 |
〜闇が生む音〜
一日くらい周囲がずっと暗闇でも、「まあ、そんなものか」で済む。
だが、これがいつ果てるとも限らず、延々と続くとなると話は別だ。
何も、出来ない。
今まで、当たり前のように過ごして来た日々が、あっという間に不便なそれに変わる。
誰かの手を借りなければ、生きることすら出来ないなど、いったい誰が想像できただろうか。
医者は「一時的なものだ」という。
だが、その「一時的」がどれくらいの期間を指すのかは、まったく教えてくれなかった。
何が医者だ、と来生一義(きすぎ・かずよし)は思う。
せめてそれくらいのことは、診断してくれても良さそうなものだ。
日に日に、魂が抜けたようになっていく弟の来生十四郎(きすぎ・としろう)を見ていると、こちらまで悲しくなってくる。
バイタリティの塊のような十四郎が、まるで生き人形のようなのだ。
だが、だからと言って、自分に何が出来る訳でもない。
食事を作り、お茶を淹れ、ぶつかって怪我をしないように部屋を掃除して――本当に、そんな日々の営みを正しく行うことくらいしか、出来なかった。
だがある日。
「おい」
十四郎が、ふとこちらに声をかけてきた。
声を聞いたこと自体が数日ぶりで、思わず一義は弟の元に、文字通り「飛んで」馳せ参じた。
「どうした?」
「…俺の目がいつ見えるようになるのか、兄貴にもわからねぇんだよな?」
「ああ」
すまなさそうに、一義は答えた。
ひとつ頷いて、十四郎は空中に何かを書く真似をした。
「今、頭ん中に、いろんな記事が出来てるんだ。今のうちに書き留めとかねぇと、絶対忘れちまいそうなんだよ。俺が口頭で内容をしゃべるから、兄貴はそれをまとめてくれねぇか?」
「口述筆記ってことだな?」
「そうだ」
一義はため息をついた。
まだまだやることが残っている。
たとえば、掃除とか洗濯とか。
「忙しいんだぞ、俺は…」
ぶつぶつと、小さい声で文句を言いながら、一義は十四郎のパソコンの電源を入れた。
(…何だ?)
ずっと聞こえている「音楽」は、兄のものだと気付いていた。
言葉ではいろいろ言っているようだが、それとは裏腹に、ひどく明るく、快い音色になっている。
ああ、と十四郎は思った。
(兄貴、喜んでるんじゃねぇかよ…)
目には見えないが、その心のうちは、すべてこの「音楽」が示してくれている。
見えないことが、これほどありがたいと思ったことは、初めてだった。
(…ずいぶんでかい心配、かけちまってるんだな…)
「さぁ、準備はいいぞ。どこから行くんだ?」
「あ、あぁ、そうだな…」
(悪ぃこと、しちまってたな…)
十四郎は、見えない目を兄に向けた。
せめて、何か少しでも伝えられたらいい、そう思いながら。
夕方になって、今日の夕食を作ろうと台所に立った一義は、冷蔵庫の中を見て愕然とした。
見事に食糧が尽きている。
それもそうだ、買い物に行く時は、十四郎と一緒に行くか、居候に行ってもらうかしていたのだ。
自分ひとりで行ったとなれば、確実に、今日中に帰っては来られないことを覚悟しなくてはならない。
身の回りのことをするだけでも、十二分に苦労している十四郎を置いて、今、無駄な迷子は避けなくてはいけなかった。
いや、「無駄ではない迷子」があるとは思えないが。
しかし、このままでは自主的な兵糧攻めは必至である。
慌てて周りを見回したが、いつもその辺にいるはずの居候は一向に姿を見せない。
そういえば、と一義は思い返す。
(ここ、ニ、三日、見ていないな…)
一度、十四郎を振り返って、その背中を見やる。
思ったより小さく見え、一義は少し驚いた。
いつもは自信満々で、傲岸不遜で、どことなく厭世的な雰囲気の漂っている十四郎が、こんなに小さく見えるとは。
仕方ない、と一義は思った。
十四郎を飢えさせる訳にはいかない。
せめて、日々の生活くらいは、守ってやりたい一義だった。
バタバタと出掛ける支度を始めた兄に、十四郎は気がついた。
ずっと聞こえていた音色が、何だか妙に乱れ始めている。
(これは…不安、か…?)
「おい」
「な、何だ?」
「…まさか一人で出かけようなんて、思ってねぇよな?」
一義は戸惑った。
更に乱れに拍車がかかった音色を感じて、十四郎は大きく舌打ちした。
「別に目が見えなくてもな、知ってる道とか場所なら、記憶でナビが出来るんだぜ?どこに行きたいか言ってみろよ」
「あ、いや、食べ物がなくてな…駅前のデパートに行きたいんだが…」
「じゃ、ふたりで行こうぜ。それくらいの距離なら余裕だ」
十四郎は立ち上がった。
慌ててその腕を取る一義に、十四郎はぶっきらぼうにこう言った。
「兄貴が俺の目になればいい、原稿を打つのと一緒だ」
そうか、と一義は思った。
ふたりで、ひとつの風景を共有すればいいのだ。
「ああ、そうだな、十四郎」
一義は頷いた。
頷いて、嬉しそうに微笑んだまま、その部屋を後にした。
「…ちっ」
十四郎は、今日何回目かの舌打ちをした。
頭ががんがんする。
外に出ると、途端に自分の聴覚がおかしくなる。
いや、正確に言うと聴覚ではないのだろう。
耳という器官で聞いているようには、思えない。
周囲の人間からあふれ出す「音色」という名の騒音。
あまりにうるさすぎて、耳を塞ぎたくなってくる。
無論、そんなことをしたところで、何も効果はないのだが。
顔をしかめながら、十四郎は家を出てしまったことを少しだけ後悔した。
だが、兄の音色が安定しているのを聞くにつけ、外出は仕方のないことだったのだと思うようにした。 自分の記憶に頼りながら、一歩一歩道を歩いて行く。
仮に道を間違ったとしても、一義にはそれがわからない。
そもそも、どれが正しい道なのかすら、わからないのだ。
だが、十四郎は気付いた。
自分が正しくなさそうな道を選ぼうとすると、兄が少し不安げな音色を奏でて来るのだ。
そのたびに、
「今、何が見える?」
そう尋ねて、視覚部分を補う。
そうしてようやく駅までたどり着き、目的のデパ地下へと下りて行くことが出来たのだった。
買い物自体はすっかり兄に任せていたが、人でごった返す、彼にだけ異常に騒がしいデパ地下を引き回され、疲れ果てた十四郎は、ぐったりしながら帰途についた。
早く帰ろうぜ、と言おうと、口を開いた時だった。
全身が一瞬にして凍りついた。
「な…んだ、この音は…」
限界まで目を見開き、十四郎はつぶやいた。
冷や汗が、頬を伝った。
それは一瞬だった。
周りで起こるすべての「騒音」を消し去るほどの、圧倒的な「殺意」の「音色」が耳に飛び込んできたのだ。
そして、それは十四郎の全身を否応なく包み込み、ガタガタと震わせた。
「お、おい、十四郎?!大丈夫か?!」
兄の音色が焦りのそれに変わる。
だが、返事が出来なかった。
あまりの恐怖に、心臓を鷲づかみにされる。
引きつったような呼吸をしながら、十四郎はその場に座り込んだ。
もう、一義の声も、音色も、耳に入らなかった――
〜END〜
〜ライターより〜
いつもご依頼、誠にありがとうございます!
ライターの藤沢麗です。
こちらこそ、今年度もどうぞ宜しくお願いいたします!
一義さんの弟さんへの愛情は、
いつ拝見しても幸せにさせていただいています。
それと、十四郎さんの聞かれた、
「殺意の音色」の出所が気になりますね…。
周りに被害が出なければいいのですが…。
それではまた未来のお話を綴る機会がありましたら、
とても光栄です!
この度はご依頼、
本当にありがとうございました!
|
|
 |