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<東京怪談ノベル(シングル)>


In a warehouse - 3



「なんだよ、おい。もう終わりか? ああ?」
 あざけるように言って、鬼鮫は哄笑した。倉庫全体に響きわたる、甲高い笑い声。四方をコンクリートに囲まれた室内で、その声はエコーをともなってこだました。
「く……」
 瑞穂は床に倒れたまま、苦痛と屈辱に顔をゆがめていた。吐き出される呼気が白く見えるほど、室内は寒い。にもかかわらず、彼女は大粒の汗を顔に浮かべているのだった。
 背中を丸めながら、瑞穂は肘を床について立ち上がろうとした。しかし、その肘は痙攣するように震えてどうにも力が入らない。両肘を床に突き立てながら、それでも瑞穂はどうにか立ち上がろうとしていた。
「立てないなら終わりにしようか。こいつをよけなかったら死ぬぜ」
 言い放つや否や、鬼鮫は右足を振り上げた。その爪先が、彼の頭より高いところまで届いている。黒い革靴が、凶器のようなエナメル質の光沢を放った。その高さから、鬼鮫は一気に足を踏みおろした。とどめの一撃。瑞穂の頭蓋骨を踏み砕くだけの威力を秘めた攻撃だった。
「くぁっ!」
 とっさに横へ転がって、瑞穂はそれをかわした。一瞬遅れて、コンクリートを踏み砕くバゴッという音。鬼鮫が足を上げると、踏み抜かれた部分のコンクリートはヒビ割れて陥没していた。おそるべき威力だった。
 瑞穂は血の気の失せたような顔でそれを見つめながら、壁に手をついてゆっくり立ち上がった。先刻のダメージで、手足が震えている。しかし、戦いをつづけるための気力も体力も、彼女にはまだ残されていた。これぐらいでは終わらない。
「なんでぇ。動けるんじゃねぇか。俺を逮捕するんだろ? がんばれよ、ほら」
 ニヤつきながら、鬼鮫は声をかけた。あきらかに、この戦いをたのしんでいる口調である。弱いものいじめが好きだと言ったのは、ジョークでもハッタリでもなかったのだ。もっとも、たいていの相手は彼にとって「弱いもの」になってしまうのだが。
「ふざけないでよね……。いまのはちょっと油断しただけよ」
 口元の血をぬぐいながら、瑞穂は言った。彼女は、まだ諦めてはいなかった。さっきのは油断しただけだ。そう思おうとしていた。油断しなければ負けはしない──と。
 鬼鮫は、へらへら笑って肩をすくめた。いかにも相手を馬鹿にしたようなしぐさ。
「よしよし。勝てると思うならかかってこいよ、お嬢さん。どうせ何をやったって……」
「はああああああッ!」
 鬼鮫の言葉を、瑞穂の雄叫びが掻き消した。
 同時に、彼女は床を蹴って走りだしていた。撃ちだされた弾丸のような速度。ダメージを受けているとはいえ、その脚力はまだまだ常人の遥か上にあるものだった。
 瑞穂の動きは、ほとんど目に見えなかった。見えたのは、彼女の残した残影だけだった。ライトブラウンの髪が流星のように尾を引いて、エプロンドレスの白さが鬼鮫の網膜に焼きついた。
 走りこんだ勢いそのままに、瑞穂は跳躍した。すさまじい跳躍力だった。猫科の獣を思わせるほどの強靭なバネ。床を離れた彼女の体はミサイルのように空中を走り抜け、真一文字の軌跡を描いて鬼鮫へと向かった。
 ぼぐっ、という音が響いた。瑞穂の足が鬼鮫の胸板をとらえたのだった。全体重を乗せた飛び蹴りだった。体重だけで言えば、それほどのダメージにはならない。しかし、速度がそれを補っていた。物体の運動エネルギーは、質量に速度の二乗をかけた値に比例する。重要なのは速度だった。
 鬼鮫の肋骨が、数本まとめて折れた。彼はたたらを踏んで後ろにさがり、胸をおさえて血を吐いた。目にも鮮やかなその鮮紅色は、肺からの出血を示すものだった。
 着地した瑞穂は、勢いを殺さぬまま更に攻撃に出た。バットを振りまわすような、強烈きわまるミドルキック。バギッという音とともに鬼鮫の脇腹にめりこみ、ふたたび肋骨が折れた。瑞穂はそこから更にボディブローへつなぎ、鬼鮫の顎が落ちたところに渾身のアッパーを叩き込んだ。いずれも、完璧と言って良い打撃だった。
 ──が。どんな攻撃も鬼鮫の前には無力に過ぎなかった。トロールの遺伝子によって超常的な再生能力を持つ彼に、打撃技などほとんど意味を持たない。すべては徒労だった。
 勝利を確信したアッパーカットのフォロースルーをつかみとられて、瑞穂はようやくその事実に気付いたのだった。そして、それが手遅れだったことにも同時に気付いた。
「いまのはちょっと痛かったぜ」
 鬼鮫は万力のような握力で瑞穂の右手首をにぎりしめた。骨が砕けそうなほどの力。ふりほどけるものではなかった。そのまま、鬼鮫は瑞穂の体を引きずりよせた。
「はなしなさいっ!」
 瑞穂の左肘が鬼鮫の顔面を打ち抜いた。が、やはり何の効果もなかった。鼻や口から血を流しながら、鬼鮫は薄気味悪い笑顔を浮かべていた。
 瑞穂は、もういちど肘をぶちこんだ。ビキッ、と頬骨の割れるような音がした。それでも、鬼鮫は笑ったままだった。その直後、痛烈な膝蹴りが瑞穂の腹部をとらえた。岩の塊が激突したような衝撃。
「げごっ!」というカエルのような声が彼女の口から漏れた。漏れたのは声だけではなかった。赤と茶色の血液と胃液の混じったものが吐き出されて、ビシャッと床の上に広がった。
 腹をおさえて離れようとした瑞穂だったが、そうは出来なかった。まだ鬼鮫が手を離していなかったのだ。あとずさろうとする瑞穂の右腕を、鬼鮫はもういちど引っ張り寄せた。
 瑞穂は何もできなかった。鬼鮫の膝がもう一発たたきこまれて、彼女の体は十センチ近くも宙に浮いた。「ぶごっ!」という、今度はブタのような声。いったいどこから出てくるのかというような声だった。
「いい声で鳴くじゃねぇか」
 鬼鮫はようやく手を離すと、瑞穂の背後に回りこんでスカートの裾をつかんだ。そして、おもいきり引っ張った。ビリッという音がしたものの、生地が完全に裂けてしまうことはなかった。瑞穂は足をもつれさせながら後ろへ倒れかかり、青ざめた顔を空にのけぞらせた。
「おらっ!」
 スカートをつかまれて下着が丸見えになった瑞穂の臀部に、鬼鮫の膝が突き刺さった。べシャッという、肉を叩きつぶすような音が空気を震わせた。あまりの激痛に悲鳴さえあげることができず、瑞穂はつんのめるようにして床に倒れた。ぶるぶると震えてうずくまるその姿は、鬼鮫の嗜虐心を満たすのに十分なものだった。