通学路だ。
 老人の話によると、みなもは街路樹の根元で倒れていたらしい。救急車を呼ぼうかと尋ねる老人に、貧血だからよくあるのだとごまかして、みなもは立ち上がった。
 みなもが礼を言うと、老人はしっかりした様子に安心したのか、気をつけてと言うと去って行った。
 みなもはしばらく、その場にぼんやりと立ちつくしていた。
 何か、おかしな夢を見た気がする。理不尽で、不条理で、とても恐ろしい夢。雰囲気をかすかに覚えているだけで、内容は全く思い出せない。
 しばらく思い出そうと頭をひねった後、いい夢でないなら無理に思い出さなくてもいいと考え直して、それより早く帰ろうとみなもが歩き出した、その時。
 ――にゃあ。
 頭上で猫の声がした。
 見上げると、虎縞の太った猫が木の枝に座ってじっとこちらを見ていた。
 みなもが思わず何か言おうとした瞬間、猫は体躯に似合わない身軽さで枝から飛び降り、どこかへ走り去ってしまった。着地した一瞬、猫がにやりと笑ったように見えた。