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+ 終焉、そして始動 +
恋をしていた。
自分もまた何処にでもいる子供のように誰かに恋をしていた。
それが例えままごとの様な拙いものであっても俺は確かに『彼女』に恋をしていた。
今は土の中にいる懐かしい少女。
君は今もそこで眠っているか。
■■■■
タッタッタッタッタとコンクリートの上を駆け抜ける音だけがその場に在った。それは俺の足音だ。深夜という時間帯の為か他に人気はない。念の為にと人目を避けて裏路地に入れば浮浪者らしき男の姿が在った。一瞬気を張り懐に手を当てるがそれが唯の爺さんであることに気付くと舌打ちをしてからその場から去った。
今俺は何処に向かっているのだろう。
これから何処に行くべきなのだろう。
負傷した身体が傷む。
そんな状態で長時間走り続け体力が失われたせいか少し熱があるように感じる。ゆっくりと速度を落としながら無意識に掌を見遣ればじっとりと汗ばんでいた。
それを首に巻いている迷彩柄の布で拭き取ってから空を見る。月が在った。其処には不気味なほど細くまるで俺の滑稽な逃走劇を嗤っているかの様な月があった。
今俺は何処に向かっているのだろう。
これから何処に行くべきなのだろう。
内ポケットの中から取り出したのは一枚の紙。
それは『組織』から奪ったものだ。暗殺組織と一言で言えばまるで小説の中に出てくる薄っぺらいキーワードの様に感じるが、実際はそんな軽い物ではなく自身が属する――いや、属していた組織は国際的に暗躍し裏側の住人にはその存在を知らしめる程であった。理由は様々。けれど金を積んででも殺して欲しい相手というのは個人から組織と規模問わずに居るもので意外に需要と供給が成り立っている。
俺は其処の構成員『だった』。数時間前までは。
写真が貼り付けられた紙を広げる。
其処には懐かしい女の姿があった。
可愛らしくこちらに笑みを浮かべる少女。恐らく隠し撮りだと思われるその写真は胸の奥に位置する聖域を揺り動かす。
何処にでもいる『普通』の少女――そして俺も表向きだけとはいえ『普通』だった頃の淡い感情が酷く胸を締め付ける。
あれは中学三年生の六月。
恋人同士になった翌日に組織の人員移動の為引っ越し遠距離縁愛と呼べる形となってしまったけれど俺達は確かに恋をしていた。
彼女が自分の裏側の顔を知らずに過ごしてくれるなら距離を置く事も苦痛ではなかった。彼女が明るい世界で生きてくれるならそれで良かった。
彼女の存在があの頃の自分には支えだったと言っても良い程だ。
だけど運命は残酷だと、俺は知っていた。
自嘲する。
月よ、どうか嗤ってくれ。普段なら許せない其れすら今なら受け入れられるだろう。
どうして「俺が彼女を殺めなければいけなかった」のか。
その理由を思い出すだけでも胸は張り裂けそうな程傷み、痛む。傷のせいだけではないその痛覚が今は――正常の証の様に。
■■■■
逃亡劇より数時間前、俺は命じられるがままに書類整理をしていた。
その書類の発見は偶然だっただろう。誰も仕組んじゃいなかったはずだ――俺はそう信じている。だからこそその偶然は唐突過ぎた。
書類は暗殺任務達成後製作されたもので、其処に記されている文章、写真は俺に無慈悲なまでに情報を伝えてくれる。
写真の少女――「黒崎 麻吉良(くろさき まきら)」が自分と交際している相手であること。
彼女の父親は実は組織の元構成員であり、組織を脱走した裏切り者で在った事。
全てを知った上で組織は故意に俺に標的が何処の家の者か知らせず任務を与えた事。
ページの下部には赤文字で『成功』と――つまり、俺は……。
彼女を偶然殺めてしまった事は知っていた。
だがそれはあくまで任務としての不運だと思い日々過ごしてきたのに。
今更、何故。
どうして。
……。
…………。
其処から先の記憶はとても曖昧だ。
湧き上がった感情を示す言葉すら思い付かない。ただその時点ではまだ怒りよりも冷えたものだったとは思う。そして同時に決意もしていたかもしれない。無意識とは言え愛剣である「アルカード」を片手に歩いていたのだから。
靄付く心中のままレポートをぐしゃぐしゃに握り込み任務を設定したと記述されていた男の部屋へと行った。
俺達の上司であり組織のリーダーとも呼べる男だ。彼は目を開いていたと、思う。多分。驚いていたのかもしれない。俺の表情に驚愕した様な、そんな顔だった。自分がどんな顔を浮かべているかなんて分かりなどしないけど、醜く歪んでいた事だけは引き攣った筋から分っていた。
問うのは簡単だった。
魔剣「アルカード」の存在、レポート、俺の存在、感情、本気である事を示し脅す為の材料は幾らでもある。
男は冷静だった。リーダーに立つべき男だと言われるだけあると心の隅で思った。
自身が今手にいしている魔剣「アルカード」の性能を調べる為の演習が本来の目的だったのだと。それを手にした者がどういう反応を起こし、任務に支障をきたすのか、副作用は何か、他に特出した機能はあるのか調べたかったこと。そして裏切り者の排除も兼ねて、自分の「任務」の標的を黒崎家に『設定』したこと。
結果は「強い殺人衝動に駆られ恋人やその家族だと区別も出来ぬまま標的を暗殺」。
男は笑っていた。
俺には少なくともそう見えた。
語り終えた男の唇は「任務なのだから仕方ない」「君も分っているだろう」と動いたようにも見えた。
反対に俺は――決して笑ってなどいなかった。
自責の念。
怒り。
留まっていた想い全てが暴発し振り上げた剣は真っ直ぐ男の首を裂いた。暴露されていく真実を聞いている間中噛んだ唇は既に皮膚が切れ血の味がしていた。
その瞬間俺は『鬼』にでもなったのではないだろうか。
今まで多くの人命を殺めてきたと自分でも理解していたつもりだった。
けれどその時俺は初めて自分自身で意志で目の前の男を憎んだ、彼女を殺すように仕向けた組織のやり方を憎んだ、そして自身を恨んだ。
そして仲間が部屋に来た頃には俺はもう組織の人間では無くなっていた。
■■■■
夢。
いつもの夢だ。
真っ暗な空間に俺は一人で立っている。
自分の手先すら見えないその場所で唯立っているという感覚だけが在った。上も下も左右も前後も分らない無の空間。閉めきられた閉鎖空間のような世界。
分っている。
これは夢だ。夢なんだ。
自分の心が夢と言う形で彼女を忘れない為に生み出した唯一の――。
突然辺りが明るくなる。
不思議と目が痛むことは無い。ただ切り替えが行われただけだ。幾度と無く同じ夢を見た。彼女を殺めてしまったと気付いたその時から俺を苛む『夢』。
何度飛び起きただろう。何度寝汗を掻いてシーツを湿らせただろう。何度叫んだだろう。
彼女がいる。
記憶の中に宿る中学三年生の彼女ではなく、其れよりもほんの少しだけ大人に近付いた「黒崎 麻吉良」の姿だった。
彼女の瞳は俺を真っ直ぐ映し出す。
苦渋の表情を浮かべているのは俺か、それとも彼女か。
だって俺の手にはナイフが握られている。
あの日彼女を殺めてしまった凶器――魔剣に誘われるままに彼女を襲った狂気――人の血を浴びる事を望んだ狂喜。
先端が彼女の柔らかな首の肉に食い込み皮を裂く。骨にも到達していたかもしれない。苦しそうだ。今にも絶命しそうな表情を浮かばせながら脇に下ろしていた手が持ち上がる。
その手を掴んだ記憶もある。
あれは交際していた頃の記憶だろうか、それともこの時の記憶だろうか。
ただ手を掴んだと言う、それだけの記憶が俺の中には在って。
「痛い……痛いよ……」
俺よりも細く握ったら折れそうな程震えた手が伸びてくる。
俺はこの時手を握っただろうか。
分らない。
覚えていない。
何をしていたのか。
何をしでかしていたのか。
俺は動く。
筋書き通りに動く。
忘れていない。
覚えている。
この後俺が夢の中で何をするのか。
この後俺が彼女を殺めるのはいつも、いつも。
止めてくれ。
もう終わりにしてくれ。
これが現実なのか夢なのか境目が分らなくなる。
それでも夢に抗えぬまま俺は最期までナイフを引くのだ。
彼女が絶命すること、その瞬間を望んで。
■■■■
「あの、大丈夫ですか?」
気付けば朝になっており、目の前に女が一人居た。
年は二十歳くらい、髪の色は茶で服装はシャツにジャケットを羽織っただけの軽装。そいつは俺の顔を覗き込む様に少しだけ身体を折って俺を見下ろしていた。
雨の音がする。
だが俺の頭上は相手が差し出している傘によって遮られ冷たいそれは避けられていた。重い首を少し傾げ辺りを見遣る。俺が今座っている其の場所はショッピングモールの入り口。早朝のためか人気は極端に少ないが目立つ場所に座り込んでいる俺を好奇の目で見る人物の姿がちらほら見えた。
ずき、と痛みが走ったので胸元を見遣れば黒のコートに染みが広がっていた。組織から逃亡した時仲間に付けられた傷がまだ塞がり切っていないのだろう。
「あの、救急車呼びましょうか」
女がまたも声を掛けた。
俺は首を振る。
「放っておいてくれ」
「でもその染みって……、」
「俺は大罪人だ。帰る場所もないし、此処で静かに消えていくさ。救急車なんて呼ばれたくない」
拒絶の言葉を口にしながらまるで犬猫でも払うかのように手首を振った。
これで女は去るだろう。俺はこのまま絶命する事を望む。自分の犯した罪を抱えたまま生きるより彼女の元へと逝きたい。
幸いにも天気は雨だ。体温は奪ってくれるし水気を吸って衣服を重くし立ち上がる事も困難にさせてくれる。このまま目を伏せていれば傷の具合もあって簡単に死ねるだろう。
じくじくと胸が痛む。
追っ手は暗殺特化型霊鬼兵である俺の足にはついてこれない。
だから、このまま――。
「罪を犯したなら、その罪を生きて償ってください。住む所は私が提供しますから」
女は言った。
まるで犬猫を拾うかのように軽やかに。
力の入らない手足よりも先に瞳が反応し、相手の顔を見た。その顔は嘘を付いている人間のものではなく、瞳は澄んでいた。
唐突に『彼女』を思い出した。
麻吉良を思い出した。
夢の中で見た悲しく苦しげなあの表情ではなく、ただ純粋な恋心で俺と付き合い微笑んでくれていた幼い日の彼女を。
何故全く似ていない女に麻吉良が重なったのか分からない。
だがそれでも胸は痛む。
「……はは、貴方宗教関係の人?」
「ち、違います! あたしは貴方が困っているみたいだから親切心で言っただけでっ。あ、あとあたし実はあやかし荘っていういわゆるアパートの管理人をやってるんですけど、もし宿に困っているなら住居くらいは提供出来るかなって思っただけで」
「へぇ、じゃあ勧誘だ。実は住人が居なくて経営が大変とか」
「むしろ住人自体がやば……ごほん。じゃなくってですね!」
「だって普通は不審に思うでしょ。死に掛けてる男も、それに声を掛けてくる女も」
「無視出来なかったんで仕方ないじゃないですか。救急車も呼ばれたく無い程の罪なんてあたしには想像出来ないし」
「はは、御兄さんを甘く見てると後悔するよ? 実はこう見えて色々しててね。追っ手も掛かっちゃってる様な人間だからさ。拾ったら大変な目にあうかもしんない」
「色々って?」
「口じゃ言えない色んなこと、かな。……そんな人間でも住人にしたい?」
わざとからかう様に軽やかな口調で俺は問い掛ける。
へらっとしてたかもしれない。力が抜けてそう見えていただけかもしれない。だけど女を試すように俺は聞いてみた。
これでも割と真剣に、だ。
「……じゃあ、見捨てられないので拾ってあげます」
「じゃあ望まれるままに拾われてあげよう」
下らない言葉の交わし方。
それでも女は俺を拾うようだし、俺は拾われてみようかと思う。壁に背を当てながらゆっくりと立ち上がれば胸の傷が痛む。その奥も痛む。
何を目的として女が俺に声を掛けたのかなんて分からない。興味も無い。
ただ生きる事で何か変わるというならもう少しだけ。
「あたしは因幡 恵美(いなば めぐみ)と申します。貴方は?」
「俺は天音 彰人(あまね あきと)、彰人って呼んで」
今は土の中にいる懐かしい女よ。
君は今そこで眠っているか?
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【7390 / 黒崎・麻吉良 (くろさき・まきら) / 女 / 26歳 / 死人】
【7895 / 天音・彰人 (あまね・あきと) / 男 / 26歳 / 暗殺特化型霊鬼兵】
【NPCA033 / 因幡・恵美 (いなば・めぐみ) / 女 / 21歳 /あやかし荘の専業管理人】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、発注有難う御座います!
今回は一人称で彰人様の心中を書かせて頂きました。組織逃亡から恵美に出会うまで。そして悪夢。
発注文を読ませて頂き、会話よりも描写に力を入れる方を選択させて頂きましたがいかがでしょうか。少しでも気に入ったシーンがあることを祈りつつ。
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