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<東京怪談ノベル(シングル)>


不思議の国の夜のお茶会


 何だか、とても疲れてしまった。みなもは家に帰り着くなり、用意されていたおやつも食べずに部屋に駆け上がって、そのままベッドに倒れこんだ。
「何だか、疲れちゃった……」
 セーラー服の襟が首の下でぐしゃりと皺になったが、それを気にする余裕も無く、みなもはただため息をついた。
 咄嗟に貧血などと言ったが、案外その通りなのかもしれない。体が重く、指先を動かすのすら億劫だ。かろうじて腕を動かして、白いスカーフを胸元から引き抜き、はらりと床に落とした。
「……眠い、な」
 そのまま眠ってしまいたかったが、眠るのは怖かった。
 怖い夢を、不条理で痛い、悪夢を見てしまうような気がした。
 目をつぶると、白い影が瞼の裏で踊る。
 耳の長い影、裾の長いドレスの影、たくさんの四角い影、にやにや笑う影。
 入れ替わり立ち替わり現れるそれは、よく見ようと目を凝らした途端に暗闇に融けて消え、正体が見えない。
 結局、眠れないでいるうちに時間は過ぎ、階下から家族が夕食時を告げる声が聞こえてきた。みなもは重い目蓋をこすり、鈍い動作でベッドから起き上がる。カーテンを開け放した窓から西日が差し込んで、みなもの影を長く伸ばした。


 夕食の後であたたかな風呂に浸かると、やっと強張った体から力が抜けていくような気がした。
 帰り道で倒れた、と言うのは心配させたくないので言わなかったが、昼寝をして怖い夢を見てしまったと話すと、家族は皆笑った。夢に怯えるなんてまだまだ子供だ。そんな風に言われてみなもはむくれて見せたが、内心ほっとしてもいた。
 ――そう、ただの夢。いくら恐ろしくても、痛くても、目を開ければ全て消える。
 だから何も心配は要らない。家族のいる家で、暖かくて柔らかいベッドで眠るのに、悪夢に怯える必要なんかどこにもない。
 ざばりと片手で湯を掬い上げて、指の隙間からそれが流れ落ちていくのをぼんやりと眺める。少女らしく丸みを帯びた腕から肘の形に添って湯が伝っていくのを見て、みなもは訳もなく安心した。
 風呂からあがり、パジャマに着替えてベッドに入る。
 目を閉じるとやはり同じように影たちが躍りだしたが、今はもうさほど怖くはない。これなら眠れそうだ。
 深く息を吸い込み、眠るために呼吸を整える。だんだんと穏やかになる呼吸に合わせて、目蓋の裏の影も間延びして行った。
 そうして眠りに落ちるほんの一歩手前で、白い影はぐにゃりと形を変え、太った縞猫の姿になった。猫はにゃあと一声鳴くと、尖った歯の突き出すその口を耳まで届くほどに開いて、にやりと笑って見せる。
 あっと思った瞬間には、背中にあったはずのベッドマットが跡形もなく消えて、みなもはどこまでも深く落ちていった


 地面に叩き付けられる衝撃は欠片もなかった。みなもはひらひらと宙を舞い、木々の間を漂いながら枝葉をすり抜けて、緑に発光する苔の上にふわりと着地した。
 思わず自分が落ちてきた空を見上げたが、重なり合った木々に遮られて光もほとんど見えない。薄暗い森の湿り気に、思わずぶるりと震える。
「そんなところに座っていたら、湿って皺が寄っちまうよ」
 急に背後から声がかかり、みなもは驚いて振り向いた。
 みなもの背丈ほどもある大きなキノコの上で、丸々とした芋虫が水煙草をふかしているところだった。
 この相手を知っている気がするが、思い出せない。そしてその思い出せない感覚にも覚えがある。複雑な既視感にみなもが首を傾げていると、芋虫はもう一度、汚れるよ、と呟いて煙を吐いた。
 べとりと湿った苔の上から慌てて飛び降り、みなもは芋虫を見上げて軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……あの、ここって、どこなんでしょうか?」
「森だよ」
 芋虫は呆れたように目を細め、また煙を吐き出す。空気が淀んでいるせいか、煙がいつまでもその場にわだかまって、みなもの視界まで煙っていく。
「ええ。森、なのは判るんですけど……。できれば地名とか」
「そんなことより、問題は何故トランプがこんな所にいるかだ」
 芋虫はみなもの質問を完全に無視して、まったく関係のないことを言い出した。トランプ? とみなもは周りを見回すが、もちろん木々が茂っているだけでトランプなど影も形もない。
「何故なんだね?」
「ええと……、あたしにはちょっと判りませんけど……」
 困って曖昧に笑って見せると、芋虫は怪訝そうに片眉だけを釣り上げた。
「判らない? 自分のことなのに?」
「……え?」
 どきりとして、みなもは自分の胸に手をやる。
 柔らかな感触の代わりに、カサリと乾いた紙に触れた。
「君はトランプだろうに」
 どこからか一すじの風が吹いて、みなもはぺらぺらと揺れた。
 その体は四角くて、薄くて、白い。
 真っ赤なハートが三つと、数字の三が印刷されている。
 みなもは――トランプだ。
 呆然としているみなもに、芋虫は煙を吐きかけた。
「そろそろお茶の時間じゃないのかね。首を刎ねられたくなかったら、早く行った方がいいんじゃないのか」
 ぷかぷかと、芋虫の口からは輪になった煙が吐き出され続け、みなもに纏わりつく。いつしか視界は白で埋め尽くされ、芋虫も、キノコも、湿った森も、煙の中に消えた。


 しばらく待ってみても煙は晴れない。
 一歩踏み出しキノコに触れようと手を伸ばしてみたが、指先は煙をかき混ぜただけで、もうそこには何もなかった。立ち尽くすみなもの目の前に、ニヤニヤ笑う大きな口が現れる。
「やあ、また会ったね」
「……あなたは……」
 口の次には鼻とひげ、それから丸い金の眼と尖った耳。虎縞のネコの顔だけが煙の中に浮かんだ。
「今度はどうしたんだい? また困ってるみたいだけど」
 ネコはさも楽しげに、ぱちぱちと瞬いてみせる。
 みなもはネコと自分の体とを何度か見比べて、泣きそうに眦を下げた。頭の中が混乱している。
「あたし、どうしてこんな体なんですか? まるでトランプみたいな……」
「まるで、じゃなくて、君はトランプだよ」
 薄くて四角くてハートが付いているもの。
 そう言ってネコは笑い声をあげたが、細めた眼は笑っていなかった。
「あたしはトランプなんかじゃないです」
「そう? じゃあ、君の名前は?」
「……それは……」
 一瞬考えて、みなもは小さく呟いた。
「それは、ハートの3……だと、思います、けど」
 甲高く笑ったネコに向かって、みなもは必死に訴える。
「でも! でも、あたしはトランプじゃないんです!」
 薄い体を反らして、申し訳程度に付いた手をパタパタと動かす様子にはまるで説得力がないが、ネコは判っているとでも言いたげに何度か頷いた。
「判ったよ。君はウサギに会わなかったんだね?」
「ウサギ……」
 知りません、とみなもは首を横に振る。
 ネコはひとしきり頷きながらにやにやと笑った後、急に口を引き結んで金の眼を見開いた。
「帰りたいと思うかい?」
「……はい」
 そうだ。帰りたい。
 ここは自分の居場所ではない。それだけは確実に言い切れる。
 とは言え、帰る場所がどこなのかは、皆目思い出せないが。
「ここは、どこなんですか?」
 芋虫にも尋ねたことをまた繰り返す。ネコは気がなさそうにヒゲを揺らした。
「さあ、判らないね。僕はただのネコだからね」
 にゃあ、とわざとらしく鳴いて見せて、またにやりと口の端を持ち上げる。
「もしかしたら、夢の中かもね」
「夢?」
「そう、誰かが見ている夢の中。そう考える方が気楽だろ?」
 言われてみれば確かに、この脈絡のない世界はまるで夢を見ているのに似ている。
 夢ならば、トランプになってしまったこともそれほど大変なことではないような気がした。夢ならばいつかは覚めるのだから、悲観することは何もない。
 そう考えると、風に揺られる体の薄さも物珍しく思えた。
 多少は気を取り直したみなもに、ネコは金の眼を瞬く。
「そろそろ、夜のお茶の時間だよ。早く行かないとね」
 あれだけ立ち込めていた煙は、いつの間にか跡形もなく晴れていた。
 頭上には星空が、周りには垣根のある庭園が広がっている。庭園の一角――赤のバラ園にはテーブルがしつらえられ、今しも夜のお茶会が始まろうとしていた。


 遅れて現れたみなもをトランプたちが一斉に睨む。
 みなもは背を丸めてこっそりと「2」と「4」の間へ滑り込んだ。幸い、女王には気づかれなかったようだ。
 重厚なアイアンのガーデンテーブルの上には、豪奢なティーセット。バラのジャムにスコーン。それから、テーブルからはみ出しそうに大きなパイが乗っている。どっしりとかぶさったパイ皮の表面はつやつやと輝き、香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。
 おなかが減ったな、と思ってから、この紙の体で果たして物が食べられるのだろうかという疑問が沸いたが、どちらにせよ試す機会はないだろう。女王が一介のトランプごときにお茶菓子を分けてくれるはずもないからだ。
 ――それにしても、大きなパイだった。
 豚の、もしかしたら牛や馬の一頭くらい出てきても不思議ではない大きさだ。
 いったい何のパイなのかとみなもは内心わくわくして待っていたが、女王はいつまでたってもパイには手をつけない。
 香る紅茶を飲み、バラのジャムでスコーンを食べ、みなもが待ちくたびれるほどに時間をかけて、女王はティータイムを堪能した。
 紅茶の最後の一口をゆっくりと飲み干してしまうと、女王はやっと手をあげて周りのトランプたちを呼びつけた。
 みなもも含めたトランプたちは、二列に整列して女王を取り囲む。
「さ、切っておくれ」
 それだけ言って、女王はハンカチを取り出し口元を拭った。
 トランプたちはすぐさま隊列を開き、テーブルの上のパイを取り囲む。そしてそのパイにふさわしい大きさのナイフを取り出すと、真ん中からさくりと刃を入れた。
 さくさくと軽い音を立ててパイ皮に切れ目が入っていく。
 女王のことだから、中身はバラのジャムかラズベリーだろう。そう思ってみなもは切れ目が広がっていくのを見ていた。
 ざく、と縁までナイフが入り、パイの中身が姿を現す。
 こぼれ出てきたのはジャム――ではなくて、一陣の風と黄色い羽根だった。
「……?」
 何だろう、とみなもがよく見ようとすると、鋭い羽音と共に一羽の黄色い小鳥が飛び出した。
 続いて一羽、また一羽。
 パイの切れ目からは次から次へと黄色い小鳥が飛び出し、ついにはパイ皮を突き破って一斉に姿を現した。黄色い羽根が舞い散り、まるで吹雪のように襲い掛かってくる。
「ええい! 何をしている! 早く捕まえるのです!」
 女王が疳癪を起こして喚いているのがどこか遠くで聞こえた。
 小鳥は次から次へと飛び出して来て、その度に羽根が舞い散る。小鳥が飛び回る動きが風を作り出し、その風に乗って羽根がうねり、あたりはもう黄色一色に染まっている。
 トランプたちは風に耐えきれず、てんでに飛ばされていく。
 みなもも、テーブルから手を離した一瞬にふわりと体が浮いて風に攫われた。
 驚いて眼を見開いたみなもの視界に、黄色い羽根の渦の中心――パイの中で眠る金髪の少女が最後に映った。


 目が覚めると朝だった。
 カーテンの隙間から朝日が差し込み、ちょうどみなもの顔に当たっている。目が覚めたのは眩しかったからだ。
 ――何だか、疲れたな……。
 よく寝たはずなのに、と首を傾げる。
 また、夢を見た気がするからそのせいかもしれない。それほど怖い夢ではなかった気がするけれど、夢を見ると疲れが取れないというのはよく聞くことだ。
 耳を澄ますと、家族はもう起きているのだろう、階下でがやがやと音がする。
 早く着替えて支度をしよう、とみなもは眠い目を擦った。
 一瞬、目蓋の裏に金髪の少女の姿が蘇ったが、次に目を開けた時にはもう跡形もなく消えていた。