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月に叢雲
天狗は、時に風流を好む。それは今の天狗も昔の天狗も変わらない。
山の頂に立ち、見渡す限りに広がる桜を見ては静かに花見酒を飲み、夜になればこれもまた風流とばかりに、今度は月見酒を飲む。
誰も知らない小川の近くで乱舞する蛍を見て、驚かさぬようにと少し離れた場所から眺める。懐から笛や琵琶を取り出し、ぽつり一人で演奏し、目の前の風景と己の奏でる音に酔う。
紅葉が見事な季節は、その朱い木々の中を飛び、わざと散らしてみたりする。落ちてゆく朱や黄はとても美しい。
雪が降り、全てが白く染められたときは、自分もその中に入れぬものかと雪の上に寝そべってみたりする。
その景色の中に時折人間が入ってくることもあるが、それもまた余興と笑っていた。
天波慎霰は、夜の月が好きだった。春の月も、夏の月も、秋の月も、冬の月も。
だがいつも、慎霰がこれは良い月だと思った次の瞬間に、月は雲に隠れてしまう。月明かりが鈍り、地上には影ができる。
それが、惜しい。
慎霰は、いつか一晩中欠けることの無い名月を眺めてみたいと思っていた。
その日のアンティークショップ・レンは普段どおりに店をあけていた。中に人がいるのかわからないほどの、何かがあふれている気配がする。何か、は人ではないことは確かだが。
何も変わらないように見えていたのは実は表面だけだった。店主である碧摩蓮は、積もり積もった未整理の品々を見て頭を抱えていた。
「ここ最近入荷ばっかりだったからねぇ…」
常に商品が変動するのがアンティークショップ・レンの特徴だったが、ここ最近なかなか買い手が現れなかった。代わりにどこから話を聞きつけてきたのか分からない連中が、曰く付きと称される品々を次々と持ち込んできた。
その結果が、これだ。
部屋の隅に放置された品は、もうすぐ天井に届きそうだ。いや、もう届いているかもしれない。
「片付けるにしても、ちょっと骨が折れるね…」
深いため息をついていると、誰かが来店する音がした。きぃ、と古い扉が軋む音だ。
入ってきた気配に、蓮は振り向かないまま声をかける。
「いらっしゃい。今日は入荷は受け付けてないよ」
「……なんだこりゃァ」
「ああ、なんだ慎霰か」
「なんだとはなんだ」
「ちょっといろいろあってねあってね…もう何か持ってこられるのは遠慮したいんだよ」
「あァ?…まァいいや、それより…」
慎霰は周囲を見渡す。普段ならそこそこ片付いていたはずの部屋は、今はもう見る影はない。
「………」
「何をお探しだい?」
「………葉双が、ここにあるだろ」
「はふたつ…?」
葉二とは、平安時代に源博雅が所有したと言われる名笛のことだ。名手であった博雅が美しい音色を奏でたという。
だが慎霰が言うのはその笛ではなく、かつてその音色を聴いた天狗たちがその笛を真似て造ったと言われる天狗の妖具のことだ。
だから葉二ではなく、葉双と名付けられた。似て非なるもの、それが葉双。
それは奏者の力によって発揮する効果が変わり、強き者が吹けば天変地異を起こすが、弱き者が吹けば小さなそよ風が吹くのみだと言われている。
話をきいた蓮は、驚きもせずに入荷品の山をみた。天狗の妖具は、今更珍しい品でもない。
「……あぁ、思い出した。確か3日前に陰陽師の男が持ってきた笛がそれだったねぇ…」
しばらく何かを考えていた蓮は、突然ピンときた顔で笑った。
「なるほど、今日来た目的がわかったよ。その葉双とやらを貰いにきたんだね?ふぅん…どこでその情報を仕入れたんだい?」
「な、なんだよ…こっちにも情報も売ってのがあるんだよ…」
にやにやと意地の悪い笑みをうかべ、蓮は慎霰の額をつつく。
「まさか、タダで貰おうなんて考えてないかい?」
「なッ!?」
…今までも慎霰は、蓮から店にあるものを貰ったことがある。半分は連の趣味で営んでいるので、蓮の機嫌が良ければタダで貰えるし、ちょっと機嫌が悪いときは何か手伝えばその報酬として貰える。
今回も、そのどちらかで考えていたのだが。
「じゃ、じゃあ、何か手伝えばいいのか?」
「生憎仕入れはしばらくやらなくて済みそうでねぇ」
「なら一つぐらい俺が貰っても…」
「だめだね」
「!!」
これは最悪のパターンだ、と慎霰は思った。
機嫌が良いときはぽんと渡してくれる。悪いときは、何か手伝いの報酬として渡してくれる。
だが今の蓮は、機嫌は悪くなさそうだ。だが、渡さない。
……人を困らせて、楽しんでいるときの顔だ。
「最近忙しくておもしろいことが何も無かったんだ」
「……裸踊りでもやれってのかァ?」
「そんな無粋なことはさせないさ」
蓮は立ち上がり、慎霰の側に歩み寄る。思わず後ずさる慎霰だったが、生憎背後は壁だった。すぐに逃げ道が無くなった。
慎霰のほうが背が低いが、その高さにあわせて顔を近づけてくる。至近距離にある蓮の顔に、思わず視線を逸らしてしまう。
「おや、こっちの方はあんまり経験ないのかい?経験豊かな天狗様かと思ったんだけどねぇ」
「……うるさい」
「天狗だとしても人間だとしても、十五歳なことには変わりないのかい」
蓮の指が、慎霰の顎をくい、と引き上げる。そこまで強い力では無かったが、それに反抗する術を慎霰は知らなかった。
「…………」
「…な、なんだよ……」
すっと目を細めた蓮の表情に、背筋に寒気が走るのを感じた。
蓮の赤い唇に、ちろりと舌が這う。
…が、にやり、と笑うと蓮は慎霰から離れた。先ほどの妖艶な雰囲気はもう消えている。
「冗談だよ。子供はからかうと楽しいねぇ…耳まで真っ赤になっちゃって」
「なッ……てめェ…!」
子供じゃねェ。という慎霰の呟きは蓮に届くことなく消えていった。いつの間にか握りしめていた手には汗がにじんでいる。自分の顔が酷いくらい紅潮しているのがわかる。
「さて、どうしようかねぇ」
「…何がだ……」
「葉双だよ。あんた、欲しいんだろう?」
「あ、あァ」
蓮が不敵な笑みをこぼすと、入り口の扉が、再び軋む音をたてた。
「残念ながら、その笛には買い手がいたようだねぇ」
「はァ!?」
狭い店内に、更に二人の人間が入ってきた。
一人は黒いスーツに身を包んだ中年男性。もう一人もスーツを着ているが、まだ二十代だと思われる青年男性。
先程の蓮とのやりとりがまだ頭に残っていた慎霰は、蓮の隣ではなく後ろの壁に背を預けている。
ただし、人間には姿が見えないように術を使って。
「こちらに葉双があると聞いてきたのですが…」
「これだね」
蓮は入荷品の山の中から素早く布に包まれた笛を取り出す。どれかわかっているなら俺の時もさっさと出せよ、と慎霰は心の中で悪態をついた。声を出すと存在がバレてしまう。
「おぉ、これはまさしく天狗の笛、葉双…」
中年男性が触れようとすると、バチッと激しい音がして男性の手は弾かれた。
「持ち主を選ぶんですよ、この笛は」
蓮が何事もなかったかのように言う。
「そ、そうですか…では、」
中年男性は、隣にいた青年を促す。青年は無表情のまま葉双に手を伸ばす。
同じように弾かれるが、青年はその手を無理矢理葉双に近づける。指先からは僅かに血が滴っているが、それを気にすることなく更に手を近づけようとする。まるで反抗するようにバチバチと激しく音が鳴る。
「(くッ…)」
蓮の背後で、慎霰の頬に傷が走った。誰にも見えない傷口から血が滲んでいるが、慎霰は気にした様子もなく葉双…いや、その青年を睨み続ける。
その時青年が片手で印を結び、小さく口の中で何かを唱えた。
その瞬間、慎霰の腕に大きな傷が走る。
「(…てめェ……)」
青年の手元に、小さな白い影が見える。その影がこちらを睨み、そして攻撃している。おそらく彼が使役している何か、なのだろう。
慎霰も印を結び、対抗する。同じように口の中で何かをつぶやき、印を結んだ指をその白い影に向けた。まるで狙撃するかのように。
「(天狗に攻撃たァ、いい度胸してるじゃねェか!)」
パン、と軽く弾ける音がした。青年は相変わらず葉双から手を離そうとしないが、その表情は驚きに満ちていた。手元にいた白い影は弱々しくなったかと思うと、あっという間に萎んでしまった。
青年は再び印を結び、懐から数枚の札を取り出す。
慎霰も別の印を結び、今度はその場で術を発動する。
すると青年が持っていた札が、いつの間にかただの葉に変化していた。まるで狐に化かされたように。
「なっ!」
「あ」
変化した瞬間を見ていた中年男性と蓮が驚いたような声を出す。もっとも、蓮の声にはわざとらしさが混じっていたが。
「(まだ、やるか?)」
心の中で、慎霰は青年に声をかけた。それが聞こえたかどうかわからないが、青年は葉双から手を離した。だがそのあとは力がどうやっても入らないようで、何度か動かそうとしていたが諦めて静かに口を開いた。
「選ばれなかった、ということでいいんでしょうか?」
「そうみたいだね」
「おぉぉ…なんという…」
錬が中年男性を店の外へ案内している時、青年は見えるはずのない慎霰に視線を向けた。
「………」
「………」
その睨み合いは、青年が完全に店の外へ出るまで続いた。
「あんた、どうしてもあの笛が欲しかったんだねぇ。あんなことまでして。一瞬焦ったじゃないか」
「なんのことだ?」
「結界だよ」
葉双が持ち主を選ぶ……そんなことはない。持ち主の力量で葉双が発揮できる力が変わるだけで、葉双自らが主を選ぶようなことはしない。あれは慎霰の行為に気付いた蓮の咄嗟の嘘だった。
あの時中年男性の手と青年の手を弾いていたのは、葉双が買い取られるのを阻止したかった慎霰が素早く張った結界だった。
「見えない戦いまでされて、こっちは冷や汗ものだったよ」
「…あいつ……何者だ?」
「有能、と言われる陰陽師と、それを飼う金持ちさね」
「陰陽師…それで、か。しかし人間が人間を飼う時代になったのか…嫌になったもんだなァ」
「今も昔も変わらないさ。ところで…」
「あ?」
「まさかもう葉双は自分のものだと思ってないかい?」
「あんた…あのやりとりを見ててまだ言うかァ…!?」
「アレはあたしには関係ないねぇ。さて、何をしてくれるんだい?」
天狗は、こんなもんじゃないんだろう?
蓮は挑発するように笑う。
慎霰もそれに答えるように口笛を吹く。
瞬間、店の中に風が吹き込んだ。
蓮が思わず目を閉じる。
轟、と風は店内を吹き荒れる。
風が止んでそっと目を開けると、入荷品が積み上げられていたあの山は姿を消し、代わりに店内の至る所に散らばっている。乱雑にではない、どれも大切に仕舞われている。
「…ふふ、さすが天狗、というところかい?」
「こんなのどうってことねェよ」
「今回は片づけの礼、ってことにしておこうかね」
蓮から葉双が渡される。もう結界は解かれていたため、蓮の手が弾かれることはなかった。
「あァ」
受け取ればもう長居する必要は無いとばかりに、慎霰は店の外へ出る。
その背中に、蓮が声をかけた。
「そういえば慎霰、あんた、その笛で何をするつもりだい?」
まさか天変地異でも起こす気か?という顔で蓮は聞く。
慎霰は小さく笑い、答える。
「月を見るのさ、雲に邪魔されないようにな」
背中から黒い羽根を出すと、あっという間に慎霰は蓮の視界から消えた。
「月ねぇ…風流な天狗だこと」
慎霰は山頂にある大木の枝に座っていた。
今宵は残念ながら満月ではないが、細く美しい下弦の月だった。満天の星空のなか、白い光が慎霰を照らしている。
「いいねェ……」
ぼんやりと、月を眺める。静寂の中、時折風が木を揺らす音だけが響く。
と、その時、空に雲が流れ始めた。どこからか流れたきた雲が、月を隠し始める。
「おっと………」
懐から葉双を取り出すと、慎霰はそっと唇にあて、吹き始めた。
ここ最近人間を踊らせたり、混乱させたりすることでしか笛を吹いていなかった。だが、腕はまだ落ちていないらしい。
心安らぐ音が、風に乗って響き渡った。
すると空の雲は月を避けるようにゆっくりと何処かへ流れていき、慎霰が笛を吹くのを止めた頃にはすっかり消えてしまっていた。
「…あァ、やっぱり良い月だなァ」
再び、邪魔するものの無い空に輝き始めた月を見て、慎霰は満足げに笑った。
END
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