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<東京怪談ノベル(シングル)>


In a warehouse - 5



「さぁて、と。これはもう立てないだろうな」
 ひと仕事終えたとでもいう具合に肩をもみほぐしながら、鬼鮫は瑞穂へと近付いていった。
 彼女は血を吐きながら苦しげな呼吸を繰りかえすだけで、その場を動こうともしない。肩や足の骨が折れていて、どうにもならなかった。無論、動いたところで何の意味も成さないことは明白だったが。
「……で、一体おまえはどこの人間なんだ? おい」
 鬼鮫の問いかけに、瑞穂は答えなかった。ただ床の上に仰向けになったまま、はぁはぁと荒い息をつくだけだった。
「聞こえなかったのか? だれの差し金で俺をつかまえにきたのか訊いてんだよ」
 いらだったように、鬼鮫は瑞穂の脇腹を蹴りつけた。「ぐぅっ」と瑞穂が呻き声を漏らす。しかし、それだけだった。それ以上のことを、彼女は口にしなかった。
「さっさと吐いたほうが身のためだと思うぜ? それとも、俺の趣味につきあってくれるのか?」
 にやにや笑いを浮かべながら、鬼鮫は問いかけた。趣味とは、いうまでもない。「弱いものいじめ」のことだ。
 瑞穂は、やはりなにも言わなかった。なにを言っても無駄だということがわかっていたのだ。もちろん、鬼鮫のほしがっている情報を言えばラクにはなるだろう。しかし、自らの誇りと職業倫理にかけて、そんなことは口にできなかった。
「それじゃまぁ、どこまで耐えるか見てやろうか」
 言って、鬼鮫は瑞穂の上にまたがった。ズシッと腹の上に体重をかける。「ごふっ」と瑞穂の口から太い息が吐き出されて、血の飛沫が鬼鮫の顔にまで散った。
「きたねぇな、おい」
 頬の血をぬぐいながら、鬼鮫は瑞穂の左腕をねじりあげた。瑞穂は腕に力をこめて引きもどそうとしたが、無駄な抵抗に過ぎなかった。腕力の差、ダメージの差、ポジションの差──。あらゆる要素が瑞穂にとって絶望的な状況を示していた。
 鬼鮫の右手が、無造作な感じで瑞穂の指をにぎった。小指だ。なにをするつもりなのか気付いて瑞穂は首を横に振ったが、それもまた無駄な行為でしかなかった。
 その直後。ペキッ、と枯れ枝を折るような音がした。小指の折れる音だった。
「っ……!」
 瑞穂は歯を食いしばって耐えたが、つづけて薬指が根元から折られると、こらえきれずに悲鳴がこぼれた。
「さっさと言えよ。どうせ、ぜんぶ言うまでラクになれねぇんだぜ?」
 妙にやさしげな口調で告げながら、鬼鮫は中指に手をかけた。
 瑞穂は身動きできなかった。右腕は鬼鮫の膝におさえつけられていたし、足は最初からまったく動かなかった。抵抗する手段を、完全に奪い取られていた。
 ゴリッと、やや重い音がした。その音で、中指も折れた。手の甲に向かって、根元から九十度以上の角度。まるで、できの悪い人形のような曲がりかただった。
「あぐ……っ。がう……!」
 瑞穂は全身を痙攣させて鬼鮫を振り落とそうとしたが、そんな体力は残されていなかった。
 鬼鮫は何も言わず、残りの人差し指も同じようにした。それでも、瑞穂は口を割らなかった。
「四本耐えるヤツは、なかなかいないぜ。女のくせに大したもんじゃねぇか」
 まるで大したことではなさそうに言って、鬼鮫は瑞穂の腕を放した。
 左手を抱え込むようにしながら、嗚咽を漏らす瑞穂。しかし、まだ拷問は始まったばかりだった。
「おら、そろそろしゃべる気になっただろ? ん?」
 バシッ、という音。鬼鮫が、平手で瑞穂の頬を張ったのだ。それも、平手打ちとは思えないような重い一撃だった。口と鼻から血がしぶいて、床の上に扇状の斑点を落とした。つづけて、反対側からもう一発。さらにもう一発。その一発一発ごとに、瑞穂の顔が左右にはじけた。
 鬼鮫は、なにも言わずに黙々と平手打ちをつづけた。その数が二十発ほどにも達すると、瑞穂の顔は腫れあがり、血と涙と唾液でぐしゃぐしゃになった。彼女は喘ぐように呻き声を漏らしつづけていたが、それでもなお情報を吐くことはなかった。
 三十回以上の平手打ちを繰りかえしたあとで、ようやく鬼鮫の手が止まった。無論、拷問自体が止まったわけではなかった。
「俺もだんだん疲れてきたぜ……。しょうがねぇ。こうしてみるか」
 鬼鮫は馬乗りになったまま、瑞穂の頭をおさえつけた。そして彼女の前で人差し指を一本だけ立ててみせると、ゆっくり下ろしていった。──瑞穂の目に向かって。
「おまえの所属と名前を言え。言わなければ目をえぐる」
 鬼鮫がそれを実行するであろうことは、瑞穂にもわかった。そして、それが彼女の臨界点だった。
「じえ……こ、え、と……」
 消え入るような声で、瑞穂は言った。つつみかくさず所属を明かしたつもりだったが、まるきり呂律が回っていなかった。
「何語だよ、おい。ちゃんとわかるようにしゃべれ」
「と、とくう、けぇび、か……」
「わからねぇよ」
 ビシッ、と鬼鮫の右手が瑞穂の頬を張った。
「とく……」
「ああ?」
 鬼鮫は、ずっしりと体重をかけた。
 瑞穂の顔が苦痛にゆがみ、「やめ……」という弱々しい言葉が漏れた。
「やめてほしけりゃ、しっかり聞き取れるようにしゃべれ」
 鬼鮫はゆっくりと腰を上げ、勢いをつけて座りなおした。
 肋骨の折れる音。絞り出された水袋のように、瑞穂の口から血があふれる。
「ごぶ……ぅ……」
 彼女の発する言葉は、もはや呻き声だけだった。それ以外の言語を忘れてしまったかのように、瑞穂は獣のような呻き声と唸り声を絞りたてた。
「やれやれ。ちょっといじめすぎちまったかな」
 かるく舌打ちして、鬼鮫はのっそりと立ち上がった。
 瑞穂は仰向けになったまま、全身を痙攣させている。無惨きわまる姿だったが、鬼鮫にとっては愉悦きわまる光景だった。
 最後にその頭を横から蹴り飛ばして、彼は「ふぅ」と一息ついた。そして瑞穂の両腕をつかむと、そのまま床の上をずるずる引きずりだした。
 瑞穂は微かに呻き声をあげて抵抗したが、それ以外には何の抵抗もなかった。無論、抵抗しようとしまいと同じことではあったが。コンクリート床にメイド服をこすりつけながら、彼女は倉庫の中を引きずられていった。
 鬼鮫がドアを開いたとたん、新鮮な空気が廊下から流れ込んだ。倉庫の中の淀みきった空気が、わずかに洗い流される。
 いつのまにか汗をかいていたことに気付いて、鬼鮫は額をぬぐった。そうして瑞穂を引きずったまま、彼はゆっくりと廊下の向こうへ消えていった。
 それきり、高科瑞穂は二度ともどらなかった。