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<東京怪談ノベル(シングル)>


     青と黒のアビス

 そこは深い深い、闇の中だった。
 天井も壁も、床すら見えない。
 光がないせいか、それとも何も存在していないのか、みなもにはわからなかった。
 そもそもどうして、自分がこんなところにいるのかも。
「変な髪」
 不意に声が聴こえて、みなもはビクッとして振り返った。
 そこには7、8歳の少年たちがいた。意地悪な顔つきにはどこか見覚えがある気がするけど、誰なのかはわからない。
 ただ暗い中、くっきりと浮かび上がるその姿に恐怖を覚える。
「見ろよ、青い髪だぜ」
「目も青いしな。ガイジンだ、ガイジーン」
「ばぁか。外国にだって、こんな変な髪のヤツいるもんか」
「じゃあ人間じゃないな。ウチュージンだ。」
 よってたかって、髪をつかまれ、引っ張られる。
「痛い、やめて!」
「コイツ、宇宙人のくせに言葉しゃべるぞ」
「人間のフリして侵略に来たんだ、宇宙人を倒せー!」
 笑いながら突き飛ばされ、蹴りを入れられる。
 どうしてそんなことを言うの? 何でそんなことをするの?
 みなもは必死に抵抗し、闇の中を逃げ惑う。
 だが男子たちは声をあげながら追いかけてくる。
 今までは普通に過ごしてたのに、どうして急に――。
 ……急? だったらどうして、こんなにも既視感を覚えるのだろう。
 前にもこんなことがあった? ううん、違う。そんなわけない。みんな優しかったはず。友達の笑顔に囲まれていたはず。
 少なくとも、みなもの記憶ではそうなっていた。
 ようやく追跡者がいなくなったところで、みなもはザブン、と水の中に沈んだ。


 気がつけば、床は消えて辺りは水面におおわれていた。
 潮の香がするので海水なのだろう。波に揺れるその水は、光がないせいか妙にどす黒く、底なし沼のように見える。
「――この子? 人間の血が混じってるっていうのは」
「ああ、汚らわしい。同じ水に入らないで欲しいものね」
 人魚たちが顔を出し、軽蔑するような目で睨んでくる。
 夢世界などで愛嬌たっぷりに声をかけてくる人魚たちとは大違いだ。
「人間と一緒になって、人間のような生活を送っているんでしょう。だったらどうして、海に戻ってくるの」
「人魚でいるか人間になるか、はっきりして欲しいものね」
「……あ、あたしは。人間と人魚が一緒になって、仲良くやっていければって……」
 バシャンッ。人魚の尾が水をはね、勢いよくみなもの頬を叩いた。
 みなもの白い肌が、みるみる赤く染まっていく。
「人間は、人魚を捕らえて剥製にしたり見世物にしたりと、好き勝手なことをしてきたのよ」
「人魚の血肉が不老長寿の薬だと、食べられていった仲間も沢山いる」
「仲良くなんて、やっていけるわけがないでしょう!」
 怒りと憎しみのこもった目。それは今、みなもに向けられていた。
 お前もその仲間なのだろう、と。
「裏切り者」
「恥知らず」
「人魚の血を汚すなんて」
 罵りと共に腕が伸び、みなもの身体を拘束する。
「やめて。そんなの知らない、あたしには関係ない!」
「関係ないですむと思ってるの!」
 人魚の姿となったみなもは、必死になって水の中を泳いでいく。
 人間相手なら負けるはずもないが、相手は人魚だ。追いつかれては髪をつかまれ、引っかかれる。
 傷口に、海水が染みた。
 ――どうして。
 人間からは認められず、人魚からは疎まれる。
 どちらにとっても、異質な存在。
 じゃあ、あたしは何? あたしは、どうしたらいいの?
 海水の中、みなもの涙がまぎれていった。
 ――お父さん、お母さん。どこにいるの? 助けて。あたしを独りにしないで!
 必死になって叫んだとき、水の感触は消えてなくなった。

 
 そこは天井の傾斜した、屋根裏部屋のようなところだった。
 窓はあるけれど真っ暗で、部屋の中も薄暗い。
 古びた部屋の中に、白いベッドだけがぽつんと浮かんで見えるだけだ。
 かび臭くてところどころ板のはがれた床。そこがどこかはわからないけれど、完全な暗闇から解放されたことで、みなもは少しほっとしていた。
 蹴られたときの擦り傷やひっかかれた傷からは血が滲み、髪からも服からも、ぽたぽたと滴が垂れている。
 痛みと寒さから自分を護るように、みなもはぎゅっと身を縮めた。
「お父さん、お母さん……みんな」
 どうして誰もいないの?
 そう思ったときに、頭の中に自身の家が浮かんできた。
 誰もいない居間。静かで人気のない、広い家。
 両親は共働きで、姉妹も外出することが多かったから。
 何度不安や寂しさを、まぎらわしてきただろう。幼い子供が、1人きりで。
 愚痴を言う相手もいなければ、泣きつく相手もいない。
 ずっと求めていた。自分を理解してくれる人を。優しく抱きしめてくれる人を。
 そうした幼い頃を思い出し、みなもの頬を涙が伝った。
 ――これは、夢なのかな。目が覚めたら全てを忘れてしまえるのかな。
『夢じゃないよ。これは全て、本当にあったこと。ただお前が、忘れてしまっているだけ』
「誰!?」
 突然響いた声に、みなもは怯えるように周囲を見渡した。
『ずっと、見ないフリをしてきたんだろう。自分自身の、心の闇を。だからといって、それを消すことはできない。影のようにずっと、お前から離れることはないのだから』
「……何のことだか、わかりません」
 みなもは小さく震えながら、首を振って見せた。
『人間からも人魚からも迫害を受け、何を思った。傷ついたか? 哀しかったか? それだけではないだろう。――憎んだはずだ。理不尽な暴力を。それを行なう、心ないものたちを。自分を独りにするものたちを』
「やめてください。そんなことないです。あたしは……」
 みなもは耳をふさいで、強く叫んだ。
『怖いのか。己の闇を知ることが』
 嘲笑うような声が返り、キィッと部屋の戸口が開いた。
 みなもは何を言われずとも、導かれるようにそこを進む。
 戸の先には、長い長い、階段があった。
 廊下も、他の部屋もない。ただ闇の中を延々下っていく、奇妙な階段。
 一歩足を踏み出すたびに、地獄へと近づいていっているように思えた。

 階段を降りた先には、重たげな鉄の扉があった。
 手をかけると、まるでみなもを待ち構えていたかのように開いていく。
 そこは、地下室のようなところだった。
 高い位置にある鉄格子の窓は小さく、外はやはり真っ暗で、部屋は冷ややかで湿った空気をしていた。
 2本の蝋燭が、頼りなく室内を照らしている。
 壁は石でできていたが、一面だけ大きな鏡になっていた。
 寒さに身を震わせながら覗き込む、みなもの姿が映っている。
 ――己の、闇……。
 みなもが手を伸ばそうとしたところで、その虚像はぐにゃりと歪んだ。
 そこへ、山羊の角を生やした、毛むくじゃらの悪魔が映る。
「え……」
 声をあげる間にも、鏡の中にはここにはいないはずの人物……先の少年たちの姿が映る。
 悪魔は身を翻し、子供たちに襲いかかった。
 鋭い爪が、牙が。無残にも肌へと食い込んでいく。
「やめて!」
 みなもは思わず目をそらし、声をあげた。
『何故。お前が望んでいたことだろう』
「違うわ、あたしは、望んでない。こんな恐ろしいこと、考えたこともない!」
 語りかける声に耳をふさいで、必死になって頭を振る。
『自身の闇を否定するな。己に正直になるのだ。誰にだって、悪の心はある。それを無理に抑圧することはない』
 今度は、人魚たちが鏡に映り、悪魔によって引き裂かれていく。
 自分を否定し、蔑んだものたち。一方的に悪意を向け、暴行を加えたものたち。
 それらが今、目の前で苦しみ、助けを乞うているのだ。
 ――いい様だわ。
 思わず浮かんだ笑みと言葉に、みなもはハッとして表情を変える。
『そうだろう。先に悪口を言ったのも手を出したのもあちら。理不尽な暴力に、君は復讐する権利がある』 
「……そんな権利、いりません」
『一体、何に遠慮しているんだ。どうして自分を取り繕う? 素直に認めればいいじゃないか。ここには、君を責めるものなどいないのだから』
 ――責めるものはいない。そう、これは夢なんだから。きっと目が覚めたときには忘れてしまう、幻のようなものなんだから。
 取り繕う必要なんて、ないはずだわ……。
『受け入れなさい、自身の闇を。光を受けるほど濃く落ちる、君の影を。それも全て、君なのだから』
 最初は不気味に思っていた声が、妙に優しく感じた。
 この世界でたった一人の、理解者のように。
 否定しなくても、いいんだ。影を切り離すことなんてできない。心の闇も全て、あたし自身なんだから。
「ふふ」
 思い至ると、みなもは声をたてて笑った。
 鏡の中では憎むべき相手が血を流し、逃げ惑う姿が映る。
 悪魔はそう簡単に、殺しはしない。じわじわと、獲物を追いつめ、楽しんでいるのだ。
 ――思い知ればいい。自分の感じた恐怖を、身を引き裂くような痛みを。あたしは何度も、味わってきたんだから。
 ずっと自分を抑えてきた、理性や倫理。それが溶けるようになくなってきているのがわかった。
 みなもは顔に浮かぶ笑みを、もう隠そうとはしなかった。
 そう……これはあたしの望み。まさに、夢の実現。
 開き直ってしまえば、これほど楽しい見世物はなかった。
 怯えていたのはその光景ではなく、それを楽しむ心だったのだ。
「いた……っ」
 不意に、みなもは頭部に痛みを感じて手をやった。
 その手の爪が、見る見るうちに伸びていく。
 口の中で、牙が大きくなるのがわかる。足元を、黒い毛がおおっていく。
「何、これ……どうして」
 みなもが顔をあげたとき、鏡にはもう映像はなかった。
 ただ、山羊の角に、馬の蹄。先の尖った尻尾に尖った耳とコウモリ羽。爪と牙を持った悪魔……自分自身の変わり果てた姿が、そこに映りこんでいた。

                 end