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<東京怪談ノベル(シングル)>


In a warehouse - 1



 暗い廊下を、男が歩いている。
 歳は四十前後。背が高い。服装は、真っ黒なダークスーツに、着崩した白のシャツ。しかたなくといった具合に巻きつけられたネクタイは、ひどくゆるんでいる。
 その歩きかたも、見るからにやる気がなさそうだ。こんな面倒なことは俺の仕事じゃないとでも言いたげな空気をまとわせながら、彼は廊下沿いに並んだ部屋のひとつひとつをチェックしていく。
 巡回警備が彼の仕事なのだ。デスクワークよりはマシといった程度の、いかにも趣味の合わない作業。とっとと片付けてビールでも飲もうというのが、いま彼の頭の中にある唯一の考えごとだった。
「おまえが鬼鮫?」
 突然だった。背後から呼びかけられて、彼は足を止めた。
 倉庫のチェックをしようと足を踏み入れたところである。倉庫とはいえ、いまは何も置かれてはいない。文字通りの空き倉庫だ。乗用車二台を入れれば一杯になってしまうような空間に、満たされているのは冷たい空気だけだった。その空気の中に、女がひとり立っている。
「なんだ、おまえは」
 呼びかけられた男は、いぶかしげに問いかえした。先刻までのダルそうな表情は、一瞬で消え失せていた。そこにあるのは、うすく研ぎすまされた刃物を思わせる瞳。一見しただけで堅気ではないと知れるほど、異様な目つきだった。ぎらぎらした衝動の中に、冷酷な計算高さをそなえたような、野生獣に似た目。人を殺したことのある人間だけが持つことのできるたぐいの目だ。
「……どうやら、答えを聞くまでもなかったわね。私は瑞穂。おまえを鬼鮫と断定して逮捕する。おとなしくしなさい」
 男の目つきに気圧されることもなく、なんでもないような口調で彼女は言い放った。
 一瞬、鬼鮫はあっけにとられたように口をあけた。そして、失笑した。
「逮捕だと? おまえが? 寝言は寝てから言え」
 彼が言うのも、無理はなかった。どう見ても、目の前の女のいでたちは自分を逮捕しにくるような組織のものとは思えなかったのだ。彼ならずとも、瑞穂の言葉を真に受ける者はなかったに違いない。
 まず目を引くのは、彼女の身につけられた真っ白なエプロンである。胸から腰までを覆う生地は肩まで伸びて背中に回りこみ、おおきなリボンで結びとめられている。全体にあしらわれたフリルは、少女趣味をそのまま形にしたような雰囲気だ。
 エプロンの下には、黒いワンピースドレス。袖は肘の上までで、ゆったりしたパフスリーブになっている。スカートの裾も膝の上までだ。おおきくフレアしたスカートの下にはシースルーのペティコートが覗いている。
 胸元には、目にも鮮やかな深紅のリボンタイ。頭には、フリル付きのカチューシャ。
 全体として、いかにも少女らしいデザインのメイドコスチュームだった。
 無論、着ているのは少女ではない。今年で二十歳になる瑞穂は確かに実年齢よりは若く見える顔立ちをしているものの、少女と呼ぶにはいささか無理がある。なにより、エプロンをつきあげるように張り出した胸が、少女とは呼べない豊満なスタイルを作り上げているのだった。
 ゆたかなその胸から腰をとおって足まで流れるボディラインの完璧さも、トップモデルにさえ引けをとらないほどである。惜しむらくはエプロンドレスの上からではそのラインをはっきり読み取ることができないという事実だったが、それを差し引いてもなお彼女の体型が理想的なものであることは容易にうかがいしれるほどであった。
 すらりと伸びた足もまた、ボディラインに劣らないほどなまめかしい曲線を見せている。スカートの裾から伸びる太ももは雪のようにきらめいて、ガーターベルトで吊り下げられたニーソックスとの間に魅惑的な白の領域を作り出している。その足元に履いている編み上げのブーツだけが、メイドとしてはやや整合感に欠けるところだった。
「寝言ねぇ……。つまり、おまえには私が完璧なメイドに見えていたというわけね。私の演技力も、まだ捨てたものじゃないってことかしら」
 嫣然と微笑んで、瑞穂はさらりと髪をなでつけた。腰のあたりまで伸びた髪が蛍光灯の明かりに映えて、淡い栗色から焦茶色のグラデーションを浮き上がらせる。その表面を流れるシルクのような輝きは、特殊な光学処理か魔法の産物のようでさえあった。
「なんだかよくわからねぇが、つまりおまえは俺をつかまえに来たわけか?」
 小馬鹿にするような口調で、鬼鮫が問いかけた。
「そう言ったでしょうに。人の話はちゃんと聞いたほうがいいんじゃない?」
「そういや、聞いたような気もするな。あまりに馬鹿げてるんで、忘れちまったぜ」
「たしかに、言うとおりね。おまえみたいなザコひとりをつかまえるためにわざわざこんな格好して、こんな所にまで来るなんて、我ながら馬鹿げてると思うわ」
「オマケに任務に失敗するんじゃ、馬鹿らしいにもほどがあるよな」
 にやりとした笑みを浮かべながら、鬼鮫は言った。笑っているのは、しかし口元だけだ。目はまったく笑っていない。
「残念ながら、いままで一度も任務に失敗したことがないのよ、私」
 そう言って、瑞穂も同じような微笑を作ってみせた。
「じゃあ今回が初めての失敗ってことになるわけだ。……もっとも、どうせ死んじまうから最初で最後の失敗ってとこだな」
「寝言は死んでから言ったほうがいいわよ」
 瑞穂は、エプロンのポケットからグローブを取り出した。革製の、指抜きグローブだ。手慣れたしぐさで、それを両手にはめていく。
「おまえ、まさか素手で俺とやりあう気じゃねぇだろうな?」
「そのつもりだけれど。それがどうかした?」
「まぁ、弱いものいじめをするのは大好きだから、べつにかまわねぇけどよ」
「奇遇ね。私も同じなのよ」
 言うのと同時に、瑞穂の左腕が動いた。否、動いたというより消えたというほうが正確だった。
 ビシッという鋭い音が鳴り響いて、鬼鮫の顔がゆがんだ。瑞穂の左ジャブが、その顔面をとらえたのだった。おそろしく素早い一撃だった。人間の動体視力に追えるレベルを軽々と超越している。
「どう? いまの見えた?」
 あざけるように、瑞穂が質問した。
 鬼鮫は鼻から流れてきた血を手の甲でぬぐいながら、ゆっくり答えた。
「……見えなかったぜ、畜生。……だけどな。そんなもの見えても見えなくても同じコトなんだよ」
「あらあら。つよがっちゃって。これが見えなかったら話にならないわよ」
 もういちど、瑞穂の左腕が消えた。
 パンッ、という音。今度は鬼鮫の顔が横にはじけた。瑞穂が平手で打ったのだ。流れていた鼻血がコンクリートむきだしの床に落ちて、花びらのような赤い模様を描き上げた。
「てめぇ……」
 ギリッ、と鬼鮫の歯が軋んだ。刃物のような鈍い光を宿していた目が、たちまち炎のような怒りの色に変わっていった。
 それを、瑞穂は冷静に見つめていた。鬼鮫の視線が炎なら、彼女の視線は氷だった。
 張りつめるような静寂が落ちて、ふたりは真っ向から睨みあった。そうして、彼らの戦いが始まった。