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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Pygmalion

 シリューナ・リュクテイアは、机上に置いた水晶の像を眺めて、ほぅと溜息をついた。
 水の如くに澄み、一点の曇りも存在しない……それは人魚を象った像だ。
 掌に乗る程の小さな品なのだが、それだけに細工は緻密で髪を梳く仕草や下肢の鱗の一つ一つまでもが鮮やかに、そして複雑に光を弾く。
 目鼻の輪郭だけはその透明度に朧な印象を持つが、ひたと一点を見据える視線の存在だけは確としていた。
 それは正面の持ち主を、見つめる視線である。
 無色のそれであるというのに、幼さを残して丸みを持った頬が赤らんで見える。
 愛しげに、切なげに、楽しげに、どうとも取れる曖昧な表情で、人魚の娘はシリューナを見つめていた。
「……美しいわ」
像の題名は、『恋』と言う。
 名もない作家の作品だが、その表情に魅せられて買い求めた価値は多分にあった。
 このような芸術作品に魔力を込めれば、高い効果が得られそうだと、芸術を楽しむ目から、魔術師のそれへと変わる。
 やはり、水に類した魔術をかけるのがよかろうか。
 個人的には水に触れればそのまま泳ぎだしてしまうというような、命を与えるそれが好みであるが、それではただの詐欺だ。
 この像を最も活かす形は、と赤い瞳を対象に据えていたシリューナはふと、寄せていた眉を開いた。
 それでも、愛弟子ファルス・ティレイラの愛らしさに適うものは中々ない。そう主観と客観入り交じった決を下すと、シリューナはついと視線を動かした。
 其処には、何冊かの雑誌が積まれている。
 今は店番をしている、ティレイラが置いていったものか。
 近辺のイベント情報が掲載されたそれを何気なくパラパラと捲り……シリューナはある頁で手を止めた。
 それは、美術館の広告である。
 フルカラーで重みのある頁は黒い背景に、中空から布が垂れ下がる。
 裾の広がりと独特の形に、像と思しき形状のものにかけられた布だと知れた。
 展覧会の広告にしては作品を隠すのは些か奇妙なと思えば、その足下にちんまりとした中年男性がこちらを見据えて立っていた。
『現代のピグマリオン』
 そう評されている芸術家らしい。
 ピグマリオンとは何だったか……しばし頭を悩ませたシリューナは、ほどなくこちらの世界での伝説だったと思い至る。
 自ら作った乙女の像に、恋をしたピグマリオン。ならば布で隠されたその像も美しい女性かと、思い至ったシリューナは身の内から沸き上がる好奇心にうずうずとした。
 展示期間はたったの一週間。その間に入場した全員にアンケート用紙が渡され、全ての作品を品評するのだと言う。
 その為、事前に作品を晒すことはしないということかと、シリューナは作品を布で隠した広告の意図を察して頷いた。
 最多数の票を得た像が高額で買い上げられ、そのまま美術館のエントランスに飾られることになると言う。
 その芸術家は滅多に自分の作品を手放すことはせず、それが像に恋する男としての名を更に高めている。
 そして展示会に合わせ、最新作を発表するということだが、その下に小さく『制作の都合上、展示を見合わせる可能性がございます』の注記があるあたり、まだ完成してはいないようだ。
 シリューナは、紙面を見つめながら唇に指を当てた。
 石像と化したティレイラの美しいまでの愛らしさは、世に認められる芸術家のそれとどれ程の差があるものなのだろうか。
 楽しげにほころんだ口元で、更に笑みを深めようとしたその時、時計がオルゴールの音色を響かせて、二時半の刻を告げる。
「あら、もうこんな時間」
ティー・タイムの準備にかからないといけない。
 シリューナはいそいそと、キッチンへ足を向けた。


「わぁ……!」
部屋に入るなり、正確にはテーブルを見るなり上げたティレイラの感歎の声に、シリューナは微かに微笑んで頷いた。
 スコーンにサンドウィッチ、色とりどりのケーキも付随した豪華なティータイムだ。
 大皿にはショートケーキが真円になるように並べ、紅茶に入れる砂糖はフランス製の物。ボーン・チャイナの茶器の一揃いは、蛍と呼ばれる細工に薄く光を透かす。
 芳しい湯気を立てる紅茶は、ジャスミン・ティーとブレンドして、香りの妙を楽しめる一品である。
「どうしたんですか、お姉さま、こんな……」
口の端から滴りそうになった正直すぎる欲望を手の甲で拭い、ティレイラは唾を飲み込む。
「店番ご苦労様。大変だったでしょう?」
燦然と輝くお茶請けを凝視したまま動かないティレイラに、シリューナはそっと近付いた。
「いいえ、お客様もお出でになりませんでしたし……って、え? お姉さまっ?!」
呼吸が触れる程の位置に近付いたシリューナに驚き、ティレイラが一歩引こうとするのに、彼女のタイをするりと解く。
「さぁ、そんな窮屈な服は脱いでくつろいで」
言ったが最後、瞬く間にティレイラの衣服を取り去り、代わりに白絹の一枚布を着衣よろしく体に巻き付ける。
 随所で捻り、結び目を作り、体のラインに添うように纏わせた白絹は、容易に解けることはなく、動きを阻まない。
「し、下着まで取ることないじゃないですかあぁぁっ」
自らの体を両手で抱いてしゃがみ込み、泣き声を上げるティレイラに、シリューナは「あら」と小さな呟きを漏らして頬に片手をあてた。
「下着のラインが出てたら台無しじゃない?」
その発言に、ティレイラがぴくりと反応する。
「お姉さま、また私で遊ぶおつもりですねっ?」
危機を察し、子猫の如くふーっと毛を逆立てて警戒するティレイラの愛らしさに、シリューナは微笑む。
「そんなことないわ」
ありまくりだが。
 しかし、ここでティレイラに抵抗されては元も子もない。
 シリューナは、その時の為に用意しておいたワイロを指し示した。
「でも、ティレイラが私を信じられないというのなら……今日のおやつはよしておいた方がいいかしら。片付けるわね」
「えぇっ?!」
それとこれとは別の話らしい。
 お預けを喰らうとなった途端に騒ぎ始める腹の虫に、うるうると涙目になるティレイラに、シリューナはさも今思いついたという風に手を打った。
「そうだ、同じ物を一緒に食べれば、ティレも安心出来るのではなくて?」
もし、食事の中に何かが混入されていても、仕掛けたと思しき当人と共に食べれば問題はない。
 その案にティレイラは目を輝かせると、こくこくと何度も頷く。
 部屋に一歩足を踏み入れたときから、ティレイラは蜘蛛の巣にかかった蝶の如きものだ。
 シリューナはティレイラをいつもの席に促すと、先ず、ティーポットからそれぞれのカップにお茶を注ぐ。
 そして、自分のカップをティレイラに向かって差し出した。
「お姉さま……?」
訝しがりながらも受け取るティレイラに、シリューナは笑みを深めた。
「こうすれば、ティレも安心でしょう?」
予め、準備が為されているとすれば、先ずカップを疑うのが常套だ。
 菓子を前にした途端、寸前までの疑念をすっとばしてあれこれと目移りしていたティレイラは、シリューナの指摘にあぁと手を打った。
「流石ですわお姉さま! とっても勉強になります」
言って渡されたカップを迷いもなく口に運ぼうとするのを、シリューナは片手で制する。
「待ちなさい……こういう時は、私が先に飲んで何の問題もないのを確かめてから、自分のものを口に運ぶの」
言ってこくりと、紅茶を口に含む。
 一口呑み込んで、にっこりとティレイラに笑みを向ければ、愛弟子は顔を輝かせて紅茶を飲み干し……ふと、眉根を寄せた。
「お姉さま……」
複雑そうな表情に、シリューナが小首を傾げる。勿論、紅茶に一服盛った訳ではないため、その反応が引き出されるのはここではない筈だ。
「お砂糖入れてもいいですか?」
甘い菓子にも甘い紅茶を欲するティレイラを、笑みで許したシリューナは、一つ二つと放り込み、ソーサーに予め添えてあったスプーンで念入りに紅茶を掻き回す様子を眺めながら、「そうそう」と何気ない風で切り出した。
「ティレ、明日からの美術館である展覧会。一緒に出掛けましょうね」
軽い誘いに、ティレイラは目を輝かせる。
「お出かけですか? お姉さまと一緒に?」
思わぬ誘いに驚きと喜びとを豊かな表情で同時に表現してみせたティレイラは、軽く身を乗り出した。
「何時からですか? えーと、一日ずっと? おやつは幾らまで持っていっていいですか?」
バナナはおやつに入りません、と言えば小躍りしそうだなと思いながら、シリューナは期待に愛らしい頬を上気させるティレイラに、簡潔に答える。
「出発は今夜0時。展示期間の一週間ずっと。おやつは持っていっても傷むだけだから、よしにしておきなさい」
「えぇーっ!」
おやつ不可、という一点に集中して、不満の声を上げたティレイラは、其処で漸くシリューナの組んだ予定に違和感を覚えた。
「一週間って……お姉さま?」
美術館に泊まり込むつもりかと、首を傾げるティレイラの発想は当たらずとも、遠からず。
 首を傾げながら、取り敢えず思考の外にある食欲を満足させようと、ティレイラは紅茶を口に運んだ。
「観察眼が足りなくてよ,ティレ」
そして彼女が紅茶を飲み干してしまってから、シリューナは軽く肩を竦めて見せる。
「え、お姉……さま?」
ぴり、と痺れる指先に、ティレイラが乱暴にカップを置けば、ソーサーの上でティースプーンが踊った。
 スプーンには、予め石化の魔法を込めた液体にふんだんに浸されていたのだ。
 元々は、シリューナが使う筈だったカップ……紅茶に砂糖を投じることのないシリューナであるというのに、何故スプーンが添えられているのかということに気付かなかったことが、ティレイラの敗因である。
 いつもと違ってゆるゆると麻痺していく身体に、ティレイラはべそをかきそうに表情を歪めた。
 まだ手つかずのケーキやスコーン、早く食べてーという幻聴すら聞こえそうだというのに、手を伸ばすことすら出来ないことが、ティレイラを哀しみのどん底に突き落とす。
「あら、泣かないでティレイラ……そんな悲しい顔では、お客様の票を取れなくてよ?」
シリューナは立ち上がると、椅子に腰掛けたまま硬直しかけているティレイラの手を取ってそっと立ち上がらせた。
 自分の意思では指先一つ動かすことに多大な労力を要するというのに、シリューナの手には逆らえない。
「……さて、どんな格好がいいかしら……とりあえず、腰に手をあてて……片手は……そうね、ミロのヴィーナスを彷彿とさせるような表情のある動きがいいかしら」
出来上がったのは、何処のラッパーか。というような妙な動きのある立像。
「お姉さま……」
しくしくと涙に暮れるティレイラに、流石に仕切り直すシリューナだが、次なるポーズはだっちゅーの。
 古い。古すぎる。
 このままでは、ティレイラの愛らしさというより面白さが前面に引き出されてしまう。
 尊敬する師匠だが、この場合だけは自らの身で自らを助くしかないと、ティレイラは渾身の力を込めて、身体を動かした。
 緩く開いた足に体重を乗せ、すっと背筋を伸ばし、両手は緩く広げる……そこでティレイラの動きは止まった。
 足下からキシキシと音を立てて石化していく、その色はいつものグレイがかった硬質な色ではなく、柔らかな大理石のそれだ。
 自分の思う形を取れたという安堵からか、哀しみにくれる表情には僅かに安堵も窺えて、それは柔らかな雰囲気として、像全体の印象を柔らかくする。
「まぁ。良い出来ね」
過程、及び自分の意図を受け容れられなかったそれは棚に上げ、シリューナは満足げに手を打って、愛弟子の姿を愛しげに目を細めた。


 一週間後。
 美術館の小ホール、とはいえ展示物はそれなりに多く、滅多に作品を外に出さないという作家の名と、その作品が常設されるようになる機会を得る一員を担うとして、愛好家は元より物見遊山も手伝って、かなりの動員数を稼いだらしい。
 最終日は早々と午前中で終了し、今はホールには布を被せられた一体の石像が残るのみだ。
 それが、アンケートで一位を獲得し、長くこの美術館に飾られるであろう物だ。
 そのお披露目ともあり、今、ホールは関係者や招待客、マスコミが集められて空気をさざめかせている。
 薄暗いホールでは、先の広告と同じように、石像の前に立った芸術家にフラッシュが浴びせられ、不機嫌この上ない彼の前にマイクが突き出される。
「作品を手放されるお気持ちは!」
「知らん」
むすっとした答えに、マネージャーらしき人物が慌てて間に割って入った。
「結婚式前の娘を手放すような気持ちと申しましょうか……どうぞその心境を汲んで」
刺激してくれるなと、目で訴えながらの仲裁に、「お気持ちお察しいたします」と記者にも妙な遠慮が入る。
 これ以上、インタビューに時間を割いては台無しになりかねないと、マネージャーは次の進行に移るよう、司会に目配せした。
『では、栄えある一位を獲得し、当美術館、そして像が存続する限り我々を迎えて微笑む女神の像は……!』
気持ち的には、ドラムロールが欲しいところであるが、其処までエンターテイメントを追求するような場ではない。
 緊張感を誘う矯めを沈黙に変え、係員の動きを読んでいた司会が颯爽と手を振り上げて像を示す。
『こちら!』
さっ、と布が引き落とされ、件の立像が顕わになる……哀しみと安堵を湛え、誰かを迎えるように緩く両の手を広げる……ティレイラの像だ。
 勿論、芸術家の手による物ではない。
 開催前夜、本来は最新作が設置されるべき台にシリューナが据えたのだ。
 そしてシリューナ自身は、ティレイラの晴れ姿を人に紛れて見ているのではなく。
 ティレイラと同じく、像と化していた。
 ティレイラの肩から両腕を回して抱き付くように、そして竜種の皮翼を広げて乙女を守るように、包み込むように皮翼を止めて居る。
 清純なる乙女とそれを守る異形の美女。神話時代にモチーフを求める作家であるが、それが何の伝説を示しているのかが解らず、ネットや世論は謎解きに盛り上がっていた。
 けれど、芸術家は真実を問われても口を噤んだままである。
 それはそうだ。自分の手によるものでない作品が、紛う方なき彼の作品を抑えて一位を獲得しているのだから!
 実際問題。もっと早くに会場を訪れていればよかったのだが、新作を仕上げられなかったことを気に病んで自宅に引きこもっていたところ、会場を訪れたという知人から絶賛の言葉を聞いて、作品外の代物が紛れ込んでいることに気付いたのである。
 その時には、もう弁明のしようもなかった。
 いっそ砕いてしまおうかとも思ったが、像の生気に満ちた様子にそれも適わない。
 比べてみれば、自分の作品とは明らかに一線を画している。それこそ、逆に自分の作品を打ち砕いてしまいたい程に。
 けれど、既に芸術の世界では、名のある身である。負けを認めることも出来ずに、何れ誰もがこの像のことを話題に上らせなくなればいいと、芸術家はこの上なく消極的に事態を流そうとしていた。
 元より、作品の写真掲載は禁じてある。
 記事にするのだとしても、現物がいつでも見られる場所にあるのだから、実物を見ろとねじ込み、後は何某かの理由をつけて像を引き取ってしまえばいい。
 そうすれば,いつかは誰もが忘れるだろうと胸算用に目を瞑っていた芸術家は、周囲のざわめきに思わず顔を上げた。
「あれ……」
「……何?」
視線は自分の上方、女性像へと向いている。
 芸術家はのけぞるように皆の視線を追い、ざわめきの理由を察そうとした。
 視界の両端にかかる、皮翼の先が揺らぐ。
 目の錯覚かと思う暇を与えず、それはゆらりと空気を抱いて、拡がった。
「な……っ?」
弾かれたように背後を顧みた芸術家は、誰かが上げる悲鳴を背に受けながら絶句した。
 像が、動いている。美女の皮翼が暗紫の色を帯び、ぎこちなく翼を打つ動きが徐々に滑らかになっていく。
 直前まで、確かに石像であった筈だ。衆人環視の中、色と熱を取り戻した異形の美女は、誰に向ける出でない微笑みを周囲に振りまくと、乙女の前に足を踏み出した。
 台座から下りるのかと思いきや、くるりと振り向くと乙女の顔を覗き込む……否、その冷たい唇に口付けたのだ。
 途端、乙女の像も命を得たのが解った。
 吐息を洩らす唇は桜桃の艶やかさ。指先から柔らかな肌の色が暖かな体温を宿す様に、誰もが視線を奪われる。
 美女が、乙女を抱き上げる。
 空気を打つ皮翼の力強さに、彼女等がここから去ろうとしているのだと解り、芸術家は思わず制止の声を上げた。
「ま、待ってくれ……ッ!」
両腕を差し延べ、請うようなそれに、美女が僅かな笑みを、そして乙女は微かな会釈を芸術家に向け……不意の落雷が視界を奪う。
 室内に有り得るはずのない稲妻の衝撃が、その場の全員を打ちのめした後、像であった二人はその場から掻き消えていた。


「もうっ! やりすぎです、お姉さま!」
憤懣やるかたない様子で……_しかし、罪滅ぼしの甘味尽くしを前に据えられて、怒りを持続できないティレイラである。
「もっと人気がなくなってから戻るつもりだったのに、計算を間違ったわ」
弘法も筆の誤りと、全く悪びれないままシリューナはストレートの紅茶を口に含む。
 昨日の事件は、芸術家の奇跡の技として、大々的に報じられている。
 勿論、動きだし、忽然と消えた奇跡の彫像は、シリューナとティレイラ、二人の姿である。
 シリューナの目論見通り、世間一般的な審美眼で以てしても、ティレイラの美しさはピカイチであることが証明できて、ご機嫌なことこの上ない。
 ついでとばかりに自らの身も石像として、動けないティレイラが災難に見舞われぬよう気遣った甲斐もあるというものだ。
 一人満足しているシリューナだが、件の芸術家がその後全ての作品を手放すことになるとは、知らぬままである……その後、芸術家は奇跡の彫像を求められぬ事がないよう、空想の女性像を作ることは一切なくなり。
 単身、渡英した後、故人の生前の姿を墓石とすることを、生涯の仕事に定めたと言う。