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クッキーとビスケット
初夏。空が気持ちよく青い日である。雲は薄く小さな物がぽつぽつと浮いているだけで、太陽を遮る物は何もない。
風が吹き、街路樹がざわりと揺れた。誰もない街道の上、一人の少女がその背の翼をはためかせ、気持ちよさそうに舞っていた。
少女の名は、ファルス・ティレイラ。竜族の少女なのだが、ここ東京ではその能力を生かして配達の仕事を請け負っている。
今は、その帰り道と言うことだ。小さな小箱を届ける、簡単な仕事だった。
しかし……彼女が少々上機嫌なのは、仕事を簡単に済ませられたからだけではなく。
ティレイラが両手でしっかり抱えているのは、無論届け物ではなく。
赤い革のカバーと、金色でタイトルを描かれた、古い小さな本であった。
「つい、表紙を見て買っちゃったけど……どんな本なんだろ!」
自分へのご褒美! と、町外れ店で、古びた本を買ったのだ。
表紙には、美味しそうなおかしと、それを囲む人々、そして『スウィートミュージアム』の文字。
地面に降り立ち、本を眺める。だいぶ年季が入っているのだろう、タイトルはかすれていて読み取れない。
ぱらぱらとページを捲ると、古代の言葉が並んでいる。
この言葉達もまた時間の流れに淘汰され、所々インクが消えてしまっている。
ただひとつ、解るのは。
「本の中に入る夢を見れるんだよねっ。うーん、楽しみ!」
そう、この本を枕元に置いておけば、その本の中で遊べると言うのだ。
挿絵に、表紙に、描かれているお菓子。思わずくうとお腹を鳴らしてしまい、ティレイラは苦笑した。
くすんだ色のそれからは、既にもう香ばしい焼き菓子の香りがしてきそうな。
珍しくお菓子屋のショーウインドウを覗き込むこともなく、家路を急ぐのだった。
寝室に駆け込んだ時、もう既に日は落ち月が浮かんでいた。
ティレイラは、暗い部屋にぱたぱたと入り込んでくると、早速枕元へ本を置いた。
就寝の時間を待ち望むなんて、今までにあったかどうか!
簡単な夕食を終え、嬉々として布団にもぐりこむ。寝巻きに着替えるのも忘れ、ただ夢の中の出来事を思い描くばかりだ。
やはり、そう簡単に眠りに落ちる事などできるはずなく。
何度も寝返りを打ち、ぱらぱらと本のページをめくり、伸びをして……。
彼女の寝息が聞こえてきたのが、その数十分の後のことだっただろうか。
深い眠りだ。本は相変わらず黙りこくったまま、その寝顔を見つめている。
目を覚ましたティレイラの表情は、一瞬にして明るくなった。
瞳を開けば、一面可愛らしく美しいお菓子の山。
何段にも重なったケーキ、綺麗に並べられたリーフパイ。砂糖がきらきらと輝き、まるで星のよう。
砂糖で作られた透き通るケースには、小さな小箱に詰められたキャンディやチョコレートが飾られている。
まさしく、お菓子の美術館、お菓子の展示会だ。
ご多分に漏れず、ティレイラは一目散に一番手近なお菓子へと駈け寄った。
「これって、食べていいのかな? 食べたいなあー……」
彼女が見つめているのは、どこまでも精巧に作られたクッキーだった。
東京では見かけないような花を象ったもの、動物の形をしたもの、ハートやクローバーの形をしたもの。
特に彼女の目をひきつけたのは、身長ほどの大きさもする、トランプの形や絵柄を模したものだ。
ジャック、ナイト、キング。それぞれクローバー、ダイア、スペードのカードに収まっている。
チョコレートで描かれたそのマークと、ココア味の生地で作られたのであろう細かな人物画。
「食べるのには勿体無いなあ……。このまま見てるだけでもしあわせ……」
無論、食べれればもっとしあわせなのだろうけれど。
うっとりとした目つきでそれを眺めるティレイラ。
さて次のお菓子は、と、視線を移す。まさしく、目移りしてしまうような展示会。
豪華に飾り付けられたフロアーには、数え切れないほどのお菓子が並べられているのだから……。
彼女でなくても、思わず何度も辺りを見回してしまうだろう。
甘い香りに満ちた、魅惑の空間。ほんの少しでもお腹がすいていれば、誰もが瞳を輝かせるだろう。
満腹の者には、少々きついかもしれないが。
そして、よくよくあたりを観察すれば……。
ガラスだけではない。柱や床は砂糖菓子、時計はビスケット。
机は魔法の掛かったティラミス。天井のシャンデリアは飴細工、窓の縁はクッキーだ。
「すごぉい……食べられないよ、こんなに沢山のお菓子があるなんて思ってなかったもの!」
もしや全部全部食べるつもりだったのか、と、彼女を知るものから知らないものまでがツッコみたくなるだろう。
しかし……彼女が冗談でそんなことを言うはずなく。
夢が覚めるまでに全部食べられるかしらん、と、首を捻るのであった。
「全部じゃなくてもいいなあ、せめてこの部屋のお菓子だけでもいいな」
瞳をキラキラさせながら、広い部屋を歩き回る。フロアーはどこまでも続いていて、歩いているだけでは時間が過ぎてしまうだろう。
ここは夢の世界。翼を広げても、それに驚く人々もいないだろう。
ティレイラは背中から紫色の翼を生やし、フロアーを見て回った。
見たこともないお菓子から、どこにでもありそうな――ただし、おいしそうな――お菓子がずらりと飾ってあった。
それを一つ一つ見るたびに、彼女のお腹は小さく鳴った。
フロアーは長く長く伸びている。大きなお城の廊下ならば、このくらいの長さになるだろうか?
ああ、この建物もお菓子で出来ているのだろうな。ティレイラはうっとりと溜息を付いた。
と、ティレイラの後ろから、小さな物音が聞こえた。
振り向くと、フロアーの隅の扉を、誰かが開けようとしていた。
ようやく、この部屋を一回り見て回れそうだったのに。誰だろう、と、そちらを振り向く。
チョコレートの両開きの扉から出てきたのは、ティレイラと容姿がそっくりな、しかし黒装束に身を包んだ……そう、表紙に描かれていた、魔女だった。
両者の目が合う。どちらも一瞬ぎょっとし、お互いの顔をまじまじと見詰め合った。
どうしよう! 両方が思ったに違いない。
しかし、その理由は、おそらく違うものだ。
ティレイラは、勝手にここに入ってきてしまったことの弁解と、魔女に会ったことの驚きで、焦っているのだが。
魔女の方は……嬉しさのあまり息を詰まらせてしまったのだ。
「……やっと見つけた!!」
「はい?」
ティレイラが言い訳をはじめようとした瞬間、魔女がぱあっと顔を輝かせた。
「ハートのクイーンが見つからなかったの。今日の主役はあなたに決定よっ、お菓子ドロボウさん!」
魔女が杖を振り上げる。
言葉の意味を理解出来ないまま呆然としているティレイラに向かって、彼女は杖を振った。
ぽむんっ、と、なにやら可愛らしい爆発音と共に、ティレイラと同じくらいの背丈のお菓子の魔物が現れる。
「その子を食べちゃえ、一号っ!」
その掛け声に、一号らしき魔物は、「みー」と、またもやどこか可愛らしい咆哮を上げた。
見る限り、生クリームとスポンジで出来た体とキャンディで出来た瞳、
ビスケットの翼と一本の角、あとは砂糖菓子の牙と爪を持った魔物らしいが……。
ティレイラの食欲をそそったかどうかは別として、この一号という名の魔物はティレイラを食べる気らしい。
図体には似合わない甲高い鳴き声と共に、ティレイラにてとてとと迫って来るのだ。
あまりに突然な出来事に茫然自失となっていたティレイラであったが、魔物がすぐそこに迫ったとなれば、話は別だ。
「違うよっ、ドロボウじゃないよ! お菓子は食べたいけど……食べられたくはないよっ」
食べられるのはあまり好きではない。今までの経験上、そのあたりははっきり言える。
だいたい、食べられた時はいい結果を迎えられる事がないのだ。
今回はもうすでに、本に食べられているのだが……本人は気付いていないので、放っておこう。
指先に魔力を集め、ちろちろと燃える火を作る。しゅるしゅると音を立てるのは、集められた魔力とそれに流される空気だ。
それを両手で覆い、そのまま魔物に向かって発射した。
衝撃と轟音があたりに響き、魔物の小さい叫びだけが耳に入る。
お菓子の床は無事だったかな、と少々心配気味に目を凝らすが、流石に魔法の世界だけあって、ただの衝撃だけでは壊れないようだ。
「ちょっと、何するの!」
「そ、それはこっちの台詞っ!」
魔女が怒れば、ティレイラも言い返す。
「お菓子ドロボウさん、大人しく掴まってよっ。主人公になれるんだから!」
杖を振りかぶれば、ぽむんという音と共にまた魔物が煙の中から現れた。
「嫌だよ! ここのお菓子、一つでいいから食べるんだものっ」
ティレイラが炎の魔法で反撃する。
「この部屋を焼き菓子にしちゃうつもり? 私の魔法は敗れないとおもうけど」
「そっちが魔物を使ってくるから反撃するんでしょ? そっちがやめればいいの!」
「そうはいかないよ、だって、いい素材を目の前にして手に入れないなんて……勿体無いもの!」
「私は素材じゃないのー!!」
言い争いと、魔物対炎の魔法。ぽんと魔物が現れ、それが数発の魔法で倒される。
ティレイラは飛び回り、魔女は杖を振り回し。
攻防は対等に続いていた、かに思えたのだが。
あれ、と、ティレイラが気付いた時には、もう遅かった。
もう魔物は何匹目になっただろうか……その、何号かも解らない魔物は、遥かに巨大だった。
ティレイラの何倍の身長なのだろう。少なくとも、フロアーの天井よりかは低いのだが、威圧感はたっぷりだった。
みー! という鳴き声は、もはや釣り合う釣り合わないの問題ではない。
魔女が最初の魔物より強い魔物を出してくることを考えていないわけではなったが……。
気付けば、ぱくっと丸呑みにされていた。びすけっとの爪にひょいっとつままれ、口の中にぽいと放り込まれたのだ。
あまりの出来事に、ティレイラはただ無言で“?”マークを浮かべている事しか出来ない。
「……あれ?」
目をなんどもぱちくりさせて、あたりを見回す。
「……あれ?」
自分の落ちてきた所を見上げ、そのあたりの壁を叩き、床にも触ってみる。
こめかみに指を当てて先ほどまでの出来事を思い返してみる……。
「ちょっとー!! 何、私って今、食べられちゃってるのー?!」
魔物の中から聞こえる声に、魔女が「そうだともさ!」と、満足げに答えた。
「ほんの少し時間が掛かるけど、お菓子になってもらうからね」
魔女の声に、ティレイラは思わず飛び上がった。やはり、食べられるとろくなことがない!
お菓子になるってどう言うこと、と言おうとした時だった。
床から、壁から、じわじわと何かねばついた液体が流れ出してきたのだ。
感触や見た目は水あめに酷似していたが……。
「お菓子になるって、……つまり、そういうことなのかも……」
ある程度予想できていたとは言え、やはりいい気分はしない!
その水あめもどきを触った指が、凍り付いていくような感覚。
「まってよ、私まだ一つもお菓子食べてないのにー!」
勢いよく立ち上がれば、足元の水あめもどきが跳ねて、太腿に当たる。やはりそこから、体がお菓子に変わっていくようで。
水あめもどきは、じわじわと量を増してきている。
なんとかならないかと翼をはためかせてみるものの、むしろ液体がざぶんと跳ねるだけ。
しかも、羽には生暖かい感触。足の方にすらずるりと流れ込んでくる水あめもどきに、背筋を振るわせる。
ここで転んだりしたら、大変なことになる!
翼は付け根までお菓子に変わってしまった。不用意に動いたら、もう足の付け根にまで液体が染み込んできてしまうだろう。
ティレイラはもう、ただ自分の体が変わっていくのを待つしかなかった。
「お菓子食べたかったのに、もしかして私の方が食べられちゃうのかなあ……」
じわじわと麻痺していく感覚に、半ば泣きながら呟くティレイラ。
すると、外側からあの魔女の声が聞こえてきた。
「やっぱりお菓子食べたかったのね、ドロボウさん」
どうやら、最後の仕上げに入っているらしい。部屋を片付ける音や、お菓子の乗っている皿を整える音がする。
「私だってそこまで悪い奴じゃないのよ。展示会が終わったら、元に戻してあげるから!」
もう腰の辺りまで水あめもどきに浸かっていたティレイラが、顔を上げた。
「本当? お菓子も食べれるんだよね?」
「勿論! だって、展示会だもの。さっきより少し量は減ってるかもしれないけど、ちゃんと食べれるよ」
それを聞いて、ティレイラは安堵の溜息を付いた。
「じゃあ、それなら、その……お菓子、残しておいてね」
魔女の方も、どうやら安心したらしく、快く承諾してくれた。
早い所お菓子になってしまったほうが良さそうだ、と思いついたティレイラは、ざぶんと水あめもどきのなかに潜りこんだ。
魔女がそれに気付き、魔法をかけて、ティレイラの形をしたクッキー……もとい、クッキーになったティレイラを取り出す。
「うん、やっぱりいい素材よ。ナイスポーズ!」
液体の中に潜りこんだときのポーズのまま、お菓子になってしまった訳なのだが。
膝を抱えるようにして座った格好は、可愛らしさをよく表現している。
お菓子を食べれると知って安心した表情は、ほんの少し微笑んでいて、中々素敵だ。
「最終手段で、自分がお菓子になろうと思ってたけど。やっぱり私はお菓子の解説もしなきゃだし、今日はよろしくね、ドロボウさん」
悪戯っぽく、しかし感謝している節が感じられる言葉。
ティレイラは無論口を利けなかったが、ハッピーエンドならまあいいか、と喜んでいるのだった。
さて、お菓子の展示会が終わったのは、その数時間後だった。
どうやらトランプを模したクッキーは皆他の素材から作られていたらしく、ティレイラのハートのクイーンを除いて、全て無くなっていた。
「さあ、協力してもらったお礼だよ。全部食べていいからね!」
そう言って、魔女は両手を大きく広げた。
「……全部って?」
「え? この部屋にあるお菓子ぜーんぶ、だよ」
お互いにきょとんとし、顔を見合わせる?
「全部?」
「全部」
あまりに嬉しすぎたのか、ティレイラはしばらくの間硬直していた。
が、それも一瞬の事。すぐにぱあっと顔を輝かせ、一番手近なお菓子に飛びついたのだった。
「あれも美味しそうだと思ったんだよ! あ、これも。これも!」
まるでバイキング。
魔女はほんの少し呆れながらも、自分の作ったお菓子を美味しそうに頬張る少女を嬉しそうに見つめていた。
いつも一方的に食べる側であり、またある意味で一方的に食べられる側のティレイラだったのだが……。
お菓子自身からの視点もまた、興味深い物であって。
しかし、今はただ、食べたかったお菓子を食べ尽くすことのみを考えていた。
その後、展示会に参加した人々や魔女から、モデルになったクッキーのことで何度も誉められ、照れ笑いをしたり。
皆が持ち寄ったお菓子や飲み物をまた再び食べて飲んでで、朝になるまで楽しんだり。
もし夢に入った瞬間からお菓子に手を出していたらどうなっていただろう。
今回ばかりは、ティレイラの好奇心とお菓子への情熱が、運のよさに結びついたのだろう。
ところで、現実世界では、ティレイラは小さく寝言をいいながら布団をもぐもぐやっているだけなのだった。
布団は、おいしくない。
朝起きたティレイラが口の中の味と布団の様子にほんの少しだけ絶望したのはまあ、また、別の話だ。
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