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Dreaminess
ふわりふわり。何度感じたとしても、この心地よさに一切の変化はない。
まるで誰かに抱かれているような。何かに流されているような。冷たくて暖かい、とても不思議な感覚。
人は産まれるまで羊水の中に抱かれ眠っている。もしかしたら、これはそれと同じなのかもしれない。
海原みなもは夢を見ていた。
何時かのように海の中を自由自在に泳ぐ夢。
その感覚があまりにリアルで、それが夢なのか現実なのか一瞬忘れそうになる。
母なる海。それが彼女の夢。
海流は時に速く、時に緩やかに。静かに、しかしはっきりと彼女を包み込む。
海流と共に踊る魚たちはただただ綺麗で、自分もその流れに乗って共に踊る。
そうしているだけで、まるで自分が海と一体化したかのような感覚を受ける。それはただただ幸せな時間だった。
「ん……」
目覚ましの音に気付き、小さく手を伸ばしてスイッチをオフにしながらみなもは布団から起き上がる。起きたばかりでまだ目も覚めていないというのに、髪はまるで今しがた漉いたかのように流れていた。
針が指す時間は何時もどおりの時間。軽く背を伸ばして欠伸を一つ、みなもは眠そうな眼をそのままに洗面所へと向かった。
それは彼女が何時も過ごしてきた日常。それはあの日服を手に入れてからも変わっていない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「今日は学校帰りかい?」
「はい、お邪魔します」
もうこの店に来てからどれくらいが経つだろうか。何時も来ているせいかそんなこともよく思い出せない。
アンティークショップ・レンと呼ばれるその店は、変わり者の店主と共にある筋では有名なところだ。もっともみなもにとってそんな評価はどうでもよく、ただ居心地がいい場所と言う認識ではあったが。
店主の碧摩蓮は何時ものように気だるい表情で煙管を吹かし、みなもも何時ものようにそんな彼女へと話しかける。もうどれくらい続いているか分からない日常の光景だった。
「そいつのセーラー服姿も板についてきたね」
楽しげに言う蓮は、みなもの事情を知る唯一の人物だった。その体に宿るものを思うと、セーラー服姿になっているのもなぜかおかしいらしい。
彼女が体に宿している生きた「服」。その能力を持ってすれば日常生活に一切の服など必要なくなることは確かである。が、
「いえ、これは『彼』じゃないんです」
「はっ? わざわざ普通のセーラー服を着てるってのかい?」
「はい、色々事情があって……」
なにやら事情があるらしい。
「実はですね……」
みなもは日常を大切にしている。
それは彼女が【非日常】という存在の最たるもので、そんな彼女が人というものの常識内で生きていこうと思えば必然的にそれを隠す必要があるからだ。
だからこそ日常を大切にし、自分と言う非日常を極力隠し通すことで彼女自身の存在を保っている。
そういう意味で考えれば、彼女の持つ『服』もまたその非日常の最たるものであると言えた。
確かに便利なものだったが、ある意味で別の問題も孕んでいるのだ。
ある日、それを実感させられることが起こる。
「あれ、海原さん今日体育あるけど体操服持ってきてないの?」
「あ、その、後で持ってきてもらう予定なんです。その、乾いてなくて」
それはクラスメイトとの何気ない会話だった。何気なくはあったが、しかしみなもにとっては十分ショッキングな事件でもあった。
みなもは学校に通っている。通っているからには授業があり、その授業は他の生徒たちと共に受けている。当然ではあるが、着替えなども一緒なのだ。
(……これは、ちょっと困りました)
確かにこの場限りの嘘で誤魔化すことは出来るだろう。事実それまでは何度となく誤魔化しその場を潜り抜けてきた。
しかし今後はどうだろう?
もしその嘘がバレたらどうなるだろう?
もしこの服のことがバレてしまったらどうなるだろう?
そう考えると、彼女の背筋が軽く凍りついたのも仕方がないと言えた。
確かに『服』は便利だ。その擬態する制服や体操服は、他の生徒のそれと全く変わらず精巧だ。
しかしそれに頼りすぎていた部分もあったのではないだろうか?
この世界でうまく生きていこうと思ったらそれでは駄目だ。『彼』のことをパートナーと認めているからこそ、そういったところの分別をつける必要がある。
それからみなもは、『彼』を最低限の部分で使うようになった。学校で必要な制服や体操服は極力自分のものを使い、本当に必要なときだけ『彼』に擬態してもらう。
勿論見えない部分、例えば下着などは『彼』にそのまま頑張ってもらう。そうすることで、決して『彼』を必要としていないわけではないと言い聞かせるのだった。
それは『彼』にもよく分かっているらしい。以前に失敗して消滅しかけて以来、どこかミスに対する本能的な恐怖心のようなものでも出来ているのだろうか。
それ以来学校で必要な衣類は本物が使われるようになった。周りでそれに気付くものは当然いなかったが。
「……と、こういう事情があるんです」
「あはは、なるほどね。確かに便利すぎるのも困ったもんだ」
そんな生真面目なみなもに、蓮はからからと笑いかける。
「そんなに笑わないで下さい……」
「あぁいや、悪いね。みなもらしいなと思って」
彼女からすれば可愛いことかもしれないが、みなもにとってみればとても真剣なことなのだからしょうがない。軽く拗ねるみなもを眺めながら、そんな少女が可愛くて蓮はまた笑うのだった。
「で、家じゃどうなんだい?」
「はい、家では大丈夫です。自分で洗濯とかもしますから」
不特定多数と同時に時間を過ごす学校とは違い、少人数で役割も完全に決まっていると言える家庭ではその非日常的な部分も特に問題はないらしい。
そもそもみなもの家庭からして色々と非日常的なので、今更何かちょっとした不思議が増えたところで大した意味はないのかもしれないが。
「もう少し、『彼』の能力を発揮できる場所もあればいいんですけど」
軽く溜息が混ざる。が、それも仕方のないことだろう。
幾らみなもがそれを望んだとしても、彼女が住まう世界はとても窮屈だ。多くのものは非日常を受け入れられないし、そういう社会の中で生きていくからにはそれを隠すしかない。
さらにこの世界には色々なしがらみもついて回る。例えばみなもの『服』のことが知れ渡れば、恐らくあの組織も動き出すに違いない。
そう考えれば、おいそれと服の能力を使ってしまうのも考え物なのだ。
道具は使われるためにある。しかし、人間はわざわざその使う範囲を自分から狭めている。蓮はなんとなしにそんなことを思った。
「まっ、その分ここで好きに使ってやりなよ。前みたいなあんまり無茶はなしでね」
普段から道具を扱うからこそ、扱う側の気持ちはよく分かる。だからこそ、ここくらいでは自由にさせてやりたいと彼女が思うのも自然だろう。
「はい、ありがとうございます」
答える声はとても明るい。みなもも蓮の前でなら色々なことが出来ると知っているから。
「最近はファッション雑誌を買うことも増えたんです。『彼』に色々覚えてもらいたくて」
「ふぅん。じゃあ夏の新作とかはあるかい?」
「勿論です。見ててくださいね」
それから始まったみなものファッションショーを眺めながら、蓮はまた小さく笑うのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「今日も疲れました」
小さく背伸びをしながらそんなことを呟く。現代社会に生きる以上、大なり小なりのストレスと向き合わなければいけないのはみなもとて同じだ。
例えばテストの出来が少し悪かった気がするとか、例えば出された宿題が難しいとか。学生らしいストレスはやはり日々の中で溜まっていく。
それら全てから解放される睡眠時間は、みなもにとって、いや誰にとってもかけがえのない時間だと言えるだろう。
みなもは自室に入るなり窮屈なセーラー服を脱ぎ捨てた。いまや彼女を包むのは下着となった『彼』だけである。
そのまま何も考えたくないとばかりにベッドに身を放り投げ、程なくしてそこから小さな寝息が上がり始めた。疲れていると、食事や入浴も忘れて眠ってしまうのは誰でも同じらしい。
程なくして変化が訪れた。
下着だけで眠ってしまったみなもの全身を、その下着が消えてスライム状のものが覆っていく。すっぽりと全身を覆ったそれは、しかし布団を濡らすこともなかった。
それは勿論『服』の仕業だった。主が眠り休息を求めていることを知った彼は、彼女が眠っている間何時の間にかこのような形態をとるようになった。
彼女が望んだのか、彼が勝手にそうしたおかは分からない。が、今そんなことは大した問題ではない。
彼女が生きている以上、一日で体から出る所謂汚れは意外に多い。しかしそれを感じさせないのは、今こうして寝ている間にも『服』がそれを食べているからに違いない。彼にとってはそれが栄養分であり、彼女にとっては自身の体を自動的に清めてくれるクリーナーの役割を果たしてくれている。
さて、彼女が寝ている時間はある意味で『彼』の本領発揮と言える時間だ。元々生理・衛生機能も全て彼に任せられるようプログラミングされている。その力は行き過ぎれば依存となり宿主をおかしくしかねないが、あまり知覚出来ない睡眠という無意識下であればなんら問題はない。
みなもが軽く寝返りを打つ。その全身を覆う筋肉は、外部からでは見えないが微細な振動を絶えず続けていた。それは『服』の作用で筋肉を弛緩させマッサージを行い、その中に溜まった老廃物を処理しているのだ。
またこの時期は花粉だなんだと何かと外部から汚れを貰いやすいが、それらも全て『服』が処理してくれている。
さらに『服』は、みなもの脳内にまでその作用範囲を伸ばしている。
幾ら彼女が睡眠をとっても、それがリラックスできる環境でなければまともな休息は得られない。それは彼にとっても不都合であり、ならばと彼は寝ている間にその脳内で快楽物質を放出する。
こうすることでみなもは寝ている間も常に快楽を得ることが出来、それが疲労の完全な回復へと繋がっていく。
それはさながら海の中を泳ぐ感覚。
人魚であるみなもにとって、母なる海に抱かれることほど気持ちのいいことは恐らくありはしない。
だから彼女は夢の中で海を見る。『彼』の見せるそれに抱かれ、まるで赤ん坊に戻ったかのようにゆらりゆらりと海の中を漂っていく。
「ん……」
どうやら気付かぬうちに眠ってしまっていたらしい。目覚ましなどかけていなかったが、カーテンの間から覗く朝日が大体の時間を彼女に教えてくれた。
既に『彼』はあのスライム状態から、彼女を覆う下着姿へと変化している。勿論彼女は自分が眠っている間『彼』が何をしているかは全く知らない。
何時ものようにスカートを履き、背伸びをすれば何時ものみなもの調子が戻ってきた。
昨日は入浴もしていないが髪は特に乱れもせず綺麗なまま。きっと寝ている間に『彼』が何かしらしてくれたのだろう。
そんな律儀なパートナーを思って小さく笑い、みなもは自室から一歩を踏み出した。
「今日も宜しくお願いしますね」
多分、彼女の家族も知らないその挨拶は、確かに『彼』へと伝わって。
みなもは頬を叩き、また歩みを進め始める。
彼女と彼が過ごす、何時もどおりの日常を始めるために。
<END>
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