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<東京怪談ノベル(シングル)>


蜜月


 こちこちと鳩時計の柔らかな音が響く。古いねじ式のそれは時々音を途切れさせたり、また慌てて間隔を狭めたりしながら、かろうじて正しい時間に追い付いている。
 その時計のゆるやかなリズムにスザクの明るい声が混じる。
「それでね、結局もう一度戻らなきゃいけなくなっちゃって……」
 柔らかなツインテールを揺らし、大げさな手ぶりで説明するスザクの話に頷きながら、蓮はティーポットに湯を注いだ。
 依頼の結果を報告がてらのティータイム。店内で堂々とこんなことが出来るのも、いつ来てみても客の影すらないこの店ならばこそだ。もう何度も訪ねて来ているはずだが、スザクが他の客を見かけたことは一度もない。
「……もう、ほんとに大変だったんだから」
 そうスザクが話を締めくくる頃には茶葉も十分に開いて、ダージリンの香りが部屋中を満たしていた。
「御苦労様。いつも悪いね」
 繊細な花柄のティーカップに紅茶を注いでスザクに勧めると、蓮は勿体ぶった仕草でテーブルの上のスタックトレイの蓋を取った。中には綺麗な焼き色のついたマドレーヌが詰まっている。
 これもお決まりで、依頼遂行のご褒美のようなものだった。だから、報告を聞き終わるまでは何が出てくるか見えないようにしておく。そんな遊びだ。
 美味しそう、と目を輝かせるスザクを蓮は微笑ましく眺め、
「沢山おあがりよ」
 そう促すとカップを口に運んだ。
「いただきまーす」
 スザクは嬉しそうに言うとマドレーヌを手に取って一口頬張り、それから紅茶を飲み、またマドレーヌを口にする。
「…………」
 蓮は首を傾げた。
 スザクは、その一連の動作を全て右手一つでやっているのだ。マドレーヌを置いてカップを持ち上げて、と言う動作がいちいち挟まる。
 なぜ両手を使わないかと言えば、左手がふさがっているからだった。
 スザクの左手には一本の傘が握られている。
 フリルで飾られた黒い傘だ。華奢でなシルエットからすると日傘のように見えるが、大きさは日傘にしては大きい。素材も良く装飾も丁寧で、一見しただけでなかなかのものと、蓮の好奇心が疼いた。
 じっと見つめる蓮の視線に気がついてスザクは顔を上げた。上目遣いで暗に質問を促され、蓮は傘を指差す。
「なかなかいい傘だと思ってね」
 ちょっと見せて、と蓮が言いかけるよりも早く、スザクは傘を庇うように引き寄せた。蓮に向けて怒ったようにぷうっと頬を膨らませる。
「だめ。これはあげないもん」
「……何もくれとは言ってないじゃないか」
 子供っぽくむくれてみせるスザクに苦笑しながら、蓮は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「いつも大事そうにしてるから、どうしてかと思っただけさ」
 思い返してみれば、スザクはいつもこの傘を手放さない。細い指をそっと傘の柄に絡める様子は、まるで恋人と手でも繋いでいるようだ。
 スザクは目を細め、愛おしそうに傘を見た。
「だって大事なものだもの。この傘はね、紫外線や、雨や、銃弾からスザクを護ってくれるの。大切な人が作ってくれた、とっても大切な傘なの」
 そう言って傘を腕に抱きしめ、うっとりした顔で頬を寄せる。
「……随分と多機能だねぇ」
 くすくす笑いながら蓮は煙草盆を引き寄せ、煙管を咥えた。
 どこまで本気で言っているのか判らないが、表情を見ていればスザクがこの傘をどれほど大切に思っているかはすぐに知れる。もちろん傘の方もスザクと同じように――いや、それ以上にスザクのことを想っているのだろう。
 「人」と、人のために作られた「物」の、まさに理想的な関係だ。
 良いことだ、と微笑む蓮の背後で、さわさわと囁くような気配が動いた。
 ――おや……。
 気配は少しずつ密度を増して、店中に広がっていく。
 どうやらスザクと傘の睦まじい様子に、商品たちが昔を思い出して騒ぎ出したようだ。
 里心が付いてしまうかねえ、と蓮が軽いため息をつくと、スザクがそれを見咎めて不思議そうに首を傾げた。
「なあに? どうかした?」
 そう尋ねた後で、店内の空気の変化に気付き、スザクはそのまま周りを見回す。スザクが視線を向けた場所では一層ざわめきが高まった。皆、自分の昔の持ち主をスザクに重ねているのだ。
「……何だか、気配がするけど」
 スザクは少し不安げに蓮を見上げた。
 普通の物を扱う店でないのは知っているが、今まで何度も訪れた中でこんなことは初めてだ。随分と危ない物が売られていることもあると言うし、さすがに不安になる。
 蓮は煙管を揺らし、笑って言った。
「何、心配ないよ。こいつら、あんたたちが――その傘が羨ましいのさ」
「羨ましい、って?」
「あんたがその傘を大切にしてるからさね」
 その言葉に賛同するようにざわめきがスザクを取り巻く。蓮がそれを追い払うように軽く手を振ると、店内は少しだけ静かになった。
「……アンティーク、なんて言ったら聞こえはいいけどね」
 ふう、と、ため息ともつかない調子で蓮は煙を吐き出す。
「うちにあるのは結局、持ち主に手放されるか、持ち主がいなくなるかした物ばかりだからね。その傘みたいに大事にされてる物を見ると、自分の昔を思い出すんだろうよ」
「…………」
 スザクはゆっくりと首をめぐらせ、店内を見た。
 綺麗な陶器の人形が乗ったオルゴールは、昔はその音色で持ち主を楽しませていたのだろう。
 少しくすんだクリスタルグラスには瑞々しいワインが注がれて、あの銀のカトラリーは特別なお客様のために。
 銀細工のブローチは少し端が壊れているけれど、そうなる前は――もしかしたらそうなった後も、誰かの胸元で誇らしく輝いたに違いない。
 少ししんみりした気持ちになって、スザクは俯いた。
「可哀想に思うかい?」
「……うん。ちょっと、気が利かなかったかなって」
「気にすることはないさ」
 軽く笑い飛ばして、蓮も店内を見回す。その視線に追い立てられるようにざわめきが逃げ回った。
 人のために作られた「物」にとっては、その持ち主が世界のすべて。
 ずっと愛してくれる相手に出会えればいいが、そんな幸福を味わえるのはほんの一握りで、ほとんどは気まぐれで飽きっぽい持ち主に振り回されて終わる。
 それでも「物」たちは、持ち主のことを想う。
 オルゴールがオルゴールとして存在するためには、グラスがグラスであるためには、それに命を吹き込む「人」の存在が不可欠だからだ。
 誰にも使われない、所有されない物の時間は、いつまでも止まっている。
「大好きな人に忘れられて戸棚にしまい込まれたり、飽きて売られたり、それから持ち主が死んでしまったりするのは、もちろん物にとっては悲しい事さ。でも、物の寿命は人間よりずっとずっと長いからね」
 百年、千年、一万年を経てなおこの世に存在する「物」は数多い。この店の品物も、ほとんどが蓮よりもよほど長い時間を過ごして来ている。
「だから、たまには休むことだって必要なんだよ」
 蓮が静かな声でそう言った時には、ざわめきはすっかり収まっていた。
 商品たちは何事もなかったかのように澄ました顔で黙り込んで、店内に漂うダージリンの香りと蓮の煙草の煙の中でまどろみ始めている。
 もう一度ぐるりと店内を眺め回した後、スザクは無意識に傘を腕に抱く。
 その様子を見て、蓮はどこか嬉しそうに微笑む。
「だから、あんたの傘は幸せだよ。大事にしておやり」
 とん、と煙草盆で灰を落とす音で、ぼんやりしていたスザクははっと蓮に視線を戻す。それから、今度は意志を持って傘を抱きしめた。
「もちろんよ。すっごく大好きなんだから」
 傘の柄を愛おしそうに撫でながら、スザクはにっこりと笑う。
 肌身離さず、いつも持ち歩いている大切な傘。この傘との思い出は沢山あるし、もちろんこれからだって増えていく。
 もしもいつか、この傘が骨董屋の片隅に並ぶ日が来ても、きっとスザクの夢を見ながら眠ってくれるだろう。
「……そうかい」
 それでいいとでも言いたげに満足した顔で蓮は頷き、スザクのカップに紅茶を継ぎ足した。