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「まじわりの詩」
「相変わらず、すごいですね」
辺りを見渡し、みなもは歓声をあげた。
薄暗い部屋には、怪しげものが所狭しと置かれている。
赤や青、緑に紫など、様々な色の液体がこぽこぽと音を立てて煮沸されていたり、鉱物らしきものがすり鉢の中で粉砕されていたり。
棚に並んだビンの中には、植物や、動物の一部をホルマリン漬けにしたらしきものがある。
真ん中には手術台のような、大きなベッドやその周囲を照らすランプなどがあった。
全体の照明はほとんどロウソクに頼っているため、そこだけ妙に浮き上がって見える。
つんと鼻をつく臭いは、薬品のものだろうか。
保健室や病院に特有のものに似ているようで、また違ったものだ。
「今日は何をすればいいんですか? ラクス先生」
清楚なセーラー服に身を包んだ青髪の少女は、真面目な口調で尋ねかけた。
声をかけられ、振り返るのは艶やかな赤い髪に緑色の瞳をした女性――といっても、下半身はライオンの四肢になっており、その背には立派な鷲の翼を持つ――スフィンクスだった。
健康そうな肌の色が、色白のみなもとは対照的だった。
「いつも手伝っていただいて、ありがとうございます、みなも様」
威厳ある姿からは想像がつかないほどに丁重に、ラクスは深々と頭を下げる。
声の張り方もどこか、弱々しげなものだった。
「今日はですね、人間と動物の意識の相違についての実験をしたいと思っています。みなも様には少しの間、犬に『変身』していただくことになりますが……現在の状態を記録(セーブ)しておきますし、元に戻す際に影響はありませんので、安心してください」
「はい、わかりました」
ラクスの言葉に、みなもは素直にうなずいた。
普段から勉強を教わっているラクスを信頼している、というのもあるだろうが、変身については多少の慣れがあった。
ラクスからしても免疫も適性もある、最高の献体だった。
「まずは、今の状態を記録しておきますね」
ラクスは不思議な文字のかかれた石版を取り出すと、みなもにその上に乗るよう指示した。
光がみなもを包み込み、周囲を青白い、記号のような文字が取り囲む。
おそらく、みなもを構成するもの――肉体の構成要素や精神状態の様子――を読み取り、書き込んでいるのだろう。
「これで大丈夫ですよ。痛み止めを塗布しますので、衣服を脱いでもらえますか」
「はい……」
言われて、みなもは若干ためらいつつもスカーフに手をかけた。
カーテンなどの仕切りもなく――窓がないのはいいのだが――女性同士とはいえじっと見られたままでは、やはり緊張してしまう。
「痛み止めって、麻酔とかではないんですね」
注射針を思い浮かべ、みなもは言った。照れ隠しもあったかもしれない。
「痛みだけを遮断し、その他の感覚は通常通り残せる特殊な薬です。意識の変化を見たいので、意識が朦朧とするようなものは使えないのですよ」
なるほど、と思いながらも、スカートを近くの椅子にかける。
それに身体を変化させるのだから、衣服は邪魔になるだろう。
どちらにしても、脱がなくてはならないのだ。
身に着けているものがなくなると、室内は肌寒かった。
白く滑らかな肌に塗りつけられる薬もまた、ひやりとする。
緑がかったゼリー状の薬は、肌に塗るとほのかに熱をもち、透明になって同化していく。
その変化は不思議だが、触れられる感覚はそのままなので本当に痛みを感じないのかどうかは、よくわからなかった。
「普段は動物の細胞を組織を合成することが多いのですが、今回は身体を変質させるお薬を飲んでもらいます。変身以外の副作用はありませんのでご安心を」
ラクスは笑みを見せ、みなもにカップを差し出した。
『優美な葡萄』と謳われる彼女の髪の色によく似た液体だった。
みなもはためらうことなく、それを口に含んだ。
臭いこそきついが苦くもなければ甘くもない、不思議な味だった。
最初は、何の変化もないように思えた。
痛みはもちろん、いきなり耳が生えるわけでも毛が生えるわけでもない……。
みなもは不思議に思っていたが、立っているのに疲れて座ろうとした。
バランスを崩し、床に倒れ込む。
よつんばいになってみると、妙に安定がよく思えた。
たった2本の足でバランスをとろうとする方が、間違っていたのかもしれない。
ラクス先生、次は何をするんですか? みなもはそう、尋ねるつもりだった。
けれどその口からは、ワウワウと、犬の鳴き声しか出てこなかった。
みなもは驚いて、ラクスを見上げる。
同じ四足を持つとはいえ、ライオンの下肢のラクスの方が身体は大きい。
けれど彼女は何も答えず、じっとみなもを観察するだけだった。
――実験はもう、始まっているのだ。
耳の辺りがむずむずし始めて手をやってみると、そこにいつもの耳はなかった。
毛の生えた耳が垂れ下がっている。
ふっと後ろを見ると、尻尾が伸びている。
身体も、ゆっくりと獣毛におおわれていっていた。
灰色がかった長い毛が、胸元をおおい、腰の辺りをおおい、足、腕などに広がっていく。
やがて、メキメキと奇妙な音と共に、骨格が変化してゆくのがわかった。
骨の位置が、数が、形が。パズルように移動し、変わってゆく。
痛み止めがなければ、激痛のために気絶していたかもしれない。
鼻と口先が突き出て、口が大きく裂けていく。いつもの歯ではなく小さく、尖った牙が並ぶ。
筋肉が収縮し、お腹の中で内臓がうごめいていくのがわかる。
変質――ゆっくりと、別のものに変わっていく。
恐れはなかった。むしろそれが、自然なことのようにさえ思えた。
服を着なくても毛並みがあれば十分だし、四足の方が早く走れる。目は悪くなったけど、耳がよく聞えるから問題ない。
むしろさっきまでは――人間だった頃は、目に見えるものに頼りすぎて、惑わされていたようにさえ思える。
それにこの、鋭い牙は――。
「気分はいかがですか? みなも様」
変身を遂げたのだろう、ラクスがそう声をかけてきた。
みなもはワォン!と元気よく答えた。
不安、戸惑い、恐れ――そうしたものはないわけではないけれど、小難しい理屈や人の目を気にする必要はない。
感情のままに、本能のままに。自由を手に入れた気がする。
犬になったみなもはパタパタと尻尾をふって、ラクスに擦り寄った。
普段は大人びた彼女の打ち解けた様子に、ラクスは笑みを浮かべる。
そのときだった。
ガシャンッ。
隣の部屋から、大きな物音が聞えてきた。
「まさか……!」
ラクスは緊張した面持ちで、みなもの前に出る。
ドッ、ドッ、と扉に何かがぶち当たる。
みなもは警戒し、身を伏せて唸りをあげた。
「あちらには、実験に使用する動物たちを保管しているのです。檻に入れてあるはずなのですが……」
皆まで言わずとも、それが逃げ出したらしいことはすぐにわかった。
バンッと勢いよく扉が開き、中から大猿が飛び出してくる。
みなもはラクスの背後から駆け出し、飛びかかった。
「みなも様!」
悲鳴に近いラクスの声。
猿はすんでで攻撃をかわし、棚の上に飛び上がると、近くにあった瓶を投げつけてくる。
みなもは棚に向かって吠えたてた。
ラクス先生を護らないと――。
必死になって、猿の尾に噛みつき、引き摺り下ろす。
その上に圧し掛かり、まさに首筋に噛みつこうとした瞬間。
「もういですよ、みなも様」
ラクスの手が差し出され、攻撃を中止する。
みなもは首を傾げるようにして、ラクスに目を向けた。
「すみません、実はこれも、実験の一環だったんです」
の緊迫感を出すためと、普段おとなしいみなもがどう出るか、その反応を確かめたかったのだと、ラクスは必死に頭を下げる。
猿はきちんとしつけてあるため、危害を加えることはない、ということなので一応の仲直り(?)をしておいた。
騙されたと知ったみなもは、すっかりうなだれてしまう。
信頼しきっていたため、余計にショックだったようだ。
「本当にすみません。けれど意識の変化をみるためには必要だったのです。少なくとも、いつものみなも様なら――前に出てかばいはしても、攻撃に転じることはない、ですよね?けれど変化したその姿は猟犬なので……」
そう、危うく噛み殺そうとするところだったのだ。
――ラクス先生、もしもあたしが殺してしまっていたら、どうするつもりだったんですか。
みなもは犬の声のまま、ラクスにそう問いかけた。
「その本能のままに殺してしまったとしても、みなも様に罪はありませんからね。ライオンが鹿を食べることで裁かれることがないように。そもそも、このコはラクスがつくったものですし……」
その場合、ラクスには猿に対する愛情がないのだろうか、最初から実験動物として育てていれば仕方のないことなのだろうか。
――けれどそんな難しいことは、今のみなもにとってはどうでもいいことだ。
みなもはくあぁ、とあくびをして、床に身体を横たえるのだった。
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