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<東京怪談・PCゲームノベル>


Hide and seek
あるいは川べりに立てられた看板についての話





 ふと見ると、草花で覆われた緑色の川べりに、立て看板が立っていた。
 鴬沢は足を止め鉄柵に寄りかかるようにして、下を見下ろした。つい先ほど、画材店で買った岩絵具のガラス管が、手に提げた袋の中で、カチャンと触れ合う。どうでもいいけど、立て看板は、何か生えるとこ間違って生えてきちゃったみたいなんですけど、どうしたら、とでもいうように、緑の中にポツンと佇んでいた。
 しかも、裏側を向いていたので、何が書いてあるか全然見えなかった。
 変な立て看板だなあ、というか、立て看板の意味ないじゃないか、とか思いながら、ぼーっとしてたら、隣から不意に、声が聞こえた。
「あの看板さ、何て書いてあるか、知ってる?」
 鴬沢は、面倒臭そうな動作で、隣を振り返った。ふわふわとした黒髪の、痩身の男が立っていた。目が合うと、そのお兄さんは「やあ」とか、言った。
 挨拶される意味とかが全然分からなかったので、どうしよう、とちょっと焦った。
「あの、何ですか。っていうか、誰ですか」
 自然な流れで聞いたはずだったが、何故か物凄い不自然な間が開いて、間違って変なボタン押しちゃって機械が誤作動したみたいな、気まずい雰囲気になった。良かれと思って言ったのに、と、焦る。暫くして、お兄さんは、「えっ?」とか、聞き返してきた。聞こえないふりというか、むしろ若干威圧的な「え?」は、「は?」と同じくらいインパクトがあったので、鴬沢はもう負けた気がした。
 ちょっと俯いて、看板を見やり、それからまた、お兄さんを見る。
「あそこに何て書いてあるか知ってるんですか」
「あれ何、話変えたね」
 鴬沢はちょっともじもじしてから、「え、ああはい」と頷いた。それで照れくさそうにはにかんでみたら、お兄さんは全然一緒に笑ってくれなくて、むしろんあれ何だコイツ、みたいな真顔でこっちを見ていた。
「いや何か。え、とか逆切れみたいに言われたから、無かったことにした方がいいかなって思って」
 お兄さんは、益々、ん、何だコイツみたいな目でこちらを見た。
 別に、何だコイツって思われてもいいのだけど、何か、ムッとした。いや、だったらそっちだって十分何だコイツですよね、っていうかもうずっと思ってたんですけど、お前は誰だよ、とか、そんな目で見つめ返した。
 何かそのまま、十秒間くらい、見詰め合った。
「あのさ」
「はい」
「クリームパンを齧ったらさ、クリーム下からほぼ出てんの、袋についたりして。そういうのを見ると、悲しくなるよね」
「あれ、今何でそんなこと言ったんですか」
「岩絵具買ってたでしょ、今さっきの画材屋で」
「はい、買ってましたけど」
「日本画書くの」
「あー、大学では日本画を専攻してました」
「多いよねー、大学で専攻してました、って感じ」
「はあまあ、アトリエ村ですからね、多いんじゃないんですかね、芸大出とか」
「あの看板、出演者募集、って書かれてあるんだってさ」
 突然戻った話に、一瞬、出遅れて、「え?」と驚き、言われたことを理解して「はあ」といい加減な返事を返した。
 看板を見て、お兄さんを見る。「え? あれで集まるんですか」
「いや、知らないけど」
「出演者って、映画か何かのですか? エキストラとか?」
「詳細面談って書いてあるらしいよ」
「え、あれで、集まるんですか?」
「いや知らないけど、集まらないでしょ、たぶん」
「ですよね」
「思い切り裏側向いてるしね」
「はあ」
「百歩譲ってあそこに立てるのはいいとしても、せめて前表向けて立ててくれよって思うよね」
「ああ思うよねってって、知りませんけど」
「何か映画のタイトルも書いてあるらしいよ」
 とか言ったお兄さんのことを、鴬沢はちょっと見つめた。
「あれ?」とか仰け反った。「えもしかしてあれ、書いたの貴方なんですか」
 自然な流れで聞いたはずだったが、何故か物凄い不自然な間が開いて、また間違って変なボタン押しちゃって機械が誤作動したみたいな、気まずい雰囲気になった。良かれと思って言ったのに、と、焦る。暫くして、お兄さんは、「えっ?」とか、聞き返してきた。聞こえないふりというか、むしろ若干威圧的な「え?」は、「は?」と同じくらいインパクトがあったので、鴬沢はまた負かされた気がした。
 鉄柵の上に頬杖をつく。
「でも、何であんなとこ立てたんですかね」
「いやそれがさ」
 同じように頬杖をつきながら、お兄さんはのんびりと言った。
「全然わかんないんだよね」



** ** **



 河川敷に座り込み、読書をしていると、
「何してるんですか」
 と、背後から声が聞こえ、キャスル・テイオウは振り返った。
 青年のようにも少年のようにも見える、歳の頃が読めない男子が一人、立っていた。顔は幼い。体つきは、十代の後半くらいにも見えるが、もしかしたら、二十代だったかもしれない。自分の体を基準に考えるからか、とにかく、華奢に見えた。
 テイオウは読みかけの文庫本を閉じ、脇に置いた。
 男子の意図は分からなかったが、見ず知らずの他人であることは間違いない。にも関わらず彼は、何処となく幼さの漂う顔にきょとんとしたような表情を浮かべ、こちらを見ている。
「何してるんですか」
 また少し、舌足らずな声が言った。
 テイオウは少し考えるような間をおいて、答えた。
「本を、読んでいます」
 自分の傍らに置いてあった文庫本を掲げる。
 すると、彼のマシュマロのような白い頬が、ふわり、と柔らかくほころんだ。
「僕も本、好き」
 とことことと歩み寄ってくると、おぼつかない動きで隣に腰を下ろす。
「僕、渉太。オジサンは?」
 男子は、色素の薄い茶色い瞳で、屈託なくテイオウの瞳を見据えた。遠くを走る軽トラックのエンジン音が聞こえなくなるまで、何故かそうして見詰め合っていた。相手には物凄い待ってる感があったが、名前を名乗る理由とか全然分からなかったので黙っていたら、そういうことになっていた。
 暫くして、テイオウはやっと顔をそむけた。何も言わず、立ちあがった。
 途端に、ぐうん、と伸びた巨体の体を、渉太が物珍しげに見上げる。
 ぽかん、と口が開いていた。
 とかいう反応は良くあるような事で興味もないので、彼を置いて歩き出した。
 暫く歩いて振り返ると、そこにまだ、彼の姿があった。テイオウと目が合うと、彼はちょっと困ったような表情を浮かべ、もじもじ、とした。顔を伏せ、それから、ちら、とこちらを見上げる。
「どうして、ついてくるんですか」
 渉太は照れくさそうにほほ笑んで、おずおずとこちらへ歩み寄って来た。突然、手を掴まれる。柔らかな感触にハッとして、骨ばったごつい手が、華奢な白い手に掴まれている光景を見降ろした。何だこれは、と思う。
 視界の先で、色素の薄い茶色の瞳が、戸惑ったかのように、揺れた。

 不意に、この間街中で遭遇した、とある光景のことを思い出した。
 テイオウが歩いていると、向かいから一匹の子犬と一人の中年男性が歩いてきて、恐らくは近所の住人が犬の散歩をしているという風景だった。子犬は、本当に小さい子犬で、でも体が小さいだけで本当は大人の犬だったかもしれないが、頭にリボンなどを付けられて、飼い主のオッサンの前をちろちろと小生意気に歩いていた。
 別に可愛いと思ったわけでもなかったが、その子犬が近付くにつれ、こちらにふらふらと歩み寄ってくるので、不思議だった。飼い主はテイオウの風貌を見て、物凄いビビっていて「こ、これ! 何とかちゃん!」とか何とか、子犬の名前を呼んでいたけど、そいつは素知らん顔でちょろちょろと気が済むまで足元にまとわりつき、飼い主の心拍数を上げていた。

「おうちは何処ですか」
 渉太の口が、「え」というような形に微かに開いた。
「貴方のおうちは、何処ですか」
「おうち、ない」
 渉太はゆるゆる、と首を振った。それに合わせて柔らかそうな髪が、ふるふると揺れた。
「ない? 分からないのではなくて? ない?」
「じゃあ、分からない」
「いやじゃあって」
「おじさん、知ってる?」
「いや私は知りませんよ」
「おじさん、お腹空いてる?」
「いや、私は空いてませんよ」
「だけど僕、お腹空いちゃった」
 渉太は、自分のお腹を押さえてテイオウを見上げる。「お腹空いたな」
「そうですか」
 とかさらっと言って、言った勢いとかで立ち去れないかなあ、と思って渉太を見ると、物凄い不安そうな、心細げな目が自分を見上げていた。
 掴んでくる手に、ぎゅっと力がこもった。まだ何も言っていないのに、細い首が微かに揺れた。
 置いていかれたらどうしようかなあ、いやだなあ、と思っていそうな表情で物凄い見つめられていて、これは一体どうすれば、とか思っていたら渉太が、か細い声で言った。
「僕も一緒に行く」
 はあ、そうですか、と思った。
「僕も一緒に行くよ」
「ああそうですか」と、今度は口に出して言った。
「僕も一緒に行」
 いやもういいですよ、とか思いながら、テイオウは、歩きだした。ついて行くも行かないも、物凄い手を掴まれているので、離しようがない、と思った。
 小川の河川敷からちょとした土手を登り、渉太が手を掴んだままもたつくので引っ張って、民家がぽつぽつと並ぶ、アトリエ村の中を歩き出す。道を下って行くにつれ、建物の数は、増えて行く。統一性はなく、誰も彼もが自己主張したりしなかったりしつつ、共存している。
 民家と民家の間に、板金塗装の工場が、ポン、と顔を出す。ブルーの作業服を着崩した数人の若者達が、はしゃいだ声で話をしている横を、通り過ぎて行く。
 テイオウは、また不意に、最近見た光景のことを、突拍子もなく、思い出した。
 ある映画の撮影中だった。スタッフの中に若い女性がいた。どういう経緯があったかは、その時の撮影が結構ヘビーな役だったこともあり、錯乱しててうまく思い出せないのだけれど、とりあえず彼女は、何か、落ち込んでいた。
 またどういう経緯があったかは思い出せないけれど、いつの間にかテイオウは彼女に捉まり、話を聞かされていた。「はあ」とか「ああ」とか、「へえ」とか、「そうなんですか」とか、上の空で返事をしていた。すると不意に彼女が「私もう、消えてなくなりたい」と、呟いた。
「ああ」
 テイオウはそうですか、と頷いた。それでもまだ相手が何かを待っているような気配があったので、小首を傾げてから、低い声で穏やかに言った。
「そうですか、じゃあ消えたらいいですよ」
 若い彼女は、何だかとっても奇妙な物を見るような目で、テイオウを、見ていた。




 一際大きくなった、あの人の声に、ふと、振り返った。
 その人は、小柄な体を精いっぱい照りつける太陽に向けて、輪の中の誰よりはしゃいだ声を出していた。
 足元を、透明な川の水が流れて行く。スイカが流れ出してしまわないように、石で作った囲いを更に高くしながらシンジは、その光景をぼんやり見つめる。
 日差しの下で、年長者である彼女が一番、元気だった。
 キャミソールとショートパンツ姿で、ビーチボールと戯れる彼女の、決して人工的ではない、生々しい色味の、柔らかそうな手足が印象的に、映った。
 丸いボールが、「いくよー」と、新居兄ちゃんの手を離れる。
 その友人の廣谷君が「おう」と受けて、そのまた友人の原ちゃんの手を離れ、落ちかけたボールに、新居兄ちゃんが合いの手を入れ、スズちゃん、かずやんと周り、最後に、あの人へと周る。
 あの人、歌川百合子さんは、飛び上がったボールを見上げてよたよたとして、
「ちょ、ちょっと待ってついてけな、おわっ」
 石に躓いて、尻餅をついた。
「あーもう、歳だなあ、百合子姉ちゃん、あれぐらいさー、取ろうよ」
「いやもうあれだよ、アンタらの方が若いんだからさー。もうちょっと手加減っていうか」
「まあそれは無理ですよ」
「ちょ、かずやん同年代なんだからさ、こう、タッグを組む的なこうもっと友好的なパスをさ」
「えー、あれでしょ、むしろ同年代なんだから、手加減とかそういうこと考える余裕がないところ感じを分かってくれるんでしょ」
 かずやんは、細長い顔を覆うように伸ばしたひげを、撫でながら何処か意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「むしろ俺なんか日頃机に齧り付いてデザインがばっかり描いてんだからさ、確実運動不足だしね」
「全くなあ、ジジイはこれだからヤだよなあ」
 百合子さんは、細い淵の眼鏡を押し上げ、勢い良く立ちあがった。
「よし、こい。百合子スペシャルスマッシュを見せてやるぜ」
「いやないない」
「そうそう、百合子姉ちゃん無理しない方がいいよ、明日湿布貼ってとか言っても絶対ヤだからね、僕」
「湿布とか言わないでよ、トシ君」
「だって本当のことじゃん」
 ああもう性格の悪い従弟ですよ、というような表情でしゅんとなった百合子さんは、それからふと顔を上げ、かわべりに石を持った格好で立つシンジを、見つけた。
 目が合って、何となく気まずいような気分になる。目を、伏せる。
「あ、ねえ」
 手を振った彼女が、声を張り上げた。
「しいちゃんもこっちきなよ! 面白いよ」
「僕は」
 シンジは石に目を落として呟くように言う。「いい」
「なんだよ、中学男子元気がないなあ」
 新居兄ちゃんが苦笑を浮かべる。
「別に、いいじゃん」
 投げやりに言うと、皆の困ったようなあきれ返っているような、そんな苦笑の表情が目に入る。一瞬、輪が静まって、川の水の流れる音だけが、静まりかえった森の中に、ポツンと浮かぶ。
 その瞬間すぐに、悪いことをしてしまったのではないか、とシンジは後悔する。するのだけれど、どうしていいか、分からない。
「よし、続けようぜ」
 かずやんが何事もなかったかのように、ポン、と言った。
「男子はさオジサン達のためにちゃんとスイカを見張りなさい」
 指を刺されて、指とか刺すなよ、とか思いながら「はあ」とか、いい加減に頷く。石の囲い作りに、戻る。
「ねえ」
 と、背後で突然声が聞こえて、シンジは振り返る。
「お茶、飲む?」
 ペットボトルを持った百合子さんが立っていた。
「いらない」
「屈折男子」
「え?」
 顔を上げるとすぐ傍に彼女が立っていて、同じくらいの高さに顔が合って、ハッとする。
「屈折男子って言ったんだよ」
 ぎゅ、と唐突に鼻を掴まれた。
「な、何するの」
「意地悪」
 横目でシンジを見やり、小さくほほ笑む。「屈折したガキ見ると意地悪したくなるんだよ、あたし」
「自分だって」
「え?」
「自分だってガキみたいなくせに」
「悪い?」
 だからどうしたみたいに言い返されて、言葉を失う。別に悪くないけど、と言い訳みたいに呟いた言葉に、耳が微かに赤らんだ。
「夏休みの宿題、もう終わったの?」
「まあ、だいたい」
 上目に、彼女を見上げる。
「ふうん」
「百合子さんも仕事は、休みなんですか」
「子供のくせに、仕事の話するなんて可愛くない奴だなあ」
 だってそれは百合子さんが宿題の話なんかするから、とか、何となくそれに見合う話を持ち出そうとしただけなのに、とか、いろいろ考えて、結局、何も言わない。
 すると、ちゃぷ、と水がはねる音がしてふと見ると、百合子さんの足が川の中に入っていた。
「いつまでも」
 彼女は大きく伸びをして、そのまま両手を空へと掲げた。
「ここで遊んでられるといいなあ」
 シンジは、いつの間にかその横顔を見つめている自分にハッとし、顔を伏せた。
「何また子供みたいなこと、言って。大人のくせに」
 だけど本当はその横顔を美しいと、思っていた。




 紀本はベッドに向かい、唇を摘みながら痩身の華奢な背中を丸め、悩んでいた。
 キングサイズのベッドには、シャツとネクタイが数点、並んでいる。今回の仕事の日程は五日間で、だから紀本は、今、男が着る五日分の衣服を用意しなければならなかった。
 荷物を詰めるのは、それほど難しい仕事ではなかった。客との旅行に出かける兎月原の用意をすればいいだけなのだから、むしろ簡単な仕事だった。あの男が旅行先で何を着ようと知ったこっちゃなかったし、それで客にどう思われようと知ったこっちゃ無かったし、それでも、それを当たり前のことのようにこなしてしまいそうになる瞬間、腹の中で微かな苛立ちが顔を出した。
 紀本は左側のネクタイに手を伸ばしかけ、反射的に右を取った。本当は、左側が正解だと頭のどこかで分かっていた。自分の好みからいっても、こんな組み合わせでは着ないし、それはきっと兎月原も同じはずだった。でも、右を取った。
 下着とスーツ、ジーンズとTシャツを五日分残し、残りをクローゼットに戻した。以前はそこにあった自分の衣服が、そこにはもうなかった。代わりに、男の衣服が収納されている。この部屋全てが、少しずつ男に浸食されていくにつれ、他人の顔になっていく。本棚もソファも、テレビも何もかも、自分の好みで自分で買いそろえたはずなのに、ふと気がつけば、安らげる場所なんてないくらい、余所余所しくなっている。
 不意に、寝室のドアが開いた。
 入ってきた兎月原正嗣は、ベッドの上に置かれた明後日からの用意を、無表情に、ちら、と見た。面倒臭そうに歩いて来て、ベッドの端に腰掛けた。侮蔑の笑みを浮かべネクタイを手に取ると、それを紀本に向かって投げつけた。痩身の背中にあたった丸められたネクタイが、ぽすん、とフローリングの床の上に落ちる。
「何それ」
 紀本が何も答えずにいると、兎月原は、ベッドの上にあった衣類に手をかけた。そのまま腕を平行に動かし、置かれてあったそれらを床に落とした。
 何も無くなったベッドの上に横になった。肘をついて紀本を見た。
「やり直して」
 何処となく、漂う空気のような柔らかさを孕んだ、深みのある甘い声が言った。「全部」
 紀本は戸惑いに茫然とし、それから微かに眉を顰めた。
 その頭に、今度はジーンズが振ってくる。髪を滑り、落ちた。
「やり直してよ」
 くつくつと可笑しげに笑う声が、聞こえる。
「どうせ、いい加減に選んだんでしょ」
 投げつけられたシャツを頭から引き剥がしながら、「そんなことない」とだけ、答えた。
「お前の着る服なんて誰が真剣に選ぶか、って顔に書いてあるんだけどな」
 分かってるなら用意などさせなければいいのに、と思う。
「そんなこと、ない」
「じゃあ、やり直せ」
 兎月原の口調が、命令調に変わる。反射的に屈辱を感じた頬が、かっと、熱くなった。
 紀本は俯いた。頬の辺りまで伸びた髪が、何も見えなくしてくれればいい、と思った。のろのろとした動きで、辺りに散らばった服を引き寄せる。
 兎月原の足元に落ちたシャツを拾い上げる。気がつけばちらっと目を上げて、男の動向を窺っている。

 長い睫毛の下にある瞳が、兎月原を見る。優位に立っているはずの自分を冷たく突き放すような、何処までも人を小馬鹿にしたような軽蔑の眼差しが、兎月原を、見る。

 不意に、視界の端で何かが動いた。兎月原の腕だ、と気付き、紀本は身を翻した。壁に行く手を阻まれる。背中を、貼り付ける。
「そういうのって何ていうのかなあ」
 向かいにしゃがみ込んだ兎月原が、ぞっとするほど精悍な美貌に笑みを浮かべて瞳を覗きこんでいた。
「意地っていうの? それとも、プライド?」
 頭のてっぺんの髪を鷲掴みにされ、痛みに眉を顰める。
「こんな細っこい首しちゃってさあ」
 柔らかな指先の、硬い爪の感触に、ぞっと背中が泡立つ。
 抑揚を失くした兎月原の表情には、そう言われた相手が一体どうするのかを、ただ静かに眺めているかのような静けさがあった。何を考えているのかはまるで分からない。静謐な表情の中、茶色い瞳だけが、やけに熱っぽく、映る。
 鋭い、爬虫類を想わせる切れ長の瞳だけが、ぼんやりと潤み熱を持っているように。
 頬、首筋、肩、まるで監視カメラに見張られているようで、息苦しくなる。
 夢中になって手を伸ばし、目の前にある体を突き飛ばした。なりふり構わず、乱暴に立ちあがる。その刹那、首元を掴まれ、ぐっと喉が詰まった。まるで投げつけられるように後ろへと張り倒されて、受け身を取る暇もなく背中を床に打ちつけた。
 う、と息が詰まる。反射的に身を屈める。
 男の足が、屈んでいる紀本の肩を踏んだ。仰向けに体が翻る。
「それでもさあ」
 痛さに声にならない呻きを上げていると紀本とは対照的に、男は息一つ乱すことなく平然と、言った。
「男だからさ、大変だよ、お前は。見栄とか沽券とかいろいろ考えなくちゃならないし」
 またベッドサイドに座った兎月原が、くつくつと笑いを漏らす。
 打ちつけた背中がじんじんと痛む。やっと息を大きく吸い込むと、目尻から涙が零れた。思わず、顔を覆う。
 顔を覆っていた手を、掴まれた。ひきはがされないように力を込めると、そのままぐいと引っ張られ、上半身が浮いた。こじ開けられた視界の先で、男の顔が、揺れる。
「そうやって子犬みたいな目して素直に言うこと聞いてれば、もっと優しくしてあげるのに」
 冷たい指が、流れ落ちた涙の跡を拭う。
「変態」
 紀本は短く悪態を吐く。
「お互い様だろ」
 ベッドサイドのテーブルに置かれていた煙草の箱を取った兎月原は、安っぽいライターを投げつけてきた。胸元に命中し、ポスンと膝元に落ちる。
「火」
 煙草を咥えた口が、短く言った。動かずにいると、肩を足で蹴られた。「火」
 一緒にするな、と思う。人を嬲って喜んでる変態のくせに。
 転がされたライターを、拾い上げる。胸元で着火すると、面倒臭そうな呻き声を上げた兎月原が、少し屈んでその手を引っ張った。
 じじ、と紙の焼ける音がして、赤く煙草に火が灯る。
 煙を吐き付けられ、顔を背ける。
「お前だって本当は歪んでる」
 自分が一体どうしたいのか、一体何を望んでいるのか、それともあるいは何も望んでいないのか、プライドを守りたいのか、そんなものよりももっと守るべきものがあるのか、この男と居ると分からなくなっていく。段々、見失っていく。
 気がつけばリビングから電話の着信音が鳴り響いていた。
 何だか妙に覚めた気分で、紀本は考えるのを止めにすると、リビングに向かうことにした。


「あ、もしもし、紀本君?」
 電話を受けると、受話口から可愛らしい女性の声が響いた。紀本は思わず、頬を緩ませる。
「ああ、なに、どうしたの」
「うん、ちょっとね」
 彼女の声を聞くと不思議と懐かしいような、温かい気持ちになり、同時に酷く後ろめたいような気分になった。故郷に居る姉に少し、その声質が似ているからかも知れない。どちらかといえば引っ込み思案で、どう間違っても活発ではない少年だった紀本が、自立し家を出る気になったのは、姉が結婚し家を出たからだった。彼女の居なくなった家で、父や母、家督のことを考えて過ごすのが嫌だった。決められた大学には入らず、自分も家を出た。
 紀本が夜の世界で働いていると知った時、田舎の古めかしい考えが染みついた、育ちの良い姉は錯乱し、胸の内に仕舞いこめない出来事として、父や母や弟にそのことを話した。良い機会だったと思う。あんな事がなければどうせずっと、言えないはずだったから。
 その家柄を誇りとして生きているような父や母は絶対に自分のことを許しはしないし、自分よりずっと分別のある弟には軽蔑されているだろうし、その事業に失敗までして借金まである身では、絶対に二度と帰れはしないけれど、彼女の顔だけは不意に、思い出す。
「いやそっちにさ、兎月原さん、居る?」
 思い出の中の姉の顔と、百合子の顔が、似ても似つかない二つの顔が、記憶の中で混同する。
「いきなりでしょ」
「え?」
「俺のことなんてどうでもよくて、いきなり兎月原さんでしょ」
「あ、いやごめん、元気?」
「もういいよ」
 紀本は拗ねたように唇を尖らせる。「代わるね」
 姉に、初めて恋人を紹介された時のことを思い出していた。


「あたしの家の方かけても出なかったからさ、仕事の予定的に言ってもそっちかなって思って」
「俺の仕事の予定、覚えててくれたの」
 兎月原はまるで父親が久々に聞く娘の声に目尻を下げるような、酷く甘い、優しい声を出した。
「忘れられてるのかと思ってた」
「仕事だからね。忘れるわけないって」
「ああそう」
「明後日から旅行でしょ、都内の家で一番駅近いのはそこだし」
「それもあるけど。だってさ、百合子の家に行っても、百合子は居ないじゃないか。そんなの、さびしいだろ」
「はいはい」
「あら冷たい」
「それでね、あのさ」
「うん」
「あのね、あたしね、あの何ていうか、その……休暇伸ばして貰おうと思って」
 言いにくそうにモジモジしたわりには、結構凄いことをずばっと言った。兎月原は思わず、笑いをかみ殺す。
「ああ、そうなの」
「いいでしょ? もうちょっと。二日くらい。っていうかもう、事務所の番とか小笠原君に頼んじゃった、いいよね」
 いいよね、って、普通の社会人なら駄目なんですよ、と苦笑する。
「ああ、いいよ」
「やった。本当? やっぱり、大人だなあ、兎月原社長は」
「やめてよ、社長」
 組んだ足をぶらぶらさせていると、不意に電話の向こう側で騒ぐ人の声が耳に飛び込んできた。
「外なの?」
「ああそう、川に来ててさ。花火とかバーベキューとか」
「ふうん」
「従弟の友達の従弟が来ててさ」
「楽しそうだね」
「あ、拗ねてる?」
「そりゃ拗ねるよ。百合子の隣に俺がいない」
「あーはいはい、分かった分かった」
「いいなあ、川なあ。そっちは空気がいいだろうな」
「いいよー」
 間延びした声が一瞬離れて、戻った。「あ、来る?」
「え?」
 短く言われた言葉に、面食らう。「今から?」
「そう今から。晩御飯食べてからでもいいけど。朝日くらいなら見れるんじゃない」
「朝日見て帰れってか」
「いや、そんなに言うなら来たらいいじゃん、と思って。ああ、社交辞令でしたらどうもすいません」
 微かに拗ねてるような、それでいてどこか軽やかな、子供みたいな百合子の声。いつもその裏に何があるのかを考えている、そんな自分が酷く無粋な者と思い知るような、無邪気で無垢で、温かく、心地よい声。
「そういうの」
 兎月原は、くすくすと楽しげに笑った。
「なに?」
「いや、百合子のそういうとこ好きだなあって思って」
「なに今更」
「いつもいろんなところを見て、そのたび思うんだよ」
「ああ、そうですか」
 電話の向こうで百合子は呆れたような声を出した。




 ウエハース付きの、可愛らしいミルクアイスを運んできた女性店員は、その容器を、渉太の隣にそっと置いた。
 それからテイオウの顔を、怯えたみたいな目でチラ、と見て、去って行った。
 目の前では渉太が、嬉しげな顔でカレーライスを頬張っていた。しかし、ミルクアイスの容器を見て、目を輝かせる。明らかに自分に与えて貰えるのだと信じている者の顔つきだった。
 テイオウは、無言でその容器を自分の元へ引き寄せる。
 らんらんと輝いた渉太の目が、磁石のようについてくる。
「見られていると食べにくいので、見ないで下さい」
 スプーンを手に取った。中身をすくって、自分の口に運ぶ。あ、と渉太が漏らした。
「あ、それ、おじさんの?」
 テイオウは無言でうなずく。また、特別美味くもなさそうな顔つきで、ミルクアイスを口に運ぶ。
「あ」
 カレールーをすくった状態のまま宙に浮いた格好で止まっていたスプーンから、どろどろのルーがぽた、と落ちた。
「あ、僕もそれちょっと欲しいなあ」
 テイオウはちら、と切れ長の目で渉太を見つめて、それからまた目を伏せた。「これは私のですよ、君のは、そっち」
「だけど、僕も欲しいなあ」
 名残惜しそうに、ぼそぼそと呟いているのを横目に、素知らぬ顔で、アイスを食べる。むしろウエハースにアイスをつけ、食べる。
「それ。それ、おいしい?」
「はいまあ」
「いいなあ」
 渉太は、さっきまで物凄い美味しそうに食ってたくせに、もう何だか凄いまずいみたいに、カレーを口に運ぶ。
「いいなあ」
 切なげに呟きながら、動かしたくない口を無理矢理動かすみたいに、カレーを食う。
 自分がカレーと開口一番言ったくせに、と、テイオウは思う。そして黙々とアイスを食べる。渉太は最後のクリームまできっちりと食べ終えたのを見ると、ほう、と悲しげなため息を吐いた。世の中には、自分の思い通りにならない事があるんだな、と、生まれて初めて知ったみたいな、悲壮な顔つきになった。
「悲しいのか」
「悲しい」
 テイオウは、さっきまで凄いにこにこしてたくせに、何がそんなに悲しいのか、いやそこまで悲しむことはないだろう、と、不思議になる。

 また不意に、この間まで撮影していた短編映画のことを思い出した。まだまだ年若く、専門学校上がり丸出しのような監督は、丸い眼鏡を押し上げながら、「自分でこんなこと言うの何ですけど、この役を引き受けて下さるなんて思ってなくて。嬉しかったですよ」などと、言った。
 それは、ゴミ箱の中で生きている男の事を描いた作品だった。延々、大きなアルミ製のごみ箱の中に居るような現場だった。
 男は、何故かそこでずっと生きていた。そこから出たことはない。時には酔っ払いのゲロを浴び、立ち小便をされ、蹴られ、捨てられたものを食する。そして男は時に歌を歌う。感情は特にない。たまに、奇声のような鳴き声をあげる。
 インタビューを受けた時だった。監督が「この役にもまあ、何人かの候補があったんですけど、スケジュールの問題とか何とかで断られちゃいまして」などと、愚痴に近いようなことを、アフレコを前提にインタビュアーに漏らし、まあ学生気分が抜けないような若い者同士の話だから、と呑気に聞いていたら、「じゃあどうしてテイオウさんはこの話をお受けになったんでしょう」と話が回ってきてしまった。
「面白そうだと思ったからですよ」
 如才なく答えていたが、本当のところ、説明しなければ分からないような芸術作品というのには懐疑的であったし、あまり興味もなかったので、仕事だから受けた、というのが本音のところだった。
 自分から仕事を選ぶことはほとんどなくて、自分がどう見られたいか、という欲求もない。最終的には、それらは全てフィクションであったし、ただの俳優である自分に主張しなければならないような、我も、ない。自身の感情で衝動的に動くことはないし、そもそも、自身の感情とは何なのか、自己主張とは一体何なのか、我とは一体何なのか、分からない。
 いつも同じ顔、いつも、同じ感情。
 疎外されようと、敬遠されようとゴミ箱で歌っていたあのゴミ箱の中の男みたいに。

「そんなにアイスクリームが食べたかったんですか」
 渉太は恨めしげな目でテイオウをちらっと、見やり、「食べたかったもん」と、言った。
「まだ、食べたいんですか」
 テイオウが重ねてそう問うと、渉太の目に、微かに期待するような色が浮かんだ。
「え、うん、食べたいけど」
 何ということだ、何を考えているのか丸分かりじゃないか、こんな分かりやすくていいのか、むしろこんな分かりやす過ぎるなんて、一体コイツは何を考えているんだ。
 テイオウは暫し、渉太をじっと見る。
 渉太は、もしかしたら相手が自分の望むものをくれるんじゃないかと、餌を待ってる時の犬みたいに落ち着きがない。
 くれるの? もうくれるの? いいの? 頼んでいいとか言うの? どうなの、どっちなの。
「だったら」
「えあ、うん」
「頼んでも、いい」
「え」
 渉太は目を見開いて、「なに、何て言ったの」と、更に落ち着きがなくなった。
「そんなに食べたいなら、これを頼んでいいですよ」
「いいの」
「ん」
 頬などをかきながら微かに頷いて、水を飲む。
「アイスクリーム食べていいの」
 テイオウがもう一度頷くと、さっきまで物凄い枯れた死にかけの花みたいになってたくせに、突然目をきらきらさせて、渉太が笑う。
「本当に? ありがとう」
「嬉しいのか」
「嬉しい!」
「ふうん」
「じゃあおじさんこれ、食べていいよ」
 ぐずぐずになったカレーの皿とか出されても全然嬉しくないので、「いらない」と、漏らす。
 渉太はもう、聞いていない。「お姉さん、呼んでくれる?」などと、そわそわしている。
「早く呼んでくれる?」
 テイオウは、そわそわしている渉太のことを無表情に眺めていたが、スプーンを手に取り、カレーを口に運び始めた。
 もう我慢できない、とばかりに席を立った渉太が、女性店員のところへ、駆けて寄って行く。



「どうだった?」
 隣にやってきた廣谷が、ペットボトルを差し出した。
 それを受け取った百合子は、携帯をバックに仕舞い込みながら、言った。
「うん、いいって」
「そうなんだ」
 廣谷は曖昧に渋い顔をして、隣に座る。じゃり、と石ころが悲鳴を上げた。
「っていいのか、社会人」
「あたしも、本当はそう思う」
 百合子は苦笑する。「何でもいいよって言うの、優しさじゃない時があるの、分かってないんだよ」
「家に居たんだ?」
「家っていうか。言ってなかったっけ? あの人家ないんだよ」
「えっ」
「いや、あるけど」
「どっちだよ」
「何かさ。昔、自宅に発狂した女の人が包丁持ってきて大騒ぎになったことがあったんだって。だから、都内には家借りないんだって。何軒か家持ってる人のところキープして、仕事の都合で転々としてるんだよ。まあ、事務所もあるしね」
「事務所に発狂した女の人が来たらどうすんのさ」
「さあ?」
 緊張感のない素振りで百合子は小首を傾げる。いや事務所に居た時に襲われたらアンタだってやばいんですよ、と廣谷は不安になる。
「でも、女って公衆の面前でそういうことしたいと思わない人種なんだよ、多分。独占したい心がそうさせるんなら、事務所じゃなくて自宅に行くね」
「そういうもんなの」
「さあ?」
 結局さあかよ、と落胆する。「ほんで誰かのとこ居たんだ、今日も。女のとこ?」
「トシ君なあ」
「何よ」
 唇を尖らせると、もういいよ、とでもいうようにため息を吐き出した百合子が、「そうね、紀本君、のとこに居たよ」と君に心なしか力を込めて、言った。
「紀本君?」
「何か、同業者の、いや、同業者だった、人?」
「だった?」
「いろいろあったみたい。あたし良く知らないけど」
「同業者なのに、友達?」
「うーん」
 腕を組んで顔を顰める。「ライバル、とか言ってもお互い絶対認めないだろうけど。別にお互い関知してたわけじゃないしね。でも紀本君が結局、会社潰しちゃって借金があって大変だった時に、兎月原さん、お金貸したげたとか、そういう関係」
「ふうん。いい人じゃん」
「誰が? 兎月原さんが」
「ライバルが落ちた時に助けるなんて、男の中の男じゃないか」
「うーん」
「何でよ」
「そういうスポーツ根性な感じでもないんだよなあ。むしろ、そういうの引くし。っていうかあたしも引くし。結局、あれだよ、利益はあったと思うよ。顧客だってその後うちで引き受けてるらしいしさ。紀本君が経営してた会社はもう、跡形もないし」
「そうなんだ」
「ビジネスにはシビアな人だと思うよ、あの人はさ、得がないとしないよそんなこと。紀本君だって、誰も助けてほしいなんて言ってないのに、って、心の奥底では思ってそうな人だしね」
「思ってそう?」
「そう、思ってそう。でも、言わない。きれいな人だけど、あんま何考えてるか分かんないよ。兎月原さんと、一緒」
「兎月原さんって人のことも、あんま分からないの?」
「ときどきね」
 百合子はちょっと感情の読めない表情で俯いた。
「隠してんだよ」
「え、何て」
「隠してるんだって、言ったの」
「ああ」
「いろんな顔があって、そのどれもがいつも、あんまりにもその場に相応しいから、どれも本当は、本当のあの人とは関係ないんじゃないかなって、そんな気になる時があるんだよ」
「でも人なんてさ、誰でも何かを隠して生きてんじゃないの、っていうか、誰にどの顔を見せるべきか、ある程度考えながら生活してるっていうか」
 廣谷は転がった石を拾ってポン、と投げつける。
 手を叩きながら、百合子を振り返った。
「でもさ、前から聞いてみたかったんだけどさ、何、出張ホストってなにエロいこともすんの」
「トシ君なあ」
「何だよ」
「そういう品のないこと言うと、新居君に嫌われると思うなあ、姉ちゃん」
 その名前を出しただけで若い従弟は、分かりやすく狼狽した。
「あ、あら、新居、今、関係ないだろ」
「だから、分かりやすく新居君とあの人の違いを比較すると」
「いいよそこ比較しなくて、人種違うし」
「新居君の場合は、言えなくてそうやってるところがありそうで、あの人の場合は、言いたくないからそうやってるところがありそうってところだよね」
「何の話?」
「ガラスにバンバンぶつかるハエを見てるって話」
「なに? ハエ?」
「ねえねえ、そんなことよりさ、新居君とはその後どうなってんのよ、モデル、やってるの」
「何だよ、急に」
 拗ねたような顔つきになった廣谷が顔を伏せる。「ど、どうもこうも」
「なに? 聞こえないんだけど」
「またそうやって一番聞いて欲しくないこと聞くの、何なのその鋭さっていうか、鈍さ?」
「えへへへ」
「モデルはさ、何かとりあえず一回行ったけどもう、行ってない」
「えー何でー」
「聞かないでよ」
 乱暴な仕草で額をかく。「何かやばいんだよ」
「あごめんじゃ、聞かない」
 あっさりと引き下がると、廣谷が恨めしげな目で百合子をちらっと見て、ふーん、とか鼻息を吐き出す。
「何その不本意そうな顔、アンタが聞くなつったんでしょうよ」
「自分から聞いたくせに」
「答えたくないって言ったから、聞かないって言ったんでしょうが」
「こういう時は聞いて欲しいんじゃん、わかれよ、むしろすっ、と分かれよ。雰囲気で分かれよ」
「チッもう面倒臭ぇなあ、何よ何がやばいのさ」
「いや、だからさ、あー例えばさ」
 照れくさそうでいて嬉しそうな、それでいて困惑しているような、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、廣谷が言う。
「何か気持ち悪いから、やっぱ嫌だ」
「ちが、だから、分かった。だからさ、その例えばさあの何か、こう、僕のこと見てるでしょ」
「誰が、新居君が?」
「うん、こうまあ、絵を描くために見てるとするでしょ」
「そうね、絵を描くために見てるんでしょうよ」
「でも実際その、どういうあれなんだろうね。そういうのって、やっぱり、ちょっとはその好みとかさ」
「まあそうね、絵的にいい感じになりそうだっていう、そういう好みがあるんじゃないのやっぱり、芸術家さんには」
「うん、そう、うん。いやうん。まあ、そうなんだけど」
「トシ君なんなの」
「いや何って別に何もないけど、ちがだからさ、何か、めっちゃこっち見てる目がさ、何か、凄い見てんだよ、何か。いろんな、とこ」
「いやそりゃ描いてるからねえ。見るでしょうよ」
「あんな、す、鋭い、目で?」
「いや鋭い目で、見るでしょうよ」
「あと何か、僕のその、傍にあるもんをさ、わざわざ、取ったりしてさあ。こう何か、ちょっと体がその、触れたりして」
「いやそれが必要だったんでしょ」
「だって、だってさそもそも最初からさ、毎日駄菓子買いに来るって何かさ、その、あんのかなっていうような、何ていうか」
「いや、駄菓子が食いたかっただけでしょ。普通に毎日駄菓子買いに来る客とか、他にもいるじゃん」
 きょとんとした顔をつくり、廣谷を見る。
「だいたいトシ君さっきから何が言いたいわけ?」
 すると突然、その両の頬をむにゅ、と片手で掴まれた。「ちょほ、ほひふんはにふんの」
「たまに意地悪だよね、百合子姉ちゃんって、イー」
「何誰? 私? 意地悪? そんな馬鹿な」
 とか言いながら意地悪を自覚し、ちょっと、笑う。
 それでもたぶん、言ってやりたくないのは、過剰過ぎる自分の自意識と戦っている従弟の姿に、自分が見える気がするからだ、と気付く。相手がもしや自分のことを好きなのでは、と考え、一挙一動を勘ぐって、勝手にドキドキして、結局、空回りしている。初々しくて馬鹿馬鹿しくて、苦くて甘い、気分。
「とか言えないじゃん、新居には」
「まあ言えないよね」
「えーうそ、百合子姉ちゃんでも言えないとかあんの」
 驚いた顔で見られて、「トシ君あたしのこと何だと思ってんのさ」と、呆れる。
「何かちょっと自信沸くんだけど」
「何でもいいけどさ。でもそういうのって、絶対何か、実は分かってんじゃないかなあ、って思ったりすることない?」
「分かってんじゃないかなあって?」
「ハエがさ、バンバンガラスにぶつかってるの見てるみたいな感じなんじゃないかなあとかさ、思う時あるじゃん」
「ああ、そこで出てくるわけだ、ハエ」
「そうハエ」
「だけど、新居は、何ていうか、こう物凄い伝えてる気がするんだけど、そういうことは、言わないし。何ていうか」
「意地悪」
「うん、意地悪なのかなって思う時ある。もしかしたら、全然何も考えてないだけかもしれないから、何も、言えないんだけど」
「トシ君なあ」
「何よ、汚れた目で僕を見ないで」
「いや、何か」
 曖昧な笑みを浮かべながら、空を見上げる。「従弟だなあって思って」
「まあそうなんですよ、不思議と従弟なんですよ」
 それから、何となくため息を吐き出すと、後手にして仰け反った。
「いいねえ、何か」
 ふと見ると、隣で百合子も同じ体制で目を閉じていた。「気持ちいいね」
「ああ何かこういう映画あったなあ」
「おお。なになに、あ! それでここから突然ゾンビが沸いて出」
「いやゾンビは出てこないよ」
 廣谷が、何だかとっても残念なものを見るような目で、百合子を見た。
「そういう汚れた目で私を見ないで」
「いやゾンビはないよ」
 再度念を押され、百合子は拗ねたような表情をつくり、わざとらしく唇を尖らせた。
「あたしとトシ君ってさあ、従弟じゃなかったら絶対近づいてなかった人種だよね。同じクラスに居たって友達になってないよ」
「それはこっちのせり、あた」
 ドン、とお腹をこぶしで殴られ、廣谷は「何すんだよ」と、唇を尖らせる。




 暗闇の中で、綿菓子のように柔らかい声だけが聞こえていた。
 それが次第に輪郭をはっきりとさせ、まるで泡がはじけるように、はじけた。
「おじさん」
 テイオウははっと、目を見開く。
「おじさん、大丈夫」
 視界いっぱいに、薄い茶色の不安げな瞳が揺れていた。
「ああ良かった。おじさん、大丈夫?」
 上半身を起こし、ため息を吐き出したところで、やっと自分は眠っていてしまったのだ、と認識する。
 ちろちろと水の流れる音がしていた。緑の中に埋まるようにして、座っている。湿った土の感触が、尻の辺りにあった。
 夢を見ていた。
 不思議な夢だった。
「大丈夫なの?」
「何が、ですか」
「だって凄い苦しそうだったから、死んじゃうんじゃないかって思って、僕」
 渉太は、柔らかな声を狼狽に震わせたかと思うと突然、飛びかかってきた。その、標準よりは、少し華奢なのかもしれない男子の体を反射的に抱きとめる。一体何がどうしたのだ、と戸惑う。
「私は、大丈夫ですが」
「本当? 怖くない? 苦しくない?」
 変なことを言う。
 確かに奇妙な夢は見ていたけれど、苦しくはなかったし、そもそも苦しいというのがテイオウには良く分からない。首でも絞められたら苦しいのだろうが。
 ぶら下がるように縋りついてくる男子を、抱きしめるでもなくぼんやりとする。切れ切れに、夢の内容を思い出していた。
 夢の中では人々の姿がまるで、切り貼りされたコラージュのようだった。彼らの内面や彼らの持つ情報が、その外面に全て、浮き出ていた。
 その中にテイオウは一人、立っていた。
 過ぎていく人々をただ、見送っていた。
 その中で自分だけがただ一人、真っ白だった。そして、通り過ぎて行く人々が落とす記憶や内面や情報の断片を拾い集めていた。コラージュの人の姿はどう考えても美しくはなかったが、夢の中の自分はそれに憧れているのだ、とぼんやり認識していた。
 あのようになりたいと自分の体に擦り付けてみたら、自分の体がポロリ、と剥がれた。まるで壁が崩壊するかのように、がらがら、と剥がれた。

「おじさん、大丈夫だよ。怖くないよ」
 怖がっているのは自分の方なのではないか、というような状態の渉太がそっと、テイオウの頬を撫でた。触れられた指先の余りの柔らかさに、ハッとする。
 渉太はごそごそと、自分の背後を振り返り、またテイオウに向き直った。
「おじさん、これ、あげる」
 胸に、ロボット人形を押しつけてくる。
 先程のファミリーレストランのレジのところに陳列されていた玩具で、どうしても欲しいというので買ってあげたものだった。
「あんなに、欲しがってたのに」
 少しだけ俯いて、押しつけられたそれを手に取った。「もういらなくなったんですか」
「違うよ」
「しかし私には別に必要ありませんが」
「一人ぼっちじゃないでしょ」
「は?」
「これがあったらさびしくないよ」
 窺うように言われ、「はあ」とそのロボット人形に目を落とす。小首を傾げた。
「何か勘違いをされているようなので言っておきますが、私は、苦しくもないし、寂しくもありません。大丈夫です」
「本当?」
 聞き返してくる渉太の顔は、何とも言い難い表情だった。安堵とも失望とも、困惑ともとれるような、名指し難い表情をしている。自分でも自分の感情をもてあましているのかもしれない。しかし自分の感情にさえ疎いテイオウには、他人の感情など分かりようもなかった。
 またぎゅっと、彼がしがみついてくる。気がつけばその細い背中に手を伸ばし、そっと撫でている。何故自分がそんなことをしているのか分からなかった。彼の気が沈むのを待って、壊れものを扱うような優しい手つきでそっと引き離した。
「私は大丈夫ですので、これはいいです」
 男子の手の中にロボット人形を押しこむ。ちょっと躊躇ってから言った。「ありがとう」
 渉太が、ほほ笑んだ。彼のマシュマロのような白い頬が、ふわり、と柔らかくほころぶ。
 得体の知れない感覚が、腹の底にもやもやとして、テイオウは、顔を背けた。ふと見ると、堤防の上に並んだ建物の間に、看板が立っているのが見えた。
「Hide and seek」「出演者募集」「詳細面談の上」そして、建物内に向けられた矢印。
 何処かの劇団か、あるいは映画監督が、出演者を募集しているものらしい。この街では珍しくない光景だった。
「Hide and seek」と心の中で呟いてみる。
 確かかくれんぼ、という意味だったと思うが、hideには隠すや隠れる、秘密にするというような意味があり、seekには求めるやさがす、という意味があった。探しているのに隠れている。求めているのに、隠している。
 ほんの少しの間、その字面から、幾つかの訳文を想い浮かべ戯れてみる。


 川の向こうで、赤く色づいた太陽がゆっくりとその身を隠し始めていた。
 陽が暮れる。
 それでもまだ、男子とテイオウは川べりに座っていた。
 夕日なんて、久しぶりに見たな、と思っていた。今は一体、何時くらいなのだろう。
「帰らなくていいんですか」
 渉太は、ちょっと困ったような顔をして首を振った。
「ああそうか。家が分からないんですよね」
 こくん、と細い首が上下する。けれどすぐに酷くばつの悪そうな表情になり、俯いた。
「帰りたくない」
 弱々しく呟いた。
 要するに、嘘をついていた、ということなのだろうか。彼は続けて「帰っても、一人ぼっち。楽しくない」と呟いた。
「はあ」
 返答に、困る。「そうですか」
「お母さんがいるけど、お母さんはお出かけだから」
「はあそうですか」
「おじさん」
「はい」
「やっぱりこれ、あげるね」
 渉太はロボット人形をテイオウに差し出した。
「いらないと言ったじゃないですか」
「打たれる」
「え?」
「知らない人に買って貰ったってお母さんに見つかったら、打たれるから」
 テイオウはちょっと間、困ったような顔でほほ笑む渉太のことを見下ろしていた。
「はあ、そうですか」
 差し出されたそれを、受け取る。
「だけどそれじゃあもうこれで遊べないではありませんか」
「うん」
「どこかに隠しておけないんですか」
「おじさんが隠しといてくれない?」
「私が隠しても、その場所を君が分からないのでは意味がありません」
「駄目ってことなの?」
「まあ、駄目ってことですね」
「そっか、どうしよう」
 二人して、何となく、俯く。
「埋めましょうか」
 暫くして、テイオウは言った。
「え?」
「ここに。埋めましょうか、これ」
 渉太はきょとんとした顔でテイオウを見ている。
「私が埋めて、君にも分かるように何か目印を立ててあげますよ。そしたら君はこれを見つけられる」
 うん、と戸惑ったような様子で渉太が頷く。
「まあ、見ててください」
 口で説明するより見せる方が早いだろうとテイオウは立ちあがる。ぐうん、と伸びたテイオウを見上げ、不安そうにした渉太が立ちあがろうと尻を浮かせる。
「大丈夫ですから待ってなさい」
「僕も行く」
 はあ、そうですか、と思った。
「僕も一緒に行くよ」
「ああそうですか」と、今度は口に出して言った。
「僕も一緒に行」
 いやもういいですよ、とか思いながら、テイオウは、歩きだした。

 川べりに看板が立てられたのを見て、渉太は「すごい」と、目をきらきらさせた。
「ここにあるって分かるね」
「そうでしょう」
 どちらかと言えば面倒臭そうに答えたテイオウは、乱れた髪をかきあげる。けれど別に面倒臭いとは思っていなかった。むしろ特に何も考えていなかった。ただ、やたらと嬉しそうな渉太のことを見ていた。
「じゃあ、帰りますか」
「えっ」
「いい加減に帰らないと、私にも予定が、あります」
 常識で考えていつまでも付き合ってられるわけがないんですよ、と、言いかけてやめた。渉太が余りにも悲しそうに見えたからだ。私もう、消えてなくなりたい、と言った彼女よりも、よっぽど、消えてなくなりたいと思っている顔に見えた。
 やがてどうすることもできないでいるテイオウの前で、渉太が、微かに頷いた。
「じゃあ、帰るね」
「送って、行きましょう」
「うん」
 と、嫌々なのが丸分かりの表情で頷く。「でも別に帰れるよ、ホントは」
「私に送られるのは嫌ですか」
「嫌じゃないけど。でもどうして?」
 どうして、と問われて、どうしてもくそもないんだけどな、と思った。暫く考えて「貴方のうちが分かってたら、私が遊びに行ける」と、だけ答えた。


 女性はテイオウの事を胡散臭そうな目で見やり、それから軽く頭を下げた。会釈とも呼べないような、乱暴な頭の一振りだった。
 一人ぼっち、と渉太は言ってはいたが、彼の母親らしきその女性は、ちゃんと居た。あるいは、これから出かけるのかも知れなかったが。
 彼は嬉しいのか嬉しくないのか、良く分からないような表情をした。
 ただ、その女性に手を引かれ、酷くおどおどとした表情でテイオウを振り返る彼の姿を見て、どうしてあの時、彼をもっときつく抱きしめてあげなかったのだろう、と、思った。
 あの時。寂しかったのは、私ではなく、彼だったのだ。
 そんな、気がしていた。




「花火、やらないんですか」
 シンジはその人にそっと歩み寄り、声をかけた。
「あーあ」
 と、細い背中が呻いて、シンジを振り向く。
「え?」
「逃げちゃった、ホタル」
「ホタル?」
「あっちの方にね」
 煙に塗れた喧騒とは逆の、山手の方を指さして百合子さんは言った。「ぽーっと小さな光が浮いてたの」
「人魂じゃ、なくて?」
「あ、そういうの信じるタイプなの」
 跳ね上がった声にちょっと嬉しくなって、嬉しくなった分だけ恥ずかしくなった。
「いや、まあ、どうかな」
 仏頂面して、頭をかく。そんな自分を見てあの人は少し笑った、ような気がした。とんとん、と自分の隣にある石を指さす。
「そこ、座れば。何で突っ立ってんのさ」
「ああ」
 そうですね、とか何か呟きながら、そこに座る。
 今度ははっきりとあの人が笑った声が聞こえた。顔を上げると微笑している彼女が見えた。「何か、可笑しいですか」と、思わず突っかかる。
「いや何か面白いなって思って、ごめんね」
「謝られても」と、口の中でもごもごと不平を漏らす。それから遠慮ない視線で自分を見てくる彼女を、横目で見た。「何ですか」
「思ったんだけどさー、そんな仏頂面してさー。きみ、暗いよね。友達とか、居んの」
「それ、実は物凄い失礼だって、分かってて言ってますか」
「だって思ったんだもん」
 あっけらかんと言い返されて、言葉に詰まる。ため息を吐き出して、「いますよ、友達くらい」と、問いかけに、答える。
「ふうん、どんな話するの。何してんのそんな何しても楽しくなさそうな顔して」
「メールとかで」
「ふうん、凄いね」
「からかってるんですか」
「いや、それは本当に凄いと思って」
 足を投げ出した格好で、両手を組んで、それに目を落とす。「あたしはメールとか、苦手だから。ホントは、あんまし好きじゃないんだ」
「どうして」
「だって、どっかで心がすれ違っちゃったとしても、相手の考えていることは、あたしには見えない。見えてないことが、怖いよ」
 彼女は詩人のようなことを言った。
 友人とのメールのやり取りにそんな詩的な感傷は欠片もないので、酷く不思議な感覚がした。たかがメールと、自分から見えればそうとしか言えないような物で、彼女は心などと、そんなことを言う。この人の見えている世界はどんなで、この人は人を、世界を、どのように捉え、何を考えているのか。シンジには検討もつかない。
「だけどどうせ、無駄な言葉を重ねてるだけですよ」
 単純なようでいて、不可解な。
 自分よりもずっと大人のその横顔を、ぼんやり見つめる。「すれ違うほどの事なんてない」
「そういうのって、楽?」
 不意にあの人が振り返り、二重のくりん、とした瞳が、シンジを見つめた。
「え?」
 絡まる、視線。
「建前で無駄なこと話してんの。楽しい?」
 言葉に、詰まる。質問の内容に戸惑っていたわけではなかったのだと、思う。楽しい、そう答えれば済むだけの話なのに。
「あたし、そういうのもホントはあんまり、好きじゃないな」
 遠くで虫が鳴いている。
 心臓が、痛いくらい高鳴る。

「あたしのこと、さらいたいの」
 百合子は、危うく、蒼い執着が、黒い瞳の中で揺れているのを、見つめる。
「背伸びしてるだけの弱虫のくせして」

 心臓の高鳴る音が、喧騒をかき消すくらい強く。

「僕は」
 シンジが微かに戦慄く唇を開いた瞬間、突然ふ、とあの人は、興味を失くしたかのように、俯いた。
「似てるね」
 ポツン、と呟く。
「え?」
 シンジはただ茫然として、掠れた声で呻いた。
「その人はさ、いつも何にも執着せず生きてます、みたいな顔してるの。けど本当は、執着してないんじゃなくて、見て見ぬふりしてるだけなの」
 百合子さんは途端にいつもの、何処かのんびりとしたもの言いに戻った。
 シンジは置き去りにされた気分になる。おずおずと気まずげに顔を戻し、そっと自分の心臓を押さえた。
「あれも一種の猫かぶりっていうのかなあ。それを誰にも、何処にも出さないの、何でだと思う?」
「話が見えないんで、分かりません」
 拗ねたように言うと、ああそう別にいいよ勝手に拗ねてれば、とでも言いたげに、彼女は話を続ける。
「たぶんね、あたしとか、他人を騙したいからじゃないんだよ。自分を騙したいからなんだよ」
「自分を、騙す?」
「だけどそういうのって気をつけないとさ、段々、凄い、上手くなっていっちゃうから。余りに上手くなり過ぎて本当に自分に欲しいものができた時、欲しいって言えなくなるから」
「その人と僕が、似てるんですか」
「何処でどうなったかは知んないけど屈折したの。求めてるのに隠してる」
「………………」
「器用だからだよ。隠せるくらい、器用。だからこそ、不器用な人」
 伸ばした足をぶらぶらさせながら、彼女はまた、詩人になる。
 シンジは、そんな彼女に見惚れそうになる。
「まあ、あっちの方がよっぽど格好良いし大人なんだけど」
「よっぽどって」
「あ、傷ついた? ごめんね」
 全然申し訳なさそうに言った彼女は、ぴょん、と元気に立ちあがった。
「さてと、あたしも花火やってこよーっと」



 夜の国道を、一台の高級外車が走って行く。
 後部座席に座った兎月原は、雑誌から依頼されたエッセイの草案が書かれた紙から目を上げた。
 ルームミラー越しに、紀本のぼんやりとした表情が見える。この視線に気付いているのか、気付いていないのか、何を考えているのか何も考えていないのか、どうしても読みとれない何処か人形めいた顔が、そこにある。
 車内は沈黙に包まれている。カーナビに映ったテレビの音だけが、やけに浮き立つ。
 それがふと、突然止まった気がして兎月原は思わずテレビの方に目をやった。
 黒い背景に、映画の配給会社らしい会社の名前が白く浮かんでいる。深夜の映画の放送らしい。次に、聞いたこともない外国の映画賞受賞作品という文字が画面に浮かぶ。中原莞爾という監督の名前にも、見覚えがなかった。
 兎月原は、特に興味もそそられなかったのでまた目を戻し、エッセイの草案に目を通す。

 気がつけば、画面の中に、男の姿が映っていた。
 その大柄な、けれどとても野性的な美しい顔をした男は、膝を抱え、蹲っている。
 見たこともない俳優だった。けれど印象深い。酷く鋭い印象があるのに、どこか儚く、粗野にも見えるのに、品がある。その男が、彼自身の心象風景ともいえるような空間の中で、膝を抱え、座っている。
 ぼそぼそとした声で、切れ切れに語られる心情で、男の立場が何となく、分かった。
 危ういまでの、恋心。
 時折顔を上げ、懊悩にその表情を歪め、また、呆けたように空を見つめ、そうして彼が考えているのはただ唯一、愛する人のことだ。
 細かいカット割りで、男の姿が、全体、顔のアップ、各部位のアップ、顔のアップ、目のアップ、と切り替わって行く。少し焦点のずれたように見える彼の両眼は、何処か遠くを見ているようでもあり、同時に近くに定まっているようでもある。
 その銀色の瞳が、印象的に揺れる。
 と、突然、場面ががらっと切り替わった。
 薄暗い、赤い部屋。
 古めかしい椅子。
 いつの間にか、そこに人が縛り付けられている。しかしその人には、取りみだした様子も、怯えた様子もない。
 ただ、冷たい目で、男を見ている。縛られても尚、男を見下しその人は悠然とそこに座っている。気紛れな猫のように気高く、あるいは傲慢で、男の心をかき乱し続ける人。
 男が大柄のためか、椅子に座る人がやけに華奢に見えた。
 貴方が私を見ないから。貴方が僕を愛してくれないから。私は貴方をこんなにも愛しているというのに、貴方が私を見ないから。
 恨みごとを漏らす男の向かいで、椅子に座る人物の肩が、微かに揺れる。見上げると、その人はさも可笑しそうに体を小刻みに揺らし、笑い声を漏らしていた。
 一体何を言うのだと、それが一体どうしたというのだと、虫けらのように男の想いを踏みにじる。閉じ込めようと、縛り付けようと、その人は決して屈しない。力では到底適わず、見る者を不安にさせるくらい危うく、儚く、簡単に手に入りそうなそれが、どうしても手に入らない。
 それだけが唯一、思い通りにならない。
 できるものならやってみればいいと。もっと酷くできるならそうしてみればいいと。まるで、男を試すかのように、挑発するかのようにその人は笑い続ける。
 服従させたいと願えば願うほど、この身が捕らわれ浸食されていく、倒錯。
 どうせ自分の物にならないなら、いっそ壊してしまえ、と。壊したいと願えば願うほど、その執着にこの身が壊されていくかのような、この混乱。
 シーンは、元の膝を抱えた男の姿に戻る。男は頭を抱え、低い、嗚咽を漏らす。
 笑っているのはその人なのか、自分自身なのか、彼には分らない。泣いているのか、笑っているのかも、最早分からない。自己を嫌悪し、彼は落ちていく。身動きが取れなくなって、どうしようもなくなって。
 これは、私の中の幼さだ。
 画面の中の男が言う。
 ――そうだ、それは、幼さだ。
 頭の中で誰かが答えた。

 画面が広告に切り替わったのを見て、兎月原はいつの間にか、自分が映画に見入ってしまっていたのだ、と気付いた。
 視線を上げると、ルームミラーの中に、自分を見つめている目を見つけた。
 冷たい、何処か人を食ったような形の良い目には、今まで自分の周りでは見たことがない、軽蔑や侮蔑が浮かんでいるような気がして。
「ねえ」
 じんわりと、体が熱を持つ。
「ちゃんと、前見て運転して」
 言葉が終わるのを待たないで、紀本が無言で視線を落とす。やけにがちゃがちゃとした品のない広告が途切れると、タイヤの滑る音がやけにはっきりと耳をつく。
 兎月原はシートに深く沈みこみながら、百合子の顔を思い出した。
 いつも夢見がちで馬鹿みたいなことばかり言ってるくせに、いつの間にか自分の足で立っている、あんなにも危ういくせに、いつの間にかそんな自分と折り合いをつけながらバランスを保っている。その強さを知ってる、そんな彼女を。
 車が心なしかスピードを上げる。
 冷たく明けていく空を、眺めていた。
























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号3453/ CASLL・TO (キャスル・テイオウ) / 男性 / 36歳 / 悪役俳優】
【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。