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<東京怪談・PCゲームノベル>


《コクーン》SIDE:WHITE

【1】

 茜色の空が広がっていた。
 都心に聳えるビル群が、濃く淡い灰色のシルエットとなって、矩形に空を切り取っている。それらのシルエットの輪郭に、今日という日の命を終える太陽の残光がダイヤモンドリングのような輝きを生んでは消えていく。
 東の空にたなびく雲の色も、刻一刻と薄い藍色に染まりつつあった。
 やがて太陽は街影の端に沈み、夜が来る。

(日がずいぶんと長くなった…)

 足下に伸びる長い影を見下ろして、みなもはそう心の中でつぶやいた。
 暗く深い「冬」という名のトンネルを抜け出して、今年もまた春が来た。
 流れるようにやって来て、いつしかまた、流れるように去ってゆく。
 目には見えない律によって、めぐりめぐる季節。
 みなもは、久しぶりに目にした都心の街並みを眺めて思う。
 今年もこうして春が来たように、街の姿が変わっても、人間たちが変わっても、この街に潜む異形たちが変わっても、そして自分という存在が変わっても、めぐる季節は変わらない。
 空の表情ひとつをとっても、未来永劫けっして全く同じ姿を見せることはないだろうが、めぐる宇宙のリズムは変わらない。
 それは、この世に存在する森羅万象の姿である、とみなもは思う。
 人の命も一つとして同じものはない。
 人のみならず、草木や石にいたるまで、一つとして同じものはない。
 そして、一つとして何もかもまったく同じに繰り返される事象もない。
 たった一度きりの存在と事象で作られている。それが、世界だ。
 そう、みなもは思った。
 
 この世は、気が狂うほどの「たった一度きり」に埋め尽くされている。


 見る者の目を射抜く輝きを放っていた太陽が、力を喪い、今まさに沈みゆくところだった。
 赤い陽の残光が、みなもの頬をほんのりと暖め、朱に染めていく。
 やさしく寂しい夕風がみなもの髪を撫でていく。
 みなもは頬にそっと手をあてる。
 あの沈む夕日は決して言わない。
「私が『今』という瞬間に放つ輝きは、未来永劫、二度とないものである。見よ、そして惜しめ」――とは。
 一本の草木にしてもそうだ。
 夕空にねぐらを目指す鳥たちにしてもそうだ。
 みなもに心を許し、常に傍らに在ってくれる水たちにしても、そう。
 目に見えぬものたちも、みな、そうだ。
 二度とは還らぬ一度きりの「今」を、流れる水のように過ごし、そして永遠に失われていく。
 ああ、この世はなんと謙虚な奇跡で満ちていることか。
 みなもが今日見た世界の切れ端。
 都心の夕暮れを眺めながら、みなもは一人思うのだった。



【2】

 今日はめずらしいことに、学校が早く終わった。
 明日に学校で催される外部向けの行事の準備のために、午後からの授業が2限分なくなったのだった。学校では授業がなくなったことを喜ぶ生徒も多かった。
 みなもは授業が無くなったからといってそのことで大喜びする方でもなかったが、少しばかり普段とは違う、どこか浮き立つような気持ちを抱えて校門を出たことも、あながちうそではなかった。
 いつもとは違う時間に学校の外に出ると、毎日学校に通ううちに珍しくも思わなくなったはずの見慣れた光景が、まるで見知らぬ街の景色のようにも見えてくるから不思議だ。
 光の加減が違うせいなのか。
 往来を行き交う人がいつもと違うせいなのか。
 見慣れたはずの道路標識。
 見慣れたはずの店の看板。
 見慣れたはずの赤い屋根。
 見慣れたはずの交差点。信号の点滅する時間が、やけに長く感じる。

(あんなところに白い家ってあったかしら……?)

 胸騒ぎにも似た微かなざわめきが、みなもの小さな胸を叩く。

(こんなところに空き地があったなんて知らなかった。)

(「知らなかった」……?)

 見慣れた景色と見知らぬ景色が二重写しに重ねられているかのような違和感が、みなもの感覚を浸していく。
 みなもは、何かに誘われるように電車に乗った。
 夕暮れ時に近くはあったが、都心に出ても帰宅には遅くはならないだろう、そんな時間だった。

(アルバム。アルバムを買わなきゃ。)

(アルバム……?)

 収める写真は思いつかなかった。だが、なぜかそう思った。アルバムを買わなければ、と。



 景色を早々に追いやる車窓の外には、面々世界を埋め尽くす家々の屋根が金色の光を照り返していた。
 車内に差し込む金色の帯。
 向かいの席に項垂れて舟を漕いでいる客の顔は見えない。
 みなもの視界がまた、揺らいだ。
 黄昏時。
 誰そ彼時。
 向こうから来るあの人影は、いったい誰なのか。

 ――うしろのしょうめん……だぁれ……――

 みなもの耳に、幻に聞こえた声があった。
 いつか聞いたような、遠い昔に聞いたような声。
 逢魔ヶ刻。

「まもなく上野……上野駅に到着します」

 車内のアナウンスが告げた。
 どれほどの間、電車に乗っていたのか、みなもにはもうわからなかった。

 駅ビルが夕日に照らされて赤銅色に壁面を輝かせていた。
 視界を横切る夕焼けの光が、どこか懐かしく感じられるのはなぜだろう。
 駅前を行き交う人々の影は濃く淡く、灰色に染まって表情が見えない。
「アルバムを……買わなきゃ」
 うわごとのように呟いた。
 自分の声ではないようだった。
 そう呟いたみなもの掌に、ふと、何かがひらりと降ってきた。
 それは小さな一枚の紙だった。
 黄昏時の光に照らして紙を見ると、

 <おいでませ パラダイス・コクーン>

 ビラにしては味気のない白い紙に古い時代を思わせるような形の、不揃いな活字が躍っていた。
 文字の傍らには手書きの地図も添えられている。
「……コクーン? 何かしら」
 そう呟くみなもの前に横に、また一枚、一枚と微かな音を立てて白い紙が落ちてくる。空を仰げば、その小さなビラは、牡丹雪の雪片のように、次から次へと天から舞い降ってくるのだった。
 春の雪のように。



【3】
 
 何となく、気が向いたのだ。
 何のイベントが行われているのかもわからない。
 どんな客を望んでいるビラなのかもわからなかったが、みなもは見てみたくなったのだ。楽園と名づけられた繭というのを。
 地図を頼りに歩いたみなもが辿り着いたのは、夕闇に暮れなずむ上野公園だった。
 樹々の多さが、いっそう園内を暗くさせているのかもしれない。
 人気のない園内を彷徨っていると、どこかから声が聞こえた。

「ようこそ、ようこそ、パラダイス・コクーンへ」

 張り上げるような調子の声の主を探すと、こちらに歩いてくる人影が見えた。
 水玉模様のダボダボとしたつなぎ服を着た道化だった。
 みなもの前に立つと、胸元に手を当てて、やけに丁寧にお辞儀した。意外に背が高い。頭には赤い、円錐形のパイロンのような大きな帽子を被っていた。
 道化は赤い手袋を嵌めた掌を、重ねて差し出した。
「入場料はたったの100円! たぁったの100円で、胸はドキドキ、心躍ぉる楽園へと、あなたをお連れいたします! さぁ、いかが?」
 芝居っ気たっぷりなしぐさで道化が入場料をねだる。
 道化の、一筋零れる涙を描いた白い頬が泣き笑いに笑った。
 みなもは学生鞄から財布を取り出し、取り出した百円玉を一枚、道化の掌の上に置いた。
「ははぁ、ありがとうね、お嬢さん! あれに見えますドームが、お嬢さんを待つパラダイス・コクーンでございますよ。さぁ、いってらっしゃい!!」
 大仰に頭を下げた道化が、広場のあたりだろうか、彼方に見える白いドームを指差した。 ドームの上には飛行船らしきものが浮かんでいる。
「コクーン?」
 財布をしまいながら、みなもは道化に聞き返した。
「そうです、そうです。コクーン。ああ、あちらの飛行船は広告塔のようなものですよ。コクーンは向こうにあります。」
 飛行船を見つめていたみなもへと、大仰に揉み手しながら、道化が言った。
「繭、ということですか?」
「おお。さぁすが、賢いお嬢さん、博識でいらっしゃる」
 道化は両手を広げ、裏返るほどの高い声をあげ、みなもを褒め称えた。
「でも……あれって、何の繭、なんですか?」
「ははあ、みなさんそうおっしゃる。それは入ってみてからのお楽しみ、と申し上げたいんですがね。それじゃあ駄目ですか、お嬢さん」
 みなもは少し考えた。
「じゃあ、ヒントをくださいませんか?」
「ヒント! いいですねぇ。それは愉しい。では、お嬢さん、わたくしめからも質問です。――お嬢さんは、『人間』では、ないね?」
 みなもははっとして道化を見上げた。
 白く塗られた顔の中で、星型に縁取られた隈取は目元の表情すらも隠しかねない。
 だが、道化の目は笑っていた。
 おどける風でもあざ笑う風でもない、少し悲しげに微笑んでいるかのようなまなざしだった。
 少なくともみなもには、そう感じられた。
「もっともこの街には『人間』でない方々は結構いらっしゃるようだが。けれど、お嬢さんがここに招かれたのには……理由があるのですよ。」
 道化の口調が、いつしか少しく真面目なものへと変わっていた。
「招かれた……理由、ですか?」
「そうです。理由があるのです。ではお嬢さん、その謎へのヒントも含めて、さきほどのご質問へのヒントをあげましょう。お嬢さん、不老不死と言われる貴女がたにとって、『時』は何を意味するのでしょうか――。」
 唐突な問いに、みなもは少しばかり面食らった。
 この道化は、みなもがどういった存在であるかを知っているようだった。
「時は、貴女がその切断を望まない限りは、際限なく積み重ねられていくもの、でしょう。」
 道化がみなもの答えを待たずに言った。
 当惑したままみなもは首を傾げる。
「あたしは……そんな風に考えたことはあまりなかったですけれど」
「それはそうだ。貴女がたは、そういう風に生まれついている。限りのない時間の限りない重みを受け止められるように出来ている。――それは、そう、向こうを行く彼ら、人間たちがこれまで望み、叶えられず、そしてこれからも叶えられない望みでしょう。……たとえ生物学的に不老不死を可能にする日が来たとしても、彼らの精神は時の重みに耐え切ることができない。それも、そう生まれついているからです。」
 もっともだと言わんばかりに道化はひとつ頷いた。
「だが」
 一呼吸の間を置いて、道化がみなもの瞳を覗き込んだ。
「お嬢さん、貴女は考えたことがなかったかな。先ほどあまり考えたことはないと仰ったが……貴女は違和感としてであれ、本当に感じたことはなかっただろうか。一応は『人間』として生き、人間の暮らしに混じる中で、人間たちが感じているらしい時間と、貴女の感じている時間の感覚が違う、と感じたことは。そして、貴女自身、人間たちが背負う時間の重みを錯視してしまうことは、本当になかったのだろうか」
 言葉こそは硬かったが、その声は低く眠りに誘うような調子を帯びていた。
 そんな道化の呪文めいた声を聞きながら、みなもは思い出していた。
 ここに来るまでの間に見た、黄昏の輝きを。
 蜃気楼のように立ち現れては消えていく、まるで幻の国のように見えた黄金色の街並みを。
 全ての光景が切なく煌いて見えたのは、なぜだったのか。
 あの時、みなもは瞬くことすら惜しかった。
「あなたがおっしゃるとおり、あたしは、人の『生』を知りません。」
 みなもは、知らず口を開いていた。
「人間にとって時が重さを持つ理由の一つには、彼らの傍らに常に、自分には見えない『死』が口を開けていることがあるんだろうって思います。あたしたちには無い感覚です。あたしたちは、見えない底無し穴に落ちるかもしれないという恐怖も感じないし、底無し穴の闇を覗く陶酔も知りません。けれど、『死』と『老い』を自分の身体で知っている彼らは、今という一瞬一瞬が凄まじいまでに終焉に向かっているって感じているんじゃないかしら。これは、あたしが彼らと共に暮らしてきたことからの想像でしか……ないのですけれど。」
 道化が腕を組んで、ほう、と呟いた。
 みなもは空を仰いだ。
 紺青に染まりつつある空に、ねぐらに帰る鴉の黒影が渡っていった。
「一瞬一瞬が別離の時である彼らにとって、時は、愛しくて憎いものなのだと、思います」
 みなもは、議論が特別好きな方でもないし、やたらとお喋りな方でもない。
 だが、今のみなもは、まるで何かに憑かれたかのように、次々と唇から言葉があふれ出てくるのだった。他の誰のものでもない、自分の考えであり、自分の言葉ではあったが、そんな風に語っている自分が不思議だった。
「けれど、時間は、あたしたち人魚にとっても常に一方通行です。私たちにとっても『もし』という仮定はありませんし、二度と戻ってくる時間も無いのですから。――だから、あたしにとっても、時は愛しくて憎いもの、です……」
 道化が小さく笑った。
「そう感じるのは、きっと貴女だからだ。お嬢さん。二度とは戻らない時間を惜しみ愛しみ、そして憎む、永遠の時を生きるお嬢さん。そんな貴女だから御呼びしたのですよ。我らが繭――コクーンへと。さあ、あちらをご覧なさい」
 道化に指をさされてみなもが振り返ると、
「いらっしゃぁい、いらっしゃぁい。思い出屋ですよ。いらっしゃぁい」
 いらっしゃぁい、のリズムに合わせて、体を左右に揺さぶりながら、丸々と太った男が歩いてくるのが見えた。
「思い出、屋、さん……?」
「そうです。彼は『思い出屋』です。正式名称は『思い出売り買い人』ですがね。これでは名前が長くて舌をかみそうでしょう。だから、通称『思い出屋』なんです。」
 道化がみなもの傍らで言った。
 太った男は、首回りに蛇腹飾りのついたタテ縞のワンピースのようなものを身につけ、ゆるいズボンで膨らんだ短い足をその下から覗かせていた。
「はい、思い出屋です。アナタが売りたい思い出買いますよ。アナタの買いたい思い出売りますよ。お初のお客さんかい、お嬢さん」
 道化に案内された『思い出屋』はみなもの前で頭ひとつ振って会釈をし、それからみなもの顔をまじまじと不躾に見つめだした。
 ぐいと迫る顔にみなもはちょっとばかり後ずさったが、それ以上退くこともなかった。
「あなたが思い出屋さん? 思い出を売るとか買うとかっておっしゃっていましたけど、どういう……?」
 あはぁ、と思い出屋は変なため息をついた。
「やっぱり俺のことを知らなかったんだね。――思い出を売る、買う、ねぇ…。人間ってのはさぁ、面白いモンでね。人間ってのは自分の"本当の"思い出だけでは生きていられないみたいなんだよ」
「"本当の"思い出?」
「そうそ。一度きりの人生だ。大切だよなぁ。そんな大切な人生に、嫌な思い出はあって欲しくないってのが言い分さ。だから、自分にとって要らない思い出は捨てたくなる。そして、都合の良い思い出は欲しくなる。それから、幸せな思い出だったら四六時中そばに置いて浸っていたい、とかね。俺たちにはその気持ちはサッパリわかんないが、まぁ、そんな奴らがいるんだよ。――そこで俺たちの登場、となるわけでさ。」
 思い出屋があごをしゃくって見せた。
「お嬢さん、後ろを見てごらんよ」
 言われた通りに振り返ると、そこにそれまであったはずの広場の樹影は消えていた。
 代わりに、みなもの視界を埋め尽くす白があった。
 ビル一つ分ほどはありそうな大きな大きな、白い繭だった。
 なだらかな曲面を描く繭の壁面には、透きとおった糸がびっしりと絡んでいて、文字通り蚕の繭を思わせた。
「いつからあったの……これがコクーン……?」
「そう、これが人間たちのアミューズメント・パーク、コクーンだよ。思い出を売るも自由、買うも自由、キープするのに同じ思い出を一つ二つ余計に買ってみたりとかね。そんなのも自由さ。つまり、この繭は人間たちの膨大な記憶が眠る場所。アンタの記憶もあるよ、お嬢さん。あ、キオクだなんて味気のない言葉を使っちゃぁいけませんやね。アンタの金銀きらきら宝石の如き思い出が眠っているんでありますよ」
 おどけた風に手をひらつかせ、思い出屋がヒヒと笑った。
「どうだい、人間くさく永遠の時を生きるお嬢さん。アンタも一つ、覗いてみませんかね。そして、重過ぎたり軽過ぎたりする思い出の一つや二つ、売ったり買ったりしてみちゃあどう? ――ステキなものを、見せてあげるよ」
 繭を指差して歯を見せた思い出屋が、不意に繭の壁面へずぼりと両腕を突っ込んだ。
 そのまま左右に腕を開き、破れた繭の壁を力任せにこじ開けていく。
 目を丸くしたみなもの目に、鋭く、白い光が飛び込んだ。



 麗香がデスクでコーヒーカップを見つめていた。
「あらぁ、みなもちゃん、コーヒー淹れてくれたの? ありがとうねぇ。ん〜ん、おーいしっ。三下の淹れやがったコーヒーなんかに比べたら、それはもう高尾山とチョモランマってくらいのこのクオリティの差っ! 今月のアルバイト代、弾まなきゃね!」
「……普通に雲泥の差って言えばいいじゃないですかぁ……」
 事務所の床に雑巾をかけながら、三下がぼそぼそ言っている。
 その膨れ面が可笑しくてみなもは笑った。



(――えっ……あたし、今どこに……?)

 まるでたった今起きていることのように思えるそれが、3週間ほどは前の出来事だということに気づいてみなもは愕然とした。
遠く近くに思い出屋の声がぼんやりと聞こえた。
(――「さあ、お嬢さん、こっちの思い出はいるのかい? いらないのかい? 売ってみるかい?」――)
 途端、見えていた世界が、またもやガラリと一転した。



 真夜中の大池に逆巻く波があった。
 砕ける波の音すらつんざいて、高い声が響き渡った。
「きっと、友達になれたわよ!! だって、あたしとあなたは、同じ"人魚"だもの!!」 それは自分の声だった。
 叫び過ぎた喉が痛い。微かな血の匂いが喉の奥にこみ上げるのを感じた。
 黒くのたうつ大波の中から塔の如く聳える上半身を覗かせ、虚空を仰いでいた"人魚"がみなもをゆっくりと見下ろした。



(――ああ、あの時の"人魚"……。これが繭にしまわれたあたしの『思い出』――。)

「やめて!!」
 みなもは叫んでいた。叫ぶと同時に、みなもに見えていた世界が消えた。
 白い巨大な繭と二人の男だけが、今、みなもの目の前にある全てだった。
 思い出屋は繭に突っ込んだ腕を引き抜きながら、憮然とした顔でみなもを見る。
 みなもは「ごめんなさい」とひと言つぶやいた。
「でも、やめてください。思い出屋さん、あたしは、思い出を売ったり買ったりはしたくありません。幸せな思い出もそれぞれが一つきり。嫌な思い出もそれぞれが一つきり。あたしは人魚です。あの道化のお兄さんが言うことが本当なら、あたしは全部の思い出を、この胸の中にしまっておけるはず。そう生まれついているの、でしょう……?」
 道化がみなもを静かに見つめていた。
 思い出屋も黙りこくっている。
「だから、あたしはあなたがたに頼りません。あたしは大丈夫。あたしじゃなくて、重さに耐え切れなくて苦しいって言っている人間たちを助けてあげてください。助けて、あげて。」
「助ける、だと?」
 思い出屋が訝しげに目を光らせた。
「だって、あなたたちは、思い出の売り買いをしたがる人間が好きではないのでしょう? ずっとあなたたちの話を聞いていて、あたし、そう思いました。あなたたちの気持ちもわかる気がします。だけど、だけどね、思い出を売ったり買ったりというそれは、人間にとって、――あたしよりも遥かに重い時間を過ごしているはずの人間にとって、時には望みたくなるものなのかもしれないなって思うんです。ほら、普通にしている時だって、ステキな思い出は思い出すたびに心をうきうきさせてくれるでしょう? 少なくともあたしはそうです。嫌な思い出には目を瞑ったり、無かったことにしたりしなきゃ前に歩き出せないことだってありますし。だから、人が本当に本当に苦しいときに、思い出を売ったり買ったりしたくなるのは……悲しいことだけど、無理もない……時もあるんじゃないかなって、思うんです。」
「だからって俺たちが人間たちを助けなきゃならねぇ理由はないだろう。」
 思い出屋が低く呻くように言った。
 みなもは瞬いた。
「だって、あなたたち、思い出を悪用する人たちを見るのが嫌いなのでしょう? だったら、その人たちに正しい思い出の使いみちを教えてあげればいい。思い出を売ったり買ったりしなくたって、自分の胸の中に――たとえば、そう、アルバムみたいなものを作ればいい。そうすれんば、封印したい思い出をしまいこむことだってできる。何度もアルバムを開いて出してあげることだってできる。ありもしない思い出をわざわざ買わなくたって、小さな幸せの記憶から、大きな力をもらえることだって、きっとある。そんなのをあなたたちが、人間たちに教えてあげればいいって思うんです。そうすれば、あなたたちの嫌いな種類の人間たちはだんだん少なくなっていくでしょう?」
 思い出屋が奇妙な顔をした。
 みなもはちょっと肩を竦めて笑った。
「あたしは人魚だから、人間の気持ちを全部わかるなんてことはできません。……でも、あたし、あなたがたのおっしゃるように、半分ぐらいは人間なのかもしれない……ですね。」
 それまで思い出屋の傍らで無表情に口を噤んでいた道化が、ふっと笑った。

「お嬢さん、貴女は、人間を弱い生き物だとは言わないんだな。」

 白く塗られた化粧の下からもわかる微笑みだった。
 道化が握手を求めるよう手を差しのべた。
「お嬢さん、貴女の話は興味深い。だが、我らの役目は尽きた。……時間だ。人の心を解するままに永遠の時を生きる少女よ、――またまみえられる日のあることを、願って」
 みなもは、道化の赤い手袋を嵌めた手を握りかえして顔を上げた。
 すると、たった今握ったはずの手の主の姿はなく。
 思い出屋の姿も、隠れようがないほどの大きさだった繭の影も、飛行船も何もかもが、どこにもなく。
 忍び来る夜の色も濃い公園のただ中に、一人、みなもは佇んでいたのだった。

 手の中には、道化の手を握ったときの、体温の無い、滑らかな手袋の感触だけが残っていた。



【4】

 都心に夜の帳が落ちようとしていた。
 上野公園はもう遠い。
 ビル郡の影が形作る谷あいに、今日の命を終えて潰れ滲んだ夕陽が落ちてゆく。
 刻一刻と、怖いほどにその輪郭を沈ませていく夕陽を見つめながら、みなもは思う。
 彼らはいったい何者だったのだろうか。そしてどこへ行ったのか。
 彼らは人の思い出を司る者たちだったのかもしれないが、それも今となってはわからない。
 だが、不思議と「アルバムを買わなければ」と思った自分は、彼らの繭の中にいた思い出たちに呼ばれていたのかもしれない。
 アルバムはあっていい。
 けれど、それは、過ぎた時間を無為に今に巻き戻そうとするためのものであってはならない。
 ただ、過ぎ去った日々が、確かにそこに在ったということを、そっと思い出させてくれるだけのものでいい。
 この世は、気が狂うほどの「たった一度きり」で満ちている。そこには「善い」も「悪い」もない。
「悲しい」も「楽しい」も無く、人の心の動きを完全に超越した、「たった一度きり」で作られている世界。
 思い出も、同じだ。
 いい思い出も悪い思い出も悲しい思い出も楽しい思い出も、たった一つで、二度とは繰り返されない思い出だからこそ、それは尊いのだ。きっと。

(人間たちとは決定的に違う『生』を生きるあたしだけれど。『死』と共にある人間たちの背負う時の重さは、半分わからないあたしだけれど。)

 みなもはまた思った。

(残り半分はわかる。――世界を駆け抜けていく時は、眩暈がするほど悲しくて美しい、って。)

 ふっと、周りが翳るのを感じた。
 みなもの足下に長く長く伸びていた影が、薄らいで、消えた。
 夜が、来る。





<了>



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1252/ 海原・みなも / 女性 / 13歳 / 女学生】


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■         ライター通信          ■
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シナリオへの参加、ありがとうございました! 工藤です。
今回は「思い出」ベースのお話になりましたが、
どうにもお詫びをせねばなりません。
「人買い」「見世物」など、工藤的にツボなキーワードの数々
から、シリアスドラマをあれこれと思い描いてしまったあまり、
全く以ってギャグになりませんでした…。
この通り、本当に未熟者でありますが、
またお目にかかれますことを祈って。
本当にありがとうございました!