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<東京怪談ノベル(シングル)>


Soyez amoureux du monde


「もっと繊細に! 指の先まで神経を行き届かせて! 軸がぶれてるわよ! 軽やかに!」
 可愛らしい音楽の流れるスタジオに、厳しい教師の声が響く。その中で、長い髪を二つのシニヨンに纏めた山本・綾乃(やまもと・あやの)は、真剣な表情でバレエを踊っていた。
 スタジオ内には、くるくると回る綾乃と、それを見る教師の姿しかない。窓から差し込むオレンジ色の陽射しはゆっくりと傾き始めている。
 教師はちらりと壁にかけられた時計を見やり、パンパンッと両手を打ち鳴らした。
「とりあえず、ちょっと休憩しましょう。振りは完璧に覚えたみたいね」
「……はい」
 教師の声を聞きながら、綾乃がタオルに顔を埋める。つーっと汗が鎖骨を伝う感触がして、綾乃は息を吐きながらタオルを首にかけた。
「でも振りだけ覚えてても仕方ないわ。ちゃんと役を作らないと」
「……判ってます」
 至極当然な教師の言葉に、綾乃の声が思わずぶっきらぼうなものになってしまう。その声色に教師が片眉を上げたのを見て、綾乃は慌てて「すみません」と頭を下げた。
 学校を終えてからの厳しいレッスンを行って尚、なかなか満足の行く演技が出来ない状態。それが数週間も続けば、イライラも募る。
 教師もそれが判っているからこそ、タオルで口元を隠す綾乃に何も言わず、ただ溜息を吐いた。強い口調を和らげ、諭すように話す。
「コンクールだから、役に成りきらずに正確な踊りをするのでもいいでしょうけど、それだけでは一位は絶対に取れないわ。貴女がどんなジゼルを演じたいのか、考えなさい」
 シャッと音を立てて、教師の引いたカーテンが夕陽を隠した。真っ暗になったスタジオを、人工の明かりが照らす。
「休憩は三十分よ」
 足元で小さくなった影を見つめる綾乃に声をかけて、教師がスタジオを出て行った。バタン、とドアが空気を潰す音がして、沈黙がスタジオを支配する。


 後に控えたコンクールで綾乃が踊る演目が、『ジゼル』のヴァリエーションだった。
 アドルフ・アダン作曲の『ジゼル』は、ロマンティック・バレエの代表作の一つである。恋に破れ、失恋の痛みに息絶えてしまった病弱の少女ジゼルは、精霊となって恋人と再び会うも、朝日を浴びて姿を消していくという、決してハッピーエンドとは言えない物語だ。
 ヴァリエーションとは、バレエ用語で“ソロの踊り”を意味している。綾乃の踊るヴァリエーションは、ジゼルが失恋をする前の、恋に浮かれて幸せな一時を過ごしている、明るく楽しいものだ。そして、演劇性、テクニックなど、全てが要求される難しい踊りでもある。
 恋に浮かれた少女の如く、明るく楽しげに踊るのか。
 はたまた、病弱を面に出して、不安げに儚げに踊るのか。
「あたしのジゼルは……」
 落ちる汗をタオルでぐいっと拭った綾乃は、荷物から取り出したペットボトルで水分補給をし、再びスタジオの真ん中へ足を運んだ。すいっと伸ばした腕に、ゆっくりと力が入る。

 アントレ。母親に踊ることの了承を得て、嬉しそうに位置へ。周りに居る筈の恋人や村人への挨拶をして、ジゼルの踊りが始まる。

 病弱なジゼル。でも、踊ることが好きだった子。
 だったら、踊っているときくらい、病気のことを忘れたっていいはずだ。踊れる喜び、楽しさを表現したい。
 それが綾乃のジゼル。

 アラベスクからパンシェへ。軸がぶれないようにしっかりと。アティチュードターン。回るときのアームスの動きは早めのアン・オーを。教師に言われたことを、一つずつ思い返しながら。

 コンクールは結局、入賞出来るか、そうでないかの二択しかない。やりきったから満足、結果はどうでもいいという者もいるが、綾乃にはそう思えなかった。結果が全てだとも言わないが、コンクールに出るからにはトップを狙う。
 好きなことで誰にも負けたくないのは、当たり前の感情だから。

 ポアントのままバロネで前進。軽やかに、弾けるような。ピルエット・アンデダンはパッセを早く膝の位置に。全身で嬉しさを表現して。



 スタジオに戻って来た教師は、休憩と言ったにも関わらず踊り続けている綾乃を見て、しょうがないと肩を竦めて苦笑した。
 まだまだ身体の強張りや、細々とした仕草に改良の余地は見えるが、表情が先程より穏やかになっているのが判る。踊りを心から楽しんでいる表情だ。
 恐らく、もっと振りが身体に馴染めば、必ず良い演技が出来るようになるだろう。
 教師は満足げに頷いて、最後のピルエットを終えた綾乃に微笑みかけた。