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<東京怪談ノベル(シングル)>


宇宙のしじま


 宇宙は無限であり、その点では閉塞的だ。どちらかといえば、深い谷の方が深遠で冷たいさまを想像しやすいだろう。
四方八方に広がる空間と言うのが、どれほど深いのか、そして暗いのか。
無重力で延々と浮遊しつづけるなら、落下と引力を知らないうちならば、その淵に立っても恐ろしさは感じまい。
――いや、ある種の人間ならばありえるかもしれない。
無限というものを想像し、それを肌で感じ、あたかも引き込まれるように――落ちるように、でもあるか?――取り付かれ。
そして、そのなにもない永遠というものに恐怖することを、やってのける誰かが、いる。
それが天分とも言える才能か、それとも内に込めた心の底なのかは、別の話であるが。


 一歩歩く。すると、そのドレスはしゃらんと鳴る。
青いバラならぬ、黒い百合は、咲くだろうか。
いや、黒い鈴蘭の方がいいかもしれない。
三島・玲奈。彼女が歩くたびに、耽美に飾られたドレスはやはり小さな音を立てて揺れた。
 ここはどこだったか? 床は固く、靴底が当たると、きゅうと言う音を立てた。
あちらやこちらには黒塗りの柱。天井には、光らないシャンデリア。壁に添えられたキャンドルは、自身の周りだけを照らしている。
 ここは黒で作られているのか? 見渡しても、黒、黒、黒。
しかし、光がないはずなのに、床や天井や壁や……あらゆるものの輪郭を捉えることが出来る。
世界の終末にしては明るすぎるし、はっきりしすぎている。
死のはじまりにしては、やや暗い。
 自分の身に何が起こったか、ということよりも……玲奈の視線は、この廊下の先に向いていた。
何故歩いているのか? そんな疑問すらも浮かばない。浮かんだとしても、溶けていってしまう。
深淵というのは、どこまで人を惹き付けるものなのだろうか。
橋のない崖に歩いていったとしても、どのような動機があれば許されるのか?
彼女の頭に渦巻いていた思念はあらゆる全てであったとしてもおかしくない、しかしそうであっても、彼女は何も思わぬ風だった。
この、焼け跡のような廊下を歩くだけ。
徹底的に調和された空気には、他の呼吸が入り込む隙間など、ありはしない。

 厚いカーテンが開く音。光らない黒い太陽。
風だけが吹き抜けて、玲奈の髪を揺らした。前髪が目の前でブラインドのように視界を遮る。

 ――がしゃん。がっしゃん。
 シャッターを切る音である。
古い大きなスピーカーから大音量で流れてくるような。
一定間隔で響くシャッター。誰が何を撮っているのだ。
半ばギロチンを落とすような音である。
埃と錆びですっかり固まってしまったそれを、無理やり落とすような。
 がしゃん。がっしゃん。
足音にも似ている。響きが、よく似ている。右足と左足が、真っ赤に錆びた金属の床に落とされたときの音。

「こんなこと、なかったよ」

 玲奈が最初に口にした言葉はそれだった。心臓が締め付けられるような感覚に、思わず顔をしかめる。
黒い太陽を背に、ちらりちらりと錆びた鉄板が映っている。
電柱が視界の隅に立っていた。ゆっくりと顔を上げれば、そこには普通の、いたって普通の空。
路地裏。コンクリートの床に、彼女は二本の足でしっかりと立っている。
閉まった店の看板や、くもの巣のように張り巡らされた電線や、もう雲の向こうに消えてしまいそうな太陽が、じっとこちらを見ていた。
 そうだ。ここは路地裏。彼女が辿っているのは、帰り道だ。
事実を知った彼女は、それでもまだ笑顔の一片すら見せようとしない。
風のない夕方は割と憂鬱なものである。どろりとした空は、まだ美しく見えない。
誰かの庭、手入れの行き届いていない庭。知らない植物がぬっと腕を伸ばしている。
聞いたことも無い虫の声。猫が彼女のすぐ隣を通り過ぎていった。転がるように坂道を下っていく猫。何も見ないまま。

「靴を履いているのね」
 猫の足は黒く、他だけが白かった。四本の足全てに、黒い靴を履いている猫。彼はにゃあと鳴いて、歩きつづけている。
誰も彼を救わない。玲奈も、救わないし、救えない。
「あたしは、羽が生えているの」
 猫はもう何も言わなかった。玲奈の背には確かに羽があった。一対の白い翼。
「でも、素敵な靴はないの。羨ましいな」
 玲奈の足には、靴があった。何の変哲もない靴。

 彼女は、夕闇のような目をしていた。この重くどろどろと音を立てそうな夕方の空と同じ目。
光を求めるがゆえに拡散していく意識に近い。
雲の向こうに沈んでいく太陽を引き止めることが出来るのならば、あるいは彼女の目に青空がうつるだろう。
 何かにつかれたような息苦しさ。溜息すら出ない。
生きているものがここにひとつあるのかどうか。風一つ吹けるのかどうか。
二度と動くまいと皆が座り込み視線だけをこちらに送ってきている。
玲奈だけがそう思っていたか、それとも本当にそのとおりの路地が出来ていたのか。
 家と家の隙間から闇が覗いている。長く伸びる自分の影すら誰かの瞳に見える。
薄く開かれた目というのは、睨みか冷たい眼差しか、何かを秘めているはずなのだ。
字引があるのは言葉だけでない。景色、人の表情、そういうものにもある。
この場所にはどんな名前をつけるべきだろう?
この景色に馴染んでしまう玲奈はこの景色の一部であると断言するべきであろう?
空はゆっくりと落ちてきた。坂を下る猫。玲奈が一度だけ瞬きをする。木々の匂い。

 黒檀の時計はゆっくり時を刻むものだ。
振り子は、秒針は、いつだってしっかり一秒に一度動くのだが、そのふり幅と速度は皆違う。
ようするに、この黒い廊下の時計は、一秒を刻むのに一分かけているように見えるほど、遅く動いていた。
しかし、体感で解る。その一分のような一秒は、間違いなく一秒で、世界を一秒だけ進めている。
 玲奈は猫の影を見つめていた。ひどく細く長い影。そこにあの時計が見える。分針のない時計。
これは時計塔と言うべきか。高くそびえる塔。城のような時計。
空の下にいながら屋内へ目を開き、そこに屋外が広がっている。
天井はあるのに、空がある。空の映る天井ではない、空がしっかり見えているのだ。天井と共に。
ちらちらと星が瞬き、一秒の後に消えていく。
 猫はこの、こちら側とあちら側の壁を引き裂いて繋げたのだろう。
その境界線は曖昧、否、確固として薄くやわらかな皮膚のようなものであった。
両手を広げれば、そこに落ちていけるのが解る。

「これは、あたしの記憶じゃない」
 でも、知っている場所。の、ような気がする。
「それなら何故、ここにあるの?」
 記憶の場所ならば両足をつきたてることなど出来まい。足元に影が出来るはずあるまい。
光らない太陽と伸びる影、同じ闇同士の間に横たわる輪郭線。
「まだ靴も履いてないのに」

 廊下の先を目指し、進みつづける。ヒールがかつかつ音を立て、ドレスが波のように揺れる。
闇の中の海、さざなみが寄せて返すような、そんな音。
玲奈自身がその波の中に、むしろその波が玲奈であるように、音が同調する。
川のせせらぎと言ってもいい。頭の中に心地よく響く波音。
 一枚のはなびらがそこに落ちて、するすると流れていく。
あまりにも白い、目が痛くなるほど白いはなびらだ。
膝を曲げ、手を伸ばし、玲奈はそれを拾い上げようとした。
しかし、指の届く丁度その場所で、花弁は風に吹かれた船のように泳いでいくのであった。
 二歩進み、手を伸ばす。三歩進み、手を伸ばす。波紋が真っ直ぐに続いている。
そのうち、手も届かない内にはなびらが泳ぎはじめ、次には腕を伸ばす前にもう波紋が伸びていた。
ぱしゃぱしゃ音を立てながら、はなびらを追いかける。
玲奈のドレスは濡れなかったし、水の音は本当に音だけであった。
黒い廊下に満たされた水と波、そして一片の白か光かわからない花弁は、見えないこの廊下の行き止まりへと続いていく。

 早足でじゅうたんを踏みつける。水音は気持ちよく続いてくる。
はなびらは何か言いたげにゆらゆら揺れながら、それでも廊下を下っていった。
このときもう既に、玲奈の足音の他に、もう一つの足音が着いて来ていたのだが……
玲奈にとって、それは注視するべきことでもなく、またそれは小さくゆっくり続いていたから、気付こうとしなければ気付けなかった。

「星に似てるわ」
 はなびらに向かって、歌うように叫ぶ。
「遠くから見た銀河でもいい。透明すぎる水に浮かぶ船なの? あたしに何を教えてくれるの?」
 シャンデリアが揺れるだけだった。
白い小船は尚も揺れ流れていく。二つの足音も、それに続く。

「銀河もまた、宇宙の傷にすぎないと思うのだけれど」
 後ろからくる誰かの声が、玲奈のとは違うさざなみとして、流れてきた。
「彼らは何も語らないし、おそらく何も教えてくれない……あなたが無理やり引き出すのは、彼らの言いたいことそのものじゃないから……」
 目の前に黒い鶴がいて、それが悲しそうな目でこちらを見ている。
玲奈はお構いなしにその横を通り過ぎ、走りつづけた。
「でも、黒の中に白が浮かんでいるじゃない」
「それは、人為的な傷だよ。正しくない。間違ってないが、正しくない」
 横を、見えない黒いものが通り過ぎていった気がする。人よりも小さく、ふわふわしたもの。
「真実の意味を取り違えるなよ」

 花弁に見えるのは羽である。小さな羽。
先ほどまでに遠く遠くに流れていってしまったと思ったのだが、足元にあった。
それは吹き溜まりにつかまり、くるくると螺旋を描いている。
 じっとそこを見つめれば、水の底に沈んだ人々が見て取れた。
なんと描けばいいのかわからない表情を浮かべ、音にならない声を出している。
実の所、手や目や口があるのかもわからない、人のようなもの。
皆、その純白の羽が欲しいと絶叫している様子だった。
手を伸ばし、ぽっかり開いた空――つまり玲奈の立つこの地上に這い上がろうとしている。
 足元をつばめの群れが通り過ぎていった。人々の手がなくなっていた。巣づくりに使うのかもしれない。
自分の立てる波紋のその下に、玲奈にとっても同じ意味になろう空が広がっている。
灰色の空。無理やり塗りたくられたような白い雲。太陽のない場所。
せめて明かりをと願えば、星が自信なさげにぽつぽつと光を灯す。
 耳元で生臭い風が流れ、聞き取れない言葉が聞こえた。手紙を読み上げているらしい。
その言葉に呼応するように、海の底の人々が泣き、笑い、絶叫していた。


「彼らはあなたの『思うこと』を読まれ、聞いているんだ」
 目の前に、玲奈と同じく水溜りを覗き込むだれかがいる。
青年とも女性ともつかない、黒い髪のなにか。
「あたし、何を思っているって?」
「手紙の中身の事は私も知らないさ。あなたがもしかしたら解るかもしれないけれど」
 鳥の脚の形をした右足で、水溜りを指差す。
「あとは彼らの事を少し考えてご覧よ……。どうにかなる訳ではないが」

 獣でも人間でもないであろう、しかし人々と呼べば丁度いい人々が、嗚咽混じりに何か叫んでいる。
どうやらそれは歌らしかった。手紙への返答でもあるようだった。
「何を聞いているんだろう」
 耳をいくら澄ましても何の言葉も聞こえない、強く目を閉じてもこの景色は消えない。
瞼の裏に映るのはその人々と、後ろ側から見た自分の姿。
自分であるらしいその影の前で羽がくるくる踊っていて、その後ろに黒い鶴が立っている。
つばめの群れが足元と頭上を掠め、その先に黒髪の青年が何かに腰掛けていた。

「……」
 視界の隅にグラフや何かの数量を現すゲージが映ったが、あまり意味はないようだった。
後ろの方から少女のはしゃぐ声がする。怖いほど青い夏の空の下で、元気に跳ね回っている。
扉の開く音や、しらない音楽。足元を覆っている水の冷たさが今伝わってきた。
頬を撫でる風はないが、海の香りはしてきた。
「あたし、忘れ物をしてきたのかもしれない」
 ぽっかりと浮かぶ月の幻を見た直後だった。

 足元にあった水と床の感触が取り払われ、月の上へと落下する。大きな水音、ドレスが広がって波紋になる。
全身で水の温度を感じられた。温度など、ここにきて今まで感じたかどうか。
つばめが傍を通り過ぎていく。黒い鶴がこちらを寂しそうに見下ろしている。
 泥か。
腕を伸ばし空間を掻く瞬間、水ではなく地面ではないものを捉えた。
泥沼の底に月が待っていた。
あの、白い羽とおなじくらい白い月。
 両足をけりだせば、灯っていた星たちが玲奈を照らした。
ラメより輝き、スパンコールよりも落ち着いた明かり。
玲奈のドレスから波紋のドレープが消え、水着の形になる。

「あの船は何を見たと思う?」
 目の前にやってきたあの青年が、その長い髪を振り乱しながら笑った。
「彼も船だった……真っ白い船。私はそう考える。絶対的な白は、闇でも光でもない」
 訳のわからない表情。なにも見て取れない瞳。

 玲奈は、あたかもイルカのように、人魚のようにその空間を泳ぎまわった。
美しいものなど何一つない沼の中、つばめと共に舞った。
「あたしもそうなりたかったのかな」
 閉じていなかった目を開けば、月を中心にぐるぐる回る星たちと銀河が見えた。
メリーゴーラウンドよりも不気味に、無音の中、宇宙が踊っていた。
水をけってそれに近づこうとする、しかし届かない。
つばめ達が星々をつついて遊んでいる。
「あたしがこうなりたかったのかな」
 灰色のペガススが駆けていく。向こう側から、こちら側に。星に足を取られることなく。
「答えがあるのよね?」
 彼を追うように、玲奈は泳ぎつづけた。決して星に届くことのないまま。
星たちは輝きをましていた。視界一杯に白い光を放ちつづけていた。
ペガススはやがて見えなくなったが、玲奈は泳いでいく。ぱらぱらと光が零れ落ち、彼女の水着に銀河を作り出した。
光に包まれ視界が白一色になった瞬間。一瞬だけ見えたのは、凛と胸を張り翼を広げているカラスであったろうか。


「私は、光と影以外のものならば、闇の中にありうると思っている」
 青年は白いカップを磨いていた。その横には、コーピーの豆の詰まったビン。
「全てを見つけられることはありえないがね」
 玲奈は小さな喫茶店の中、ワンピース姿でぼんやりとカウンター席に座っていた。
夕方の日差しが窓から差し込む。
すぐそばを通る線路と、その上を走る電車の音。無音だったあの場所から帰ってきた今、踏み切りの音は心地よく響いた。
「宇宙の、星たちがいる場所……それ以外はなんだと思う? 私はそこすら闇だと思っているよ」
 コーヒーをカップに注ぎながら、彼は続けた。
「聞けば、暗黒物質なんて名前がついているらしい」
 差し出されたブラックコーヒーを受け取り、玲奈は青年の言葉に小さく相槌を打った。
「でも、星は輝いていますよ。その光はこの場所まで届きうるんです」
「光は目に見えるもの。闇は、見えなくなってもおそらくあるものだろう」
 ミルクと砂糖の入った小瓶を置き、カウンターの向こうに置かれた椅子へと腰掛ける。
青年は笑っているでもなく、無表情でもなく、言うなれば楽しそうにしていた。
窓越しに夕焼けを見つめる。カラスが何羽か空を横切っていた。

「闇なんて名前が付いていなければよかったと思うことがあるよ。別の響きに聞こえるから」
 青年が窓に手を伸ばすと、そこには白い猫が座っていた。
首のあたりを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「あなたがあの場所で生きるのなら……。受諾とでも言うのかね。それが一番、近いだろう」
「受諾」
「例外もいるがね、あなたが女であるのならばきっと、見える闇の半分は不安、あとは夢と恋で出来てる。私が思うに、……あなたもその一人だと感じるのだけれど。違うかい」
 やや黒目がちの瞳を向け、青年はどちらかといえば穏やかに笑った。
ミルクの入ったコーヒーが、かき混ぜられくるくると回っている。
「闇の受諾」
 玲奈が小さく呟いた。ミルクが溶けていく。黒も白もなくなっていく。
白猫がみゃあと鳴いた。電話の隣の窓で、彼はゆっくりと丸くなり、目を閉じた。





「はいは〜い。写真集『漆黒の輪舞曲』サインはこちらですよ〜!」
 街角のビル一階、フロアの奥から響く明るい声。
漆黒の、流れるようなドレスを身に纏った少女が、現れる客人に笑顔でお辞儀をしていた。
ある写真を見初められ、玲奈はこの出版社に小さいなれど確固たる居場所を手に入れたのだ。
 フロアの壁を埋め尽くす、惑星の写真たち。
中央の柱に掛けられているのは、大きな太陽の写真だ。
とおんと言う音が正しいだろうか、そんなふうにして上部に顔をのぞかせる太陽。
表面から飛ぶ炎、躍動感溢れる光たち。僅かに現れた黒点の表情の、神秘的で不気味な存在感。
 「芸術的」。というのが、この写真への評価であった。
その言葉を聞いた当初、この写真を撮った時の心を引きずってか、玲奈はあまり釈然としない表情を見せたのであるが。
 暗黒であるが故の存在感と、活気。彼女はそれを直感的に感じ取っていたのだろう。
太陽にぶつかる直前、彼女が惹かれたものは一体何であったか。
宇宙船でありながら人間であり、人間として正しいかたちではないであろう彼女が求めていたのはどちらだったか。

 なんにせよ、彼女の映す・選ぶ黒は、どう見てもその存在と輝きを主張しているのだった。
「何? この惑星の写真。途切れてるぞ」
「この片隅に写る宇宙、この漆黒。これがいいんだよ」
「判らん奴だな。闇が全てさ」
 聞こえる声に、玲奈は嬉しそうに微笑み、頷いた。
惑星よりも、その黒がむしろ宇宙の一部なのであり……だからこそ星たちは美しく輝く。
遠く離れた完全な無やら闇やら、そういうものが誰彼の心に響く日も近い。




「出版、おめでとうございます」
 聞き覚えのある声に、玲奈は顔を上げた。
「歩き疲れない様……がんばってください」
 青年が頭を下げる。玲奈もそれに答え、お辞儀した。