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<東京怪談ノベル(シングル)>


屈辱の生還


 ディテクターとの戦いに敗北し、水嶋琴美が閉じ込められたその部屋はどうやら、施設の地下に当たるらしい。窓はなく、監視も居ない。琴美の知識の限りに置いて、監視カメラを仕掛けられるあらゆる場所を確認しても、それらしきものも見当たらない。
 ふぅ、と溜息。そのわずかな動作にすら思わず息が上がり、日頃以上に豊満すぎる胸元を意識した――僅かな動作で揺れる、その振動すら体に響く。
 だが、それに囚われている場合ではない。痛みに喘ぐのも、それ以外の色々な事も、まずはここを脱出してからだ。任務の達成すら、彼女が生還してこそ。
 冷静に、客観的に判断しても、今の琴美のコンディションと、この施設にディテクターがいると言う事、さらに先の一方的とすら言える戦いを思い起こせば、このまま留まった所で琴美が任務を達成できる確率は限りなく低い。まして琴美以外の者では達成など夢のまた夢だろう。
 そう結論付けた琴美は次に、ならばここからどうやって脱出するか、胸元で両手を組んで思考を巡らせた。そうすると彼女の日本人離れした豊満過ぎる肉体が普段以上に強調されてしまうのだが――ここにそれを気にする相手はいないし、居たとしても琴美自身が気にする性格でもない。
 閉ざされているドアの鍵は、こういう特殊施設のものとしてはいささか簡素なもので、琴美の実力であれば10分と懸からず開けられるだろう。太もものくないはさすがに奪われているが、長い艶やかな黒髪の中に隠しているピンは奪われていない。
 捕らえた琴美を閉じ込める部屋の鍵がこれほど簡素である意味は、もちろん考えてある。一番いいのは琴美の実力が侮られているということ。一番最悪なのはこれが罠で、琴美をあえて逃して後をつけようとしていること。
 そして琴美がもっとも避けなければならない事態は、それにまんまと引っかかって自衛隊特務行動機動課の存在を知られてしまうことだ。
 しばらく、考える。ドアの向こうにはどれだけ探ってもやはり、見張りの気配は少しも感じられない。それはこの状況が罠だということを意味しているようにも思えるし、ただ侮られているだけとも思える。
 ――だがやがて、琴美はゆっくりとドアに向かって歩き始めた。黒髪の中からピンを抜き、指先でくるり、と回す。
 これが罠だというのなら、張ったことを後悔させてやればいい。ディテクターは確かに戦闘スキルには突出しているようだが、隠密行動に関していうなら、くの一の血脈を受け継ぎ、比類なき才能を見せつけた琴美の方が優位のはずだ。

「ん‥‥ッ」

 鍵穴の前にしゃがみこみ、痛みを訴える身体を無視してロックを解除した。ふう、わずかに漏らした吐息に呼応して揺れる胸元に顔をしかめる。下着がわりでもあったインナーは、ディテクターにボロボロにされたおかげでその役目をほとんど果たしていない。ゆえに、支えるものを失った豊かな膨らみはことあるごとに存在を過剰なまでに主張する。
 こちらもなんとかしなければ、と琴美はため息を吐き、取り急ぎ残ったインナーを強引に結びつけて応急処置をした。締め付けられた膨らみが肋骨を圧迫し、呼吸を乱す。

(脱出するまで保てば良いですけど)

 自らの胸元を見下ろし、琴美は祈るようにそう思う。見栄えは良くないが、もはやそんなものに構っている余裕もない。
 スゥ、と肺に空気を入れた。

「あの男がでしゃばって来なければ、ほかの人間はこの程度のハンデがあっても大丈夫でしょう」

 気分を高揚させるためにそう呟いた琴美は、だが己の言葉とは裏腹に慎重そのものの手つきでそっとドアを押し開け、痛みに震えそうになる肢体をくねらせて、スルリと人気のない廊下へ忍び出て行った。
 そうして、不運にも琴美の脱走に出くわしてしまった戦闘員達が次々に、かなり余裕のないやり方で無力化され――かけられた追っ手をも振り切るべく、琴美は死に物狂いの疾走を開始したのだった。





 琴美がようやく、彼女が幾つか所有する隠れ家に辿り着いたのは、もう夜半を遥かに過ぎた頃だった。辿り着いた、と言うのは正しくない。彼女は、逃げ帰ったのだ。
 灯りをつけ、ボロボロの体を引き摺るようにソファまで辿り着いた琴美は、最後の気力を振り絞ってボロボロになった戦闘服の名残を脱ぎ捨て、そのままドサリと柔らかなクッションに倒れ込む。その衝撃に折れた肋骨が悲鳴を上げる。

「アゥ‥‥ッ!」

 琴美の唇から悲鳴が上がった。だが駆けつけてくる者など居ない。ここは完全に琴美のプライベートルームだった。
 ヨロリと立ち上がり、記憶を頼りに応急処置用具を取り出す。今まで使った事はなかったが、知識として自らが傷を負った場合の処置も勿論、琴美の中には完璧に叩き込まれて居る。
 応急処置用具の中から胸部の骨折を固定する固定帯を取り出し、奥歯を噛み締めて気合を入れた。徒手で、激痛を堪えて肋骨を整え、その上から固定帯をしっかり巻いて固定する。豊か過ぎる胸元のせいで、通常よりもかなり長く固定帯を巻かなければならなかったが。
 鎮痛剤の類を、琴美は好まない。僅かでも感覚を損なう恐れのあるものは、アルコールですら忌避する。そしていつでも万全の体勢を整え、いつでも戦いに挑めるよう尽力する、それがプロであると言う事だと思って居る。
 だが――

「フ‥‥‥」

 処置用具をしまおうとして、僅かに震えている己の手に気付き、琴美は自嘲ともつかない笑みを漏らした。理由は判って居る。

(この私が‥‥恐怖に怯え、震える日が来るなんて‥‥)

 ディテクター、IO2のエージェント。1度は確実に下し、その動きを見切り、次こそは完璧に勝利出来ると思っていた男。
 なのにどうだ、結果はこのざまだ。琴美は生まれて初めての敗北と、任務失敗と言う汚名を帯びて、傷に痛んだ身体を抱え、年相応の小娘のように惨めに震えているのだ。
 何と言う男。何と言う――恐ろしい実力を秘めた、男。
 カタカタと震える手を止めようとして、だが止まらず琴美は唇を噛んだ。その表情も普段の彼女らしからぬ、年相応の幼さを匂わせるもの。だがその表情と、固定帯以外は一糸纏わぬ豊満すぎる肉体と言うアンバランスすらまた、彼女の魅力を掻き立てるだけだった。
 魅惑的な肢体を惜しげもなく晒し、琴美はしばし、立ち尽くして恐怖に震える。一体、ディテクター、あの男は――何より生まれて初めての任務失敗に、一体ボスに何と言われるか。
 ――だが。

(まだ希望は、あります)

 ここまでも琴美は用心して何度もルートを変え、完全に追っ手を撒いた。特務機動課には寄っていないし、それに何より彼女はあの激戦の中、ただの一言も彼女の正体を明かしたり、匂わせたりする様なことは言わなかった。
 ならばまだ、希望はある。ディテクターたちは琴美の正体も、その後ろの特務機動課の存在もまだつかめていない、と断言して良い。それが判らないからこそディテクターは琴美から聞き出そうとしたのであり、その琴美が何も言わなかったのだから。
 だから、大丈夫。まだ、大丈夫。

(大丈夫‥‥です)

 任務失敗は痛いが、まだ取り返しのつかないレベルではない。そして取り返せる自信が琴美には、ある。
 それは彼女が今まで培ってきた実績。
 ならば気持ちを切り替え、次の任務は完璧にこなさなければ、と――琴美は静かに、強くそう決意した。震えは、止まっていた。