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<東京怪談ノベル(シングル)>


Beyond the life



 灰色の空の午後。海原みなもと草間武彦は、その施設の前に立っていた。
 空の色と同じ、灰一色の風景。二人の前にあるのは、どこまでもつながるコンクリートの壁。
 人通りはない。無人の街だ。アスファルトの道路とコンクリートの壁。深い鼠色の空。ほかには何もない。なにも。まるで書き割りのような、舞台背景めいた景色。
 しずかだ。都心とは思えないほどの静寂が、あたり一帯を支配している。あるいは静寂ではなく、死が支配しているのかもしれない。それも、作られた『死』だ。
 何ひとつ動くもののない風景の中では、ささやかな会話を交わす二人の男女さえ歌劇の主役に見える。役割は、ハードボイルドの男と、心やさしい少女。

「……ほんとうに、一人でいいんだな?」
 ことさらに深刻な口調で、草間は問いかけた。彼らしくもない、思いつめたような表情。
 その表情に、みなもは軽い罪悪感めいたものを覚えた。こういうセリフは草間さんらしくない。そう思う。まだ十三年の人生だが、彼とのつきあいは長いのだ。
 それでも、今回は自分の意思を通すしかなかった。ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにして彼女は答えた。
「はい。だいじょうぶです。一人で行けます。心配しないでください」
「……」
 草間は何も言わず、黙ってみなもを見つめた。
 セーラー服姿である。学校の帰りなのだ。灰色に曇った空の下。彼女の青い髪は、色を失ったようにくすんで見える。瞳の色も同じだ。しかし、その奥に強い意思の力が覗いて見えるのをたしかめると、草間は「わかった」とだけ短く応じた。
「ごめ……」
 みなもは謝りの言葉を言いかけて、しかしすぐに思いなおすと口を閉ざした。そして、言いかけた言葉のかわりに、「行ってきます」とだけ告げた。
 草間は黙っていた。みじかくなったタバコを口にくわえ、しずかに煙を吐き出しただけだった。真っ白な煙は緩やかな風にさらわれて、あっというまに消えていった。色はおろか、匂いさえ残さなかった。
「すぐ帰ってきます」
 みなもはペコリと頭を下げ、施設に向かって歩きだした。
 歩きだすとき、黒いローファーの底がアスファルトを蹴ってジャリッという音をたてた。その音の強さが、彼女の意思を示しているようでもあった。
 みなもは振り返らなかった。振り返らず、まっすぐに、目の前の施設へと足を向けた。
 刑務所のように高い壁。黒い鉄柵が半分だけ開け放たれて、左右に警備員が立っている。そのベルトに拳銃が吊り下げられているのを見て、この施設が一般的なものではないのだと、みなもは改めて理解した。
 自分の名前を告げ、生徒手帳を見せて、彼女は身分を証明した。中学生の訪れるような施設ではない。それでもすんなり通ることができたのは、話がとおっているからだ。
 かるく警備員に頭をさげると、みなもは正面通路を抜けてエントランスへと入っていった。
 FN生体材料研究所。それが、この施設の名だった。

「あなたが、みなもさん、ですか?」
 彼女を出迎えたのは、いかにも研究者然とした長身痩躯の白衣の男だった。
 こくりとうなずいたみなもに、男はしゃべりだした。
「よく来てくれました。私はこの研究所の責任者代行で、あなたが巻き込まれた事件についての……ええと、被害女性たちの生理研究をしています」
 ぼそぼそと、聞き取りにくい声だった。
 その時点で既にみなもはここに来たことを後悔していたが、そんなことはおかまいなしに男が続けた。
「おおよその話は、電話で伝えたとおりです。ここへ来てくれたということは、会っていただけるということですね? その、つまり、彼女たちに」
「……はい」
 あたりを見回しながら、みなもは「いいえ」と答えたい気分に襲われていた。
 真っ白なコンクリートの壁。うすい緑色のリノリウム張りの床。天井には規則ただしく蛍光灯が並び、明るすぎるぐらい強い光を放っている。壁にも床にも、汚れひとつない。シンと静まりかえったエントランスホールには、窓口の女性以外だれもいない。
 しずかだった。まるで霊園みたいだと、みなもは思った。その考えは、あながち外れてもいなかった。事実、ここには霊が眠っているのだ。それも、かぞえきれないほどの。

「こちらです」
 ぼそりと告げて、白衣の男は歩きだした。
 案内されるまま、みなもは階段を上がり、廊下を抜けた。
 そのあいだ、男は一言もしゃべらなかった。口をきいたらきいたで不快な印象を与える男だったが、なにもしゃべらないというのも、みなもにとっては苦痛だった。さりとて彼女のほうから話しかけることなど何もなく、ただ黙ってついていく以外なす術がなかった。借りもののスリッパが、ペタペタと床に音を立てる。そんな音さえも、妙に気障りに思えた。
 三階まで上がり、長い廊下を抜けたところで男が足を止めた。
 彼は白衣のポケットから磁気カードを出し、ドアの横にあるスリットにくぐらせた。
 ガチッ、とロックの外れる音。
「ここです。……気をつけて」
 何に気をつけるのかということを、男は言わなかった。
 言われなくても、みなもには理解できていた。

 その部屋に一歩入ったとたん、ぬめりつくような冷たさが彼女を襲った。全身の毛穴から入り込んでくるような冷気。あるいは、霊気。
 凍結したように、ゆっくりと神経が麻痺する。床が柔らかくなり、重力が消える感覚。空間がねじまげられて、立っているのか寝ているのかわからなくなる。意識が「向こう側」に引っ張られて、いまにも崩れ落ちそうな──。すさまじい霊気──否、瘴気だった。
 二度目の経験だったことが、みなもに幸いした。うまく意識を切り替えて、彼女はその瘴気をやりすごした。じわりと、温度がもどってくる。思った以上にうまくできた。
 胸に手をあてて、みなもは深い息をついた。それから、あらためて室内を見渡した。
 そこにあるのは、いくつもの家具や工芸品、美術品のたぐいだった。だが、違う。ただの工芸品や美術品ではない。みなもにはわかっていた。それらすべてが、自分と同じ年頃の少女たちの血肉によって作られたものなのだと。血肉と、骨と。そして魂によって。

「あの屋敷から押収された証拠物件のうち、生きているものの大半はここに保管されています。数は十七点。最初はもっと多かったんですけどね。壊れたり死んだりしたものがいくつかあったものでして……」
 くぐもった声で、白衣の男が説明した。
 言われるまでもなく、みなもは何もかもを理解していた。男の説明など、彼女にとってはどうでもいいことだった。みなもこそが、だれよりも現状を理解していたと言っても良い。何人たりとも、彼女以上にこれらを理解できるはずがなかった。
「たとえば、こちらの石像ですが……」
 男が言おうとするのを無視して、みなもは足を進めた。
 部屋の中央。ひときわ目立つ場所に、それは置かれていた。石膏で作られた、若い女性の立像だ。衣服は着けていない。古代ギリシアの彫刻のように、繊細かつ美麗な彫刻だった。くわえて、おおきな特徴がひとつ。その石像には、両腕がないのだ。まるでミロのヴィーナスのように、肩口から切り落とされているのである。表情は憂鬱という言葉を刻み込んだように暗く、焦点のぼやけた視線は遠くの床に投げかけられている。視線はもちろん、指先にいたるまで微動だにしない。
 この石像は、生きている。生きて、呼吸さえしているのだ。それでも指一本うごかないのは、それが石像のあるべき姿だからである。石像の材料とされた少女に、すでに人間としての意思はない。血も肉も魂も、すべて石像と同化している。その本分を務めることだけが、少女の意思なのだ。石像本来の意義──つまり鑑賞されることである。

 みなもには、そのすべてが把握できていた。
 彼女は、選ばれたのだ。たった一人の選抜者として。この部屋におさめられたモノたちの仲間になりそこねた、その因果として。生きながら工芸品にされた少女たちの、いちばん近い人間として。
 もしかすると、これは罰なのかもしれない──。彼女は、そう思った。ひとりだけ助かってしまったことへの罰。草間さんの忠告を聞かなかったことへの罰。そして、犯人に同情してしまったことへの罰──。
 とりとめのない思考に苛まれながら、みなもは石像と向き合った。彼女とほぼ同じ背丈だが、胸はひとまわり大きい。その胸を隠すように、上半身を横へひねっている。両腕が失われていなければ、胸を覆い隠していたのかもしれない。しかし、存在しない両腕がどのような形であったかなど、みなもには知るよしもなかった。すべては、想像するだけだ。
 みなもはそっと手をのばして、肩の断面に触れてみた。生身の体であれば、血のしたたるような断面。
 その一瞬、わずかに石像がふるえたように、みなもには見えた。あるいは、ふるえたのはみなものほうだったかもしれない。彼女には、よくわからなかった。しかしいずれにせよ、なんらかの交歓があったのは確かだった。性交にさえ似た、なにかの交わりが。

 長い息を吐いて、みなもは背を向けた。そして振り返ることはせず、部屋の端まで歩いていった。
 石像に劣らぬ威容を放つ作品が、そこに置かれていた。アールヌーヴォー調の、おおきな安楽椅子である。植物をモチーフにした、曲線的なデザイン。しかし、題材にとられているのは植物だけではない。人間の女性が持つ曲線こそ、この安楽椅子の主眼たるモチーフだった。
 みなもは、慈しむような目でそれを見下ろした。
 渓流にも似てゆるやかに波打つ木板が、そこにあった。流麗という言葉を形にしたような、流れる川を思わせるフォルム。川。渓流だ。大河ではない。
 背もたれから座面まで、すべてが一枚の板で出来ている。女性の体をそのまま板にして伸ばしたものだ。ゆるやかなふくらみも、なだらかなくぼみも、女性の体が持つものでしか有り得ない。その上を、波紋のような木目模様が流れている。生命特有の質感が、そこにはあった。生命。有機的で、からみあう構造。

 みなもは、そろりと腰かけた。ためらいはなかった。こうすることが正しいのだと、それ以外するべきことはないのだと、彼女は理解していた。その理解は、真実ただしかった。
 この部屋に収められたモノたちは、もはや人間ではないのだ。少女たちはそれぞれ工芸品として、あるいは美術品として、新たな命を吹き込まれている。言うならば、彼女たちは人間としての生命を終えたのだ。そうして、次のステージに送られたのである。彼女たちの血も、肉も、骨も、魂も、そのステージにあるべき姿を求めている。人間に戻ることなど、だれも望んではいないのだ。それが叶うか否かという問題ではなく。正義か否かということでもなく。彼女たちは、そのように作り変えられたのだ。
 スカートの裾をおさえながら、みなもは安楽椅子に体重をあずけた。
 ひどく柔らかい。ずぶりと沈んでしまうような感覚──。ともすれば、そのまま沈み込んでしまうのではないかというぐらい、やわらかな座り心地だった。それだけではなかった。匂い、温度、そして微かに響く軋みさえ、すべてがみなもにとって心地良いものだった。まるで、彼女のために作られたような。夢見心地の空間。そのまま眠ってしまいそうだった。そうして、二度と目の覚めないような──。

 はっとして、みなもは腰を上げた。
 立ちくらみがした。めまいかもしれない。区別できなかった。
 意識を強く持とうと、彼女はこめかみに指をあてた。痛いぐらい、強く押してみる。まるで夢から醒めるように、その痛みが彼女を現実に引きもどした。
 大きく息を吐き、腕時計を見ると四時二十分。この部屋に入ってから、まだ五分と経っていない。信じられなかった。みなもにとっては、十倍にも感じられる時間だったのだ。
「どうしました?」
 陰気な顔で、白衣の男が問いかけた。
 みなもは小さく首を振り、「なんでもありません」と答えた。──そう。なんでもないことなのだ。なんでもない。なんでもない──。そう自分に言い聞かせながら、みなもは次の収蔵品に足を向けた。それもまた、彼女の名前を呼んでいる。そして、こう訴えているのだ。見てほしい、さわってほしい、つかってほしい、と。
 それらの声で、この部屋は満たされている。そして、その声を聞くことができるのは、みなも以外だれ一人として存在しないのだ。──そう。だれ一人として。