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Inside
どんなことであったとしても、それに興味を引かれるのであれば知りたいと思うのが人の性である。
ただ彼女のそれが人一倍強いものであっただけで、誰であってもそうなるのは仕方がないと言えた。
たとえそれが、自らの体を変貌させてしまうようなものであったとしても。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「今日も精が出るねぇ」
何時ものように、紫煙と共に少し気だるげな言葉が女の口から放たれる。その言葉に向けられるには少女の笑顔。
「何時もすみません。ただ、ここだと安心して色々出来るんです」
「いや、別に謝んなくてもいいよ。見てるのは楽しいしね」
それは真実で。主である碧摩蓮と少女である海原みなもは、今日も何時もの店の中にいる。
紆余曲折あり、気付けばみなもと蓮は親しい仲となり、そして気付けば何時もみなもが蓮のもとへ行くのも当たり前となっていた。
みなもからしてみれば、蓮と言う存在はかなり特別なのかもしれない。何時も何も言わず彼女を受け入れてくれている蓮という存在は、彼女にとってはまさに姉というべきものに近かった。それは親とも姉妹たちとも違う、少し特別な存在。
そんな彼女の元で色々と試すうちに、彼女の持つ特別なもののことが色々と分かってきた。みなもからすれば、蓮には感謝しても感謝しきれない想いだろう。
彼女が蓮から貰った『生きている服』――すっかりとみなもの日常へと溶け込んだそれは、手に入った当初かなりの大問題となっていた。が、今となってはすっかり彼女の一部と化していると言っていい。
とはいえ、まだまだみなもには分からないことも多い。マニュアルのようなものも一切ないし、分からない部分は全て手探りで探っていくしかないのが現状だ。蓮であれば全ての事情を知っているし、今まで何度もここで試させてもらっているから安心できる。ここに来る理由はそういう事情がある。
まぁ何より、みなもが単に蓮に会いたいというのもあるのだろうが。
「さて、っと……」
(今日も宜しくお願いしますね)
早速と言わんばかりにみなもが頬を数回軽く叩き気合を入れる。同時にそう思い浮かべれば、言葉こそ聞こえないが服が振るえ返事が返ってきたような気がした。
『服』が幾ら生きているとは言え、そこに確かな意識があるとは言いがたい。ならばその行為にもあまり意味はなく、それ自体はみなももよく分かっているが、それ以上にパートナーとして認めている彼に話しかけなければみなもの気がすまないのだろう。
そんな軽い儀式を終え、みなもは少しだけ背伸びする。
「今日はどんなことを試すんだい?」
「はい。他生物への擬態をやってみたいと思ってます」
さらっと言ってはみたが、それは勿論途方もないことである。
既に体の一部を擬態させるということは試し成功させてはいるものの、それが全身となれば一体どれほどの苦労を伴うか。それはやってみなければわからない。
もしかしたら、予期せぬ出来事があるのかもしれない。だからこそ、蓮がいるところでやりたいと思うのは仕方がないことだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
知識としての情報は頭に入っている。一応確認するためにもう一度だけ本を開いてみた。
そこに描かれているのは立派なサラブレッド。一体彼は風を切りながらどんなことを思うのだろう。
このご時世、探してみれば結構本格的な専門書というものも割かし楽に手に入る。インターネットさまさまといったところだろうか。
例えば馬の脚部の筋肉や骨の構造、神経や血管の流れなど事細かく描かれたそれは一体どういう層に需要があるのかはよく分からないが、兎も角今の自分にとっては必要なものだったので助かった。
しかし、イメージしたと言っても本当にそんなことが出来るのだろうか?
少し弱気になった自分を奮い立たせ、頬を叩いた。
出来る出来ないではなく、やらなくてはいけない。それがきっと、あたしと「彼」にとって大切なことだから。
手順自体は前回行った足の擬態を全身に広げるというもので問題はないと思う。あくまでそう思うにとどまるのは確証がないから。それを確かめるのが、これからの作業だから。
(やってやれないことはないはず……頑張ってくださいね)
彼にそう心の中に呟いて、思考を切り替える。これから自分が馬になるという思考に。そして彼を変化させるという思考に。
思考を切り替えた瞬間、何かカチカチという音が自分の中から聞こえてきた。それは彼が変化する際、合図のようにならすもの。つまり、彼が変化すると考えた音。
まずは前回行った足のイメージを脳裏に浮かび上がらせる。随分と膨大な情報量になるのに、そのイメージは何時でも自分の中で鮮明だ。
その中にある血管。血が流れるそれは、当然全身へと広がっていくのが道理。なら、それがどういう風に広がるか想像してみる。下肢から伸びた血管はまずは心臓へと伸びていくだろう。そして次はそこから上肢と脳へ。細かなことを挙げればきりがないが、自分のような素人でもそういう流れと大雑把な設計図があれば幾らでもイメージは膨らませることが出来る。
本当に大雑把な設計図が出来上がり、次はそこから無数に伸びる毛細血管やそれに伴う神経などの流れを考える。これには本当に頭をフル回転させる必要があった。常日頃からそういうことを考え見ている専門家ならいざしらず、自分のようなそういうジャンルではずぶの素人と言えるものからすれば、それは本当に難しい。
言うなれば、細かなピースをいくつも重ね合わせ、間違っていたらまた組み替えるそんな作業。それも100や200ではすまない、文字通り千や万の桁でそれを行う。
イメージが頭の中で暴走する。繋がったものが千切れ、そしてまた繋がっていく。それでも少しずつ少しずつ出来上がっていくパズルに、自分にそんな才能があったのだろうかと少なからず驚かされる。
有機的で、しかしデジタルな計算が続く。閃きだけではたどり着けない、しかし計算だけでもたどり着けない境地へとイメージが到達していく。それは正に一つの絵画が出来上がっていく様で、自分で言うのはおかしいけどどこか奇跡的でもあった。
(……出来た)
その言葉で、イメージがはっきりとした立体図として完成する。
脳内にははっきりと、一匹のサラブレッドが佇んでいた。
しかしそれはあくまで過程に過ぎない。自分はさらにこの先を目指すのだから、そこで満足しているわけには行かなかった。次はいよいよそのイメージを実際のものとして自分に纏うことになる。
脚部は一瞬で想像することが出来た。当然だ、既に一度変化させているのだから。一度出来たことを二度出来ない道理はないのだから。
(お願いしますね)
彼に語りかけ、そのイメージを彼の中へと投影する。それは自分の脳内を丸ごとコピーして彼へと受け渡すような、どこかデジタルな感覚。
それを感じ取り、彼が細胞の中で色めきたつ。毎日のように体験しているが、本当にかすかだとはいえ自分の体の中で血流が沸騰し、急に加速するような感覚はやはり変だ。最初のうちにすぐ慣れてほとんど感じなくなっていたが、こうやって全身のセンサーを強く張り巡らしている状態では殊更それをよく感じる。
それだけであれば、さして苦痛を伴うわけでもないので問題はない。しかし、そこから先はまた別問題となる。
馬と人間では様々な部位で違いがあり、それは全て彼に補ってもらわなければならない。それは何も見た目だけではなく、内面的なものもである。例えば筋肉、例えば骨、例えば血流、例えば神経――勿論設計図は既にある。しかしそれを実際に組み立てるのはまた色々と伴うのだ。
(……ッ)
骨を補う。その立派な下肢を支えるためにはやはり太い骨が必要で、それは人のものよりもはるかに太い。骨というリン酸カルシウムの塊を補うには、やはりそれと同じ成分で補う必要がある。彼がその成分(近いものかも知れないけれど)に成り代わり、骨という骨に蓄積し堆積していく。普段は感じることのない骨に、何か金属の板でも貼り付けているかのような感覚だった。
また走るのに必要な関節も作り直す必要がありそこもやはり彼が擬態するのだが、ここはさらに変な感覚だった。まるで麻酔をされたように痛みを全く感じない。しかし確かに何かが動く感覚があるのだから、少々気持ちが悪いと思ってしまうのも仕方はないだろう。
肉を補う。勿論大部分は筋肉、さらに言えば骨格筋だ。筋肉は筋繊維の集まりである筋束がさらに集まったものだが、勿論あたし自身の持つ筋肉の量が変化することはない。だからそれを彼に補ってもらう。数の決まっていた筋束の隣に、さらに筋束が増えていく。自分の中に突如幾つもの棒が増えたような感覚は、痛みを伴わないとは言え口で例え難いほどにどこかおかしい。
勿論血流や神経、全身を覆う皮膚も同様だ。自分の中にない部分を別のもので補うのだから違和感が伴わないわけがない。特に皮膚は、外部に作るというよりは自分の皮膚自体を変化させるという形に近いため、外側にあるというのに自分の全身にある皮膚の穴という穴に何かを入れられているような感覚を受けた。
本来ならば受け入れ難い違和感たち。しかしそれを抑えてくれているのは、他ならない彼なのだろう。
まだ自分自身分かりきっていない部分がある彼ではあるが、彼と付き合っていて苦痛というものはほとんど感じたことがない。多分今回も何かしらの作用があって苦痛を感じずに済んでいるのだろう。
さて、自分からはよく見えないが、下半身の大体の変化が終わったと思う。そう思うのは、自身の思考に伴う変化の違和感が緩やかになったから。先ほどまで感じられた、いかにも今自分が変化しているという感覚は大分薄まっている。
しかし、まだ終わりじゃない。まだ大切な変化が残っている。
馬に擬態するということは、即ち馬になりきるということでもある。姿かたちは勿論、思考まで変化させる必要性も出てくる。
と言ってもあたしには馬の気持ちは到底理解できないし、出来るとも思わない。ならば、そこは自身の想像で膨らませてしまうしかない。
まず馬という存在を頭に思い浮かべる。気持ちは分からずとも、走るためにどうするべきかはよく分かる。
「おっ」
遠くに蓮さんの声を感じる。
それはさて置き、まずは上肢を地面へとつく。馬であれば、二足歩行であることはやはりおかしい。やはりこの形のほうがしっくりくるのは確かだった。
そう、完全になりきれないのなら、せめて形からでも模倣すればいい。やっているうちに少しずつ理解できるだろうから、そんな希望的観測も含めてのことだった。
しかしこれが意外なほどにしっくりくる。なるほど、形から入ると言うのも場合によっては悪くないということを学べた。
そして、次はまた問題が出てきた。まだ変化していない上肢のままではいかにもバランスが悪く不安定なのだ。だから下半身のときと同じように上肢と上半身全ての変化を想像する。
上肢の変化はすんなりといった。当然だろう、下肢とほぼ変わらないのだから。勿論違和感にはまだ慣れなかったけど。
それよりも問題だったのは、腹部と胸部、そして頚部及び頭部だった。
腹部には当然ではあるが、動物である以上様々な内臓が収められている。馬と人間ではやはり形が違い、その分あわせようとすると無理が生じるのは仕方がない。そこで内臓が彼によって適切な位置へと動かされていったのだが、その感覚が今までのものとは段違いの違和感だった。確かに痛みはないが、腹部を内部から手か何かでぐちゃぐちゃにかき回されているような感覚を受ける。軽い吐き気が襲ってきたのも無理はないかもしれない。
そして、頭部と頚部。外見上人と馬で何がもっとも違うかと言われれば、ここなのかもしれない。
首の長さは当然全く違うし、馬面というくらい特徴的な面長の顔もあたしにはどうしようもない。こればかりは悩んだところでどうしようもない部分であるし、別の方法で補うことにする。
首に新しい筋肉を作り、どんな速度でも頭をしっかりと支えられるものにする。首はそれでいい。
頭に関しては本当にどうしようかと思ってしまったが、これまた悩んでもどうしようもないこと。なら、彼が新しい顔を作ってくれることを期待するしかない。
必死に想像する。あたし自身の顔をベースとして、そこに馬の顔を合成させる。それは酷く変で異様なイメージとなってしまったけれど、それでもこれくらいのことしか想像できないのだからそれは仕方がない。
それを感じ取ったのか、彼が細胞を動かし始める。口が強引に開けられ、その先が伸びていく感覚。口から先を擬態させるということを、見た目は想像できても実感に関しては全く想像できていなかった。伸びていく口腔に、普段閉じているはずの口が全く閉まらなくなったように思えてしまう。口が伸びる、というのはそういう感覚が付きまとうものなのか。
それに伴って顔全体が伸びたせいか、視界も自然と何時もとは違うものとなっていた。何時もは正面がよく見えるのに、今はどちらかといえば側面がよく見える。正直前を見るには不向きな顔の作りなのかもしれない。
そして、そこで全ての違和感が消えた。
「……こいつは」
蓮さんの息を呑むのが聞こえる。多分今のあたしは、蓮さんから見ればかなりおかしなことになっているのだろう。あたしも後から自分の姿を見ればどんな感覚を抱くか分かったものではない。
けど、それよりも。今は、全てを変化せしめたという事実に対する満足感のほうが大きかった。
(本当に出来ました……凄いですよ、あなたの能力)
そう心の中で語りかけると、何か少しざわついた感覚が全身を駆け巡った。彼が返事をしたのだろうか。
そう、今はやり遂げたと言うことが大切なのだ。彼の能力がそれをせしめたというその事実が。
これからに繋がることであるし、やはり彼自身が何かをやり遂げたということが純粋に嬉しいから。
だから、一度大きく嘶いてみた。馬になったことを喜ぶために。彼にそれを教えるために。声帯まで完全に模倣したそれは、正に馬のそれと同じだった。
そして次に、馬であるなら走るのが道理だからその立派な足で駆け出してみた。少しバランスが悪い気もするけど、多少のことはこちらでも補うことが出来るから問題はなさそうだ。
(分かりますか、この風が、この感覚が。これがあなたの持っている力なんですよ)
彼に語りかける。勿論返事はないけれど、代わりに肌を撫でていく風の感覚がはっきりと伝わってきた。
走り見える世界は、何時も見るそれとは全く違っていて。
肌を切る風も、酸素を求めて激しく収縮を繰り返す心臓も、大地を弾く四肢も全てが新鮮で。
全てが違う世界の中で、あたしと彼はそれを己に刻み付ける。
これが、あなたが見せてくれた世界。
これが、あなたが持っていた力。
これが――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
気付けば意識を失っていたみなもは、それからのことを全く覚えていなかった。
走っているうちに意識を失い倒れこんだのだと蓮から聞かされる。そして暫くの間眠っていたとのことだった。
流石に蓮も少し心配していたらしく、そんな彼女に対してみなもは内心悪いことをしたとは思ったものの、しかし今はそれよりも喜びのほうが大きかった。
彼と見上げた四月の空は、春らしく晴れ晴れとしていて。頬を撫でる風はとても気持ちがよかった。
彼が出してくれた麦藁帽子を被り、みなもは笑った。その内心を表にだして、彼にもよく分かるように。
「また何時か、走りましょうね」
そんなことを呟いて。彼と彼女の中で、何かがまた大きく変わっていく。
<END>
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