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Dilemma
ジレンマというものは、人が生きていくうえで恐らくは避けて通れないものなのだろう。
人は絶対にどちらかが救えない選択肢の上に道を作り、後戻りできないのにそれを思いながら成長していく。
それはきっとどんな些細なことにもあって、知らず知らずのうちに慣れてしまった人々はそれに気付かない。
そう、ジレンマなんて本当は日常茶飯事なのだ。
忘れてはいけないはずの、忘れられたアンチノミー。
今日ほど海原みなもという少女がそれを痛感したことはないだろう。
実際は、そんなに大げさな話でもないけれど。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「着ぐるみのアルバイト、ですか」
それを見ながら、みなもは何事も良し悪しがあるものだなと思っていた。
みなもという少女は、まだ幼いとも言える中学生にして様々なアルバイトに手を出しては汗を流していた。
彼女からしてみれば色々な体験を通して色々な知識を学びたいという想いからではあったが、それは他人から見ればそうも映らないらしい。
曰く勤勉少女。曰く家計を支える健気な少女。曰く実は年齢ごまかしてる少女etcetc……。
そんな風に思われていたかは分からないが、兎も角方々に顔を出しているみなもは自分で気付かないほど有名人であったりもする。見た目は可愛いし、色々なことに手を伸ばしているのだからそれも仕方のないことだろう。
そんな彼女であったから、彼女が望む望まないに関わらず色々な話が舞い込んでくることも多々あった。今日もそのパターンである。
話の主は以前にもアルバイトさせてもらったことがある店の店主だった。
「いやね、ちょっと困ったことになっちゃってねぇ」
余程暑いのか、脂ぎった汗をとめどなく溢れさせながら店主は笑う。不況の煽りを受けて、少しでも経費を削減しようと事務所はエアコンが入っていないらしい。しかしそんな状態になるくらいならせめて扇風機くらいはつけてもいいんじゃないか、とみなもは思う。
そんな彼女を余所目に店主は話を進めていく。
「冷夏だ自然災害だと色々騒がせてるけど、結局夏だし暑いんだよねぇ」
「それでね、最近ちょっと必要になって着ぐるみのバイトを募集したわけだ」
「いやぁまさか全員脱水症状でやめちゃうとは思わなくてねぇ」
汗かきの店主の勢いは止まらない。要するに暑すぎてバイトに来ていた人たちが全員倒れてやめてしまったのでどうにかしてほしい、というものだった。
(……単純に業務内容を変えれば済む問題じゃないのでしょうか?)
素直にみなもは思ったが、流石に口に出すのは憚られた。以前にも世話になっている手前、あまりそういうことを言うのも気が引けたのだ。
「でさ、海原さんには前にも着ぐるみのバイトしてもらったことがあるし慣れているからどうかなぁ……と思ってね」
慣れているといっても限度があるのではないか。しかし店主は頭が暑さでどうにかなっているのか、そんなことにも気付かない。この店の惨状では仕方ないだろう。
元々みなもは並の人間よりはるかに体力は優れている。そもそも彼女は人間ではなく人魚なのだから。人魚としての能力は他にもあるし、何より彼女の中にいる『彼』の力があればそうそう難しいことではないのかもしれない。
しかし、彼女にはちょっとした懸念があった。
(……流石に彼に頼りっぱなし、というわけにもいかないでしょうしね……)
さてどうしたものか。少し考えていたみなもだが、目の前に視線を移すと相変わらず汗を滝のように流して店主が笑っている。
「バイト代も弾むから、この通り!」
余程人がいないのだろうか。それもこの暑さでは仕方ないが、流石に額を地面に擦り付けそうなほど頭を下げられては断りづらい。
「顔を上げてください」
軽く溜息を吐いて、みなもは店主に笑顔を向けた。
「分かりました。あたしでいいなら頑張ります」
その言葉に、店主は汗を飛び散らしながら喜んでいた。
さて、ここからが問題だ。
みなもという少女は人間ではない。人間ではないがゆえに、人間としての現実を重視している。
人間の世界の中での異常はすぐさま自分の身に降りかかる。そういうものを食い物にしている連中というのは見えないようでごまんといるものだ。みなも自身それをよく知っているし、それに彼女が何よりも人間らしくいたいと思う部分もある。
それは普段あまり気にならないようで意外に気になるもの。今回も例外ではない。
さて、彼女の前に巨大な着ぐるみがある。
カエルだった。黒色のカエルだった。それもなぜか触るとふさふさしている。もこもこしている。よく分からないが、カエルだった。
一体全体このカエルとここでどうイメージが繋がるのかはよく分からない。が、やはりカエルだった。
カエルの頭を持ってみる。序に体の部分も中身を見てみる。どうやら目と口以外の部分は完全に密閉されているようで、これは確かにこの夏厳しいだろうと着る前から想像できる。せめてメッシュ入りのものくらいは用意できなかったのだろうか。
しかも何故黒なのか。黒は一番日光を吸収し熱を持つ色である。条件としてはかなり、というか最悪だ。やめる人が続出しても、これでは文句も言えないだろう。
しかし、引き受けてしまった以上はそうも言えない。みなもは意を決してその黒い物体を身に纏った。
既に暑かった。
みなもは人魚である。ゆえに色々な能力も持っている。
人より優れた体力もそうだが、接触した水を自由自在に操ることも可能である。その気になれば自分の汗や血を操ることくらいは造作もない。
そして何より、彼女の中に住まう『生きている服』がそれを強烈にバックアップしてくれる。その中に衛生管理衛機能があるため、彼女が幾ら厳しい状態に晒されようと全て服がフォローしてくれるのだ。
しかし、今回ばかりはそれもまずい。なぜなら、
(……ずっと着ぐるみを着たまま、というのは流石におかしいですよね……)
それが答えだった。
幾らみなもがずっと活動可能だと言っても、普通の人間でそれはありえない。必ずどこかで限界を迎えるはずだし、適度な休憩は必須となる。
そのことを考えると、ずっと活動できるというのもある意味でデメリットでしかない。それは普通ではないのだから。
持っているものを使いたくても使えない。ジレンマだ。
「兎も角やるしかないですか」
仕事である以上、このままじっとしているわけにもいかない。みなもは頬を叩き気合を入れた。
「宜しくお願いしまーす」
店の前で、黒いカエルが通りがかる人々に風船とビラを配っていた。
気温35度。既に晩夏もいいところだというのに、気温だけは真夏のそれと同じくらいに上がっている。当然中の人の負担は増えるばかりだ。
「宜しくお願いしまーす」
それでもカエルは頑張る。仕事だからサボるわけにもいかない。普段ならあまり人受けがよくないこういった仕事ではあるが、今日は何故か皆がよく受け取ってくれる。きっとこの暑い中、それでもそんな着ぐるみで頑張る少女(声だけは聞こえるから)に同情してくれているのだろう。
ビラ配りはそれなりに順調だ。これならば定刻どおりに仕事を終えることも可能だろう。
が、カエルの中にいる中の人ことみなもにはその時間が無限にも感じられた。
(……暑い、ですね……)
体力があるはずのみなもでさえこれだ。今までのバイトたちがどれほどの地獄を見てきたか想像に難くない。
みなもは今回、あえて自身の能力を使わないことを選んだ。やはり【日常】の中の【常識】を重視してのことである。
しかしその結果、当然といえば当然であるがみなもは体に大きな負担を強いていた。幾ら体力があろうとも、みなもはまだ中学生の少女である。精神的にも辛かった。
また、彼女の中の『彼』の能力も極力封じてある。限界状態になれば話は別だろうが、まだ強く意識していられる間は自身の意思でそれを抑えられる様だ。これはちょっとした発見だったと言っていい。
そんな状態で彼女はバイトを続けているのだから、実に忍耐強いと言える。道行く人々が同情するのも無理はないかもしれない。
が、流石に限界というものもある。
「宜しくお願いしま……す」
一瞬の立ちくらみ。ただでさえ狭い視界が一瞬ブラックアウトし、みなもは思わず店の窓に手をついてしまった。
外から見れば、黒いカエルがただ窓に手をついているようにしか見えない。しかしその中では、文字通り顔面を真っ青にしたみなもが荒い息を吐いていた。
(流石に、厳しいです……)
まだ意思が保てている分、彼の能力も発動しないから体力が回復することはない。こればかりは仕方がない。
手持ちのビラと風船を見る。それなりに数は減っているし、少しくらいは休憩しても多分時間通りに終わることは出来るだろう。そう考え、みなもは少し休憩させてもらうことにした。
「はぁ…生き返ります」
店の奥にあるスタッフルームは、当然経費削減のため応接間と同じくエアコンが入っていない。しかしそれでも、完全に密閉された空間である着ぐるみの中に比べれば月とすっぽん、天国と地獄、兎も角それくらいの差があった。
一度着ぐるみを脱ぐと流石に凄い汗をかいていた。出来るだけ薄着にと考えてシャツとスパッツだけにしていたのだが、そのシャツが完全に濡れきって透けてしまっている。試しにシャツを脱いでバケツの上で絞ってみると、漫画のように汗がその中へ落ちていった。
「心配、かけちゃったかもしれないですね」
そんなことを呟きながら少し苦笑を浮かべる。きっと『彼』のことだ、異常を感知して動きたかったに違いないだろう。
しかしそれは今困るのだ。内心で小さく謝って、みなもはまたシャツを着て着ぐるみを纏う。
仕事はまだ終わっていない。半分以上は配ったのだ、後は涼しくなっていく時間帯だし頑張ればなんとかなるだろう。
人間として、きっちりと仕事は終わらせなければ。
「……」
見通しが甘かった。自分自身に軽く後悔する。
空を見上げれば天高く存在を誇示している太陽がある。今日ばかりはそれが恨めしい。
この店、実は西日が直撃する構えとなっていた。店の前でビラなどを配っているみなもにも当然直撃する形となる。幾らこれから日が落ちていく一方だとはいえ、これでは最後の最後まで太陽の直射を避けることは出来ない。当然着ぐるみの中はサウナ地獄となっていた。
体力の消耗は休憩前よりも大きいのが実感できる。既にある程度体力を消耗していたみなもにとっては厳しい追い討ちだった。
それに加えて、先刻より店の前を歩く人々が明らかに減っていた。何が原因かは分からないが、兎も角少ない。ビラが減っていく速度も目に見えて遅くなっていた。
それでもみなもは頑張った。人が少なくても必死にビラと風船を配って回る。黒いカエルが面白いのか、子供連れには受けがよく多めに受け取ってもらえたのも幸いだった。
そして、最後の数枚。西日はまだ厳しいものの、これさえ配り終わればバイトは終わる。
しかしそれがいけなかった。ゴールが分かったことで気が緩んだのか、みなもの体を疲労感が一気に襲い掛かる。
「ぁ……」
体力などほとんど残っていない。か細い声が漏れる。
恐らく一度倒れれば、もう二度と立てない。強い疲労感の中で、妙に冷静な思考がそう告げる。
彼女からしてみれば、その瞬間は無限に感じられたことだろう。
倒れていく体。それが妙にスローモーションに感じられる。
「……!」
が、倒れる途中で手が店の窓につきその体を支えた。
ブラックアウトしそうな視界が徐々に鮮明になっていく。体を覆っていた疲労感が少しずつ薄らいでいく。そして何より、地獄のようだった着ぐるみの中が少し涼しく感じられた。
(……動いちゃいましたか)
恐らくは『彼』が犯人だろう。意識が飛びそうになった瞬間、彼を抑えていたものも消えてしまった。そうなれば、宿主である彼女の異常をそのままにしておく『彼』ではない。何が起こっているかはよく分からないが、兎も角『彼』が今みなもを助けていると見るのが自然だろう。
それは一番恐れていた事態。しかし、運はみなもに味方していた。
バイトがほぼ終わりかけであることと、着ぐるみにより外から状態が窺えないこと。偶然重なった事実が幸運を呼び込んだ。
「仕方ないですね、さっさと終わらせましょう」
ならばすぐさま終わらせればいいだけのことだ。みなもはまたビラと風船を配り始めるのだった。
残り少なかったそれらがはけていくのに時間はかからなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ありがとう海原さん!」
汗かきの店主から熱烈な感謝の言葉を貰い、汗まみれのみなもはただただ笑うだけだった。
聞いたところによると、あのバイトを一日やり遂げたのはみなもが初めてだったらしい。当然といえば当然かと妙に納得するみなもだった。
シャワーや『彼』の力で洗い流せる汗は兎も角、シャツや下着は流石にこのまま着て帰ることが出来そうにない。
みなもはそれを脱ぎ去り、今日一日ほとんど抑え続けていた『彼』に下着へと変化してもらった。流石に下着ならばそうそう見られることもないし遠慮することもない。
やっと解放されたことへの、やっと『彼』を解放できたことへの充実感。それを感じてみなもは笑う。
そしてみなもは敢えて今日朝着てきていた服を着用せず、『彼』をその服に見立てることにした。
それはまるで今日一日封じていた『彼』への謝罪のようで。鞄に服を詰め込み、みなもはスタッフルームを後にする。
「さぁ、帰りましょうか」
『彼』に言うように呟いて、みなもは歩き始めた。
本来人間の常識の埒外であるみなもと生きている服。
しかしうまくその能力を使えば、人間の常識という範囲内に収まることが出来る。
力と道具は何であっても使い様、なのである。うまく扱えばジレンマを乗り越えることだって出来るのだ。
<END>
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