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<東京怪談・PCゲームノベル>


ストレンジピクチャー 




 注文したコーラの氷は、もう随分、溶けていた。
 ガラス製の厚みのあるコップは、玉のような汗をかいている。
 百合子は、差し込まれたストローで意味もなく中の液体をつついた。そして、テーブルに置かれた手紙を見やった。正しく全うな、美しい字が、便箋に引かれたラインからはみ出すことも浮き上がることもなく、連なっている。
 ストローから、甘いだけになりつつあるコーラーを吸い上げる。コップを掴んでいた手で手紙を掴むと、濡れた部分の文字が、じんわり、滲んだ。コップをずらして自分の前に手紙を置くと、まあるく紙が、濡れ、やはり文字が滲んだ。そのままずずず、とテーブルの上を滑らせて、何となく全体的に湿っぽくさせたりしながら、どうでもいいけど、座席の真後ろに置かれた鉢植えの観葉植物の葉っぱは、育ち過ぎているんじゃないんですか、とか考えていた。
 もともとそういう種類の葉っぱなのか、あるいは、放置された揚句の突然変異なのかは植物に疎い百合子には分からなかったけれど、とにかく、葉っぱがでかかった。しなだれかかってくるように座席にまで浸食してきては、後頭部を、嫌らしい優しさで攻撃してくる。
 もう何度も振り払っているのだけれど、やっぱりまた振り払い、むしろ若干折ってやってもいいかなくらいの勢いで押しやり、眼鏡を押し上げ、全体的に湿ってそろそろ文字の判別も怪しくなってきた手紙を見やる。
 百合子はそれを、元通りの三つ折りに折りたたむと、四つ折りにし、更に半分にして半分にした。どちらかといえば小さい自分の掌にでも収まるくらいになったその手紙を眺めて、軽く茎の折れ曲がった観葉植物を振り返り見た。
 折れた葉っぱが、今度は、首筋を嫌らしい優しさで刺激してくる。お前が折り曲げたから、もっと嫌な感じで攻撃してやるんだぜ俺は、っていうか、報復には報復で返してやるんだからっていうか、そういう変なプライドみたいな我の張り合いしてたらいつまでたっても戦争なんてなくならないですよ、とか、いやいやそれより戦争全然関係ないじゃん、とか、結局首が物凄い痒いんでどうでも良かった。
 百合子は、ああ、痒っ、とか鬱陶しげに小さく呻き、とりあえず細っこい首筋をぼりぼり掻いた。それで何か手の中に違和感があるなあ、とか思ってふと見ると、今しがた折りたたんだ四角い奴が、まだ居た。
 そいつのことを暫く眺めて、観葉植物を見つめると、とりあえず鉢植えを持ち上げてみることにした。水受けに置かれてある小皿との間に、半分にして半分にしていたそいつを、四つ折りくらいに戻し、小さな虫が浮かんでいる水の溜まった小皿の上に置いてみることにした。
 意外にしっくりくるというか、この観葉植物の野郎も暫くは水を吸い上げられなくて困るんでは、とか思うと愉快な気もしたし、植物愛好家に怒られるかも、とはちょっと過ったけど、そんな名前の知り合いは居なかったし、とりあえず植物愛好家さんに嫌われても別に問題なく生きていけそうだったので、そのままにしておくことにした。
 レジでコーラの代金を払い、外に出る。
 店の前に段差があって、別にそんな高くもない段差だったのだけれど、降りようとしたら足がぐき、っとなって、ずて、っとこけかけたけど持ちこたえた、とか思ったら、そこに何故か落ちていた大きな葉っぱで、ずるん、と滑った。
 思い切り背中っていうか腰っていうか尻っていうか、もう何か、いろいろ衝撃的に、打った。
 うっと息が詰まって、こて、となって、空を見上げて、あ、呪いですか、とまず、思った。暫くはそのままいろんな意味で衝撃が強すぎて動けずに、流れる雲などを眺めていたのだが、後頭部が段々痛くなってきて、そういえば髪留めしてたんですよ、と思い出した。
 背中の痛みに全部持っていかれていたらしい神経が徐々に戻ってきた結果らしかった。あーあ、とか思いながら上半身を起こした。ぼさぼさになった髪を直す。髪留めを外すと、長い髪が肩にポスンと落ちてきた。どちらかといえば柔らかく細い猫毛の髪が、数本、留め具に絡まっていた。
「いててて」
 とか別に何気なく呻いたのだけれど、ふとそんな自分が空しくなった。何か、喫茶店の前でこけて髪留めが痛くて、一人で髪留めを外しながら、痛いからなんだけど「いてて」とかひとりごと言ってる、とか、空しかった。
 髪の毛を束ねて掴んでいた手を、離す。また長い髪が、ポスンと、肩に落ちてきた。




 テーブルの上に置かれたかごの中に、個別包装されたチョコレートやスナック菓子が入っていた。
 ごそごそと探ってみたらキャンディの袋を見つけたので、手に取った。中身を口に運び包装紙を見ると、「日常の中で見つけた小さな幸せ」みたいなキャッチコピーがこれみよがしに書かれてあるので、思わず読んでいた。
 白い、事務的なテーブルを、三人の女性が囲んでいる。インタビューされる側の作家と、インタビューする側のインタビュアーの話が、いまいち盛り上がりきっていないのを横目に、シュラインは、他のキャッチコピーが書かれてある包装紙を探した。そして、読んだ。
 そして、ふふん、とか、思わず、笑った。
 くっだらないなあ、とか思いながら顔をあげると、友人の作家とインタビュアーが、何だコイツ、みたいな目でこっちを見ていた。
 会議室が不自然な静寂に包まれる。
 シュラインは顔を伏せた。何事もなかったかのように飴をなめるのを再開すると、つられるようにおずおずと、また、取材が再開した。
 すると何か、インタビュアーの女の人が「いやあでもほんと、先生がうちのような小さな出版社の依頼を受けて下さるとは思ってなかったので、嬉しいですよ」とか言いだしているのが聞こえて、向かいで「いえいえそんな」とか、如才なく友人が社交辞令を言ったので、その隣でシュラインはよれよれになりつつある包装紙を鶴の形に折ったりしながら、「書いてねえよ、ばあか」とか、こっそり思ったりした。
 思ってしまったもんだから、気付いたら、顔が何か凄い変にニヤニヤしてしまっていた。
「あの、何か可笑しいですか」
「え?」
 顔をあげると向かいでインタビュアーの女の人が、引き攣った顔で笑っていた。自分の隣で友人が、いやアンタそこで笑って貰うと困るんだけどね、というようなニュアンスで、やはり、引き攣った顔で笑っていた。
 シュラインは、彼女達の顔を交互に見やって、もう一度、「え?」とか、言った。いやはいそうですね、笑ってましたね、あれ何ここって笑うの禁止なんですかね、とか考えてると、「何が可笑しいんですか、さっきから」と向かいでインタビュアーさんが、微かに本気で苛立っていた。
 何がそんなに彼女を苛立たせたのか、むしろ、笑うの別に私の勝手ですよ、とか思っていたので、「え、いや別に」とまたちょっと笑ったら、突然、ガタっとかインタビュアーの女の人が立ち上がったので、何事かと驚いて、体を引いた。
「私、何か可笑しいですか!」
「えっ?」
「凄い気になるんですよ、さっきからニヤニヤニヤニヤ、何なんですか、私、そんなに可笑しいんですか! 私のこと、馬鹿にしてるんですか!」
 丸い顔の頬を微かに紅潮させて怒鳴り始めた、丸々といい感じに柔らかそうな彼女を、何だコイツみたいな目で、思わず、見上げる。
「そうでしょう! 先生も、私のこと馬鹿にしてるんでしょう! また馬鹿な質問して、とか思ってらっしゃるんでしょう。全然質問に答えて下さらないし、こんな美人な友人なんか連れてきて」
 それは私が、コイツのゴーストライターだからですよ、とよっぽど言った方がいいんじゃないか、と思ったけれど、彼女はまだ喋り続けていたし、口を挟む余裕がなかった。
「そりゃうちは弱小出版社ですけど、そこまで馬鹿にされる謂れなんてないですよ、そうでしょう、私だって、私だって、こんな出版社に就職したかったわけじゃ……」
 そして彼女は、ううう、とついには、泣き出した。
 泣き出して、泣きだしたからには多分、何か理由があったのだろうけれど、シュラインには何だかもう良く分からない。
 分からないけれど、泣きたいなら泣けばいいか、とも思ったので、好きにさせておくことにした。
 それで何かふと横などを見ると、大きな窓が見えて、青い空が見えた。
 良い天気だなあ、と、しみじみ、思った。




「だからね、つまり、そうして何か少しずつ変化していっちゃう人がいるんだけど」
「あ、はあ」
 広瀬は、とりあえず相槌を打って、とにかく近づいてこようとするファウストから、距離を取った。
 立ちあがって場所を移動する。
「そうなってしまったら、可哀想でしょ。だから、発見したら一応それを回収して回ってるわけだよ。ね? ね? 分かる? 聞いてる」
「ああはあ聞いてますよ」
 ソファに座ったら、今度は隣にファストが腰掛けてきた。
「あー何か、凄いですね」
 何でお前はいちいちいちいち、と忌々しく思ってそうな顔で、それでもとりえず相槌を打つ。意味が分からないなんて言ったところでどうせ、分かりましたというまで話続けられるに決まってる、と思ったからだったが、どっちにしてもファウストが、「あ、興味ある?」なんて嬉しそうに食いついてきたので、分かってたけど、何か凄い、がっかりした。
「いやあの」
 とりあえず、一旦、項垂れてみる。「誰ですか」
「えっ?」
 ファウストは驚いたような表情を浮かべ広瀬と目が合ったかどうか、くらいの素早さで、すぐに、視線を逸らせた。「ボ、ボク? ボクは、レディ・ファウスト。ま、MASAのボス」
「はいそれは分かってます」
「ああ」
 まあ、そうだよね、と納得したように呻き、「だ、誰ですかって?」
「この家の場所を教えたの」
「ああ」
「誰ですか」
 と、顔をあげたら、今度は思い切り目が合って、ファウストが、「あ」とか呻いた。
 青白い顔の中の赤い唇が、何だかとっても、物言いたげに、震える。
「と、ところであ、あのね、ひ、ひ、ヒロ」
 とか別に、気持ち悪いのでどうでも良くて、額を押さえて項垂れた。
「もう何か本当に、何か、やめてほしいんですけど、休みの日に家まで来るのとか」
 ぶつぶつ呟きながら、頭をかき混ぜる。
 隣のファウストは、そんな広瀬の気配を窺いながら、こっそりと距離を詰めたりしていたが、全然相手が気付かないので、少しだけ調子に乗って、柔らかそうな髪の毛に顔を近づけたりしてみたりしている。
 するとふわりと、健全な人の匂いというか、清廉で清潔な匂いというか、とにかくすごいいい匂いが鼻腔をくすぐって、思わずちょっと悶えてしまって、もうちょっとだけ近づいてみようか、とか考えてたら、顔をあげた広瀬に、「聞いてます?」とか声を荒げられ、飛びあがりそうになった。
「え、何やってんですか」
「い、いや、て、天井が」
「は? 天井」
「た、高いなあ、と思って」
「そうですか、別に普通ですけど」
 同じように頭上を見上げて、ファウストを見る。
 目が合った。「あっ」と、高い鼻の上にある目が、ちろ、と明後日の方を見て、また広瀬を見た。
 何だか良く分からないけれど、そのまま何となく見詰め合っていたら、ファウストの喉仏が、ごく、とか上下して、じりじり、と、めちゃくちゃゆっくりとした速度で青白い顔が近付いてくるので、何か良く分かんないけどとりあえず同じ速度で、ゆーっくり上半身を仰け反らせた。向こうが止まったので、こっちも止まったら、まるで世界が止まったみたいに、その場が静止した。
「あのボス」
「は、はい」
「いやあの、顔が」
「う、うん」
「近いです」
「あ……」
「誰から僕の家の場所聞いたんですか」
「え?」
「いや、だから。誰ですか、僕の家とかボスに教えたの。もうすごい本当やめてほしいんですけど」
「あのハ」とファウストは、一旦声を引っ繰り返らせ、「ハセガワ」とぼそぼそ、続けた。もじもじと、俯く。
 どういうわけか、見てるだけで苛っとしたので、「え?」とか、ああ? くらいの乱暴さで、聞き返した。
「いやあの、ハ、ハセガワに。聞いた」
 猫背気味に背中を曲げて、もじもじしてるのを黙って見てたら、今度はそわそわしだして、「え?」とか言った。
「ああそうですか」
 広瀬は、もうどうでも良かったが、とりあえず何か返事をしなければならないようだったので、返事をした。
 ファウストは、「あ、うん、そ、そうなんだなあ。だ、だって病院お休みだと会えないから」げへへ、と、か細い声で笑い、安心したような表情を浮かべ、それは彼にしてみれば、別にただの返事なのだけれど、広瀬の目には、何だかもう、どうやっても変質者か、不審人物か、あるいは新種の珍獣にしか、見えない。
 それで何でそんな変てこりんな生物が自分の部屋の中に居るんだ、とか、あれ? とか、何だか改めて見るととっても変だったので、何でこんな生物が、というか、何だこの生物は、というか、いろんなことを良く良く考え出した広瀬は、また自分が、能面みたいな無表情でファウストを観察してしまっていることに気づかない。
 ファウストは、この子、電源の切れたロボットみたいになってるんですけど、ボクを見てるんですけど、と、そわそわした。
「あ、あの、ヒロセくん?」
 すると突然、広瀬が立ち上がった。何事か、とファウストはぎょっとした。
「どうでもいいですけどハセガワさんて絶対ボスのこと好きですよね」
 広瀬は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取って来て元の場所に座ると、キャップを外して、飲んだ。ガラステーブルに、ドン、と置く。
「あ、それ取りに行ったんだね」
「っていうかハセガワさんて絶対ボスのこと好きですよね」
 と、とりあえずもう一度言っておいて、言ってしまってから別に二回も言うほどのことではなかった、と気付いた。
「や、やきもち?」
 困ったようににやにや笑いながら、ちら、とか見てくる。
 いやもう何だコイツ。いやもう何だコイツっていうか、何だこの得体の知れない物体、みたいな目で黙って見てたら、今度は、ペットボトルとこちらとを、ちら、ちら、と見比べながら、「でもたぶん、ハ、ハセガワは、ボクじゃなくて、ひ、ヒロセくんのことが好きなんだとお、思う、思うなあ」とか、言う。
「ヒロセ、ヒロセくんのこと何でも知ってるし、よ、良く会ってるし、それにヒロセくんはその、か、かかかか、可愛いし」
 いやもう何だろうなあコイツ、得体知れないよなあ、青白過ぎるよなあ、でも髪の毛は赤いよなあ、っていうか赤過ぎるよなあ。そういえばこんな柄の蛇とかいたよなあ、とかどうでもいいことを考えながら、ぼーっと眺めていたら、何の話してたか見失った。
「え?」
 と、多分、聞き返すほどのことを言ってなかっただろうけど、一応、聞き返しておいた。
「い、いや、な、なんでもないよ」
 とか俯いたファウストは、モジモジした。その後徐に、「あのー、ぼ、ボクも水飲んじゃおうかなあ」とか、そわそわとペットボトルと広瀬を見比べながら、言った。そしてふ、ふへへ、とか意味もなく、笑っている。
「ボ、ボクもこのペットボトルから水飲んじゃおうかなあ」
 広瀬は特に返事をしないで、とりあえず何だコイツみたいな目でファウストを見ていた。
 むしろ、会話したくないっていうか、会話できる気がしないっていうか、会話の放棄だった。
 しかし相手はそれを、あ、返事がないってことは飲んでもいいってことですよね、とばかりに都合良く解釈したのか、ペットボトルへと手を伸ばしかけた。
 と、そこで「あ」と広瀬が言った。
「あ、そういえば」
「えっ」
「いや何かこないだ、実家の近所の家がリフォームしてたんですよ」
「あ、うん。え? 何の話?」
「そしたら朝ね、何か、多分あれ、あの家の人なんだと思うんですけどね、オバサンがね、物凄いニヤニヤしながら家の前行ったり来たりしてんすよ。眺めてんすよ。いや、嬉しいのは分かりますけどね、それ見つけちゃった僕はどうしたらいいんですか、っていうか、もう、俯いて見なかったことにするしかないじゃないですか」
「あれ? 何の話?」
「いや」
 広瀬はまた、パタン、と両腕を広げ、ソファの背もたれにもたれかかった。「何でもない、ただの話」
「あ……」
 間の抜けた顔で、停止したファウストは、突然、何を思ったのか、ニヤニヤ、笑いだした。うわ、気持ち悪、とか思ってたら、「ち、ちなみに、ちなみに、ヒロセくんのじ、実家って何処なのかなあ」とか、言う。
「さあ、何処なんでしょうねー」
 ペットボトルの水を飲み干しながら、広瀬は、答えた。



* * * * * *



 駄菓子屋「ラムネ」の運営を祖母から引き継いだ形で任された廣谷は、今日も、午前十一時頃に店を開ける。
 古めかしい木のドアを開き、あらかたのお菓子の補充をしたりカップ麺などの食料品の棚の埃を清掃したりする。それが終わると、未舗装の砂利道に出て、軽い運動をする。腰を曲げ、背を伸ばし、新呼吸をして、丘の上に伸びていく道を、暫し、眺めた。
 村は、独特の匂いを持っている。小学校の時に始めて嗅いだ「図工室」の匂いに似ている。絵の具や油や木工用ボンドなどの科学的な匂いと木や土の自然の匂いが混じり合い、鼻腔にざらざらとした粉っぽさを残す。
 道は、小高い丘に向い、ゆるゆると曲線を描きながら伸びている。時折緩やかに折れ曲がり、途中の林に点在する奇抜な色や形の屋根へと続いていた。赤や黄色や緑といった鮮やかな色の屋根もあれば、コラージュのように様々な色が細々と重ね合わされた屋根もあった。
 とある町のとあるトンネルを抜けた先に広がるこのサイケデリックな色味の村の名は、通称、芸術村。またはアトリエ村と呼ばれる。
 若いアーティスト達が何となく集まった密集地に、どこぞの暇人の金持ちが目を付け、別荘を建てたのが最初なのか、金持ち達の別荘地に意気揚々と若いアーティストが乗り込んだのが始まりなのか、そこには芸術家達だけでなく、新しいもの好きの資産家や好事家の別荘もまた、見える。
 丘の上には近代的な様式の建物がぽつん、と静かに、佇んでいる。文化会館と村の人々に呼ばれるそれは、まるで麓に立つ全てを監視するかのように見下ろしている。いつもと変わらぬそんな風景を何となく眺めていたら、ぽんぽんと、背後から急に肩を叩かれたので、廣谷は振り返った。
 写真家の名取が立っていた。
 というか、写真家の名取が物凄く近くに立っていた。
 あれ、これってすごい近いですよね、と廣谷はまず、戸惑った。
「なんかさ」
 名取は全くその距離のくだりには触れずに、話しだしたので、更に、戸惑った。「これ、俺が撮った写真なんだけどね」
 相手の口からとんだ唾が、ぴちょ、と鼻の横に飛んだ。いやいや、やっぱりこれって近いですよね、としつこく思いながら「はあ」とか返事をするついでに、さりげなく、それを拭う。
「すごい、変じゃない? これ」
「はあ」
 差し出された写真を受け取り、眺める。
 変、と言えば変だし、これは変じゃないんだ芸術なんだ、と言われればそうですか、と納得することもできるので、何とも言えない。そもそも廣谷に、芸術の何たるかは分からない。
「どっか、変、なんでしょうか」
「いや」
 名取はちょっと慌てたように言って、写真の中央に映る人物を指さした。「これ、変でしょ、変過ぎるでしょ」
「はあ」
 確かにそこには変な物体が写りこんでいた。被写体の片方の手と、それと相対する片方の足が、茶色っぽく変色し、細く尖っている。確かに正常な人の手や足のようには、見えない。そこだけが錆びた鉄のようにも、枯れた木のようにも、見えた。
 廣谷は顔を上げる。
 まあこれはこれでびっくりですけど、それより今のこの二人の距離の方がよっぽど問題ですよね。と、言おうとしたらその矢先に、名取が言った。
「それでさっきから思ってたんだけど、これ俺達すごい、近くない」
「え」
 廣谷はちょっと仰け反って、二、三度瞬きすると、「はい」と勢い良く、これでにないくらい勢い良く、吐きだした。
「そうなんです、それ、言って良かったんですか」
 飛んだ唾を物凄い嫌そうな顔で拭った名取は、小首を傾げた。
「あれだよね、何か良く、存在感薄いとか言われるでしょ」
 でしょ、って言われてえ? 僕はそれに何と答えたらいいんですか、とか思って、ちょっと黙った。そしたらそのまま、何か、時間が止まってしまったようになったので、いや、とか、辛うじて、言った。
「まあそりゃあ、あるかないかって言ったら、無い方だと思いますけど」
「でもこれ、こういうの何ていうんだろうなあ、心霊写真っていうの? 怪奇写真っていうの?」
 あ、結構考えて真面目に答えたのに丸無視ですか、とちょっと思った。思ったけれどわざわざ口に出して言うほどでもなかったので、廣谷は素直に写真を見ることにした。
「っていうかこれ、え? 歩いている人を偶然撮ったんですか?」
「うんそう」
「え、それでどうしたんですか」
「どうしたって、どうもしてないよ。何か変な人がいるなあ、とか思って、あんまりびっくりしたもんだから思わずシャッター押しちゃったんだけどさ」
「ああ、え? で、その人は」
「いや何か、目の前、よたよたーって歩いて行った」
「ああ、行った、え? 行った? 放置ですか」
「でもさ、見たつってもさ、俺の妄想とか幻覚とかだったら嫌じゃん。ほんで急いで帰って現像したんよね。そしたらやっぱ映ってるしさー何かびっくりだよね」
「ああ、まあああそう、そうですね、え、でも放置ですか」
「でも思うんだけどさ」
「はい」
「とりあえずやっぱすごい近くない、これ」
 名取はそう言って、え〜? とか吹き出した。「なんでこんな近くに立っちゃったかなあ。俺、面白いなあ」
「ああまあ面白いですね」
 廣谷はいい加減に頷いて、愛想笑いを浮かべる。そしたら視界の端を、ふと、見覚えのあるような小柄な影が横切って行った。
 ような、気がした。
 はっと、顔をあげる。
「あれ? 百合子姉ちゃん?」
 物凄い不自然な光景がここにあるというのに、興味をひかれることもなくすたすたと歩いて行った彼女は、そのまま店に向かい歩いて行った。
「え、ちょっと、百合子姉ちゃん?」
 廣谷は思わず声を荒げる。すると店の中に入ろうとしていた、従姉の歌川百合子が、店に片足を突っ込んだような格好で、「お」とか、顔だけ跳ね返してきた。
「何だ、トシ、居たの」
 ええそう今まさに、存在感が薄いとか言われたところだったんですよ、とこれはもう自嘲するしかない。「ええ、まあ」
 すると百合子が、近づいてきた。そしてそのまま名取の間近に立った。
「あの何だっけ、新居くん、だっけ? 元気?」
 めちゃくちゃ何かこの人俺のこと見てるんですけど、みたいな表情の名取が、「え」とか、言った。
「もう何かいきなり来るのとか、やめてくれないかなあ」
 百合子が名取を見て喋っていたので、何となく廣谷も名取を見て喋った。
 また名取が、「え」とか、言った。
「僕がもし恋人といちゃついてる時とかだったらどうするわけ、しかも髪の毛切ってるし」
「しかもって、何、別にいいよね。トシ君に無断で切ってもいいよね」
「いつ切ったの」
「さっき。滑って転んで切なくなったから髪の毛切ってみた」
「え?」
「だから、滑って転んで切なくなったから髪の毛切ったの」
「ああ」
 と、廣谷が納得すると、今度は、「え?」と、間に挟まれた名取が、言った。「なんで、滑って、転んで、切なくなったからって髪の毛、切るの?」
「はい」
 名取の言葉を丸々無視した百合子が、何かを差し出した。え、俺ですか、俺にですか、っていうか、俺の質問無視ですか? というような表情でそれを受け取った名取が、百合子を窺いながら、廣谷にそれを回す。「あの何かこれ、こっちの姉ちゃんから……」
「何これ」
「結婚式の招待状」
「いや、それは見れば分かるけど」
「中開いて見た?」
「いや、今開いたけど」
「結婚するんだって」
「あ、多香子さんか。ふうん。……で?」
「いや、トシにも招待状送ったんだって。でも、宛先不明で返って来たんだって。ここに引っ越したこと、多香子ちゃんに言ってないんでしょー。だからみてみ? 私のとこに送られてきたじゃん、え? どうしてくれるわけ、これ」
「いやだってさー。近所のお姉ちゃんにまで引っ越したこと言わないでしょ、普通」
「昔は好きだったくせに」
「いや昔は好きでしたけれども」
「トシ君の幼馴染じゃないか。どっちかっていうと、あたし関係ないじゃない。むしろ、トシ君が仲良かったから、あたしも仲良くなったって感じなのにさ、何であたしだけまだ続いてて、トシ君もう切れてるわけ? 腹立つよ。同じ年の人に結婚式の招待状とか出されるあたしの気持ちも考えなよ」
「考えなよって知らないよ」
「あんまり腹立つから来ちゃったんだもん。こんなんなんか凄いもう、やだ。どうし、どうしたら、いいの。手紙の字とかめちゃくちゃきれいなんだよ。もう負けてんだよ、その時点で」
「いや知らないし、僕、関係ないし。結婚したかったらしたらいいじゃん」
「した、したら、って、したらいいじゃん、ってそんな簡単な話じゃないの、いろいろ難しい乙女な問題なのこれは、ロマンの間逆にある問題なの」
「って言いにわざわざ来たの。もう何、馬鹿じゃないの」
「馬鹿? ねえ、馬鹿? 馬鹿って言ったの、何、馬鹿って言ったの、ねえトシ君今、馬鹿って言ったの、あたしに」
「もうごめん」
「何それ、逆切れ? ねえ何今、逆切れしたの、ねえ、逆切れしたの、今」
「いててて、ちょっと痛て、うわすっごい押してくるこの姉ちゃん」
「だからさ、謝ってるじゃないか。なに、何なの、っていうか何で僕が謝んなきゃいけないの」
「うわ、いてて、ちょ、何すっごい、廣谷、押してる、いてててて」
「何でってトシ君が悪いからでしょ、トシ君が悪いからじゃない」
「多香子さんが結婚したんは多香子さんの事情で僕には関係ないじゃないか」
「いやこれは絶対、トシ君が悪いよ」
「そうだよもう廣谷が悪いよ、それでいいじゃん、謝れよ」
「何ですか口挟まないで貰えますか関係ないでしょ」
「いや関係ないって、関係ないってそんなん言うなら言わせて貰うけど、関係ないなら何で間に挟んでんだよ、さっきから」
「え?」
 と、廣谷は苛立ちのままに乱暴な返事をし、目の前の名取を見て、あ、と思った。
 思わず、きょとん、と名取を見上げる。
「あ、ホントだ挟んでますね」
「ああ本当だ、こりゃ挟んでるよ」
 と、百合子も今気付いたみたいに言った。
「え? 何で挟んでんの」
「いやそれは俺が一番聞きたいんだけどさ」
「そういえば名取さん、何か言ってなかったでしたっけ」
「え? 俺? 何か言ってた?」
「いや何か、写真がどうのとか、言ってたような気がしたんですけど」
 とか言った廣谷のことを、名取はじっと、見た。じっと見られてじっと見て、あ、まずいこれは変だ、と気付いたくらいの辺りで、「あ、そうね。心霊写真の話だよね」と、名取がやっと言った。
「え、なに? 心霊写真?」
 本能的な恐怖を感じたからか、百合子が名取の腕にしがみつきながら、言った。
「こわいやつ?」
「心霊写真っていうか、怪奇写真っていうか……百合子姉ちゃん好きそうだよね、そういうの」
 自分の手の中にある写真を見て、百合子を見て、拗ねたような表情でまた、写真を見る。
「す、好き。でも、怖いの? こ、怖いの?」
 小柄な百合子が、好奇心と恐怖心をないまぜにしたような表情でこちらの気配を窺っているさまは、小動物か子犬のような愛らしさがあり、可愛くて、何だかとっても腹が立った。
「だから……何でいつまでもくっついてんだよ」
 写真に目を落としたまま、ぼそぼそ言ったら、「え?」とか百合子が顔を突き出した。
「何でもないよ」
「そんな拗ねた顔しといてー?」
「写真、興味があるなら聞いてみたら。はい、名取さんこれ、お返しします。じゃあ、招待状、ありがとうね」
 廣谷は二人に向け、軽く会釈すると招待状を持って店の中に入って行った。
「何だかなあ」
 百合子は首をゆるゆると振り、名取を見上げた。「全く気分屋の従弟で困りますよ」
「若いんですよ、可愛いですね」
 などと可愛いものなんて一度も見たことないような落ち着き払った顔で、名取が言う。
「あ、やっぱりそう思います?」
 百合子は切ったばかりの髪をいじりながら店の方を見る。それから名取を振り返った。
「っていうかあたし、この髪型似合ってます?」



「きょ、興味ないとか言って、ほ、本当は興味津津だったんじゃないの、ヒロセくんてば」
「っていうかボスって、外歩くとかできたんですね」
 計算外だったですよ、と言わんばかりの表情で、広瀬は隣を溌剌と歩くファウストを見た。「太陽の下に出たら溶けだすとか、暑いの反対! とか、ボクは外の空気に触れたことがないんだなあとか言い出すんだと思ってましたけど」
「え? そんなこと言った?」
「いえ、言ってません」残念そうに項垂れる。「僕の勝手な想像でした」
「ボ、ボクはこう見えても案外たくましくて、き、筋トレなんかも最近はじめて、細く見えるだろうけれども案外たくましいっていうか、ぼ、ボクサー体型っていうの? ひ、ヒロセくんは、た、たくましい男とか、す、すすす、好」
「興味はなかったんですけどね」
「え」
「いやあの話。全然、興味なかったんですよ」
「あ、ああ」
「でもあのまま家に居ても仕方ないっていうか、ボスに家に居てほしくなかったっていうか、追い出したかったっていうか、むしろ一緒に居たくなかったっていうか」
「ま、またまた、ヒ、ヒロセくんたら、冗談が上手なん」
「真面目ですよ」
「あ」
「ボス、真面目ですよ。大真面目ですよ」
「うへへへへ」
「外まで喜んで着いてくるなんて予想外ですよ。帰ってもいいですよ、っていうか、変わりにハセガワさん呼んでもいいですよ。ボクは歩くの苦手なんだなあ、とか言い出して、今日なら許しますよ」
「ヒロセくんたら、ボクの物まねが上手いね、可愛いんだから、もう」
「あの、近づかないで貰えますか、知り合いだと思われたくないんですよ」
「うへへへ」
 とか、もう何を言っても嬉しそうなファウストの横顔を眺め、ため息をつく。
 そこから一分くらい、何も喋らず、とりあえず歩いた。そして唐突に広瀬は、「あ」とか言ってみることにした。
「あ」
「えっ」
「あそこにユーフォーが! アダムスキー型が!」
 頭上遠くを指さすと、つられるようにしてファウストが顔をあげる。そしてまんまと、アダムスキー型を探している。
「え、うそ、ど、何処! ユーフォー何処!」
 やったーその隙に逃げてしまえとばかりに走りだした広瀬は、次の瞬間、ぐいと後ろに引っ張られる感触を感じ、行こうとしていた勢いの分だけ引き戻されていた。ドシン、と尻餅をつく。
 一体何事だ、と、後ろを振り返る。腰の辺りから鎖のようなものが伸びていて、辿っていって顔をあげると、頭上に、影が落ちた。
「え、うそ」
「び、びっくりした? びっくりした? ごめんね」
 あわあわ、とファウストは慌てた様子で広瀬に触れようとし、手をひっこめ、触れようとし、手をひっこめ、と、何だかもう何がしたいのか良く分からない動きを繰り返している。
 とかは別にもうどうでもよくて、広瀬はチッと舌打ちし、唇を尖らせた。
「えー。真面目ですか、やりますね」
「だ、だって逃げられたら、嫌だったから、ご、ごめんね」
「それはそれは、さすがはMASAのボス、準備がいいですね」
「ぐ、ぐへへ、褒められた」
 隣にしゃがみ込んだファウストが、ちろ、ちろ、と広瀬を見やり、またぐふふふと、恥ずかしそうに、笑う。
「楽しいですか」
「う、うん」
「そうですか」
 広瀬は両手を後ろにつき、体をのけぞらせた。
「僕はむかついてます」
「ご、ごめんね。ごめんね。だって、逃げられたらや、やだから」
 あーもう馬鹿じゃないのっていうか、このクソ何てことしやがるんだ、っていうか、馬鹿野郎死んでしまえ! っていうか、何してんだよ、この野郎! っていうか、いろいろ腹の中でわめき倒したが、わめき倒したら疲れて、疲れたら何かもうどうでも良くなって、どうでもよくなったのでとりあえず空を見上げた。
「良い天気ですね」
「そ、そうだね」
 隣にしゃがみ込んだファウストが、同じように空を見上げる。
「でも何か全然良く分かんないんですけど」
 広瀬は俯き、自分の手を見るとはなしに、見た。砂利を叩きながら、呟く。「そんな僕のこと好きなんですか」
「え、あ、う」
 と、言語障害を疑うような呻き声を漏らした後、固まったファウストは、やがて、
「えー、えーっとう、うん、す、好き」と、微かに頷いた。
「何でですか」
「や、優しくて、可愛い」
「いや優しかった覚えは一度もないですけど」
「き、気持ち悪がらないで、ちゃんと接してくれるし」
「いや相当気持ち悪がってますけど」
「で、でもボクは、好きになった人にはいつも、逃げられるから」
「はあ、今までもいっぱい逃げられたんですか?」
「う、うん」
「まあそうでしょうね」
「うん」と、俯いてモジモジする。
「まあそりゃそうですよ」
 もう一度、言う。「三十二歳にもなって気持ち悪すぎですよ」
「そ、そうかなあ」
「いやそうですよ、それはそうですよ自覚したほうがいいですよ」
「ひ、ヒロセクンはやっぱり優しいなあ」
 にこにこと言ったファウストを見つめ、広瀬ははあ、と、ため息を吐く。そして、馬鹿じゃないの、と毎回思ってるがまた思う。
 でも例えば、こんな薄気味悪い奴には絶対近づきたくないよなあ、とは思う反面、やり方めちゃくちゃ間違ってるのに、間違ってるってこと誰も教えてあげないのは可哀想だよなあ、とは思ってしまうし、いや幾ら好きだからって鎖でつなぐとかなしでしょ、とか思う反面、常識じゃないけど、一途で素直で必死に頑張ってしまった結果なんだろうなあ、とか思うと、何か仕方ないよなあ、と許したい気分になるのも事実だった。
 とか、別に思うともなしに思っていたら、遠くから何か人が歩いてくるのが見えて、広瀬はその若い男を何となく、見ていた。
「あ。あれ見てあれ見てヒロセくん」
 隣で、弾むようなファウストの声がする。
「あ、見てます」
「あれだよあれあれ、あれのことだよ、さっき言ってた話。いやあ奇遇だなあ。こんなすぐ見つかるなんて」
「はああれがそうなんですかー。って、何の話ですか?」
「え、人形になっちゃう人の話だよ。人形になっちゃう人」
「はあ」
 広瀬は、いい加減に頷いた。
 後、ファウストを振り返る。「ちなみに人形になっちゃう人って何ですか」
「えっ、さっき、ヒロセクンの部屋で言ってたじゃないか」
「言ってました?」
「少しずつ変化していっちゃう、って言ってたでしょ」
「はあ」
「人形に、変化していっちゃうって」
「いや、言ってました?」
「言ったよ。言ったじゃないか。聞いてなかったのかい」
「はあ、まあ聞いてませんでしたね基本的に」
「ひど、ひどいんだからもうヒロセくんたら」
「そうなんです、ひどいんです、優しくないんです、考えなおすなら今のうちだと思」
「そしてあれがその人形になる人なんだよ」
 あ、今、かぶせてきましたね。そういう芸当できるんですね、というような表情で広瀬はちょっとだけファウストを振り返った。
 また前を向く。
「はあ、人形になる人ですか」
 と、聞いたところであんまり実感はないので、何となく、青年が、二人の少し前を通り過ぎて行くのを、見守る。
 それにしても足が奇妙だなあ、とかは、ちょっと思っていた。
 短パンから覗く足は、義足にしてはまるで錆びた鉄のようで、しかもその足元には、色味的にどう見ても、人の皮膚のようにしか見えないものが、たるんで絡まっていた。
 まさかな、とは思うけれど、近づいてくればくるほど、やはりそれは人の皮膚にしか見えなくて、彼が前方を通り過ぎて行った後もまだ、やはりあれは人の皮膚なのではないだろうか、という懸念を捨てることができなかった。
 やがて、ただ見ていることしかできない視線の先で、彼の足元に絡まっていた皮膚のようなものが、まるで脱皮するかのように、ずるん、と、落ちた。
 広瀬は、思わず、ぎょ、とする。
「でも、ああ」
 呻くような声が、隣で見ているファウストの、ぞっとするほど赤い唇から漏れた。
「ああなっちゃうともう駄目なんだよね」
「駄目?」
 広瀬は思わず、また、ファウストの方を振り返った。
 ことのほか真剣な表情をしている横顔が、見えた。
 いつも薄気味悪く笑っているか、おどおどしているかというような表情しか見たことがなかったので、何処か人形じみた、冷たい表情を浮かべている横顔を見て、何だかぞっと、背筋が冷たくなる。
「だ、駄目ってどういうことなんですか」
 知らない男を目にしたような怖さを、一瞬感じる。
「駄目っていうのは」
 ファウストは赤い瞳で、広瀬を見やった。「駄目ってことだよ」
 彼は、自分が落としていったものをずるずると引きずり、脱ぎ捨て、べちょっと踏んでまだ、歩いて行く。
「追いかけよう」
 ファウストが、言った。



「とっても美味しいお店なんですよ」
 インタビュアーの女性が、ころころと柔らかい笑みを浮かべながら、先頭に立って歩き出した。
「あの、さっきは本当に、すいませんでした、何か」
 丸い彼女が、シュラインを振り返った。足を支える高いヒールが、折れてしまいやしないかと、思わず、見つめる。「八つ当たりみたいな感じになっちゃいまして」
「はあ、いえまあ、全然気にしてませんから」
 大人なら今そこでそう言うしかないですよね、みたいな微妙な笑みを浮かべたシュラインは、首筋を掻いてみたりしながら、言う。
「そうですよ、気にすることないですよ」
 友人が合いの手を挟んだ。「ストレスがたまってるんですよ。不規則だし、大変な仕事だろうから。なんてあなた達をいつも困らせる立場の私が言うのも、何なんですけど」
「そんな先生。今回は本当に、感謝してますから」
 そんな知り合い作家のなだめを受け、丸い彼女が柔らかくほほ笑む。嬉しそうだ。恐らくは、あの口と調子の良さだけで生きてるような女の言葉には、真実なんて欠片もなかったろうが、嘘でも人は救われる。社交辞令でも面と向かって言われるとインパクトがある。何せ、彼女は嬉しそうだ。
 そういうのを見ていると、何故、私はこの芸術性なんて欠片もないくせに、要領だけは良い女の友人なのだろう、という問いに答えが出る気がする。こういう時、素直にコイツは凄いかもしれない、と思う。誰とでもいい調子で話を合わせられる頭の回転の早さに、惚れ惚れする。
「何してんのよ」
「なにが」
 友人が近付いてくる。
「ぼーっとした顔して」
「そうかな」
「エマちゃんがぼーっとすると美人過ぎて怖いから、やめた方がいいよ」
「アンタは凄いね」
「何か良く分かんないけどそれはそうだからもっと言っていいよ」
「私に代筆させといて、物凄い自分が書きましたみたいな顔で取材とか答えられるんだもんね」
「そう、そういうこと、そういうこと言うの」友人は、引き攣った顔で笑いながら、おたおたする。「やめようよ、聞こえちゃうよ」
 シュラインは、おたおたしている友人を眺め、可笑しげに唇を歪めた。それはそれで面白いのでやらせておくことにして、何か面白いものでも落ちてないかなあ、と、辺りを見回した。雑多な建物が、それは商店であったり家であったりしたのだが、無理矢理生理整頓された、子供の玩具箱の中のように、混み合い圧し合い、絶妙なバランスでもって、並んでいる。その隙間を、未舗装の細い路地が、通っている。
 外観はそのようにうるさい街だが、人の姿は不思議となかった。奇妙な街だ、と思う。思いながら、それでもきょろきょろと辺りを見回していると、ふと、細い路地の向こうから、こちらから近づいてくる人影が、見えた。
 若い青年だった。
 彼は、操りなれない杖を操る人のように、片方の足を難儀そうに動かしながら、両の壁に手をつき、歩いてきた。何処か歪な速度で、近づくにつれ、はっきりとした輪郭をあらわにする。義足のようにも見えた片足は、茶色く錆びた棒のように尖り、地面をコツ、コツと踏んでいた。
 青年が顔をあげる。すがりつくような視線を、シュラインに、向けた。何が起こっているのか、どうしたらいいのか、戸惑っている人の表情だった。
 どうして彼がそんな表情を浮かべているのか分からなかった。けれど次の瞬間に見た光景は、シュラインにそれを、何となく、理解させた。
 青年の腕が。
 まだ人らしい形を残していた腕の皮膚が。
 秒を追うごとにたるみ、重力に従って下降していき、最後には、べろん、と落ちた。
 落ちた。
 落ちたのだ。
 シュラインは、地面に落ちた肌色のそれをぼんやり見ていた。
 顔をあげると、彼の腕は、その片足のように茶色く変色し、錆びた鉄の棒のようになっていた。
 不思議な感覚だった。
 ひどく驚き、嫌悪を感じているのに、その場を動くことができず、駆けよることも逃げ出すことも、できない。
 そして自分は、もしかしたらあの何処か歪なものに、恐れながらも、魅せられてしまっているのではないか、と、気付く。
 彼が歩いてきた。
 すぐ、傍に来た。
 手が、それはもはや鉄の棒にしか見えなかったのだけれど、伸びてきた。
 何かを掴みたそうに空を引っ掻いたそれが、シュラインの服の上を滑り、やがてそこに崩れ落ちた。
 次の瞬間、ふと見ると、そこには、錆びた鋼で作られたような、ちっぽけで貧相な人形が横たわっている。
 今しがた見ていたはずの青年が、その人形に変わったようにしか、見えなかった。



 ちゃぶ台の上に広げた文庫本を読んでいると、戻ってきた百合子が、「ねえねえ」とすり寄ってきた。
 廣谷は肘を付いている方の手で、髪の毛などをいじりながら、文庫本のページを繰った。
「何よ」
「あの何だっけ、名取くんだっけ、写真の話ね、聞いたの」
「ふうん」
「面白そうだったよー! 普通に歩いてて、あんなもん見ちゃうんだからさ、びっくりだよね。しかも歩いて行ったんだって、よたよたーって」
「ふうん」
「気になるよね、ロマンだよね、これってロマンだよね、人体の謎だよね、アトリエ村の謎だよね」
「あっそう」
「いやもう、百合子姉ちゃん気になるなあ」
 両手を合わせ、ちょっと体をくねくね、とかさせてみて、ちら、と廣谷を見る。
「ねえねえどうしてあんなことになっちゃうんだと思う?」
 廣谷は素知らぬ顔でページを繰っている。
「ねえねえあれってゾンビだと思う?」
「………………」
「あれって ねえ! ゾンビだったらかなりロマンなんだけど!」
「………………」
「ちょっとトシ君! ゾンビだったらど、どどど、どうしよう」
「いや」
 呻いた廣谷が、パタン、と文庫本のページを閉じた。「いやもう何言ってんの、本気でゾンビだったら怖いでしょ」
「食いついてきた」
「百合子姉ちゃんがあんまりにも馬鹿なこと言うからでしょ」
「ねえ、あれって、あの人だけなんだと思う? 何か、どうする? ウィルスとかだったら! やばい、やばすぎる。きっと何か謎が潜んでんだよ。何かあるんだよ。あたしも見たいなあ、是非見たい」
「今ウィルスだったらどうしようって自分が言ったばっかじゃん。本気でそうだったらどうすんの、危ないじゃん」
「あのね。トシ君」
「なに」
「いい? 金田一さんや明智さんはね、そんなこと考えないの」
「なに知り合い?」
「謎があると突き進むの。調べたいだけ調べるの。だからこそあの人らは大成するんだよ」
「いやっていうか小説だしね」
「だから姉ちゃんも見たいんだよー」
 ちゃぶ台の上にでろん、と上半身を預けた百合子が、駄々っ子のような声を出す。「見たい、見たい」
「いやだからの意味が分からない」
「見たい、見たい見たい、見たい見たい、見たーい」
「見てくりゃいいじゃん」
 うーん、とか呻いた百合子が、ちろ、と横目に廣谷を見上げる。唇を尖らせ、ポツン、と漏らす。「一人で?」
「そうね一人で行けばいいんじゃないの」
「トシ君も一緒に行ってよー」
「何でよ、一人で行けばいいじゃん」
「だって」
 益々拗ねたような表情を浮かべた百合子は、ためらったような間を開けた後、ぽそ、と呟いた。
「こわい」
「えっ?」
「だから、怖いの!」
「えー? 見たいのにー?」
 ちゃぶ台に乗せた顎をがごん、とか開いたり閉じたりしてまたちら、と廣谷を見る。
「こわい。でも、見たい」
 テーブルの上に突っ伏したまま、ぼそぼそと、漏らす。顔をあげたら、眼鏡がずれていた。
「何それちょっと可愛い感じにして」
「えへへへ」
「腹立つなあ、ちょそれもう何か眼鏡に垢がついてるよ、ほら」
 差し出したティッシュペーパーを受け取って眼鏡を拭き拭きして、かけ直す。
「可愛い?」
「はいはい、可愛い」
「えへへ、でしょ! 可愛いでしょ! 知ってるって! 髪の毛切ったし!」
「まあ前は前で良かったけど、今は今でいいよね。何か雰囲気変わって。可愛い感じになったよね」
「そうでしょそうでしょ、だからほら、ね? 一緒に行こう」
「いやだからの意味が分からない」
「探偵には、ワトスンでしょおが。す、っと分かれよ。何かこの雰囲気で分かれよ」
「いやもう行かないって」
「どうせさ、あれでしょ。トシ君はさ、店あるし、あんまこっから出てないんだと思うのね。あんなビックなロマンだって、実際に目撃してないわけだし。だからさ、まずさは、実施調査っていうか、あれがどれだけの人に目撃されてることなのか、調べる必要があるわけ」
「え、そんなこと調べてどうすんの。目撃されてる数が多いと何なの?」
「いやあん、こんなに有名な話なのに、私だけ乗り遅れてたあー、感を、味わうの」
「あ、そ」
「有名な話だとこう、探偵としても、しゃしゃり出やすいわけですよ。乗りやすいし。情報も集まりやすいし。調べ安いから、真相も知りやすい」
「で、どうするわけ」
「あ、そう。新居くん」
 ちゃぶ台から起き上がった百合子は、ポン、と手を打った。「そうだよ、まず新居君に聞いてみようよ。あの話、知ってるー? って」
「やだやだやだ、やだもー絶対やだ」
 とか、明後日の方を向いて離れて行く廣谷の服を百合子が掴んだ。
「何でよ、いいじゃない」
「今駄目だって。何か、煮詰まってるっぽいもん。描けないつって描いてないもん今、そんな時にそんな馬鹿馬鹿しい話で呼びだせないって」
「だからこそ気分転換が必要なんじゃない」
「邪魔できない。関われないよ、そういう時は」
「あのさ、むしろそういう時は、うざ、って思われてもいいから関わってあげた方がいいんだって。むしろ、待ってるのかもしれないじゃん」
「そんなわけないよ」
「前だってさ、トシ君といろいろ話して、まあこの村で、やっていこうって、決めたわけじゃん。ね? いわば、恩人じゃん」
「引き留めない方が良かったかも」
「でた。そういう感じ。うじうじしてんの。氏家だよ、お前は、氏家」
「なに氏家ってなに」
「姉ちゃんの言うことに間違いないんだって。電話した方がいいんだって絶対。私の第六感がね、そう言ってんの。ここで呼び出さないと何かとんでもないことになるって、そういう感じなの」
「なにそれもう」
「さあ、とっとと電話しなさい」
 ペンペン、と廣谷の尻を叩いた百合子は、ちゃぶ台の上のせんべいをばり、と齧った。
「あと、お茶、くれる?」
「いや何でそんな偉そうなの」



「あの、さ」
 シュラインが呟くと、隣から同じように茫然とした友人の声が「う、うん」と頷いた。
 お互いに、目の前で起こった出来事が信じられず、何なの、これ? と今にも口から突いて出そうなのに、そう言ってしまうことをためらっている。そんな雰囲気があった。
 地面に、二つの影が映り、揺れている。
「あのさ、私、ちょっと、いいかな」
「え」
 今、確かに、あの青年がこの人形になったよね?
「いや私、何かちょっと、いいや、行かなくて」
「ああ、お昼御飯のこと?」
「うん」
「ああ」
「………………」
「ああ、そう。まあ、いいけど」
 影が動いた。友人が隣で髪の毛をかきあげた。
「でも何か行かないとか言ったらまた、あれだよ、あの子、気に病むよ」
「アンタが何とかなだめといてくれたらいいよ。そういうのは、得意でしょ」
「まあ、そうか」
「アンタなんか口がうまくなくなったら生きてる意味ないんだから、こういう時のアンタでしょ」
「でたよねー。そういう感じ。エマちゃんてたまにそういうアサリみたいになるんだよ」
 え、とシュラインは、気持ち悪いものを見るような目で友人を振り返る。「え、何かそれ流行ってんの、その言い回し」
「頑なっていうか。あんまこう感情を共有しようとしないよね。自己完結してるし」
「だから?」
「別に、それだけ」
 肩を殴られたので、「痛いって」と、殴り返しておく。
 そんなことをしていたら、遠くから、「先生ー、シュラインさーん」と、インタビュアーの彼女が叫んだ。
「あ、はーい」
 彼女が何事もなかったかのような素振りで大きくを手を振って、「今行きますー」などと、笑っている。頭の回転の速い友人は、立ち直りや切り替えも早いらしい。ちろ、と地面に目を向けたけれど、その目はもう既に、ただの人形を見る目だった。
 そういうのを見ていると、何故、私はこの芸術性なんて欠片もないくせに、要領だけは良い女の友人なのだろう、という問いに答えが出る気がする。こういう時、素直にコイツは凄いかもしれない、と思う。これはこれで面白かったけどね、とでもいうそのドライさに、すげえな社会人、と惚れ惚れする。
「じゃあね」
 今しがた見たことなどきれいさっぱり忘れたような顔で友人は、手を振った。「言い訳は適当にしておいてあげるから」
「あげるって何よ、アンタに上から言われる覚えないって」
 とか言うのを「はいはい分かった分かった」って絶対聞いてないよね、みたいな感じで受け流し、友人は駆け足でインタビュアーに近づいて行く。何事かを話し、ぺこり、と向こうが頭を下げてきたので、シュラインは下げ返す。遠ざかって行く二人の背中を見送る。



「あれ、ずっと女の人が立ってるんですけど、どうするんですか」
「回収するよ、見つけたからには」
 広瀬はファウストと共に、物陰に隠れていた。
 若い中世的な顔立ちをした女性が、人形になった青年の傍に立っている。彼女は、無表情で何を考えているか分からなかったが、茫然としているのではないか、と広瀬は思う。
「本当だったんですね」
 思わず、呟いた。
 隣でファウストがぎょっとする。
「え、なに、ヒ、ヒロセクン、ボクの言ったこと嘘だと思ってたの」
「はい、思ってました」
「あ」
「だってこんなん、実際見なかったら嘘だって思うでしょ、絶対」
「で、でも本当だったでしょ」
「はい、本当でした」
 広瀬はちょっとだけ拗ねたような顔つきになり、ファウストのことを、ちらっと見て、また目を伏せた。
「赤いなすびも本当だったのかも」
「え、な、なんて?」
「いや、赤いなすび、本当だったかもって」
「あ」
 とか呻いたファウストが、ニヤニヤ、と困ったような顔でニヤついた。何か鬱陶しいこと言うんだろうなあ、とか思ってたら案の定、「ほ、惚れた?」とかうざ、みたいなことを呟いたので、無視しておくことにした。
「でも本当、これは何か凄いですね、インパクトありましたよね」
「ほ、本当にそう思ってる?」
「思ってますよ、めちゃくちゃ驚いてますよ」
「でもひ、ヒロセくんってあんまり、顔に、で、出ないよね。そういうとこ、は、ハムスターみたいで可愛いけど」
「ハムスターが分かりません」
「うへへへ」
「あ」
「え?」
「女の人がどっか行きましたよ」
「ほ、本当だ。回収しなきゃ」



 何処をどう歩いたか分からなかったが、いつの間にかシュラインは、ぽっかりとした広場に出ていた。
 前回に来た時もそういえば確か、こんな場所に来たなあ、とか、それでそこで画家の新居とかいう青年と出会ったよなあ、とか思い出してたら、「あ」とか背後から声がして、振り返ったら、まさしくその新居が立っていた。
「あ」
 と、シュラインも漏らす。
 どうも、みたいな、気まずいような雰囲気になった。
「えーっと、画家の」
「はい、新居、です」
「あー、今日も、描く感じで」
「あー、そうですね」
 微妙な笑みを浮かべて、新居は頬などを撫でている。「まあ、描かなきゃなあとは、思うんですけどね」
「思うんですねってことは、描けない感じで」
「あー、いや、まあ。そうですね。描けないですね」
 そして、自嘲気味に、笑う。「全然描きたくないっていうか」
「あそうですか」
「はい、そうなんですね」
 新居が頷いたら、場が妙にシンとして、話は終わってしまった感じだった。
 どうしよう、とか思ってそうな二人の間に割り込んできたのは、軽快な電子音だった。新居が、はっとしたように、ジーンズのポケットを探る。
「あ、すいません、何かちょっと、電話」
「あ、はいどうぞどうぞっていうか私別に関係ないし」
 両手を差し出すとか、シュラインにしたらオーバーなアクションで促して、やってしまってから何もそこまで恐縮することもなかったか、と思った。
「あ、久しぶり、うん」
 新居が、携帯に向け話しだす。「今、えーっと今、あの、喫茶店の傍の広場、ああそうそう、そこに、うん」
 別にじろじろ見ていたわけでもないけれど、彼としても気恥ずかしかったのか、シュラインから隠れるようにして、話している。これはもう、どっかに行った方がいいんじゃないかとか考えながら、何気なくその手を見て、シュラインは、我が目を疑った。
 新居青年の手の、携帯を掴むその指先が、つい今しがた見たあの青年のような変化を、遂げ始めている。
 まさかな、という思いと、驚きと。
 思わず、ぎゅっと目をつぶる。きっと、今さっき見たのの影響なんだ、これは何かの見間違いなんだ。自分に言い聞かせてみて目を開く。
 彼の手はやはり、少しずつ重力にそって落ち始め、茶色く変色していっているようにしか、見えない。



「ねえボス」
「うん」
「それって、何でそんなことになっちゃうんでしょうね」
 広瀬はファウストの手の中にある物を覗きこんだ。
「さあね。ボクは科学者だから、芸術家の気持ちはあんまり分かんないんだよね」
 午後の日差しの中を二人で、歩く。
 ふと横を見ると、赤い髪の毛を乱暴に束ねた、痩身の男が立っていて、あれ? 何でこんな奴と僕は、肩を並べて和気あいあいと歩いてるんだ? 危なくないか? 物凄いマイルドに、馴染んでない? 大丈夫か、自分? とか、一瞬ふと我に返りかけたが、そういえば今しがたその見るからに変質者っぽい痩身の男が、何か変なことを言ってやしなかったかとか、思ったら、あれ、今、何考えてたんだっけ、と、いろいろ見失った。
 一瞬考えて、「え? そういう問題なんですか」と、問う。
「え、な、何が?」
「あ、いや、今、芸術家の気持ちがどうのとか言ってませんでしたっけ」
「え、あ、う、うん。言ったかな」
「いやこれ……気持ちの問題?」
「え。じゃ、じゃあ、そ、そういう問題以外に、何かあるの?」
「いや俺に聞かれても分かりませんけど」
「ひ、ヒロセクンのそういう、人に聞いといて丸投げなとこ、す、好きだよ」
 はにかんだような顔で言って、ちら、とか広瀬を見る。
 広瀬は、薄気味悪い昆虫を見るような目で、ファウストを見る。
「あ、あれ?」
「で、これは何処に向かってるんですか」
「え? う、うへへ、に、人形の館」
「あの何かボスがそういうこと言うともろに変質者みたいだから、やめた方がいいですよ」
「MASAがね、建てたね、芸術部門を取り仕切る館があるんだけどね」
「はあ」
「そこの一室にね。人形回収してきて、置いてあるの」
 ふうん、とか頷いた広瀬は、もう一度、ファウストの手の中にある人形を見る。
「でもそれ、回収して、どうするつもりなんですか」
「いや集めといたら、何かの時に役に立つかもしれないし」
「いやあんまり役に立ちそうにないですけど」
「興味、あるし」
「まあ、興味はありますね、調べるんですか?」
「まあ、そうね。気が向いたら調べるかも」
「ふうん」
 広瀬はファウストの手の中にある人形をまた、覗きこむ。
「でもやっぱり何か気持ち悪いですね、ボスが持ってると、特に」



 その変化を口に出すべきかどうか、あるいはそもそも果たして自分が口に出せるのかどうか、シュラインが考えていると、「あ、いたいた」と、若い女性の声が言い、二人組の男女が、近づいてきた。
 思わずそちらの方を振り返る。
 小柄な彼女に、見覚えがあった。
「百合子」
 思わず呟くと、百合子もシュラインの方に気付き、「あ、エマちゃん」と、驚く。
「お久しぶり。奇遇だね。何してるの」
 のんびりと歩いてきた、体はちっさい、少女のような彼女を見降ろし、「そっちこそ、っていうか相変わらずちっこいね」と言う。
「そっちこそ相変わらず、でかいですよ」
「若いねえ。何かどんどん若くなるんじゃないの」
「何かもう若いってエマちゃんに言われると何かへこむ、年下なのに、やめてよ」
 しかしそう、苦笑する顔は、なかなかどうして年相応に見えた。
 不思議な女だなあ、と思う。
「何、若い彼氏のお蔭?」
 シィラインが、新居の元へと駆けよった青年の方を見やると、「いやいや違う違う」と、百合子はまた苦笑した。
「言ってなかったっけかなあ。私の従弟がね、この村でお店やっててさ。駄菓子屋。だからその関係でちょっとさ」
「ふうんまたロマンとか」
「またって言わないでよ」
 恥ずかしそうにはにかんだ彼女は、顎のラインくらいで切りそろえた髪をそっと描き上げる。少女のようにも見え、色気のようなものも見える。
 不思議な女だなあ、と、また思う。
「髪、切ったんだね。似合ってるよ」
「あら、いつの間にそんなお世辞が言えるようになったんですか」
「私はお世辞は言わないんだって」
「エマちゃんはいつも通り、美人だね。長い黒髪も、いつも通り、手入れが行き届いててきれいだし」
「あら、いつの間にそんなお世辞言えるようになったの」
「いやだからさ、あたしはお世辞は言わないんだって」
 同じ言葉で返してきた百合子が、くすくす笑う。
 シュラインは、小さく唇を歪めて、前髪を撫で上げた。
「で? エマちゃんは、どうしたの?」
「いやまあどうしたっていうか、仕事?」
「取材か何かで?」
「ううん」
「じゃあどうして、新居君と一緒に居るの?」
「それはまあ何か、偶然、そこで会って」
 答えながらシュラインは、新居青年を見やる。背後で、ふうん、と百合子が頷いているのが、聞こえる。


「あー、何か連絡は、あー、取りたかったんだけど、何か」
 新居が、気まずそうな笑みを浮かべた。
「ああ、そうなんだ」
 廣谷もまた同じような笑みを浮かべ、俯いたり、する。ちょっと離れた場所に、長身の美人と立っていた百合子が、「ほらみろ、姉ちゃんの言った通りじゃないか」などと、叫んでいた。二人の会話が聞こえているのかどうかは定かではないが、とにかくタイミングが良かったもんで、もう何かほんとすいません、みたいな顔で笑うしかない。
 そうしながら廣谷は、最近の調子を聞くべきかどうか、悩んでいた。迂闊なことを言って藪蛇になるのも困るし、かといってこのまま、黙っているのも気まずい。
「絵は、まだ、描いてないんだ」
 そしたら新居がそう言いだしたので、「あ」とかちょっとびっくりしてしまって、言葉に詰まった。
「あ、そうなんだ……少し、痩せたみたいだけど、大丈夫? 最近その、何ていうか、お菓子も買いに来ないもんだから、その、ちょっと心配っていうか」
「ここんとこ、あんまり家から出てなかったから」
「そ、そうなんだ」
「まるで心が枯れていくようで。何をする気力も起きない、みたいな」
 新居は少しだけ恥ずかしそうにした。「って、何を気障な、って思われるかもしれない、けど」
「いや思わないよ、そんなこと。新居は僕と違って、何ていうか、凄い才能があるんだから、いろいろ悩むんだと思うよ」
「大多数の他の人にとったら、馬鹿馬鹿しい悩みだよ。本当は絵なんかなくたって、人は生きていける」
 新居が悲しそうな笑みを浮かべ、廣谷を見た。
 何と答えたらいいか分からなくて、ああ、とか何か、とりあえず、頷いた。
「だけど僕は新居の絵、何ていうか、好き、だけど」
 困惑に耳を赤くしながら、ぽりぽりと頭などを描く。「って、いや、何か僕なんかが好きとか言っても何か、あれだけど」
「いやそんなこと、ないよ」
 恥ずかしそうにしたらいいのか、嬉しがったらいいのか、どちらともつかない顔で唇を歪めた新居が、咳払いとか何かして、俯く。
「じゃあもう、絵、描かない、とか? いや、あー、描きたくない時は描かない方がいいよね、やっぱりね」
「そう多分。俺はもう二度と絵を描かない」
「ああ」
「と、思ってた、今さっきまで」
「え?」
「もっと、衣食住とか、生活に必要なものに携わって生きてった方がいいかもって。思ってたんだけど」
「う、うん」
「何かもっと早く連絡取ってれば良かったな」
「え?」
「何かさ。何でか分かんないけど、凄い今、弾んで」
「弾む?」
「いやああ、何ていうか、これだなってそんな気分。戻ってきたってそんな気分」
「ああ」
「凄いつらかったんだ、つい今さっきまで。頭ン中がごちゃごちゃして。いろんな情報があって。何か、汚されて、毒されて、見失ってたんだな、って、戻って来てみて初めて分かる感じ、みたいな。あー、分からないよね」
 相手の言う言葉の意味は全く分からなかったけれど、新居が嬉しそうに廣谷を見ているので、廣谷も何となく嬉しくなる。
「じゃあ、何か良くわかんないけど、お帰り?」
 はにかんで言うと、新居が「まあそうだね、ただいま」と、ほほ笑む。
「あの、それでさ」
「うん」
「その、ホントは前にもちょっと思ってたんだけど」
「うん」
「廣谷さ、俺の絵のモデル、やらない?」


 そしてシュラインは、じっと新居青年の茶色い手を、見ていた。
 またあの人形になってしまった青年のように、段々と時間を追うごとに変化していってしまうのか、百合子の従弟だというあの青年の友人らしいあの青年が変化していってしまうのか、固唾をのんで、見守る。全く見知らぬ青年がそうなるのとはきっと、違うインパクトがあるに違いない。
 けれど、何故か、青年の手はそれ以上、変化していくことはなかった。
 それどころか。
 ふわり、と新居青年がほほ笑んだその瞬間、手は、むしろ全く逆の変化を遂げた。
 元に、戻る。
 肌色に、変化していく。
 その瞬間を、彼女は、見る。

「あれ? エマちゃん、どうしたの」
「いや、何か手が」
 と、シュラインは思わず呟いていた。
「え?」などと、呟いている百合子を振り返る。
 けれどそのきょとん、と小首を傾げている姿を見ていたら。
 わざわざ口に出すほどでもないか、という気になった。
「ううん、何でもないよ」
 首を振って、その不思議な感触を胸の奥底に、仕舞いこむ。
 何がどうなったかは分からないけれど、彼は元に戻ったのだ。
 たぶん。

「でさ、アンタこれからどうするの」
「え、どうするって。あ、そうだ! 新居君に、ゾンビの話聞かなきゃ!」
「ぞ、ゾンビ?」
「そう、人がゾンビになっちゃうんだよ。あ、エマちゃんも興味ある? 一緒に調べる?」
 まさかそのゾンビって、と思いながら、シュラインはまた新居を見る。
 彼は百合子の従弟だという青年と、楽しそうに笑い合っていた。
「じゃあ、それご飯食べながらにしない? 私、お腹すいちゃった。何か作ってあげるし」
「え、エマちゃんがご飯作ってくれるの!」
「ま自分で言うのも何だけど、私の飯は美味いよね」
「美味いよね」
「その駄菓子屋も見たいし」
「そうか」
 百合子は自分の腹を押さえ、ちょっと考え込んでシュラインを見る。
「それは、いいかも」
 ちょっと恥ずかしげに、笑った。























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号3787/ RED・FAUST (レディ・ファウスト) / 男性 / 32歳 / MASAのBOSS(ゾンビ)】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。