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In a warehouse - 4
「……で? もう終わりか?」
うずくまったままの瑞穂を見下ろしながら、鬼鮫は言い放った。その冷酷な視線は、瑞穂の尻や太腿あたりに注がれている。しかし、好色な目ではない。それは、ただ残虐性をにじませるだけの破壊衝動に満たされた目だった。冷然とした、しかし煮えたぎるような狂気に支配された目つき。
「は……う……」
亀のように丸くなり、無様に尻をつきだした姿勢のまま、瑞穂は動かなかった。動こうにも動けないのだ。臀部に受けた膝蹴りのせいで、両足が完全に麻痺している。腫れ上がった尻の肉は焼けつくような痛みを発して、それ以外の感覚をシャットアウトしていた。尻全体に熱湯をぶちまけられたような激痛。その痛みをこらえる以外、彼女には何もできなかった。
「黙ってねぇで、なんとか言えよ、おい」
鬼鮫の足が、容赦なく瑞穂の尻を蹴り上げた。
たいした蹴りではなかった。かるい蹴りだ。鬼鮫の力から見れば、三割程度の威力の蹴り。それでも、瑞穂は絶叫を上げて床に転がった。女とは思えないような叫び声。──否、人間とは思えないような叫び声だった。
「おいおい。俺はそんなに強く蹴っちゃいないぜ? 敏感なんだな、お嬢さん」
ひはははっ、と下卑た笑い声を張り上げて、鬼鮫は愉快げに手をたたいた。
瑞穂は両腕で床を這いながら、すこしでも距離をとろうとした。コンクリートむきだしの床である。たちまち瑞穂の肘はすりむけて、血がにじみだした。いまの彼女にとって、その程度の痛みは感じ取ることさえできなかった。臀部以外の感覚が、ほとんど失われているのだ。
「どこへ逃げようってんだ? この倉庫から出たって、外は警備員でいっぱいだぜ? 逃げられると思ってんのか?」
鬼鮫の言うとおりだった。この屋敷は、彼のホームグラウンドである。瑞穂の味方は一人もいない。逃げる場所もない。いまは鬼鮫が応援を呼んだりしないぶんだけ、まだマシなのであった。
しかし、瑞穂は逃げようとしているわけではなかった。鬼鮫の言ったことなど最初から承知している。彼女は逃げるつもりでなく、戦うつもりだった。
じりじりとドアの前まで這って行き、瑞穂は手をのばしてドアノブをつかんだ。そして、懸垂でもするような格好で体を引き起こしていった。体をこすりつけるようにしながら立ち上がってゆくその姿は、あたかもドアに向かって信仰の儀礼を捧げているようでさえあった。
たっぷり二十秒ちかくも時間をかけて立ち上がると、瑞穂はドアにもたれかかって荒い息を吐いた。膝はガクガク震え、顔は血の気を失って青ざめている。カギ裂きだらけになったエプロンはあちこち血まみれで、数分前までの瑞穂の姿からは想像もつかないほど凄惨なありさまを呈していた。
「立ったってことは、まだやる気があるわけだな?」
舌なめずりしそうな声で、鬼鮫は問いかけた。実際、彼は舌を出して唇を舐めた。獲物を前にした蛇のようなしぐさだった。
瑞穂はドアに背中をあずけたまま、無言で身構えた。構えたといっても、両腕をあげて顔面をガードするぐらいのことしかできなかったが。それでも、なにもしないよりはマシだった。
「それじゃあ、もうすこし遊んでやるよ」
言うのと同時に、鬼鮫は襲いかかった。
なんの小細工もなしに、彼は蹴っていった。障害物を蹴り倒すような、ヤクザ風の前蹴り。ただし、体重の乗った重い蹴りだった。ドアごと踏み破るような蹴りである。
すこし横に動けばラクに避けられる攻撃だったが、あいにく瑞穂の足は満足に動かなかった。満足どころか、引きずることさえできないほどなのだ。瑞穂はその場に踏みとどまり、合気道の要領でその蹴りを受け流そうとした。
まったく不可能だった。どんな技も、下半身が動かないのでは活用できない。彼女にできたのは、蹴りの軌道をすこしずらすことだけだった。
ドボッと音をたてて革靴の底が瑞穂の脇腹にめりこみ、彼女はふたたび血と悲鳴を吐き散らした。あっというまに、彼女の足元は赤く染め上げられた。
「立たなけりゃ、もっと早くラクになれたのにな」
嘲笑いながらも、鬼鮫の攻撃は休むことがなかった。前蹴りからの、流れるような膝蹴り。そして、顔面へのストレート。どちらもきれいにヒットした。かけらも容赦のない攻撃だった。
それでも、瑞穂は倒れなかった。もとより足は麻痺していたが、ドアによりかかって体重をささえることでどうにか立っていることができたのだ。体力もさることながら、おどろくべき精神力だった。
しかし、それもつかのまのことだった。鬼鮫の左手が瑞穂の首をつかんで絞め上げると、たちまち限界が訪れた。抗いようのない攻撃だった。瑞穂は両手で鬼鮫の腕をひきはがそうとしたが、腕力の差は明らかだった。鬼鮫が左腕に力をこめるや、瑞穂の足は宙に浮いた。
「げくっ」と息の詰まるような音を、瑞穂は発した。実際、息が詰まったのだ。いまや彼女の体重は、ドアでも床でもなく、鬼鮫の左腕一本によってささえられていた。そして、彼女の全体重が彼女自身の首にかかっているのだった。
瑞穂の顔が鬱血して赤くなり、数秒後には真っ青になった。ひらきっぱなしの口からは唾液がこぼれおちて、目尻からは涙が流れた。瑞穂は死に物狂いで鬼鮫の腕に爪を立てたが、なんの効果もないことは言うまでもなかった。
気管と頚動脈を絞められて、彼女の脳は酸欠状態に陥った。それでも彼女は諦めず鬼鮫の腕をどうにかしようとしていたが、もはやどうにもなるものではなかった。
その意識が途切れる寸前、瑞穂の体がふわりと持ち上げられた。脳への血流がもどり、彼女はようやく正気を取りもどした。が、事態は何ら好転してはいなかった。首と胴体をささえられて、彼女は鬼鮫の頭上に軽々とリフトアップされていたのだ。高さは、ゆうに二メートル半ほどもある。脳天からコンクリートに落とされれば、即死しかねない状況だった。
「や、やめ……、た、たす……て……」
助けてくださいと言ったつもりだったが、すでに瑞穂は呂律も回らない状態だった。
鬼鮫は満足げな笑みを浮かべると、高く持ち上げた瑞穂の体をさらに高く放り投げた。いくら瑞穂の体重が軽いとはいえ、すさまじい膂力だった。
「ひっ」と短い悲鳴を残して、彼女の体は三メートルの高さに放物線を描き、そのまま背中から床に激突した。頭から落ちなかったことだけが、彼女にとって唯一のなぐさめだった。
とはいえ、もはや瑞穂は二度と立ち上がれなかった。全身いたるところの骨を折り、口から大量の血を吐き出して、彼女は声も上げずに悶絶した。それ以外、彼女にできることは何もなかった。
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