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<東京怪談ノベル(シングル)>


任務

 とん、とん、と。ブーツの踵が、小気味よいながらも、驚くほど静かに足音を殺し、地を打つ。
 いっそ、さらさらとたなびく漆黒の髪の方が喧しいのではないかというほどに、水嶋琴美の歩調は静かなものだった。
 それでいながら、驚くほど、素早かった。
「思ったほど、セキュリティも厳しくはありません、ね……」
 ぽつり、薄紅の唇が誰にとも無く告げる。スカートの裾をひらりと翻し、琴美はやはり漆色が美しい双眸を薄らと細め、施設の状況を把握する。
 思いの外甘いセキュリティだと呟きはしたが、お決まりの監視カメラに始まり、赤外線のセンサー程度は完備されているようだ。特に潜入を経験しない者であれば、苦を覚えるに違いは無いだろう。
 もっとも、琴美はその程度でありはしないわけだけれど。
(くないで破壊するよりは……強行する方が、早そうですね)
 監視カメラそのものは大層優れた機械だとして。それを見て異様を訴えるのは、所詮人間。相手の意識に止まるより早く突き抜けてしまえば、何の問題もない。
 二度ばかり、強く頷いて。琴美は、一度、カツッ、と澄んだ音を響かせ、駆け出した。
 飛び、あるいは伏せ、身を捩り、琴美は華麗にセンサーを交わしていく。
 赤い電子ラインの全てを、その艶かしく豊満な肉体の、あるいはひらりと華やかな衣服のどこにも触れさせず潜り抜け、それでいながら目で追うのもやっとな素早さを維持している琴美の身のこなしは、卓越した身体機能が成せる技といえよう。
 決して短くは無いはずの廊下を、あっという間に通り抜けた琴美は、くすり、口許だけで微笑んだ。
 どんなに強固に護っているつもりでも、存外、呆気なく落とされるものである。こと、琴美の組織に目をつけられ、琴美という偉才を送り込まれれば、なお。
 それを物足りないと感じるほど不謹慎ではないが、そっと指を触れさせた胸は、昂揚に躍るのを自覚できた。
 類稀な能力と謳われようと。示すことが出来ねば、ただの持ち腐れ。自分は――水嶋琴美という存在は、その才に見合った働きを献上できている。
 その自負が、琴美の昂揚を掻きたて、確かな自信へと変換していくのだ。
(そろそろ目標が見えてくる頃……)
 脳内に叩き込んだ施設の見取り図を反芻し、胸中で照らし合わせた琴美は、不意に、それまで軽快に進めていた足を止めた。
 人の、気配。壁にぴたりと張り付き、角からそろり、様子を窺う。
 己の記憶が確かならば――間違っているなどありはしないという程度には記憶力に自信はある――目と鼻の先にある部屋は、今回琴美が潜入目標として示されている部屋だ。
 あの中には大量の爆薬が詰まれていると、指示書には書かれていた。そこを爆破し、施設の破壊をするのが、琴美の役目である。
 ここまで見張りに当たる敵の一人とも鉢合わせることなく進んで来た琴美ではあるが、最後の最後、そう簡単には終わらせてくれないことを思い知らされた。
 厳重に見える扉の前に、見張りが二人。どちらも厳つい顔をした、屈強そうな男だ。
 当然、この近辺にも監視カメラが設置されているのだろう。あの中へ入りさえすれば良いという状況下ではない中、正面からまともに二人を相手にする余裕は、ない。
 ――ならば、琴美がとる手段は、一つ。
 右手で太腿に括りつけられたくないの感触を確かめ、左手を強く握り締め。一度だけ深呼吸した琴美は、身を潜めていた角から飛び出した。
 そう、長くはない廊下。そこに不意に現れた、敵対者。
 対峙する男とて、それなりの経験を積んでいるのだろう、慌てふためく様子は見せず、見張りとしての責を全うせんと、身構える。
 だが、ふわり、琴美の髪が、絹のような滑らかさを持って中空を滑る残像に、思わず視線をやってしまったのが、運の尽きだ。
 ぱちん、と音を立てて引き抜かれたくないによって、男の一人は一刀の元に斬り捨てられた。
 どさり。大柄な男が倒れこむ音が、廊下の端まで響き渡る。もう一人の男は、即座に身を翻した琴美の動きに気付き、懐から拳銃を取り出した。
 だが、それを撃つには至らなかった。投げつけられたくないを弾き、身を護ることが精一杯。呆気なく使い物にならなくなってしまった。
「何者だ!」
「真正直に応えるわけがないでしょう」
 一言ずつの応対がなされると同時に、がしゃん、と音がした。
 ちらと見やれば、左右に展開されていた監視カメラのど真ん中に、くないが突き刺さっている。
 明かさず語らず――敵対組織の存在くらいは知っている男の脳裏に過ぎったのは、忍、の一文字。その名を冠する少女の、噂に等しい断片的な情報だった。
 舌打ちした男は、銃身がイカレてしまった拳銃を放り捨て、腰に提げていた棒のような物を構えると、肉薄してきた琴美に応戦した。
 ガッ、きぃん――。金属がぶつかる音が響き渡り、その度に、琴美の端正な顔が、かすかに歪む。
 近接戦闘は忍たる琴美にとって得てとするものだ。だが、所詮は華奢な少女の体。豪腕を一双提げた男と真正面からぶつかれば、その衝撃は決して苦に値しないものではない。
 だが、柳眉をひそめ、かすかに瞳を細めながらも、琴美が押し負けるようなことも決して無かった。
 ぶつかり合うばかりでなく、時には自ら引いて。緩急をつけながらの攻撃は、格闘術を得てとしているだろうその男を、少なからず翻弄した。
 くるり。まるでバレエでも見るかのような、鮮やかなターンを決め、男の背後に回りこんだ琴美は、死角から急所を狙いすます。
 男はそれを寸での所で交わし、武器を振り切って無防備になった琴美の眼前に、素早い拳を突き出した。
 だが、それもやはり、軽やかに跳躍した琴美の残り香だけを掠め、空を切る。
 すとん、と音も立てず足をつけた琴美の様は、あまりに艶やかで。
 足元に死体を転がし、凶器を手に命の取り合いという血生臭い行為に興じているというのに、そんな雰囲気さえ染め上げるほど、色に満ちていた。
 彼女の何がそうしているというのだろう。豊満な肉体か。美しい顔か。滑らかな髪か。翻る服か。それとも、ひらりひらり、舞うように戦うその振る舞いか。
 あえて言うなら、全てだろう。琴美の存在自体が、鮮烈なまでの情を掻き立てる魅惑そのものなのだ。
 男は頭を振る。隣で肉の塊と化してしまった男のように見惚れてはならないと、叱咤するように。
 だが、琴美はそれに対し、明快な笑みを、唇に描いた。
「あまり時間もありません。そろそろ、終わらせます」
 す、とくないを構えた琴美に、応じる姿勢を見せれば。彼女は、躊躇いの一片も見せず、踏み切った。
 速い――。男が思ったのは、それだけだった。
 先ほどまで手を抜いていたとか、そんなことはあるまい。だが、その瞬間だけは、琴美の動きに追いつけなかった。
 いや、恐らくは先ほどまでの応酬で、男の動きは全て見切られてしまったのだろう。
 攻撃を予測し、いなし、対する一撃を与える。その完璧な動作が、男の目にはただただ凄まじい速さに、映ったのだ。
 一瞬前の微笑。あれが、勝利を確信したものだったのだと気がついた時。男はその場にくず折れた。
 どさり――。
 倒れていく男を見つめ、琴美は乱れた髪をばさりと払うと、大きく、息をついた。
「なかなかの強さでしたが……私の方が、上でしたね」
 敬意を含んだ眼差しで微笑んで。琴美は目標たる扉へ、向き直った。