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<東京怪談ノベル(シングル)>


指令

 その日、水嶋琴美は自室で待機していた。
 特に何をするでもなく――強いて言うなら待っていたのだろう。次の、指令というものを。
「はい……判りました」
 涼やかな声がふわり、室内に響き。同時に、琴美は薄らと微笑んだ。
 今回の任務は、敵対する施設への破壊工作。そのために、琴美へは該当施設への潜入を命令として与えられた。
 詳細に関してはこれから目を通すところではあるが、なんら難しい仕事ではない。
 ――そう、琴美は認識していた。
 だからこそ、ふっくらと形のよい、艶やかな唇を美しく弧に描き、笑ってみせるのだ。
「さて……早速、参りましょうか」
 きりと表情を引き締め、琴美はばさり、私服を脱ぎ捨てた。
 目立った傷も、日焼けの後もない、健康的と美しいの二言で称せば事足りよう肌。引き締まった筋肉に覆われた、すらりとした四肢は、忍一族としての琴美の実力を、ほんの一片、窺わせる。
 だが、彼女の姿に、忍が纏うはずの殺伐とした空気は、一片たりとて感じない。
 暗殺、諜報。そんな薄暗い背景を持つ組織の存在さえ霞ませるほど、艶に満ちた肉体が、そこにあるのだから。
 さらさらと長い、漆黒の髪が服に巻き込まれぬよう、軽く纏め上げる琴美。一掬いごとに、手入れの行き届いた髪からはふわりと甘い香りがする。
 それはシャンプーや香水のような作られた香りとはまた違い、目も眩まんばかりの美が醸し出す、蟲惑の芳香に良く似ていた。
 だが、それを振り翳して数多の男を釣り上げるような浅はかさのない琴美の仕草には、可憐に咲いた花のような、あるいは降り積もった新雪のような、そんな、穢してはならない聖女の雰囲気さえ過ぎった。
 そうして、選び、確かめるように指を伸ばし、手に取ったのは琴美が任務の時に着用する、戦闘服。
 美しい肌を覆い隠すように着こんだインナーとスパッツは、ぴったり、琴美の体に張り付き、その豊満な肉体ラインを余すことなく表現している。
 動きを確かめるように何度か関節を動かす琴美の仕草からは、有能な忍の気配が滲み出る。
 黒という色と、彼女のボディラインとが相まって、スパイや殺し屋などの、印象を引き出しているのが、主たる要因であろう。だが、それ以上に、琴美の真剣な表情が、ぴり、と、静かな空気を震わせてもいるのだろう。
 小さく頷いた琴美が次に手にしたのは、スカートだ。
 スパッツよりも相当短いスカートには細かいプリーツが入り、十九歳、いまだ成人には至らぬあどけない琴美の少女らしさを体現するかのようにひらりと揺れた。
 それだけで、糸を張るような空気の緊張が緩和される。
 華やかさを演出するスカートに合わせる上着は、着物のような形状に、見えた。
 だが、腕を覆う袖は、肘より少し長いほどの位置で断ち切られ、動きやすさを重視させてある。
 巻いた状態になっている帯を軽く締めれば、細く締まった腰が、一層、引き締められるようだ。
 襟元を正し、帯の形を確かめて。良しと小さく呟いた琴美は、編み上げのロングブーツを手に、すとん、とベッドの上に腰を下ろすと、ほっそりと長い足へ、纏わせる。
 膝丈のそれは、琴美の美脚を勿体無くも覆い隠しているわけだが、ブーツとスカートの間、唯一露出した太腿部分をより際立たせることにもなっていた。
 フィット感を調節するように紐を結びなおし、蝶々に結んだ紐を垂らすと、琴美は、太腿へ手をやった。
 形成された絶対領域。腰から下だけを見れば、どこにでもいる少女の様相。デート前のような、他愛も無い日常を感じさせるものでさえある。
 だが、そこに、琴美は非日常の存在――くないを装着した。
 革のベルトが擦れ合う音。柔肌に食い込んだそれが、くないの重みをかすかに伝える。
 これは、あくまで戦闘服。それを主張するかのようでありながら、それでも、手入れの行き届いた感を与える刃の柄は、薄らと白い中に血の赤みを帯びた琴美の肌に、驚くほど合っていた。
 きゅ、きゅ、と。両の手にグローブをはめれば、完了だ。
 全ての装備を身に纏い、立ち上がった琴美の姿が、目の前の姿見に映りこむ。
 それは、薄暗い世界へ足を踏み入れる者の装束であり。
 けれど、花盛りの少女が身に付ける服でもあり。
 そして、漂う色香をしっとりと包み込む、美姫の纏でも、あった。
 任務という殺伐とした空気を一片たりとて感じさせない、色に染まった立ち姿は、無機質な鏡の表面でさえ、ただただ映えた。
 纏めていた髪をばさりと解き、やはりさらさらと滑らかに鳴るそれを指先で軽く梳いて。
 琴美は、長く、長く、息をついた。
「準備、完璧です」
 誰に告げるでもない、己の意識を高めるための呟きに。琴美の口角は緩く吊り上がる。
 その表情から読み取れるものは、ほんの少しの昂揚と、絶対的な自信。
 緊張がないわけではない。だが、それとて自身の能力を遺憾なく発揮するためのスパイスでしかない。
 不安も、恐れも、琴美を制限するものは何も、ない。
「さぁ、参りましょう」
 薄暗い組織の、晴れやかな部隊へ。
 琴美はブーツの踵を鳴らし、揚々と出立するのであった。