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惟神(かむながら)の家移り 〜神馬となりて空翔る〜
「――いいかね、ここからここへ。真っ直ぐに突っ切るんだ」
地図の上、いくつかの民家の並ぶ場所に線を引き、祭服に身を包んだ神官が言った。
水分を含んだ青い髪を緩やかに束ねたみなもは、無言のままにうなづく。
禊を終え、真っ白な小袖と緋袴という巫女装束をまとっている。
祭礼の場合、千早という上着を羽おり、前天冠(まえてんがん)という冠か花の簪、そして神楽鈴を持ち、化粧もするのがほとんどだが、今回は飾り気のない、シンプルなものだった。
そのため、殊更にみなもの清純さが際立つようだった。
「目印もあるし、迷うことはないよ。君はただ、身を委ねていればいい。ただ――意識だけは失わないようにね」
「はい」
神官の注意に、表情を引き締める。
夜の鳥が遠く、声をひそめるように鳴いていた。
山の奥、周囲は木立におおわれていたが、頭上は眩しいほどに月明かりが差し込んでいる。
目の前には塗装のはがれかけた鳥居と、今にも朽ち果てそうな寂れたお社。
小ぢんまりとしているが、月光を受ける姿にはどこか威厳があった。
みなもはふっと、木立の向こうにある麓を振り返った。
木々の合間に、遠く民家の明かりがこぼれているのが微かに見える。
――神様の引越し。
新しくできたお社に移動してもらおうというのだ。
「本当に、助かったよ。神馬を借り受けようにも、ここの神様は馬と相性が悪くてね。怯えてしまって役に立たない」
かといって、神様に勝手に行ってくれ、というわけにもいかない。
つまりみなもの役目は――神馬になること。
神様を背に乗せ、移動の手伝いをすることなのだ。
「神話時代、イザナギノ尊(ミコト)は櫛の歯を筍にしたり葡萄の木を生やしたりしているし、スサノオノ尊はクシナダ姫を櫛に変えている。今の私たちにとっては魔法のようだが、神様にとってそれは、たやすいことなんだよ」
だから神様を降ろし、その力を借りて変身するのだ。
とはいえ、それは誰にでもできるものではない。
神の怒りに触れれば即ち死が訪れ、神の意志に従順すぎれば自我を失うこともある。
神を降ろすことを帰神法(きしんほう)というが、これは大変に危険なものであり、現在、神社神道においては行われていない。(一部の神道系宗教団体を除いて)
人魚であるみなもは、その身を変えることにもなれているので適任だろう、と父から紹介されたのだった。
「それと、向こうに着くまで決して神様の姿を見てはいけないよ」
注意を受け、みなもはもう一度うなずいた。
――どうして向こうに着くまで、なのかはわからないが。
「では、こちらへ」
手を引かれ、みなもは台の上へと誘われる。
そこに座して、指を組み合わせる。
鎮魂印というものらしい。
目を閉じて、一心に神を念じる。
琴が奏され、その音色が神霊の憑依を促す。
傍には審神者(さにわ)が控えていて、憑いた神が悪しきものか正しきものか――また、高い位のものか低いくらいのものかを判断する。
そう――神懸りというものは、決まった神霊を呼び寄せられるとは限らないのだ。
風もないのに、松明の炎がちらちらと揺れていた。
やがて、みなもの身体はガタガタと震え始めた。
寒いのか、恐ろしいのか、自分でもよくわからない。
ずん、と何かが圧し掛かるような感覚があった。
急激な眠気に襲われ、意識が遠のいていく。
審神者が「如何なる神か」と問いかけ、自分の口が勝手に答える。
事の次第が説明されると、みなもに憑いた神は「櫛で梳け」と指示した。
古めかしい木製の飾り櫛が、青い髪をゆっくりと梳いていく。
すると、みなもは両手を前につき、その身体が変化し始める。
青い髪は青白く輝くタテガミとなり、前身が白い毛でおおわれる。
手足は細く長い馬の脚に代わり、ふっさりとした長い尾が揺れた。
透き通るような青い瞳に、白く長い睫毛が影を落とす。
みなもは、完全に馬の姿となっていた。
その背に、清められた馬具が乗せられる。
立派な大和鞍(やまとくら)に内側が朱に染まった鐙(あぶみ)、金刺繍や組紐の縫込みなど、金・銀・緋で飾られた三懸(さんがい)――面懸(おもがい)、胸懸(むながい)、尻懸(しりがい)――には厚総(あつふさ)と呼ばれる房がついている。
それから紅白の手綱に、古式の轡(くつわ)、泥障(あおり)。
それらが、ただでさえ美しい神馬をより荘厳に飾りたてる。
神馬には通常、依代(よりしろ)を乗せるが、今回はそのまま乗っていただくことになる。
神馬の準備が整い、今度はお社の神様に出てきていただくよう、儀式を行う。
風が吹き荒れ、ざわざわと木立が揺れた。
琴だけでなく、岩笛や太鼓が奏され、ざわめきが増した。
突如、お社の戸が勢いよく開いた。
白いモヤのようなものが立ちのぼる。みなもは慌てて、そちらから目をそらした。
神はためらうことなく、みなもの背にまたがった。
そう、またがったのだ。どういう姿でかはみなもにはわからないが、人型なのだろうか?
手綱をとられ、みなもは軽くいなないてから駆け出した。
真っ直ぐに――夜空の上を。
ざっと森を抜けると、民家の明かりが下に見える。
どうやって目印を用意したのか……白い光が、真っ直ぐに1本伸びている。
軽やかに、空の上を馬が駆ける。
ペガサスのように翼はないけれど、元はみなもの身体のはずなのだけれど……。
背中に乗せる重みが、少しピリピリするような熱を発する乗り手の存在が、晴れがましく感じる。
長いようにも短いようにも感じられる時を経て、新しいお社の前まで辿り着く。
そこには別の神官が儀式を行っており、神様を迎えた。
背中からの威圧がふっと消え、その存在が降りたのがわかった。
白いモヤがゆっくりと、ある形をつくり出す。
――犬……いや、狼だ。
馬が怯えるというのも合点がいく。
この社は大口真神(おおくちのまかみ)――狼を祭神としていたのだ。
馬が狼を乗せて送る、なんて不思議なものだ。
「櫛は届いているか」
神官たちが、声を掛け合うのがわかった。
やがて、そのうちの一人が櫛を手にみなもの元にやってきた。
みなもはまたしても台の上に乗せられ、スッとタテガミを梳かれる。
ヒイィィーン。
しかし、不意にみなもはいななき、前足を高くあげ、仰け反るようにして暴れだした。
周囲が混乱に包まれる。
みなも自身、その変化に驚き、困惑していた。
痛みも苦しさも感じないが、自分の身体が……馬の姿をしているけれど、勝手に暴れるというのは恐ろしいものだった。
「櫛が違う!」
それは神の発した言葉なのが、神官の発したものなのか、みなもにはわからなかった。
「気をつけろといっただろう、ただでさえ人の姿を変えることは禁術なのだから――」
「櫛を間違えたらどうするかなんて、書物には記されてなかった!」
騒ぎ立てる声が、遠くみなもの耳に届く。
その間も、馬となったみなもの身体は暴れまわっている。
周囲はそれを必死に抑えようとしていた。
混乱しきった状況を見て取り、みなもはこのまま元の姿に戻れないのかと不安を覚える。
「静まれ!」
老齢の神官が現れ、渇を入れた。
辺りは水を打ったように静けさに包まれる。
「間違えた方の櫛を壊し、もう一度元の櫛で梳かすのだ」
指示を与えられ、早速先の櫛が壊された。
すると、興奮しきっていた神馬はゆっくりと動きをやわらげる。
老齢の神官が手綱を取り、馬をなだめる。
そこへようやく元の櫛が届き、青白いタテガミがもう一度梳かれた。
みなもが少女の姿に戻ると、すっと、身体から何かが抜けていくのがわかった。
ひどく脱力して、その場にへたり込む。
「よかったですね。あの神が抑えてくれなければ、あなたの身体は別のものに変化して戻らなかったでしょう。その心もまた、蝕まれていたはず。身体が暴れていたのは、その抵抗のためですよ」
老齢の神官から説明を受け、ぞっとする。
間違った櫛は、呪いのような効果を持っていたのかもしれない。
呪いを受けた際には呪具を壊すべきだと、何かで聞いたことがある。
「ありがとうございました。あなたのおかげで……」
助かったのは神様のおかげだけでなく、混乱を治め、指示を与えてくれた彼のおかげでもある。
そう思って、礼を言おうとすると――そこにはもう、男の姿はなかった。
「……さっきの神官、誰だったんだろうな」
「神主じゃないのか?」
「いや、違うよ。神社の関係者も知らないって……」
そんなやりとりが、耳に入った。
みなもは周囲を見渡し――それから、どこへともなく、深く頭を下げるのだった。
――終――
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