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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨音

 いつからそこに居て、いつまでそこに居るのか、などと言うのは、愚問である。夢の中でそこを夢だと自覚することは、稀であるが可能である。もしもこの場所がこの感覚のとおり夢の中であるのだとしたら、彼女――黒蝙蝠スザクと言う名の少女である――は、いつでも覚めることが出来たろうし、この世界での出来事は全く持って自分に本当の意味で関与しないだろう。
 甘ったるいミルクのような霧が立ち込めた、紫陽花咲き乱れる園。スザクは傘をさし、園の真中にぼんやりと、もしくはすっくと立っていた。赤い双眸が捉えるのは、一面の霧と紫陽花だけ。しとしとと鳴る雨音はひっきりなしに鼓膜を叩くが、傘に雨粒の感触がほとんどない。無論、視覚にも入らない。でも、雨粒が傘に当たるあのぱたぱたと言う音は聞こえるのだ。

 ここから帰りたいか、帰りたくないか、どうするべきか、考える事は山ほどある。しかし夢と言うのは眠りに落ちてから突然始まる物であり、夢の中のものがたりもまた突然にして始まるものだ。
 スザクは、なんとなしに視線を落とした。自分の足元には何があるのだろうと。軽く足踏みしてみれば、土の感触。しかし、視線を落としたはずなのに、あるべきものが目に入らない。例えば現実世界なら、そのまま自分の足が二本と地面が視界に飛び込んでくるべきである。が、いくら視線を変えようとしても、スザクの目に入るのは白い霧と紫陽花だけであった。首が曲がらないのか、こういうことになっている世界なのか。相変わらず、雨音は流れつづけている。

「そう言えばこの前も、結局地面はみえなかったね」

 一人ごちる。口を動かしたか声を出したかは解らないが、自分の言葉が響く。聞く相手は居ない。霧と雨の所為で、言葉はすぐにぷつりと響くのをやめた。くぐもった言葉になってしまった。
 この世界には一度来たことがあるのだ……間違いなく覚えている。確か、地面を確かめようと首を傾げたつもりだったのだが、視界がわずかに揺れただけで終わってしまったのだ。あの時自分は傘を持っていて、それが木に引っ掛かった。歩きつづけていると、雨音が途切れた。紫陽花はずらりと隙間なく並び、わずかの道も見えない。そして結局、誰かに何かを伝える瞬間に、終わったのである。

 木。木などここにあっただろうか。傘を少しだけ畳んで見上げてみれば、なるほど空と空気のひびのような枯れ木が一本立っていた。この場所に立ったときにはなかったはずなのに。傘を引っ掛けてしまわないように少しそこから離れ、再び傘をさす。ぱたぱたと言う音が一番拾いやすい音だった。

 一瞬だけ人ごみの中にいた。一瞬だけだ。すぐに景色は紫陽花の園に戻る。見知った顔はなかったが、懐かしい顔はあった気がする。遠くに信号機のあの赤い色が見えた。それは紫陽花の上に聳え立っていた。歩み寄ってみるか。それとも、眺めるだけにするか。
 雨音は波のように押し寄せ、耳から少し離れた場所で爆ぜていた。寄せても帰らない波。
 スザクが傘を回せば、ぱたぱたと言う音と、その、波が砕けるような音が一緒に聞こえた。するりと風が吹き抜け、髪を揺らす。愛らしい人形のようだ。雨と波の音がするオルゴール、側面に紫陽花が細かくかかれているオルゴール。


 目を開けば(いつのまにか目を瞑っていたことになっていたらしい)、紫陽花は青紫色をしていた。最初はどの色だったろうか。赤紫? ――そう思えば、目の前の紫陽花さえ赤紫に染まる。
「この夢はそういう夢なのかな」
 ぽつりと言葉を落とせば、遠くだけ、青い紫陽花が集まっているのが目に付いた。
「誰もいないことになってるんだよね。スザク以外はだーれもいない。でも、スザクはいるんだった。そう、確か――」
 そこまで一人で言葉を連ね、彼女は目を細めた。小さく微笑み声もなく笑い、ゆっくりと歩き始める。
「スザクを見ているのは誰?」
 小道は、大きなアーチへと続いていた。くるくるとした蔦が絡みついた、よくある形の。そこにはやはりふわふわとした紫陽花の花がついており、これ以上それがついていたらいっそ可愛らしさを通り越して不気味であろう、という程の数の花が咲き誇っていた。スザクの言葉は、そんな紫陽花たちに食われてしまった。振り返れば、主観は自分を捕らえている。つまり――スザクは夢の中のスザクを見ている。もはやすし詰めと言っていいほどの紫陽花が、アーチから伸びる小さな黒い道だけを空けて咲き乱れ、一人の少女が赤い瞳でこちらをじっと見ている。雨は降っていないが、音はする。白いもやは少女と紫陽花、そしてアーチだけを残し、景色を隠してしまった。信号機はもうどこにもない。

「ここはどーこだ?」
 視界の中の少女の口は全く動かなかった。口の端をほんの少し上げているだけ。しかし少女の声がした。おそらく後ろから。
 遠くで鳥の飛び立つ音がする。草むらに何か重い物が落ちるような音も。
 傘をさした少女は、アーチを見上げていた。赤紫から青紫までの見事なグラデイション……と言うより、赤と思えば赤になり、青と思えば青になるアーチなのだ。彼女は眺めのまばたきをした後、「前と同じだね」と笑う。
「ただ、道が見えたね。黒だった。ずーっと向こうまで伸びていた」

 霧雨のような雨と、ほんの少し雫が大きめの雨では、傘の立てる音は違う。
 音は、スザクの思うようになった。傘に響く感覚が心地いい。今にも走り出しそうなくらいの嬉しさ。しかし、彼女は走らなかったし、そうする必要はどこにもなかった。
 道はいつのまにかアスファルトのように固く、音を立てるようになっていた。もしくは、アスファルトになっていたのだろう。
 霧は通り過ぎた道を飲み込んでいたし、次に進むべき道と紫陽花を吐き出していた。道は途切れず、とにかく一本道で、カーブもなにもかもが直線になっていた。
 霧の外でだけ、全てはかたちを保っていた。否、スザクの周りだけ、であろうか。
 紫陽花は無限に生えていたが、道の上には絶対に、意志が感じられるほど絶対に、その枝を伸ばす事はなかった。


 歩く。歩く。響くのは雨音と足音だけ。雨は見えない。音が響くのみ。よぎる直感によれば、もう空も地面もない。それでも、雨音は響く。水溜りを叩く音も、地面ではじける音も、傘を叩く瞬間の音も、全部聞こえる。そして、見える。
「そう! ここからしばらくいけば……二つ目のアーチなの」
 スザクがそう言い終わった瞬間に、霧の中からするりとアーチが現れた。色とりどりの、どこか陰鬱な紫陽花の園から伸びたそれには、やはり蔦が絡み付いている。そしてもちろん紫陽花の花が飾り付けてあったのだが、それは枯れていた。見事に枯れていた。黄土色と言えばいいのだろうか、美しくも冷たくもない色。

 白い霧の中聳え立つアーチは、むしろ、古城と言ってもいいほどの色と風貌であった。
 視界に移るのは古城と、ずらりと並ぶ紫陽花たち、そして傘をさした少女。紫陽花の背丈はずいぶんと高くなった。くぐった覚えのないアーチが、少女の後ろに続いている。それは遡れば遡るほど小さく、端正なつくりになっていき、視界から消えるまで小さいものまでが見えた。見えないところではおそらく、少女の小指の大きささえないくらい小さい物まであっただろう。
 枯れているはずの紫陽花と、それの飾ってあるアーチ、そして少女の背丈と同じくらいかその数倍はある高さの古城は、なにやら活き活きとしていた。この景色の中、妙に映えるのだ。ただし城にはひとつも入り口がなかったし、少女はアーチをくぐらないだろう。
 景色は終わる。そうあるべき所まで、少女は行き着いたのだ。

 いつのまにか雨音は止んでいた。風が吹き、少女の髪とスカートを靡かせる。
 ……雨の匂いだ。風は湿っていて、これから来る雨と去っていった雨を、何かものいいたげに繋げていた。

 傘を下ろして、畳む。ほんの少しの雫が地面に落ちて、最後の水音を立てた。
「また、雨が来るね。どうする?」
 傘を下ろした少女は何も言わなかった。しかし、少女の声がした。
 その声に答えるように、彼女は笑う。
「勿論」
 とんとんと地面を叩けば、傘からまた雫が落ちた。
「     」
 五文字の言葉だ。笑いかければ、彼女も笑う。

 古城も紫陽花もアーチも、全てどこかに溶けていってしまった。残ったのは霧と、少女だけ。その景色が見えなくなるまで、もう少し。また会おう。出かけるよ。もちろんさ。さようなら。ここはどこ。いつかまた。
 ……。