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<東京怪談ノベル(シングル)>


エリスの世界(前)



 深夜。午前零時。
 一日に成すべきすべての仕事を終えて、エリス・シュナイダーは私室のドアを開けた。
 ひんやりとした空気。そして暗い静寂が彼女を出迎える。ほかに彼女を迎えるものは何もない。冷えついた真冬の空気だけが、エリスを迎える全てだ。
 彼女はうっすらと白い息を吐きながら、手をのばして照明のスイッチを入れた。カチッという軽い音が静寂を破る。天井の蛍光灯が点灯し、エアコンが動きはじめて、かすかにエリスの前髪を揺らした。短くまとめられた、淡い栗色の髪。彼女の自慢だ。
 後ろ手にドアを閉じると、エリスは深く吐息をついた。ここクライバー邸に住み込みで働いている彼女にとって、ただひとつ気を抜くことが許される場所。それが、この私室なのだ。
 もうずいぶん長いあいだ、彼女はそうした暮らしを続けている。一日の仕事を終えて誰も待つ者のいない部屋に一人で帰るのも、とっくに慣れた。
 しかし、かといってこの部屋に何もないわけではない。そして、なにも「いない」わけでもない。多くのものが、この部屋には揃えられている。メイドの私室にはそぐわないキングサイズのベッド。高級アンティークのクローゼット。クリスタル調のガラステーブルにはウェッジウッドのティーセットが一式。テレビや冷暖房も完備されている。
 とりわけ目を引くのが、天井にまで達しようかという巨大なキャビネットだ。並の背丈では手の届かない高さ。脚立や踏み台を利用することを想定して作られているのだ。しかし、エリスには必要ない。背が高いのだ。それも、常識はずれなほど。彼女がこの屋敷で働きはじめたとき、特注のエプロンドレスを作らせなければならなかったぐらいに。そして、使った生地の量だけで特別料金を請求されたぐらいに。
 このキャビネットには、彼女の趣味であるコレクションが収められている。いささか倒錯的な趣味だが、それを知る者はいない。──否、知っている者は無数に存在する。百万とか二百万。そういう単位で。しかし、その事実は何ほどのことをも意味しない。こう言えば正確だろう。彼女の趣味を知る者で、その邪魔をできる者はいない──と。
 胸元のリボンをゆるめながら、エリスはガラステーブルのほうへ足を向けた。ティーセットからポットとカップを出し、比較的いいかげんな感じで茶葉をポットに入れる。その上から湯をそそぎ、すこし待ってティーカップに移した。主人クライバーの前では決して見せることのない、ぞんざいな紅茶のいれかた。
 しかし、出来映えのほうは問題ない。たちまち広がる、アールグレイの香り。その芳香と味に満足して、エリスはわずかに微笑んだ。一日の終わりを紅茶でしめくくるのは、彼女の習慣だ。そして、その日の気分次第では『趣味の時間』がやってくる。今日も、そういう日だった。
「さて、と……」
 ティーカップを手にしたまま、エリスはテーブルを離れた。その口元には、ひっそりとした笑みが貼りついている。どこか冷たいような、しかし見方によっては無邪気にも見える微笑み。
 エリスは巨大なキャビネットの前に立つと、宝箱でも開けるような手つきでその扉を開いた。──とたん、かすかに広がるアスファルトの匂い。そして、ガソリンの匂い。
 そこに並べられているのは、あらゆる人工物のミニチュアだった。たとえば自動車。たとえば飛行機。たとえば高層ビル。それだけにはおさまらない。公園や学校、図書館、野球場──。そういった巨大な施設までもが精巧なミニチュアとして収蔵されているのだ。人類の作りおおせるほとんどのものが、この一室に──このキャビネットの中に、収められているのだった。
 それらコレクションの中から一台のスポーツカーを選んで、エリスはつまみあげた。血のように赤いカラーリング。洗練されたフォルム。イタリアの誇る名車フェラーリだ。しかし、大きさはエリスの指先ほどもない。ミニカーと呼ぶにもあまりに小さすぎるサイズ。それでも、精巧きわまる緻密な作りは完璧の一語に尽きる。ミニカーや模型などとは比較にもならない。当然である。なにしろ、実物をそのまま小さくしたものなのだから。
 ちいさなフェラーリをガラステーブルの上に置くと、次にエリスは大型バスを手に取った。無論、大型といってもフェラーリに比べればの話である。実際には、エリスの小指の半分ほどもない。それをフェラーリの横に並べると、彼女は手に持っていた紅茶を一口すすり、「サイズをあわせたほうがいいかしら」と呟いた。
 次の瞬間、まるで魔法のようにバスが小さくなった。もちろん、魔法などではない。エリスの持っている超常能力である。魔法とちがって、呪文をとなえたり魔方陣を作ったりなどということは必要ない。いつでもどこでも、なんの制約もなく彼女のこの能力は発揮される。すべての物体のサイズを自由に操る能力。エリスは、そのマスターなのだ。
 使いようによっては世界を支配することさえ可能な力だが、彼女はそんなことに興味がない。日々メイドとしての仕事をこなし、一日の終わりにこうした趣味の時間をすごすことさえできれば、それで満足なのだ。
 彼女の力からすれば、バス一台を大きくしたり小さくしたりすることなど、呼吸をすること同様にたやすかった。そうしてエリスの指先ほどのスポーツカーとバスが並び、見えないスタートラインの上に配置されたのだった。
 エリスはそっと身をかがめると、二台のクルマに向かってフッと息を吹きかけた。──が、どちらもピクリともしなかった。一瞬エリスは眉根を寄せて、次には思いきり息を吹きつけた。
 エリスのやりたかったことはカンタンだ。つまり、どちらのクルマが速く走るか競争させたかったのである。ところが現実に起こったことはというと、フェラーリはスピンしながらガラステーブルの向こうまで吹っ飛び、バスは横転して火花を散らしながらテーブルの上を転がっていくという具合だった。壮絶な失敗である。息が強すぎたのだ。
「……なんだか、うまくいきませんね」
 はぁ、と溜め息をついてエリスは紅茶をもう一口すすった。クルマがうまく走らなかったのはサイドブレーキがかかっていたためなのだが、そんなこまかいことにまで彼女は気が回らなかった。まわったとしても同じようにしたかもしれないが。
 彼女はスクラップになってしまった二台のミニチュアカーを拾い上げると、そのサイズをさらに小さく小さく──ケシつぶほどにまで縮小させてしまった。それをゴミ箱の上で払い落とすと、もうその玩具には興味のカケラもなくなったといった様子でクルリと背を向けた。
 そして、ふたたびキャビネットの前に彼女は立った。無数のコレクションに視線を走らせながら、次のオモチャを選ぶ。
「このクルマなら簡単には壊れませんよね」と確認するように呟きながら、エリスがつまみあげたのは一台の戦車だった。M1エイブラムス。米軍の主力戦車である。彼女の言うとおり、簡単には壊れない。ただし、現実に即したサイズであればの話。
 しかしそんなことはまるで考えもせず、エリスは戦車と戦わせる相手を選ぼうと、コレクションを端から端まで物色しはじめるのだった。
 いくつか候補が選ばれた。まず大型トレーラー。次に新幹線。さらに、爆撃機、大型客船、人工衛星──。もはや何をしようとしているのか、彼女自身にさえよくわかってはいなかった。
 わかっているのは、ただこうしてミニチュアで戯れる時間こそが彼女にとって至福のひとときであり、だれであろうと邪魔することはできないという事実だけであった。