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日常茶飯時 〜今日の一杯〜
●見上げた、その視線の先
「‥‥‥♪」
鳥の囀りにも似た、小さな小さな音が紡がれ歌として完成されては街中に響く。
尤も、それが歌声と気付くには余程近くにいない限り気付かれないだろう程度の声量。
それ故に、果たして紡がれた歌がロシア民謡の『カチューシャ』だと気付く者は例え『彼女』と同郷の出の者でも、先ずいない筈。
「‥‥ん」
しかしそんな事には気付く筈もなく、気にせず呑気に歌を紡いでいたミリーシャ・ゾルレグスキー(みりーしゃ・ぞるれぐすきー)だったが、不意に視線を上げたその先に揺れる看板を見てそれに倣い、左に結うポニーテールを揺らして彼女は首を傾げる。
「‥‥雷?」
正しく彼女が呟いた通りにその看板には独語にて『Blitz Kong』と書かれており、建て構えからすれば‥‥多分喫茶店だろう、ちょっと怪しげなその店の門扉を見て何となしに興味を覚えたミリーシャは考える間すら置かずドアノブを掴み、回し押した。
「いらっしゃーいっ! あ、初めての人だねー。良かったらカウンターの方にどうぞ!」
店内に足を踏み入れた彼女は刹那の間すらなく、カウンターの奥にいる硲恵理の歓迎を受ける。
「‥‥はい」
「はいこれ、お冷にうちのメニュー! 好きな物を選んで頂戴ね、どれも美味しいからっ」
だが恵理の熱烈歓迎にも動じる風は見せずミリーシャは頷き応じると、その申し出のままカウンターの片隅にちょこんと座れば恵理から受け取ったメニューへ目を通し始める。
「何か変わった雰囲気を持っているけど‥‥何処の出身で?」
「ロシア‥‥」
「成程、それじゃあこれなんかどうかな?」
「‥‥っ」
その物静かな雰囲気‥‥以外に宿すミリーシャの雰囲気を察してか、恵理の隣でコーヒーカップを磨く硲大輔は彼女に差し障りのない範囲で質問をし、返ってきた答えから未だ決めかねているオーダーに助言すべくメニューの一つ所へ指を差した先に躍る文字を見て微か、ミリーシャは身を震わせる。
「‥‥これで」
「はいっ、承りました。刃くーんっ! ピロシキのセットお願いねーっ」
そして直後、それと決めれば彼女のオーダーを繰り返す恵理の声が消えるとほぼ同じく返事の代わりか、厨房の方から包丁を振るい始めた軽やかな音が響き出す。
「‥‥此処、喫茶店‥‥?」
「良く聞かれるんだけど、その通りで」
その後に漸くメニューから視線を外し、顔を上げて至って真剣な表情で尋ねるミリーシャに大輔は苦笑を浮かべて応じると
「可笑しな‥‥喫茶店」
「‥‥それも、良く言われるかな?」
「なー?」
珍しくも思った事を率直に言った彼女へ店主は果たして、飼い猫のゼオと顔を見合わせては首を傾げ合うのだった。
●広き草原よ
料理が出来るまでの間は手持ち無沙汰、ミリーシャはこの機にこの店に足を踏み入れた理由となるだろう、一つの疑問を投げ掛ける。
「所で‥‥店名の、由来‥‥は?」
「ん、妙な所を気にするね」
「ロシアにも‥‥雷帝がいた‥‥イヴァン、4世‥‥だから」
「成程。私も知っている、確かにその二つ名を持つ王がいた」
その疑問に対し、再び首を傾げる大輔だったが次に彼女が疑問を抱いたその理由を聞けば、納得したのはウェイトレスのセリ=D=ラインフォート‥‥今の時間帯は暇か、ミリーシャ以外にお客と呼べるお客はおらず話に介入して来たのだろう。
「そしてこの店の名も雷帝、と言う意だな。これにした意味は‥‥あったか?」
「まぁ‥‥何となくだよね?」
「そう言われると、身も蓋もないんだけどね」
改めてこの喫茶店の店名を確認し、その意も尋ねるが‥‥返ってきた曖昧な恵理からの回答と、苦笑を浮かべ頷く大輔の反応にセリは思わず溜息をつくが
「出来たぞ‥‥」
「今行く」
丁度その時、厨房の方から低い声が響くと彼女は端的に応じて踵をそちらへ返し‥‥暫く後。
「お待たせした、ピロシキのセットになる。今日の紅茶はダージリンだ」
やがて響いていた包丁の音から察するにオーダーを受けてから作り始めたのだろう、その割には早くピロシキのセットがミリーシャの前へ静かに置かれる。
「どうかな、美味しいかなー?」
「‥‥‥」
最初こそ静かに凝視してピロシキを見つめるミリーシャだったがやがて、その中身の具材を気にしながらもゆっくり食べ始めると、頬杖をついて彼女の真正面に陣取る恵理の問い掛けに首を縦に振れば、笑みを浮かべるカウンター越しの二人に何となく照れ臭くなって更に視線を落とすミリーシャ。
「所で何か聞きたい曲はあるかなー、色々入るよ?」
しかしそんな彼女の様子に気付いた風もなく、尚も屈託のない笑みを浮かべて恵理は彼女へ一つのリモコンを渡す‥‥それが喫茶店内の片隅にある古めかしいスピーカと接続されているコンポの物だと気付くのにはそう時間も掛からず、ミリーシャは暫し適当に弄ってみれば店内にいる者には聞き慣れない曲調が流れるチャンネルで止める。
「‥‥これ」
「これは?」
「多分‥‥キルギス語‥‥だと、思う‥‥ロシアの民謡、カチューシャ‥‥」
「へー」
曲調もそうだが言語もやはり聞き慣れないもので、それなりに学のある筈の大輔が率直且つ簡潔に疑問を口にすると、ミリーシャは淡々とその解を口にして恵理の感心を買う。
「不思議な曲だね、でも意味はさっぱり分からないなー。でカチューシャってあの髪飾りの?」
「義母さん‥‥」
「カチューシャは、エカチェリーナの‥‥愛称。ロシアでは‥‥一般的な、女性の名前」
「へーへー」
だがしかし感心した当人はその次に果たして本気‥‥なのだろう、ボケ倒すと流石のセリでも庇い切れずに嘆息を漏らすが、そんな二人のやり取りを前にしながら漸く普段の調子に戻ったミリーシャが静かに、再び彼女の疑問に答えるとやはり感心する恵理だったが
「あ、曲調が変わったね‥‥今度は何?」
「ふむ‥‥これは聞き覚えが無いな」
「これがベラルーシ語、とは分かるけど‥‥曲については生憎と、僕も」
暫くして『カチューシャ』が終わったのだろう、曲調が変わればまた響いた彼女の疑問に今度はセリと大輔も悩むが答えは出て来る筈もなく再三、ミリーシャの口からその答えが紡がれる。
「ポーリュシカ=ポーレ‥‥」
「へーへーへー、どんな曲なの?」
そして懲りず、またしても響いた恵理の感嘆と問い掛けに彼女は和訳されている歌を流れる曲に合わせて朗々と紡ぎあげ‥‥る筈はなく、たまたま持っていた紙片にやはりたまたま持っていたボールペンを用い、和訳版の歌詞を書き連ねては彼女へ形に残る答えを託し再び、静かな食事へと戻るのだった。
祖国では良く聞かれた、懐かしき歌を改めて自身の内に刻みながら。
●再び囁かれる、鳥の歌声
「林檎の花、ほころび‥‥‥♪」
あれから暫くして、ミリーシャはピロシキのセットを平らげた後に追加でスコーンも注文してはしっかりと皿を綺麗にすると、程無くして会計を済ませた彼女はゼオの見送りを受けながら『Blitz Kong』を後にする‥‥ポーリュシカ=ポーレを小さく小さく、口ずさみながら。
『歌、聞かせてくれたら無料にしたんだけどなー』
と言う恵理の話を本気に受け取ったからか‥‥それとも真偽が定かではない話だからこそ、その真実を知りたくなったと言うのがその実か。
そればかりは本人にしか分からないが、『Blitz Kong』に入る前に歌っていた時よりは微かにだが抑揚のついた歌声を、密かに密かに紡ぎながら彼女は街の雑踏の中へと姿を消した。
〜Fin‥‥?〜
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 6814 / ミリーシャ・ゾルレグスキー (みりーしゃ・ぞるれぐすきー) / 女性 / 17歳 / サーカスの団員/元特殊工作員 】
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■ ライター通信 ■
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ミリーシャ様へ
久々に開店した『Blitz Kong』への来店、誠に有難うございました。
久し振りの作業となり、執筆の感覚もままならなければ手も遅くギリギリまで納品をお待たせしてしまいました。
それらの点で果たして喜んで貰えるか、と言う不安は正直に言うと自身ありますが精一杯に頑張りましたので楽しく拝読して頂ければ幸いです。
ロシア民謡と言うのは自身、触れた事がないもので発注文にて挙げられていた2曲の歌詞をネット等用いて調べたのですが‥‥とても素敵な歌詞ですね。
生憎とまだ曲までは聴いていませんが、機会があれば聴いてみようと思います。
勉強の機会を与えて頂き、有難うございました。(一礼
それでは、またご縁があればその時には改めて宜しくお願い致します。
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