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<東京怪談ノベル(シングル)>


In a warehouse - 2



「さぁて、と。私の速さについてこれるかしらね」
 冷笑を浮かべながら、瑞穂はスッと身構えた。左半身を前にした、オーソドックスなボクシングスタイル。左右どちらの拳も、顎の高さでそろっている。
「けっ。かかってきやがれ。どうせ、俺には効かねぇんだよ」
 鬼鮫は構えをとらなかった。ただ、鬱陶しそうにネクタイをゆるめて襟元をあけただけだった。
「それじゃ、いくわよ」
 リズムよくステップを踏みながら、瑞穂は左へ回りこんだ。ボクシング流のステップワーク。回りこみざま、ジャブを二発。先刻同様の、見えないジャブだ。どちらも鬼鮫の頬に命中した。
「言っただろ。きかねぇんだよ、そんなもん」
 蚊に刺されたとでもいうような顔で、鬼鮫は右フックを返した。
 ごうっ、と圧縮された空気がうなりをあげる。その体躯から繰り出されるパンチは強力無比だ。体重差のせいもあって、瑞穂がくらえばタダではすまない。しかし、どんなに強力な攻撃でも、当たらなければ意味はなかった。
 鬼鮫の攻撃範囲をあっさり読み切って、瑞穂はヒョイとスウェーバックした。瞠目すべき動体視力である。鬼鮫の右腕が空を切り、カウンターで瑞穂の右ストレートが炸裂した。リーチの差をものともしないカウンター攻撃。鼻血を噴いてのけぞった鬼鮫の顔に、つづけて左ストレートが命中した。完璧なワンツーだった。教本に載せても良いぐらいの理想的なフォーム。
「ちっ……!」
 鬼鮫は後ろによろけながら距離を離したが、瑞穂は素早くその距離を詰め寄った。パンチ以上に完璧なフットワークだ。流れるようなその足さばきから、バネ仕掛けさながらの瞬発力で右足が跳ね上がった。
 ヒュォッ、と刃物で空気を切り裂くような音。ペティコートと一緒にスカートの裾がひるがえり、半月状の弧を描いて瑞穂の右足が鬼鮫の頭に叩き込まれた。あざやかと言うほかない、絵に描いたような上段回し蹴り。それも、ただの蹴りではなかった。硬い革ブーツの爪先で蹴っている。頭蓋骨陥没で即死してもおかしくはない一撃だった。
 が、鬼鮫の耐久力は尋常ではなかった。彼は一歩横によろけただけで、たおれる様子など微塵も見せなかった。それどころか、右の拳を打ち返してきたほどだった。
 瑞穂は蹴り足を前に出して踏み込みながら、ぎりぎりでその反撃をやりすごした。踏み込んだその右足に重心を移しつつ、上体を低くして、すべるように相手のふところへ潜り込む。まるでスケートリンクをすべっているような動きだった。その動作の勢いのまま、瑞穂の肘が鬼鮫の鳩尾に打ち込まれた。中国拳法の技だった。
 肘がめりこんで鬼鮫の体が前かがみになった瞬間、瑞穂は右腕をつかんでひねりあげた。肘関節をきめたのだ。まさに、流れるような連続攻撃。そのまま、瑞穂の投げ技がきれいに入った。柔道でいう、一本背負い。鬼鮫の巨体が、ぐるりと空中で半回転した。
 重い音をたてて、鬼鮫は背中から床にたたきつけられた。畳の床ではない。コンクリートの床である。全身の骨が折れても不思議はないダメージだった。
「痛ぇ……」
 仰向けになったまま、鬼鮫は動かなかった。口の端から血が流れている。
 それを見下ろしながら、瑞穂は優雅なしぐさでエプロンの裾をととのえた。乱れた髪を手櫛でとかし、胸元のリボンを結びなおす。そして、ゆっくりと口をひらいた。
「ちょっと弱すぎるんじゃない? ザコはザコらしく、すなおに逮捕されておいたほうがいいわよ、ホントに。それとも、女に負けるのは恥ずかしいとか?」
 あははっ、と瑞穂は笑った。無邪気とさえ見えるような笑いかただった。
 彼女は、完全に相手を侮っていた。無理もなかった。事実、彼女の速度に鬼鮫はまったくついていけなかった。戦闘が始まってからというもの、彼は瑞穂に触れることさえできていない。勝負どころか、ゲームにさえなっていなかった。
 鬼鮫は何も答えなかった。答えるかわりに、ゆっくり体を起こして血を吐き捨てた。瑞穂に向かって。
 かるく横に動いて、瑞穂はそれを避けた。そんなものを食らうような彼女ではなかった。動体視力が並み外れているのだ。
「降伏する気はないみたいね。それじゃ、おとなしくさせてから逮捕することにするわ」
 やれやれといった具合に、瑞穂は溜め息をついた。
 鬼鮫は口をきかなかった。片膝をついたままの姿勢で、じっと瑞穂を睨みつけていた。そうして、ゆっくり息を吸い込んだ。次の瞬間。鬼鮫の喉から裂帛の雄叫びが轟いた。
「ぐおおおおおッ!」
 猛獣のような叫び声だった。空気が震えて、床や壁がビリビリと音をたてた。人間に出せるような音量ではなかった。
 おもわず、瑞穂は耳をおさえた。そこへ、相撲の立ち合いのような勢いで鬼鮫がつっこんできた。
 瑞穂は油断しきっていた。しかしそれでも、鼓膜への攻撃がなければ回避できていただろう。鬼鮫の反撃は用意周到だった。彼は決して頭の悪い男ではなかったのだ。
 鬼鮫のぶちかましを真正面から浴びて、瑞穂は後方へ吹っ飛んだ。背中から壁にぶちあたり、はねかえった勢いで床に四つん這いになる。「ごぶっ」という音をたてて、彼女は血を吐き出した。ビタビタと、コンクリート床をたたく液体の音。背中が波打って、エプロンのリボンがぶるぶる震えた。
 寸分の容赦もなく、鬼鮫の蹴りが飛んだ。瑞穂の頭部を狙った蹴りだ。食らえば確実に終わってしまう打撃。瑞穂は、横にころがってこれを回避した。ころがった勢いを利用して、そのまま立ち上がった。
 そこへ、鬼鮫がさらに踏み込んできた。力まかせの前蹴り。それをどうにかさばいて、瑞穂はボディブローを返した。命中した。が、まるで効いてはいなかった。
 鬼鮫はさらに間合いをつめて、膝蹴りを放った。どうにか横へステップして、瑞穂はそれも避けた。そこへ、鬼鮫の裏拳が飛んできた。これはかわしきれなかった。
「つぅッ!」
 たいしたダメージではなかったが、一瞬瑞穂の足がよろけた。
 間髪いれず、鬼鮫の右拳がうなりをあげた。渾身の右ストレート。瑞穂は身をかがめてそれをかわした。かわしながら、体を半回転させてスピニングキックを繰り出していった。どぼっという音がして、鬼鮫の脇腹に突き刺さった。ふつうなら、ダウンを奪える攻撃だ。が、あいにく、鬼鮫は普通の人間ではなかった。
 蹴りのダメージなどまったく感じなかったかのように、鬼鮫は前に出た。そして、体勢の崩れた瑞穂にミドルキックを叩き込んでいった。避けることはできなかった。
 ドスン、という音がした。クルマにでも撥ねられたような勢いで瑞穂は横に吹っ飛び、ふたたび壁に激突した。
 跳ね返ったところへ、強烈なボディブローが待っていた。ぐぼっ、という耳障りな音。打撃の音なのか、瑞穂の発した声なのか、区別できないような音だった。瑞穂は上半身を折り曲げて血と唾液を吐き散らし、腹をおさえながら崩れ落ちた。ほんの十秒前の彼女からは想像もできない醜態だった。
「おぐっ、うっ」
 絞りだすようなうめき声を漏らしながら、瑞穂はコンクリートの床で身悶えした。乱れたスカートの裾から伸びる足が、こまかく痙攣している。いつのまにかガーターベルトのクリップは外れて、生白い足が蛍光灯の明かりに照らし出されていた。