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<東京怪談・PCゲームノベル>


鬼ごっこ






 歌川百合子は、ベンチに腰掛けぼんやりしていた。
 すると見知らぬ男が近付いてきて、突然、「すいません」と声をかけてきた。
「え」
 と、短い声を発し、男性を見上げる。「あれ、ナンパですか」
 ああ違いますけど、と男性は物凄く普通にそこを否定しておいて、「ぶしつけで申し訳ないんですけど」と、続けた。
「はあ、何ですか」と、生返事を返す。
「実は僕、ちょっと今人を探してまして」
「はあ、そうなんですか」
 またどうでも良さそうな返事を返した百合子を、男は、ちょっと見つめた。
「あれ今物凄い迷惑だなあって思ってますか」
「いや」
 百合子は辛うじて、首を振る。「そんなことはないですよ」
 けれど実際、あんまりおもしろくなさそうな話だなあ、と思っていて、どうしてばれたのかなあ、とか考えた。
 以前、年下の従弟から受けた指摘を思い出す。
「百合子姉ちゃんはさ、表情を見てればどう思ってるか丸分かりだよね」
 そして生意気にもこう続けた。「これって、致命的なんじゃないの、社会人。あれだよね、百合子姉ちゃんの場合、隠そうと注意してることはきっと隠れてるけど、その注意が長く持たないんだよ。注意を払うのが不得意だからさ、ぼろぼろぼろぼろ零れてんの。分かってないでしょ」
 どちらかといえば「どうして自分が二十九歳にもなった従姉にこんなことを言わなければならないのだ」とでもいうような、面倒臭い顔で彼は言った。それにどう答えたか、あんまり記憶にない。たぶん、「あたしは人より多くのことを思ってるだけだよ」とか、いい加減な返事をしたに違いない。
「それであの、この人、見かけたりしなかったかな、と思って」
 突然言われ、百合子は「え」と、目を瞬いた。男性が、ポケットから一枚の写真を取りだしている。
「あれ?」
「はい」
「迷惑のくだりは」
「あ、広げないと駄目ですかそこ」
 男の人は物凄い普通に言ったので、聞かれたからにはちょっと考えてみた。何だかついうっかり口走ってしまったけど、たぶん全然広げなくていい話で、むしろ何でわざわざ話題を戻してしまったのか自分でも分からない、とか思った。「自分で言っといて何なんですけど、全然広げなくて良さそうでした」
 しゅん、として視線を落とす。写真があったので、受け取ることにした。目を凝らす。っていうか、あれ? とまた目を瞬く。
「いやこの人って」
「見かけませんでしたか」
 見かけませんでしたか、とか言われても、と思った。口の中でもごもごと繰り返す。くるん、と大きな瞳に困惑を浮かべ、写真と男性をちらちら見比べる。これが、従弟の廣谷俊久だったりしたならば、「トシ君何言ってんの、馬鹿じゃないの」とか言ってるところだったけど、全く見知らぬ、何の関係もない、通りがかりの人にそんなことを言うのはさすがに駄目なような気がしたので、「ああ、いや、見てはない、ですね、たぶん」とか何か言って、小首を傾げておくことにした。
「本当ですか」
「あ。はい、多分」
 へらへら笑うのも駄目かなあ、とか思いつつ、笑わずにいられないので顔が不自然に引き攣っているのが分かる。写真を見る。男性を見る。あれ? これ、貴方じゃないんですか? と、思う。いや絶対貴方ですよね、とか思う。物凄いそう思ってるけど、「あ、これ貴方ですよね」とか、見れば明らかなことを大の大人に言うのは失礼に当たるのではないか、とも思い、黙っていた。
「見て、ないと思いますけど」辛うじて、絞り出す。引っかけ問題だったらそろそろ言ってくれてもいいんだけど、とも思う。
「あー、その、今、見てるんじゃなければ?」なんてな、と探りを入れてみたけれど、びっくりするくらい小さな声だったのできっと聞こえていない。
 写真を差し出した。
 しかしいつまでたっても受け取るべき手が差し出されないのであれ? とか思って顔を上げたら、彼がじっとこちらを見降ろしているので、百合子は、あ何かどうしよう、とちょっと焦った。
 変なこと言っちゃったの聞こえちゃったかなあ、などと考えながら、男の人を上目にちら、と見る。
 すると突然、「あ、はいそうです」とか、相手が言ったのでびっくりした。
 むしろどっから繋がっての「そうです」なのか全然分からなくて、「え」と、戸惑う。
「え、な、何が」
「いや今これ見て、え、コイツなんじゃないのって思ったでしょ、だから、そうですって」
「あ、え?」
「いやだからね。それ、僕なんですよ」
「あ」
 とか呟いたっきり、百合子は一瞬停止した。「あ、そう。あそうですか」
「まあ思いっきりどっからどう見ても僕ですしね、それ」
「そうですよね、思い切りどっからどう見ても貴方にしか見えないですよね」
 っていうかこれ、言って良かったんですよね、凄いさっきから言いたかったんですよね、でも言ったら駄目かと思って黙ってたんですよね、とかいろいろ考えて、「あれ?」と、百合子はまた顔を上げる。「あれ? じゃあ自分を探してらっしゃるんですか」
「そうです、逃げた自分を探してるんです」
「あ」
「逃げたんですよ、コイツ、っていうか、自分? 参りますよ。前々からろくでもない奴だとは思ってましたけど、まあやっぱりろくでもない奴でしたね」
「あ、自分なのに」
「まさかあなた」
 彼はそこで薄気味悪い物でも見るような眼で百合子を見た。「自分には非の打ちどころがないとか思ってる自分大好き人間ですか」
「いやまさかそんなわけでは」
「じゃあ多分、誰でもこんなもんですよ、自分を探してる自分がいたら」
「ああ」
「で、やっぱり、見てないんですよね、その、僕のこと」
 百合子は二秒間くらいその男性を見つめた。
「あれ」
「え?」
「え、ゾンビですか!」
「え何がですか」
 男性は物凄い嫌そうな顔というか、何だコイツみたいな顔をした。「ゾンビって何がですか」
 百合子は拗ねたような表情で足許を見る。そんなあからさまに嫌そうな顔しなくても、と思う。自分だって自分を探してるとか言ったくせに、と、不貞腐れる。
「何か、分裂したんかなって」
「ああそういう人なんですね」
 彼はやれやれとばかりにため息を吐き、「隣いいですか」と、別にいいとも言ってないのだけれど、座った。
「そういう人なんですね、って、そういうってなに、なんなんですか」
「でも分裂とゾンビ実はあんまり関係ないですよね。SFになりますしね」
「まあ」
「むしろドッペルゲンガーとかの方が近いですよね」
「え、ドッペルゲンガー! 見たら、し、死ぬん」
「ドッペルゲンガーってドイツ語らしいですけど、またこれ物凄いドイツ語って感じですよね」
「あれ? 死ぬんだよ、のくだりは無視ですか」
「ゾンビと言えばあの、あれでしょ、ショッピングモールに集まってくるやつでしょ」
「え、あ、やだ」
 ぼそっと呟いて、二ヤつく。「それ、見ました?」
「しっかし参ったなあ。何処行ったんだよ、僕」
 彼は両手を広げるようにしてベンチの背にもたれかかり、頭の後ろで手を組んだ。辺りをゆったりと見渡している。
 百合子はゾンビの話はもう終わりなのか、と不服を感じる。
「ああ、広げないと駄目ですかそこ」
 ふと百合子に視線を戻した男性が、平坦な声で言った。
「あ」とか呟いて、はにかむ。「ばれました?」



 待ち合わせ場所を間違えた可能性について兎月原正嗣は考えていた。
 広場のような場所に置かれたベンチに腰掛けている。約束の時間はとっくに過ぎているのに、百合子はまだ姿を現さない。心配だなあ、と思う。思うけれど、携帯電話は、彼女の宿泊先でもある従弟の青年の家に置かれてあり、連絡の付けようがなかった。仕方がないので、とにかく待っている。
 彼女の従弟の青年が、余りにも続けて鳴り響く着信音に辟易したのか、不安になったのか、その携帯電話を持ち主に無断で受けたのは、約束の時間から三十分くらい過ぎた辺りだった。
 兎月原が名乗ると、相手はあれ? と素っ頓狂な声を出した。「百合子姉ちゃんなら、もう出ましたよ。待ち合わせしてたんじゃないんですか」
 それが残念なことにまだ出会えていない、と伝えると、百合子の従弟の青年、廣谷俊久は、二つある可能性のうち嫌な方の予感が当たってしまった時の人間が出すような、面倒臭さと苛立ちを滲ませた。「えー、真面目ですか。どうしよう、結構前に出ましたけど」
 ただでさえ従姉の奇行に不安がっている、ガゼルを想わせるような何処か頼りなげな若い男子に、これ以上不安の種を与えることもないかな、と思ったので、「そうか、いやいいよ分かったから」と早々に電話を切ろうとした。
「え、いいんですか? っていうか、何が分かったんですか?」
「そうだね、携帯を持ってないってことは、分かった」
 はあ、と感心しているのか、呆れているのか、良く分からない声が唸る。「ちなみにそれが分かるとどうなるんですかね」
「待つ時の心づもりが、変わる」
「あ、待つ前提なんですね」
 面白がっているような、それでいて何処か安堵しているような声が答える。

 それでも時々、百合子自身に発信器がついてればいいのに、と思うことがある。
 煙草の箱やライターや財布や鍵に、着信機能がついてればいいのに、と思うのと似ている。それらはとても大切な物なのに、部屋の中に紛れてしまうくらい小さい。時々居場所が分からなくなる。油断したら見失って、必要な時になって、焦る。

 やっぱり場所間違ったのかなあ、と兎月原は、ゆっくり辺りを見回す。
 そこは、公園にも似た広場だった。けれど公園と呼ぶには、少し殺風景で、整備も行き届いていない。このベンチだって半ば草むらに埋もれるようにして置かれてあるし、遊具らしきものも憩えそうなものも何もない。けれど、兎月原以外にも人の姿はあった。スケッチブックのような物を開いたまま、ぽかんとした表情でずっと空を眺めている青年だ。
 この辺り一帯は、アトリエ村と呼ばれているくらいなのだから、若い画家が創作活動をしている最中なのかもしれない、と想像する。
 兎月原の座るベンチから右の方向に、数メートル程離れた場所にその青年はいた。同じように置かれたベンチの座席部分には座らず、ベンチの脚の部分に寄りかかるようにして、直接、地面に腰をおろしている。
 兎月原が来る前から、青年はそこに居た。ずっと同じようなポーズで空を見上げていた。百合子も時々、あんなような表情でぼんやりしていることがあるが、一体その瞳の向こうに何が見えているのかと目を凝らして見ても、兎月原には何も見えない。ありきたりな景色が広がっているだけで、それが時々、不満に感じる。
 ふと、空を捉えていた青年がスケッチブックに視線を落とした。虚ろに掴んでいたペンを、しっかりと握り直したのが分かる。白い用紙の上を鉛筆が、走って行く。しかしそれも、数分と持たなかった。また彼の手が止まる。
 立てていた膝を倒した。胡坐をかいた格好で、ゆらゆら、と体を左右に揺らした。焦れているのか、思案しているのか、無意識になのか、自覚的なのか、動きの正体は分からなかったけれど、暫くそうしていた彼は不意に動きを止め、ベンチの座席部分に上半身を預けた。べろん、と、寝そべるように、預けた。
 そこで何か、目が合った。
 相手がぼんやりとこっちを見ているので、兎月原も何となく、見つめていた。
 幾らか時間が過ぎた。ふと、青年が細かい瞬きを繰り返した。顔つきが、微妙に変わる。夢から醒めたかのような表情で、兎月原を見る。けれどすぐに何かを見定めるように目を細めたかと思うと、スケッチブックを抱えて近寄ってきた。
 素早い動きだった。
「すいません、隣いいですか」と、別にいいとも言ってないのだけれど、座った。
 スケッチブックの新しいページを開く。「ちょっと、描いていいですか」とか、了承を得るためというよりは、宣言のようにもそもそと呟いて、いいも嫌も返事をしていないのだけれど、鉛筆を動かしだした。
 それが一体何の役に立つのかも分からなかったけれど、熱心だということだけは、分かる。
「ここで、何してるんですか」
 喋る余裕ができたのか、暫くすると青年は最初よりはゆっくりと鉛筆を動かしながら、言った。
「待ち合わせしてるね」
「へえそうですか、彼女さんか何かですか」
「君、きょうだいって居る?」
「え」
 そこで彼は驚いたように兎月原を見た。手が止まっている。それからまるで不審な人物を見るかのような目で、瞳の奥を探ってきた。「あ、まさか」
 呟いて、自らの記憶と対峙しているのか、あるいは自問と対峙しているのか、少し、俯く。
「まさか、僕のことを、見張ってました?」
「いや」兎月原は、微かに首を動かす。「見張ってないよ」
「あ」
 物凄い普通に否定されたのでむしろ驚きましたくらいの勢いで、青年が呻く。
「絵を描いてる人だなあ、とかは思って見てたけど」
「はいそうです僕は絵を描いてる人なんです」
 軽口を言う風でもなく素直に頷いた。
「でもびっくりした、いきなり兄弟とか言うから」
「いや何でそこでびっくりされるのかわかんないから、俺もびっくりしたけど」
 生まれてこのかた驚いたことなんてないんですよ、とでもいうような表情で言って、兎月原は組み上げた方の足を少し、揺らす。煙草を取り出した。「ただの話きっかけなのに」
「いや何かね。僕の奴が僕を探してたら凄いやだなって思って」
 煙を吐き出してから、「え?」と、青年を振り返る。「あ、ごめん今何かいい加減に聞いてた。何?」
「あ僕、自分から逃げてるんですよ、っていうかこのまま会わないままだったらいいなあって、そういう状態なんです」
「ああ」
 へえそうなんだ、とか何か呟いて煙草をくわえる。聞き間違いではなかったんだな、と納得しているようでもあった。「それは大変だ」
「はい大変なんです、嘘だと思ってますか」
「いや思ってないよ」
「そうですか」
「いやごめんね」
「何がですか」
「話に乗ってる感が全然出せなくて」
「ああいえ、全然申し訳なくなさそうですけど、いいですよ」
「あれ今、凄いさわやかに嫌味言ったよね」
「だから、兄弟とか言われたらびっくりしました」
「ああ無視するんだね」
「できれば捕まりたくないし、理屈臭くて憂鬱で何や言うたら合理性とか利害とか言うの、鬱陶しいじゃないですか。だから」
「だから逃げてるんだ?」
「まあ、逃げるっていうか、会いたくないなあって感じですよね」
 外見的には、自分より少し下くらいにしか見えない青年が、子供みたいに唇を尖らせる。
「ふうん」
「あいつ、邪魔なんですよね」
 青年は俯いた。鉛筆の頭と尻尾の部分を握りながら、くるくる、と回す。
「僕が絵を描こうとしたら、邪魔ばっかりしてくるんです」
「ああそう」
「だけど今はあいつが居ないんで、好きなだけ好きなように絵が描けて僕は幸せなんです」
「ふうん」
 兎月原は形の良い眉を、ちらっと皮肉っぽく上げて苦笑いを浮かべた。がらんとした広場を見つめる。
「そう」
 吐き出した煙が、空間の中に溶けて行く。
「あ」
 と、隣の青年が声を上げた。「で、そういえば結局、きょうだいって何だったんですか」



 アトリエ村の中には、幾つものライブハウスや劇場がある。その中の一つの前に、広瀬は居た。
 小冊子のようなものをぱらぱらとめくりながら、芝居の開演を待っている。
 コンクリートを固めただけのようなベンチだった。
 膝丈より少し高いくらいの、長方形の物体の上は、座り心地が良い、というわけではなかったけれど、悪いと舌打ちしたくなるほどでもない。足を組んでいる体制の方が落ち着くので、足を組み、冊子をめくる。
 そうして五分くらい過ぎたところで、ふと隣に、ハンチング帽をかぶった痩身の男が座った。
 広瀬はちょっと、視線を上げた。男は、四十代くらいの年齢に見えた。帽子から伸びている長い黒髪を、後ろで一つに束ね、白髪混じりの髭が、顎元と、鼻と上唇の間を覆っている。不潔な感じはしなかったが、何処かくたびれた感じがあった。髭が余りきちんと整えられていなかったからかもしれない。当初はきっちりと整備するつもりだったが、途中で面倒臭くなってしまった、とでもいうような、いい加減さが覗いている。
 男は、咳払いにも似た、短い息を吐いて隣に腰掛けた。
 手には特に荷物も持っていなかったので、両膝のように両手を乗せ、少し身を乗り出すようにして座っている。芝居を観に来た観客なんだろうな、と、適当なところで片づけて、広瀬はまた、冊子に目を落とす。
 今後、この劇場で催されるライブや演劇の日程、その紹介などに、目を走らせる。さほど興味はないので、今日自分を誘ってくれた女性が所属しているらしい劇団の情報を重点的に読む。
 数分が、過ぎた。
 何となく、頬に違和感を感じた。
 顔を上げると、隣のオジサンが、何故かちょっと緩く笑みを浮かべながらこちらを見ていた。ほほ笑む、というほど美しい印象ではなかったのは、細い目のせいだったかもしれない。見ようによってはそこに、自分を含めた全世界のことを、馬鹿馬鹿しく思い諦めているような、嘲笑の色が浮かんでいるようにも、見える。
 えー何でめっちゃ見られてんの、とか、思ったけれど、口に出して関わることの方が恐ろしかったので、おずおずと視線を逸らした。
 咳払いが牽制になるのかどうか分からなかったけれど、一応そんなこともやっておいて、体を若干ずらす。熱心な読者に見えてくれればいい、と思いながら、もう全然頭になんか入ってこない冊子の文字を、ひたすら目で追う。
 でもどうにも落ち着かないし、気になるので、広瀬はまた、目を上げて男をちら、と見た。
 残念なことに、男はまだ、こちらを見ていた。え、と思い、思わず、二度見する。それから、ぎょっとする。頭が、ちょっと仰け反る。益々関わるのが恐ろしくなったので、目を逸らす。
 男は緩やかにほほ笑んでいる。何故か二度三度と、頷くように首を揺らすと、「それ面白いの」と、聞いてきた。
 広瀬は、うわ、関わりたくない、と真っ先に思い、戸惑いと得体の知れない羞恥に、どき、とした。「え、あ、はあまあ」と、できうる限り無愛想に、けれど相手を刺激しないように、答える。
 ありがたいことに男性は、「ああそう」と嫌らしい笑みを浮かべたまま頷いたきり、話を広げるようなことも深追いしてくるようなことも、なかった。
 拍子抜けしたが、ほっとする。劇場のドアを見る。人が出てくる気配はなく、クローズと書かれたプレートも変わっていなかった。まだ開場する気配はない。
 それからまた数十秒か、数分の時が経った。隣からごそごそと動く気配を感じ、広瀬は密かに動向を窺った。伏せ目で、横目に、見る。
 男性が、咳払いか何かをしながら、座る位置を直しているところだった。今度はさっきより深く腰掛けた。とかは別にどうでも良くて、広瀬はさっきより微かにけれど確実に縮まった二人の間の距離を、見つめる。
 目を戻して、二度、三度と、瞬きをする。
 組んでいた足をほどき、さりげない風を装い、微かに尻をずらす。
 すると男がまた、距離を詰める。広瀬は、ハッとする。思わず、尻のポケットに入った財布に注意を払う。
「君ね」
 まさにその動向を見ていたかのようなタイミングで男は口を開いた。ぎょっとする。
「今、私のことをすりか何かだと思ったよね」
「ま、まさかそんな」
「いやいいんだけどね」
 怪しまれることなんて慣れてるからね、とでも言いたげに、男は薄く笑い緩く頷く。
 相槌を待っているのかどうか、判断に迷うような奇妙な間が開く。お前の番ですよ、と言われているのかと思い、はあとか何か口を開こうとしたら、男が続ける。「まあ信用できないと思いますけど、私はすりではないんだよね」
 独特のリズムに、戸惑う。ここで相槌なんじゃないか、と判断する。「あ、はあ」
 少々不格好ではあったけれど、一拍遅れの相槌を、打つ。
「舞台、見に来たの」
 続けて問いかけてきた男の声は、どちらかといえば、柔らかい。幼い子供を相手に喋っているようでもある。けれどそれは、父性や紳士的な優しさ、というよりは、変質者の猫なで声という印象に近かった。
「ああ、はい、まあ」
 恐る恐る、広瀬は答える。できれば話しかけられたくないんですという雰囲気を存分に伝えたはずだったが、伝わっていなかったのか、あるいは今の一幕で無かったことにされてしまったのか、とがっかりした。
「今日演劇をやる劇団が好きなのかな」
「いえあの、知り合いが」
 自分の好みをこの一風変わった見知らぬ男に勘違いされることと、劇団内に知り合いが居ることが知られてしまうこととを、無自覚ではあったが、咄嗟に、頭の中で秤にかけていたような気がする。どちらも嫌だったけれど、無意識は「知り合い」を生贄に差し出すことに決めてしまっていたらしい。
 口に出して、後悔する。しまった、と思う。けれど、自分もこの劇団が好きだとか話を広げ出されたら、きっと後悔していたに違いないので、どっちにしても一緒だったな、とも、思う。
「知り合いが、出るらしいんです」
 ぼそぼそと、答える。
「知り合いというのは、女優? 男優?」
「あー、この劇団に、お詳しいんですか」
 知り合いを特定されるのが嫌だ、という思いもあったけれど、もしかしたらこの劇団の関係者なのではないか、という思いもあった。
「知っているかもしれない、誰かな」
 けれど返ってきたのは随分曖昧な答えだった。広瀬はしぶしぶ「女優さんです」とだけ、答えた。
「ああそう」
 にこにこと笑いながら頷く。
「はい、そうなんです」
「ちなみにそれは」また奇妙な間をおいて、男が続ける。「君の彼女か何かなの」
「いや、まあ、違いますけど」
「ああそうなのね」
「ってなんか、ちょっと嬉しそうな」
 引き攣った愛想笑いを浮かべながら、さりげなく踏み込んでみる。「ねえ何か」はは、とか何か、誤魔化すように笑う。
「気のせいだよ」
 物凄いぴしゃり、とシャッターを閉められた感じだった。
「あ、そうですか」
「じゃあ彼女じゃないんだね」
「はあ」
 と、不審者を見る目つきで、男を見る。地雷の位置を探り探り、歩く感じで続ける。
「まあ今は違いますけど、いずれはそのようになれたらいいなあとはちょっと」
「ああ」
 男はにこにことそうなんですね、とでも言いたげに頷くので、広瀬もまあそうなんですよ、とでもいうようにははは、とか笑ってみたら、「やめた方がいいですね」とかさっくり言われて、「え?」と、目を見開く。
「女優になろうなんて考える人とお付き合いするのはやめた方がいいですよ、苦労するよ。その彼女のファンの間はいいですけどね、それ超えた後は難儀しますよ。面倒臭い女だなあ、とかに絶対になってくるんだよ」
「いや。僕は別に彼女が女優だから付き合おうと思ったわけではないですよ」
「ああ」
 そうなんだ、と男は笑う。「じゃあ最初から相手にならないな」
「えっ」
「やっぱりねー、女優だからっていうのは大事だと思うね。それ無くして女優とは付き合えないね。やめた方がいい。それで気にしない女性だったら、女優じゃなく、専業主婦を目指せばいいんだもの」
「え、あの劇団の関係者か何かなんですか」
「ちなみに何処で知り合ったの」
「びょ、病院ですけど」
「でもそれってどうなのかな。患者さんと恋愛関係になってしまうっていうのは。悪いとは言わないけど、容易に済ませてる感じがするよね」
「え?」
 とうとうと喋る男の口を見ながら、広瀬は、どうして僕の職業を知っているかのような物言いをするのだ、と恐怖を感じる。
「貴方、一体何なんですか」
「あ、私?」
 男は呑気に自分の胸元を押さえた。「そうね、言ってなかったよね」
 軽く腰を上げ、ポケットから何かを取り出す。拳銃でも出されたらどうしようと絶対そんなことはないだろうけど身構えていた広瀬は、どき、とする。けれど差し出されたそれは、写真だった。高級そうなスーツを着た男がポーズを決めて映っている。何ということだろう、自分の写真だ。
「あ、大丈夫だよ、私は本気だよ」
 えーと、もう広瀬は言葉が出ない。殴り倒して逃げるべきか、殴り倒さず逃げるべきか、どっちにしろ逃げるのだけれど、一瞬、迷う。その隙を突いたのかどうかは定かではないけれど、男はのんびりとした口調のまま、言う。
「裏側に私のプロフィールが書かれてあるんだよね」
 誘導されるように、思わず、裏側を向けてしまう。油性のマジックで書かれたと思しき、下手くそな字が並んでいる。
 氏名、シオン・レ・ハイ。年齢42歳。性別男。生年月日、本籍、と続き、あれ? 免許所ですか、とかちょっとふざけたことを思った矢先、その文字を見つけ、広瀬は凍りつく。
「ま、МASA」
 ぽん、と肩を叩かれた。広瀬はハッとして顔を上げる。
「君は監視されてるのね」
 唖然、と口を開いたまま、言葉が出ない。けれど頭の片隅で、あ、やっぱりそうですか、とか思う気もする。
「アトリエ村派遣だったハセガワさん、ボスの逆鱗に触れちゃったので東京に戻されたんだけど、むしろ本人は喜んでたんだけどね。変わりに私が見張ることになったんだよね」
「あ、どうしよう、お話を聞いていたいのは山々なんですけど、僕ちょっと用事が」
 とかさりげなくすた、と腰を浮かせたら、かなり素早い動きだったはずなのに、ぱし、と腕を掴まれ、ぎょっとする。
「まあまあそう言わず」
 腕越しに、男の力強さが伝わってくる。何ということだ、見た目より強そうだ。こんなくたびれたオッサンのくせに。
「もう少し、待ちましょう、ね」
 広瀬は何だかもうがっかりとした気分で、ベンチに座り直す。
 今朝の電話を思い出していた。


 その日、朝から部屋の電話が鳴っていた。
 引っ越ししたばかりの部屋の中で、電子音が鳴り響いた時、広瀬は嫌な予感がした。虫の知らせというか、物凄く嫌な予感だった。
「はい」
 と受けると、「あっ」と向こう側で驚いたような声が跳ねた。
「あの、ぼ、ボク」
 相手は名前を名乗らず、声を聞いたら分かるよね、とでも言いたげに、言った。その物言いにもムッとしたけど、何より本当に声を聞いたら分かる自分に腹が立ったので、思わず、「どちら様でしょうか」とかあえて言ったら、「ま、またまたヒロセクンたらぁ、ボクだよ、ボクボク、МASAのボス、レディ・ファウスト」とか相手が嬉しげに名乗るで、後悔した。
「分かりましたから」
 ため息を吐く。「何ですか」
「ヒロセクンたら、ボクが東京本部に帰ってる間に引っ越しするなんて、や、やるね!」
「別にボスがどうとか関係ないですけど。たまたま日程がそうだっただけで」
「だ、だけど、引っ越しするなんて言わなかったじゃないか」
「いや言わないとだめなんですかね」
「あ、お怒ってる」
 げへへへ、と受話口からか細い笑い声が聞こえる。苛っとする。このままこの受話機を叩きつけて電話線も抜いてやれたら、どんなに爽快な気分だろうか、とも思うけど、別に何も解決しそうにないので、やめる。
「まあ休みの日に突然ボスに遊びに来られたりしないだけ、随分快適ですよ」
「ひ、酷いなあ、もう、ヒロセクンたら」
 うふふふ、と電話の向こうで、ファウストはまた、笑う。「ぼ、ボクの気持ち、知ってるくせに」
「あー何か怪奇現象かなあ、混線してて上手く聞き取れないなあ」
「そうやって優しい言葉を選んでくれるヒロセクンが、す、すすすすす、好」
「とりあえず僕今日忙しいんで、電話切っていいですかね」
「あ、ど、何処か行くのかなあ?」
「言わなくていいですよね、別に」
 面倒臭いなあ、と思いながら答える。すると意外にもというか、奇跡的にというか、ファウストは素直に「うんまあそうだね」と、答えた。そのあと、ウヒヒヒ、とか奇妙な笑い声を上げていたのが気になりはしたが、良く考えてみるとこの怪人物はいつも、奇妙な声で笑っている。
「そういえば最近病院の方来てないじゃないですか。明日来たらいいじゃないですか、ビタミン剤くらい出しますから」
「だって病院だとヒロセクンのこと独り占めできないし」
「いや何処に居ても独り占めはできないですよ」
 その恐ろしい勘違いを慌てて正す。「大丈夫ですか、独り占めなんて一生できないですよ、分かってますか」
「そうかなあ」
「いやそうですよ」
「だけどボク、結構頑張ってるから」
「いや無理ですよ、頑張っても報われないことがこの世の中にはたくさんあるんですよ」
「そうかあ」
 ファウストはわざとらしいくらいしんみりとした声を出した。「じゃあ今日はもう切るね」
 宣言の後、電話は呆気なく切れ、広瀬は少し拍子抜けしたくらいだった。
 何となく、可哀想なことをしたかな、とすら、その時は思っていた。やり方は甚だしく迷惑だけれど、彼自身に悪気はないのだし、だとか、巡り巡ってその生い立ちが可哀想だとか、そんなことまで考えたくらいだった。
 アホだなあ、と思う。

「あ、来た」
 隣で、シオンとかいう男が小さな声で短く呟いた。
 もう好きにしたらいいじゃないか、というような半ばやけくそな気分で、シオンと同じ方向を見ると、紫色のカッターシャツと、黒のパンツに身を包んだ、赤い髪の細身の男が、気取った様子で歩いて来ていた。
 広瀬の前までやってくると、その前を一度通り過ぎ、あれ? とでもいような苛っとくる小芝居を打って、戻ってきた。
「あ、ヒロセクン! いやあ、奇遇だね! 何してるの? 芝居を見るのかい」
 泣きたいのか、笑いたいのか、奇妙な表情で首を振った広瀬は、「ああそうですね、奇遇ですね、ボス」と、力なく、呟く。



「だからあたしはね、何が好きっていろいろあるんだけどさ、こう、見ててすごい哀愁とか感じちゃうわけ」
「ああ」
 青年は、奇妙な生物でも見るような目で、百合子を、見る。「ゾンビを見てですか」
「だってさ、あんな姿になってまでさ、生に執着してるのなんて、どう考えても滑稽じゃない。なのに、そうせずにはいられない宿命っていうか、アイデンティティみたいなものにさ、こう、ぐっとくるわけ」
「ああないですねー」
「人間なんてさ汚いしずるいし、馬鹿だしさ。そこまで執着しないでもう死んじゃえばいいじゃん、って、結構簡単に死んじゃったりする人とかも居るじゃない。でもゾンビはあんな不格好な姿になってもまだ生きたいって思ってんだよ」
「いや思ってるかどうかは分かりませんけどね」
「あんな形変わってもでも、生きたいって思える? お前どんなけ生きたいんだよみたいな。そんな純粋な気持ち、ある? これってロマンじゃない? すごいロマン」
「ああそうですか」
「だからさ、ほら、ゾンビとかで恋愛映画作ればいいんだよ」
「いいんだよ? え?」
「ゾンビになっちゃった男が、微かに残ってる本能みたいなのを頼りに彼女の元に向かうの。で、びっくりして錯乱した彼女に、撃たれるの」
「えっ撃たれるの」
「絶対いいよー、すごい馬鹿馬鹿しいけど、あたし絶対倒れたゾンビの姿とか見て泣いちゃうから」
「えー」
「しかもさ、めちゃくちゃくっだらなく作ってくれると尚いいよね。それを真剣に作った監督が居るかと思うと、あたし更に泣いちゃうから」
「あー」
「っていうかさっきから思ってたんだけどさ、全然真面目に話聞いてないでしょ兎月原さ……」
 と、そこまで言った百合子は、不意にきょとん、として青年を見た。
「あ、宮本です」
「あ」
 考えるように一瞬目を背け、また宮本というらしい青年を、見る。「あ、ですよね」
「はい、宮本ですね」
 普通に訂正しておいて、宮本は続ける。「自分が一瞬兎月原とかいう名前だったのかと錯覚しかけて焦りましたけど」
「それはご迷惑をおかけしました」
 百合子はしおらしく頭を下げる。「すんません」
 それから照れたような笑いを浮かべて、足をぶらぶら、とさせた。「あたしもうこういう話になると何かテンションが上がっちゃって。自分に自分にもう何か凄いびっくりですよ、お恥ずかしい」
 宮本はそんな百合子を、数秒の間ぼんやり眺めていたが、ふいに顔を戻すとため息を吐いた。
「僕の奴も何処かで誰かに迷惑をかけてないか心配です」
「あ、自分なのに」
「自分だからですよ」
 組み合わせた両手の掌を見る。「例えば自分がどっかで失態を晒してるかと思うとぞっとしますよ。だってそれは、他人じゃなく他ならない自分自身なんですから」
「だけど宮本くん、ですっけ。貴方がもう一人居るだけなんでしょ? 貴方なら大丈夫なんじゃないですか。迷惑はかけられてもかけることないと思いますけど」
「僕は」
 掌を見つめたまま、宮本が呟く。「僕は絵を描けないですが、僕は絵描きです」
「あ、はあ」
「もう一人の僕はめちゃくちゃなんです。絵を描くことしか考えてない。それ以外のことは考えたくないとすら思ってる。とても社会で生きていけるような奴ではないです。お人よしで考えなしで、利害について頭が回らない。出世に興味がないし、意味を求めない。いい加減なことを喋るし、絵以外には乱雑にしか向き合わない。もう少し注意深く懐疑的に振舞ってほしいと僕はいつも思ってるんです」
「はあ、そうなんですか」
「僕の話、つまらないですか」
「あ、いや、そんなわけでは」
 正直、つまらないなあ、と思っていた所だったので、図星を指された焦りから否定が必要以上に大袈裟になった。まあいいですけどね、と何を考えているのか分からない表情で宮本が呟く。その声と重なるようにして、ぐう、と低い音が鳴った。
 百合子はハッとして、自分の腹を押さえる。
「それってあれですよね、こんなつまらない話聞いてるより飯でも食いたいなあ、ってことですよね」
「ま、まさかそんなわけでは」
 またも図星を刺されて、百合子は引き攣った愛想笑いを浮かべる。「独りの人が二つに分かれちゃうなんて、すごい神秘的で何ていうか、もう驚きっていうか!」
「いやもういいですけどね」
「ご、ごめんね」
「ところであなた、あー」
「あ、歌川百合子です」
「歌川さんは聞いてなかったですけど、ここで何してらっしゃるんですか?」
「何ってあー、遊んでます、放置プレイで」
 宮本は百合子のことを、五秒くらい見つめてから、「え?」と、言った。
「いやいいんですよ、乙女心は複雑なんですよ」
「はあそうですか」
「え、何でそんなこと聞くんですか」
「いやお腹空いてるなら、何か食べに行った方がいいかなって思って。おごりますよ、近所にいい店があるんです」
「あ、ナンパですか」
「いえ違いますけど」
 百合子は宮本のことを五秒くらい、見つめた。
「あの何か別にいいんですけど、そこを物凄い普通に否定するっていうのは、女性に対してどうなんですか」
「そうなんですか、じゃあ、ナンパです」
「いやもういいですけど」
「ただ貴方ともう少し居たい気がします。僕を探すのにも役立ちそうな気がするし」
 まだ続きのありそうな言葉をそこで切って、宮本は、少し憂鬱げな表情で俯く。「まあとにかく、ご一緒にどうですか」
「はあまあいいですけど」
 百合子は自分のお腹を見て宮本を上目に見る。「あたし、こう見えて結構オカズ食らいっていうか、いろいろ食べますけど、大丈夫ですか」


 少し遅めの昼食を取った後、店の奥の和室でごろごろとしていたらいつの間にかうとうととして、少し、眠り込んでいたらしかった。
 電話の音に起こされたのは、五分ほど前のことだった。少しばかり耳が遠くなっていた祖母のためだったのか、この家の電話の音は忌々しいくらいけたたましい。しかもその受話口から聞こえてきたのは、どちらかといえば迷惑な、従姉の軽快な声だった。
「だからさ、あたしの携帯で兎月原さんに電話してくれたらいいんだよ」
 廣谷は昼寝からまだ覚めきっていない表情で、古めかしい黒電話の前に立っている。え? と、受話口に漏らす。ぼりぼり、と短パンに覆われた太ももをかく。「何言ってんの」
「いやだからさ、あたしの携帯で兎月原さんに電話して、待ち合わせ場所を変更するって言ってくれたらいいんだよ」
「ちょっと待ってもう」
 呻くように言って顔を顰める。「は? 何言ってんの」
「何言ってんのはトシ君でしょ、何寝起きなの? ちゃんと起きてる? あたしの言ってること、ちゃんと聞いてる?」
「いやだからさ」
 ぼりぼり、と頭をかく。「自分で電話すればいいじゃん」
「携帯持ってないし、番号分からないもん」
「だったら待ち合わせ場所変更するのやめたらいいんじゃないですかね!」
「ちょ」受話口から一旦離れた声がまた戻ってくる。「うるさい、いきなり大声出さないでよ、トシ君」
「ちゃもうだからもう何言っ」
 泣き出しそうな声を出して、ぼそぼそと文句を垂れる。
「え?」
「っていうかしかも何でまだ会ってないの。家出たのいつだよ、何でまだ会ってないんだよ」
「いいのいいの」
 ハエでも追い払うかのような、面倒臭そうな声が答える。何がいいのだ、と憤る。絶対、良くない。
「電話あったよ。携帯結構鳴ってたもん。心配してるって。飯を食いに行く前に待ち合わせ場所に寄ったらいいじゃないか」
「だからさ、大丈夫だって。電話して、百合子姉ちゃんが気になる人と会ったから、一緒にご飯食べてるらしいのでそっち行って下さいって言えばいいんだよ。えーっと場所言うね。えーっとね」
 だいたいその場所を、アトリエ村になどさほど詳しくはないはずの兎月原氏に口頭で説明するだけで分からせられると思っているのか、その難儀な説明を自分にさせようと思っているのか、と、考えれば考えるほど腹立たしくなってきた。
「うるさい、馬鹿!」
「出たよ、寝起き悪いまじん」
「百合子姉ちゃんだって相当悪いくせに。もう知らない。絶対電話なんてしないからな! 馬鹿野郎!」
「あたしは中々起きられないだけで、機嫌は悪くならないんですーだ。とりあえずちゃんと電話しといてよ。あれだよ、眠り姫の元に駆けつけた王子だってさ、ちゃんと王子を導く妖精が居たから、辿りつけたわけでさ」
「何言って、何言ってんの、自分が何言ってんのか分かってんの、ねえ、分かってん」
「あー、はいはい。じゃあね、よろしくね」
 百合子はそう言ったかと思うと、ガチャン。と乱暴に電話を切った。耳元の音が突然、途切れる。間を開けて、ツーツーツーと何処かまぬけな電子音が聞こえる。廣谷はあんまりのことに、茫然としてしまい、暫く、動けない。


「あーですから、ですね。つまりまあ、その場所にですね、行って欲しいんですね」
 廣谷はしどろもどろになりながら、兎月原に要件を伝えた。これは決して自分の本意ではないのだ、自分のせいではないのだ、と訴えるような気分だった。どうして自分がこんなに申し訳ない気分にならなければならないのだ、と情けなくなる。
「ああそうなの」
 電話の向こうの兎月原さんは、何を考えているのか分からないような声を出した。聞きようによっては、愉快そうでもある。面倒臭そうでもある。何も考えていないだけのようでもある。
 従姉の百合子は、時々何を考えているか分からなくなる、と言っていたけれど、時々なのはきっとまだ優秀な方だ、と思う。廣谷は一度だけ見たことがある兎月原の姿を思い出す。日頃は理想の体つきについてなど考えてなくても、あそうですねこれが理想ですよね、この手足の長さとこの身長がまさに理想的ですよね、と言いたくなるような美しい体形をしていた。生まれてからずっとこの体と付き合ってるもんで今更どうもくそもないんですけどね、とでもいうような無造作さがあり、知性と鋭さを感じさせる切れ長の目は薄い二重瞼で、すっと通った鼻筋は、見るからに美しい直線を描いているのに、顔の中で主張している感じがなく、意識して初めて「あ、そうですよそりゃこの顔にはこの鼻持ってこないと駄目でしたよ」と、気付くような感じだった。
 威圧感は感じさせない。けれど、圧倒される。うちの家系は不細工なんですよ、と舌打ちして生きてきたわけでもなかったが、同じ男と分類されるのかと思うと、引け目を感じる。
 そういう気持ちが苦手意識を刺激するのか、この人は良く分からない、できれば近づきたくない、と無意識に身構えてしまい、けれど関わることもないだろうからと高をくくっていただけに、今のこの状況は余り、好ましくなかった。
「ちなみにその気になる人って何だろうね、男かなあ?」
「え?」
 と廣谷は一瞬、目を瞬く。「い、いやあ、それは。僕もちょっと」
「ちょっと」
「いやあ聞いてないんで、ちょっと」
「ああそうなの」
「はい」
 へらへら、と笑って頭を垂れる。「そうなんです、すいません」
 するとどういうわけか、受話機から聞こえてくる声が無くなった。兎月原さんが黙り込んだのか、電波の調子がおかしくなったのか、焦りが、膨らむ。
「あ、あれ? もしもし?」
「トシ君」
 突然親しげに呼ばれ、廣谷はぎょっとする。「え、はい」
「今度お菓子買いに行っていい」
「あ、え?」
「駄菓子屋なんでしょ」
「はい駄菓子屋です」
「俺何かあれなんだよね、あんことかくず粉とか使ったきれいなお菓子とか、好きなんだよね」
「あ」
「うん」
「いや、うち、うちーには、何ていうか、きれいなお菓子ー、は、ないですよね。あのー、駄菓子屋であっても和菓子屋ではないんで、そのーまあ無いっていうか、ギリ無いっていうか」
「じゃあマカロンとか」
「あ、マカロン。マカロンもないですよね……あれ? 本気で言ってます?」
「でもあれだよね、トシ君も大変だよね」
「はあ」正座した格好で携帯を耳にあて、頭を垂れる。「まあ大変です」
 からかわれているのか、何なのか良く分からない貴方との会話も、やりたい放題な従姉に付き合わされるのも、婆ちゃんから任された店を切り盛りするのも、考えてみれば生きてくって大変ですね。
「まあ冗談だけどさ」
「え何がですか」
「とりあえずそこ、探して行ってみるから」
「はあ」
 何だコイツ、と一瞬茫然として、慌てて本題を思い出す。
「はい、あの。本当もう、わけわかんない従姉で申し訳なく……あの、もし場所が分からなかったらまた電話して貰ったらいいんであの」
「そうね」
 受話機の向こうで、緩い風のような声が笑った。「ありがとう」


 閉じた携帯電話をポケットの中に滑り込ませて、兎月原は、ちょっと眩しげに目を細めて空を見た。
「あそれで何だったっけ」
 スケッチブックを覗きこんでいる青年を振り返る。
「え?」
 面倒臭そうに顔を上げ、小首を傾げる。「何か言ってましたっけ、あ、きょうだいの話か」
 まさしくいい加減に話を聞いています、とでもいうような口調で青年が答える。兎月原の話よりも、新しいページに描き始めた自らの絵の方に気を取られているようだった。幾重にも線を重ね、輪郭を象っていく。それでいて、一本一本の線は丁寧に、繊細に、描かれている。
 まるで表現したい対象を、その線の中に閉じ込めようとしているようだ、と感じる。本当に描きたいものは、描いていない空間の中にこそ存在しているのではないか、と思う。
 暫くその様子をぼんやり眺めていた。
「じゃあ俺、行くね」
 伸ばした足の間に両手を差し込むような格好で青年を見る。「何か、待ってるみたいだし」
「あ、そうなの、きょうだいの話はいいの」
「きょうだいの話って、俺、きょうだい居ないけど」
「え、そうなの」
 うん、とか何か頷いて、そういえば、と思い出す。異母であっても姉だというなら、自分の上には姉が一人か二人居たはずだったが、どうせ一緒には育っていないし、数に入れなくてもいいだろう。「彼女か何かか、って、聞くからさ。待ち合わせしてるの。だから、もしもあえて言葉にしなきゃいけないなら、一番近いのは、妹だって言おうとしたわけ。妹が居る人とかだったら分かって貰いやすいかなって思って、聞いた」
「ああ、そういうことか」
 そこで青年はスケッチブックからふと顔を上げて、笑う。「でも残念なことに、妹は居ないんだよね」
「俺も居ない、実際は」
 丸腰をアピールするわざとらしい俳優のように、両手を広げる。「だから、結局正しいかどうか分かんないんだけど」
「駄目じゃん」
「何かさ。他人のくせに距離が近いの。近すぎ。だから、恋愛相手には思わないような鬱陶しさとか感じるわけ。腹立ったりとか」
「ふうん、例えば」
「すごい大事で幸せになるならどんなことでもしてやろうと思うから、たまに不安通り越して気分悪くなったりすんの。他人なら不安だ、とか、心配だ、とかで止まるんだけど、それって結局、最終的には勝手にやれば? って思ってるからだよ、たぶん。身内は違う」
 うん、とか何処か上の空で頷く青年は、話を聞いていないわけではなく何か別のことを考えているようでもあった。手は、止まっている。
「それでいて他人に貶されると凄い腹立つわけ。そんなこと他人には分からないじゃないか、とかさ」
 まるで、言葉が染み入るかのような間を開けて、ふうん、と彼はぽつんと呟いた。
 また鉛筆の頭と尻尾の部分を持って、くるくる、と回す。
「そんなわけで。俺は行くけど、君はどうするの」
 ゆっくりとした動きで、青年は兎月原を見た。それから、スケッチブックを見る。
「僕は、絵を描きたいから」
「そう」
 軽く頷いて立ちあがる。顔を上げた青年に向かい、軽く手を上げた。「じゃあな」



「あは、ひ、久しぶりだね、ヒロセクン」
 レディ・ファウストはそんなことを言って、無理矢理隣に腰掛けてきた。まるで電車の座席を無理矢理獲得しようとする中年女性のような強引さだった。迷惑な、と広瀬は顔を顰める。
 両隣を、得体の知れない男二人が挟んでいた。迷惑を通り越して不穏な気分になる。益々、顔を顰める。
 ファウストは、広瀬のことを、じろじろ、と見た。愛しげ、というか、愛でるというか、むしろ「ああ久しぶりに見るヒロセクンだなあ、可愛いなあ、きれいだなあ、相変わらずいい匂いがするなあ」とか、ちょっと、声が漏れていた。自覚していないのか、あるいはもしかしたらわざと声に出していたのかもしれないけれど、どっちにしたって関わりたくない。不穏を通り越して、どうしようもない気分になる。
「あの、何なんですか、これ」
 広瀬は、自分の右隣に座っているハンチング帽を被った、中年の髭男を指さした。「すごい、迷惑なんですけど」
「あ、シオンクンもう、もういいよ、離して」広瀬の手を捕まえていた手を、邪魔そうに追い払う。「あんまり、ヒロセクンに触らないで」
 きっと自分で命令したくせに、と思う。けれど、シオンは素直に「はあそうですね」とか何とか言って、素直に手を離した。別に気分を害した風もなく、にこにこというかニヤニヤというか、とりあえず不思議な笑顔を浮かべながら、広瀬を見ている。
 すると突然、ウヒヒ、とか何か、変な声をたてて笑ったので、ぎょっとした。
「え」
 広瀬は唖然とする。「え?」
「いや何かいつも写真で見てた人が目の前に居るな、と思ったら、何かおかしくなっちゃった」
「え?」
「ん?」
「いや、え? どうしよう言われてる意味が全然分からないっていうか、今この状況がどうなってるか分からない」
 どうしよう、と顔を伏せ、また、シオンを見る。「あれ今何で笑ったんですか」
「いやだからね。いつも写真で見てる人がね」
「え、写真って何ですか」
 シオンは細い目を更に細めて、広瀬を眺めるようにした。相変わらず口元には笑みが浮かんでいる。
「君はね、組織の中でも有名だからね」
 教え諭すようにも、感想を述べているようにも聞こえる、穏やかな声が言う。はあ、と頷いておいてから、え? と、顔を上げる。「有名って?」そして写真って?
「ほら。ボスの部屋にね、写真がいっぱい貼ってあるから」
「だ、誰の」
「はい貴方の」
 決まってますよね、話の流れからいってそれ以外ないですよね、くらいの自然さで、にこにこと指をさされる。
「ヒャハハ」
 左頬の後ろから、薄気味悪い声が聞こえ、広瀬は振り返る。「いやだもうシオンクンたら困るなあ、ボク照れちゃう」などとファウストが照れ笑いを浮かべている。肩などを竦めて見せたりして、全然可愛くない。むしろ、苛っとする。
「ごめんね、ごめんね。でも、いいよね、す、すすすすす、好きなんだし」
「いや良くないですよ」
「好きなら許されるよね! 愛は地球を救うんだよね!」
「いや意味違いますよ」
 するとその茶番をあざ笑うかのように、ウフフンとまた右頬の後ろから、変な声の笑い声が聞こえた。あれ? 今、絶対馬鹿にしましたよね、とシオンを見る。この変てこりな生き物のことを馬鹿にするのは勝手ですが、そこに僕は含ませてないですよね、むしろ含ませないで下さいね、と思う。むしろ僕は被害者なんですよ、と言いたくなる。
「だからボスの部屋に出入りしてる人間なら、全員がね、貴方のこと知ってるよね」
「だけど、家に遊びに行ったら突然いなくなってるし、び、びっくりしちゃって」
 背後からファウストの声が聞こえる。
「いやもう全く慌てふためいたよ! あんまり慌ててたもんで、もうちょっとで細菌兵器のボタンとか押しちゃいそうだったんだよ!」
「ほらだいたいこのようなね、調子だから」
 シオンが視線でファウストを指し示す。広瀬は振り返る。残念な気分になる。
 二人に見つめられたファウストは、え、みたいな、何、みたいな、中途半端な笑みを浮かべて、もじもじ、とする。
「あのー、ヒロセクンは、これから、ここでやるお芝居とか、見るのかなあ」
 そして、ちら、ちら、と広瀬のことを窺う。「だ、だったらボクも見てみようかなあ」
 何言ってんだコイツ、というか、何だこの奇妙な昆虫、というか、そんな気分だった。好奇心をそそられつつも、不気味に感じる。
「だけど、どうしてこのお芝居見ようとしたの? この劇団、好きなの?」
 のんびりと言われて、広瀬は、ハッとする。知り合いの女性を思い浮かべる。
 右隣のシオンを振り返った。どうか彼女のことは言ってくれるな、と思う。無造作な髭を生やしたオジサンは、人が良いのか、人が悪いのか、良く分からなくなるような顔でほほ笑んでいる。今度は、ファウストを見る。
「ねえヒロセクン、この劇団、好きなの?」
 赤い瞳が横目に広瀬を見る。魂胆があるのか、ないのか、青白い顔を見ているだけでは分からない。けれど、実はもうシオンとの会話を盗聴器か何かで聞いていて、とぼけているだけという可能性はある。可能性というかむしろ、今までの展開を考えてそれくらいならやりそうだ、と思う。
「え、いやどうなんですかね」
 他人事のような顔をして、小首を傾げる。
 むしろ、シオンとかいう男から、もっとずっと前から報告を受けていて、既に彼女のことを突き止めている可能性すら、あった。芝居をブチ壊しちゃおうかなあ、とか、マイルドに企みそうだから、怖い。とか何か、急性の人間不信になりそうになる。
「ここに居て、いいんですか」
 不意に右頬の後ろからぼそ、とささやかれ、ハッとする。「どうなるか、分からないけど」
 まあ、私は別にどうなってもいいんだけどね、とでもいうような口調で、やっぱり、人が良いのか悪いのか、聡明なのか馬鹿なのか、良く分からない顔で言う。全てを見透かしているようでもあるし、それは助言のようにも、嫌味のようにも、聞こえる。決められた台詞を話しているだけのような、義務感も、見える。
「あ、人が出てきた!」
 するとファウストが弾んだ声を出して、言った。
 広瀬ははじかれたように劇場の入り口部分を見た。スタッフなのか俳優なのか、若い男子がひょっこり出てきて、扉にかかったプレートをオープンに変えている。三人の姿を興味もなさそうにちら、と見ると、また中へと戻って行った。
「さあ、じゃあ、行こうかあ!」
 聞きようによっては何かを企んでいるかのような声でファウストが言う。勢い良く立ちあがる。これはだいぶ白々しいんじゃないか、と疑う。
「あ」
 広瀬はぱん、と手を打った。自分でやっておきながら、これもまた、白々しいな、と、ちょっと内心で照れる。
「え?」
「場所、変えませんか」
「え」
 ファウストはきょとん、としたような顔をして、広瀬を振り返る。「いいの」
「まあ、そんな見たいわけでもなかったから」
 こんな不審人物達を連れて、心配しながら芝居を見るくらいなら、見ない方がまだいい、と思う。
「ああ」
 するとファウストは、随分と奇妙な表情をした。困惑を取り繕ってはいるが、喜びが滲み出ている。そんな表情だ。「そうなんだ、じゃあ仕方ないね」
「あれ、今ちょっと嬉しそうじゃなかったですか」
 広瀬はすかさず指摘する。
「いやそんなことはないよ」
 清々しいほど丁寧に、ファウストは否定した。珍しく、はっきりと喋った。毅然とした空気すら感じるほどだった。この人物が毅然としていたことなど、これまで一度だってあっただろうか。益々、怪しい。
「あやしいな」
「疑り深いなあ、ヒロセクンは」
 気障ったらしい仕草で両手を広げ肩を竦めて見せたファウストは、また、ベンチの隣に腰を下ろす。
「いきなり監視されてるとか言われるんですからね、そりゃあ疑り深くもなりますよ」
「だけど、芝居を見ている時に面倒なことが起こるのもね、嫌なんだよね」
 そこでシオンが、まるで芝居を見ている時の観客の態度についての感想でも述べるかのように、口を挟む。「その場合困るのは、君だけじゃないし」
「いやだなあシオンクン、それ、何の話だい?」
 何だこの小芝居は、と、広瀬は最早、二人のやり取りが、胡散臭い芝居にしか思えない。誘導されているような気がするぞ、と思う。かと言って、劇場の中で珍行動でもされたら、誰かに迷惑がかかる、というのもあるが、何より自分が困るに決まってる。もう、外を歩けなくなったりしたら、絶対、困る。
「さてどうしましょうね」
 シオンが、試すように呟く。
 広瀬は、自分よりは腕力のありそうな二人の長身に囲まれ、ちょっと、途方に暮れる。



 宮本はスケッチブックを小脇に抱え、歩いていた。
 夕暮れを前にした村の風には、微かに調味料のような匂いが混じっている。醤油やみりんや砂糖を煮たような匂いが、遠くの方から微かに漂ってくる。顔も知らないような人の生活を感じる。そこには自分の知らない素敵な物語があればいいと夢想する。そういう時宮本は、絵を描きたい、と思う。
 腰掛けて絵を描くのに相応しい場所を探した。
 ぼんやりと歩いていると、ふと、視線の先を見覚えのある人が歩いて行くのが見えた。紫色のカッターシャツと、黒のパンツに身を包んだ、赤い髪の男性だった。レディ・ファウストだ。隣に立つ、それよりは幾らか小柄な男性を、更に隣の長身の男と共に、間に挟むようにして、歩いている。
 何となく興味が沸いた。面白いことがあればいいな、とそういう気分だった。場所探しをほっぽって、そのあとを着いて行ってみることにする。



「であの」
 広瀬は自分の両脇に立つ長身の男達を見上げた。「これ、何処に向かって歩いてるんですかね」
「そうねー」
 ファウストがくねくね、と近づいてきた。「私は今いらんことを考えてます」という顔をしているぞ、と警戒してたら案の定、そっと左の手が触れてきて、広瀬はハッと手をひっこめた。
「いや手は繋ぎませんよ」
「う、うふふふ」
 と、そんな茶番を見て、シオンがウヒヒ、とか何か、変な声をたてて笑う。
 何だこれは、と思う。
「あのー。こうやって歩いてるとこ、あんまり人に見られたくないんですけど」
「目的地は決めてないんだなあ。ヒロセクン、何処行きたい?」
「できれば何処にも行きたくありません」
「あ、じゃあ、帰る?」
 ファウストはそこで、ニヤニヤして、ちらちら広瀬を見た。「ひ、ヒロセクンちに」
「ここで解散するっていうのはどうですか、現地解散ですよ、現地解散」
「そういえばこの近所に、MASAの研究施設がありますね」
 シオンが口を挟む。
「ああそうね、そうだったね!」
 白々しくもファウストが同意する。何だこの小芝居、と広瀬はまた思う。だいたいボスのくせに施設のことを忘れているわけがなく、忘れているのだとすれば、よほど間抜けだ。
「研究、施設ですか」
「でもほら、そこなら、他人に見られること、ないよ!」
「そうだそうだ。貴方は人に見られたくないんだよね、私達と歩いているところなんて」
「そうだね! じゃあ仕方ない! 研究施設に行こう! そうしよう!」
「いや、いいです」
「え」
「いや、そこはいいです、行きたくないです」
「あのほら、あれだよ、いろいろあるよ! 面白いものとか、じ、人体模型とか!」
「興味ありません」
「泡の出るお風」
「興味ありません」
「あの何かそうだな、えーっと、き、機械」
「いや何でやたらそこに連れてこうとするんですか」
「そ、そんな」
 ファウストは、思い切り引き攣った笑みを浮かべた。「そんなことはないよ」
 いやめちゃくちゃ引き攣ってますやん、と思う。
「絶対、行きません」
「し、シオンクン、シオンクン」
 ファウストは横目でちら、ちら、とシオンを見る。指示を与えているのか、駄々をこねているのか分からないけれど、「あ、はいそうですね」と、シオンが頷き、広瀬を見る。何だったら力づくで連れ去っちゃう? とか言い出しそうな、危うい面倒臭さが、見える。気がする。
 思わず、後退る。どん、と背中に何かがぶつかり、振り返る。ファウストの青白い顔が間近にある。
「ひ、ヒロセクン」
「な、なんですか」
 耳元に、ファウストの息が吹きかかり、ぎょっと身を剥がす。けれど、向かいからシオンがにこにこ、と迫っているので逃げ場がない。
 あれ? これって実は物凄い危うい状況ですか、とちょっと、焦る。
「研究施設にね、行くべきだね」
「だ、大丈夫だよ、ヒロセクン、い、いた、痛くしないから、痛くしないから」
「いや、いやえ? 何え? ちょ、ちょと待ってちょっと待って!」
 やばいやばいやばい、と身を竦める。じりじり、と後退りしながら、唐突に出来た自分を覆う二人の男の壁の間から、抜け出す方法はないか、と考える。シオンの手が、腕を掴んだ。ひい、と情けなくも悲鳴を上げそうになる。背後から両肩を掴まれた。服越しでも冷たさが伝わってくるような感触に、背筋が粟立つ。
 え? 何、どうしたらいいの、と、泣いていいのか笑っていいのか、広瀬は混乱する。
 と、そこで。
「こんにちは」
 と、若い青年の声がした。
 三人の動きが、パタ、と瞬間的に止まる。それぞれが、顔を上げ声の主を見た。
「ファウストさんですよね、こんにちは、宮本です」
 この異様な状況を見ても、特に何も感じないのか、宮本と名乗った青年は屈託なくこちらを見ている。
「あ」
 この悲劇は、他人にとってたらきっと喜劇だ、とか、ぼんやり思っている広瀬の頭のすぐ上で、何処か間の抜けた声が呻く。


「い、いやだからね」
 正座しながらぼそぼそと言うファウストの頭を、腕を組んだ格好の広瀬は、ジロリ、とねめつけた。
「なんですか、聞こえません」
「い、いやだからね」
 相手の機嫌を窺うかのような表情で、ファウストが広瀬を見上げる。
「っていうかむしろ聞きたくありません」
 あの後、青年の乱入で救われた広瀬は、彼らが挨拶を交わしている隙に、職場の病院まで逃げてきた。出来れば金輪際関わりたくないなあ、くらいの勢いだったが、まあ無理だった。
 病室のベッドを背にし、二人が正座している。
 ファウストは、その場の空気をうやむやにしようとしているのか、それとも人の神経を逆撫でしようとしているのか、うへへへへ、と笑う。「こ、怖いなあ、もう、ヒロセクンた」
「笑うな」
 叱りつけると、隣で緊張感なくのんびりと正座をしていたシオンがヒヒ、と薄気味悪い笑い声を立てた。
「し、シオンクンシオンクン、笑っちゃダメだよ、あれだよ、ヒロセクンがお、怒るよ、うひひひ」
「そうですね、笑っちゃダメですよね、怒られてるのに、ゲヘヘへ」
 馬鹿だ、と思う。二人して、馬鹿だ。
 広瀬は何だかもう、がっかりとした気分で座りなれた回転椅子に座る。無駄ですよね、こいつらに怒ったって無駄ですよね。と、絶望的に今更だけど、思う。
「お、怒ってる? ヒロセクン」
「もういろいろ怒り過ぎて、だんだん何に怒ってるのか分からなくなってくるくらいには、怒ってますけどね」
「ご、ごめんね」
「まあボス、ここは説明を続けた方がいいんじゃないんですかね」
「いやもう説明とかいいんですよ、帰ってくれたら」
「まあまあ聞いてあげたらいいじゃないの」
 いい加減な教師のような口調で、シオンが口を挟んでくる。そして「さあ、ボスどうぞ」と、保護者のように手を差し伸べる。お前は一体何を保護しているのだ、と指摘したくなる。それって保護すべき種類なんですか、保護必要ですか? 保護すべきものを間違ってないですか?
「う、うん。だからね、あの、さっきの子はね。何か、うちの絵画部門の人達が面倒を見ていた子でね」
 こんな胡散臭い団体に、人の面倒を見るということができるのだろうか、と広瀬は疑問に思う。
「何かボクには分かんないんだけど才能っていうの? あるらしくて」
 まだ見ぬ新種の昆虫の能力を語るかのようで、どんなけ無責任な長なんですか、と呆れる。「だけど、何か。芸術家って難しいんだよねえ。才能あっても、描けないとかあるらしくて。良く分かんないんだけど苦悩するっていうの? それで一ヶ月くらい前かなあ。全然描けなくなっちゃった」
 残念でした、とでもいうように肩を竦める。「ボクとしてはまあ正直、それならそれで良かったんだけど」
「いやもうとりあえず、絵画部門とかやめて星に帰った方がいいですよ」
「だけどあの子が何も考えずに絵をが描けたら素敵なのにな、って言ったもんだから」
 頬にか痒みでも感じたのか、ぼりぼり、とかく。「だから、二つに分けたら上手くいくかなって思ってね」
「はあ」と広瀬は一旦相槌を打っておいて、「え?」と疑問を感じ顔を上げた。
「いやだからね、描きたいと思ってる彼と他のこと考えて彼のこと邪魔する彼を二つに分けたら上手くいくかな、って思って」
「え? 何言ってんですか? 二つに分ける?」
「そう。一人の人を二つに分けちゃうの」
 広瀬は、目の前に座っているファウストを、何だコイツ、みたいな目で見つめた。
「いやだからね、一人の人を二つに」
 シオンがむしろ若干身を乗り出した感じで口を挟んだので、「いや聞こえてますよ」と冷たく言う。あ、そうですか聞こえてるんですか、だったらいいですよ、くらいの調子で、引き下がった。いや聞こえてるかどうかの心配だったんですか。
「そんなこと、できるんですか」
「できるよ、MASAだもの」
「え、そんなことできるんですか?」
「できるよ、MASAだもの」
 ファウストには冗談や誇張を言っている素振りはなく、広瀬は唖然とする。本気で言ってるならば、よっぽど凄いかよっぽど頭がおかしいかのどっちかで、この目の前の男がよっぽど凄いのも、よっぽどおかしいのも勘弁して欲しい身としては、その話がただの冗談であってくれるのが一番、良かった。
「ぼ、ボクって凄いでしょ、驚いてるでしょ、何だったら惚れてくれてもいいんだよ」
 ファウストがちらちら、と上目づかいに広瀬を見る。何のアピールなんだ、と思う。うわあと不味い食事にあたった人の表情で、顔を背ける。むしろ、よっぽど凄い科学者かよっぽど頭のおかしい人間かのどっちか一方ということではなく、その二つは紙一重で混在しているのではないか、と気付く。
「へえそうなんですかー」とかとりあえず棒読みで言って、「もう何でもいいですけど」と、続ける。
「その薄気味悪いサイエンスの矛先を僕にだけは向けないで下さいね」
「わ、分かってるよ、もちろんだよ!」
 慌てた様子でファウストが言う。隣のシオンがヒヒヒ、と例のごとく人を小馬鹿にしたような笑い声を立てる。
「え」と、広瀬は目ざとく、反応した。「何なんですか、何企んでるんですか」
「し、シオンクン、わら、笑っちゃダメだよ! 君の笑いはいろいろ含みを感じさせるんだよ!」
「ああすいません」
「え、まさか、何か考えてるんですか」
「いやまさか何も考えてないよ!」
「いや明らかに何か企んでますよね」
「た、企むだなんて、企んでないよ」
 そしてそういえばこいつらは、やたらと自分を研究施設に連れて行こうとしていたではないか、と思い至る。
「え、シオンさん、コイツ何考えてんですか」
「こ、コイツとか呼ばれちゃった、グフフフ」
「うわどうしよう、え、これって逃げていいんですか」
「逃げたら追いかけるけど」
 にこにこ、とシオンが言う。「それでもいいなら、いいよ」
「い、いやだ、どうしようどっちも嫌だ」
 あんまりのことに広瀬は、ちょっと笑ってしまう。
「まあ絵に興味なんてないボスがね、どうしてそもそもあの宮本という青年を助けたか、なんだよね」
 また例の人を教え諭すような口調だった。「実験っていうか、ほら最初から君で試すわけにもいかないからね」
「え?」
「いやだもうシオンクンたら言っちゃうんだから、参ったなあ、ウヒヒヒ」
「笑うな!」
「妄想」
「え? 暴走?」
「まあボスの妄想なんだよね」
「え? 何言ってんですか?」
「いやだからさ、ごめんね。まあボクは科学者だからね。思いついたら止められない、みたいなところがあるんだよね。執着というか粘り強さが科学者には大事だと思うんだよね。妄想と執着と愛情だよ」
「いやもっと他のことを大事にした方が」
「例えば?」
「道徳とか常識とか」
「ウヒ、ウヒャヒャヒャヒャ、ヒロセクン、ヒロセクンたら可愛いこと言うんだから」
「シオンさん。コイツは保護すべき動物ではないですよ、むしろ害虫ですよ、害虫」
「が、害虫って呼ばれたグヘヘヘヘ」
「害虫でも、ボスだしねえ」
「どんな妄想か、聞きたい?」
「聞きたくない」
「ヒロセクンを二つに分けてね」
「聞きたくありません」
「ボクのことだあい好きな可愛いヒロセクンと、ボクを苛める意地悪なヒロセクン」
「分けてないし」
「ん? 何?」
「いや好きなヒロセクン、居ませんよ」
「ん? 何?」
「いや、好きだなんて言うヒロセクン、居ませんよ、大丈夫ですか、好きだなんて言うヒロセクン何処にも居ませんよ、分かってますか」
「またまたヒロセクンたら意地張るんだから」
「しかも多分貴方を嫌いなヒロセクンは、他のこと全部取っ払ってしまったら貴方を殴り殺すかと」
「大丈夫。ボクは分かってるんだよね。ヒロセクンはね、本当のところボクが好きだけどそう素直になれなくてだね、何も考えずにぼ、ボクの胸に飛び込んでいけたら素敵なのにな、と思って、だね。ウヒヒヒ。そんなヒロセクン、ボク、困っちゃう」
 恍惚とした目で体をくねらせるファウストが、何かを撫でるような仕草をする。そこに一体何が見えてるんだ、と思うと、ぞぞぞ、と背中に悪寒が走る。考えない方がきっと幸せだ、と判断する。
「利害と理性と常識ですよ」
 言っても無駄だと思うけれど、思わず、呟いた。「いろいろ混在してるから辛うじてここにいるんですよ、割り切れたらここに居ませんって。後々面倒臭そうだから、ここに居るだけなんですよ」
「まあ、人なんて皆そんなもんだと思うけどね」
 それまでぼんやりと事の成り行きを見守っていたシオンが頷く。
 ファウストが聞いていたかどうかは、知らない。



 赤と白の模様をつけた金魚が、透明な水の中をひらひらと泳いでいた。
 幾つもの金魚蜂が、白い壁の中に埋め込まれていた。規則性がありそうでいて、無規則のようにも見えた。思いつきで、所々に置かれたようでもあるのに、それらは調和し、バランスを取っていた。
 照明を落とした店内で、その一角だけがライトアップされている。
 百合子は、テーブルの上に頬杖を突きながら鉢の中をゆらゆらと漂う金魚を眺めている。食後に運ばれてきたコーヒーの香りが、呼吸に合わせて鼻腔を刺激していた。金魚といえば生臭い魚の匂いというイメージしかなかったので、変な気分だった。あそこで泳いでいる金魚は、魚類というより絵に近い。そう思った。
 コーヒーを口に運ぶ。苦味が口腔の奥の方を突く。テーブルをはさんだ向かいに座る宮本を見る。宮本は、百合子のことを見つめていた。ただ見ている、というよりは観察している、というような表情に近い。興味のある対象の生態を調べようとしている学者のような顔つきだった。
「あの、何ですか」
「何がですか」
「何がですかって、めちゃくちゃ見てますよね」
 カップを置いて両手をすり合わせる。「あたしのこと、さっきからめちゃくちゃ見てますよね」
「見てますかね」
「見てますね」
「そうですか」
 気のない相槌を打ち、今度は宮本がカップを口に運ぶ。「じゃあ、興味があるんだと思います」
「どういう風に」
「それが分からないから興味があるのかもしれないですね」
「さっき、僕を探すのに役に立つかもしれない、って言ってたじゃないですか」
「言ってましたかね」
「言ってましたね」
「そうですか」
 使われないまま放置されていたスプーンをもてあそぶようにして、宮本は小首を傾げる。「じゃあ、その時はそう思ってたんじゃないですかね」
「それってつまりどういうことなんですか」
 さあ、とでもいうように小首を傾げた宮本は、暫く、黙った。それから、徐に言った。
「自分だと許せないけど、他人がすると許せるってあるじゃないですか。むしろそれが心地よくすら感じるっていうか、同士を見つけたような許された気分になること」
「はあ」と百合子は頷いて、「でもでも」と、声を上げた。「あれですよね。その逆とかもありますよね。親近憎悪っていうんですか。明らかに自分と同じようでも、いやだなあ、この人と同じと思われたくはないなあ、っていうの」
「ああ、そうですか」
「何で笑うんですか」
「いや、僕の奴もそう言いそうだなあ、と思って」
 宮本は、そう言って、また笑う。はにかみつつも苦笑するような、穏やかな表情だ。百合子はその表情をぼんやり眺めて、小首を傾げた。「思ったんですけど」
「何ですか」
「貴方って結構、僕の話しかしてませんよね。まるで、僕が恋しいみたいに」
「え」
 と、驚いた顔が言った。「そ、そう見えますか」
「見えますね」
 病状を報告する医師のような顔で頷いてカップを口に運ぶ。
「だいたい、折角別々になったんだから、この際、一人だけの僕を満喫してみたらいいんですよ」
「まあ」
 そんなことは考えてもみなかったとでもいうような表情を見せ、宮本は呻いた。「そうなんですけど」
「そうですよ」
「で、でも気になるから」
「嫌いとか言って本当は好きなんじゃないんですか」
 試すように言うと相手が固まった。戸惑ったように眉をひそめ、目を背ける。
「確かに、大事では、あるんだと思います」
 世にも恥ずかしいことを告白するように、しぶしぶ、頷く。
「まあ誰だって自分は大事だと思いますけどね」
「だけど、好きじゃないから、困ってるんです」
「つまり?」
「大事だけど、好きじゃないんです」
「はあ」
「心配だけど、嫌いなんです」
「絵を描くこと以外、何も出来ないから?」
 そうなんですけど、と頷いて、宮本は更に続ける。「凄く、脆いような気がして。そして多分、弱い。それしか出来ない人間なんて、世の中生きていけないですよ」
「だからこそ成功する、という例もあったりするんじゃなかったですっけ」
「僕も他人のことだったらそう言いますけどね。それしかないから、それが無くなったり否定されたりした時、僕の奴は多分、壊れてしまうんじゃないかって、思うんです」
「確かに、自分で思うほど自分って出来ない奴だなあって感じる時、あるんですけどね」
 腕の痒みを爪先で鎮めながら、続ける。「けど自分で思うほど自分って弱くないんじゃないかという気がする時もあるんですよね、これが。なんだ、もうちょっと信頼してもいいんじゃないか、無理させてもいいんじゃないかって」
 宮本は、納得したような、してないような、曖昧な表情を浮かべ、まあそうなんですかね、と小首を傾げる。思い悩んでいるようにも、聞いた言葉を相手にしていないようにも、見える。カップを口に運ぶ。その動作につられるようにして、百合子もコーヒーを口に運ぶ。
 またコクのある苦味が、口腔の奥を突く。ライトアップされた壁に埋め込まれた鉢の中で、金魚が泳いでいる。
 そこで、ふと、店内を歩いてくる靴音が聞こえた。
 丁寧な対応だった店員達は、徹底した指導をされているのか、うるさいどころから微かな足音すら響かせなかったので、お客が入ってきたのだろうか、と何となく、見やる。
「時間ですよ、姫」
 テーブルの近くまで歩いてきた長身の男は、芝居がかった甘い声で言い体を折り曲げた。
「お迎えにあがりました」
 兎月原だった。



 黒い水面が、ゆらゆら、と光を反射させながら揺れていた。
 オレンジ色の丸い光で囲まれた、寺院らしき建物が、池の奥の方に見えている。少し泥臭く、冷たい風が、桟橋をゆっくりと漕ぎ出した小舟の上の二人の上を通り過ぎて行く。
 期間限定の、ライトアップイベントだった。従弟の廣谷俊久に話を聞いた時から、絶対来たいと思っていた。「でもしょぼい寺だよ」と彼はアドバイスをくれたが、そうは言っても何だかとっても幻想的で美しいに決まってるんだから、と、やみくもに思っていた百合子は、池の上に浮かぶようにして建っている建物を見て、思わず、噴き出してしまっていた。
 確かに、しょぼい。雑誌で見つけた温泉に行ってみたら、写真はうそつきだ、撮りようだ、と気付くような時の感覚と似ていた。この場合は、写真ではなく、限りなくただの妄想だったのだけれど。
 百合子と兎月原の他に、二隻ほど小舟が浮かんでいた。それぞれの距離は離れていたけれど、人の姿くらいは認識できる。一方は、二人連れで、一方は、スケッチブックらしきものを手にした人だった。一人でポツンと居る。アトリエ村なんだなあ、と思う。
「でもさ、まさか兎月原さんが、宮本って人を見てたとはね」
「でしょ、運命でしょ」
 モールから手を離した兎月原は、船の端に寄りかかるようにして、笑った。「元は一人だった人間に別々に遭うなんてさ、ちょっとないよね」
「彼、彼のこと見つけられるのかなあ」
「さあ」
「見つけたらどうなるんだろう。元に戻ったりするのかな」
「さあ」
「その時にほら、あたしのご高説を思い出して涙したりして」
「いや本当、百合子さんは凄いですからね」
 それまで興味もなさそうに相槌を打っていた兎月原が、芝居がかったように言って身を乗り出してきた。「何せこの押しも押されぬ高級出張ホストである私を、放置して待たせる上に、鼻先で振り回しちゃうんですからね」
「別に振り回してないって」
 百合子は面倒臭そうに、肩を竦める。「だってしょうがないじゃん。成り行き上さ」
「何が凄いってさ。それで許される百合子がっていうか、許す俺が凄いよね」
「いや結局自分かよ」
 と、わざとらしいくらいの呆れ顔を作る。「どんなけ自分好きなんですか」
「百合子の次くらいに好き」肩を突き出してくる。「なんてな、言わせんなよ」
「でもさ、自分が二つに分かれるってさ、何でそんなことになっちゃうんだと思う? すごい、不思議っていうか、ある日起きたら毒虫に変わってた、みたいに、ある日起きたら自分が二つに分かれちゃってたんかな、びっくりだよね」
「あれ、俺の告白、無視ですか?」
「兎月原さんは二人とも見てるんだもんなあ。でもまあそうだよね。正直、二つとも見ないと本気で信用なんてできないとこあるもんね。ああ何か惜しくなってきた」
「あ、無視なんですね」
「あたしも見とけば良かったかも。同じ顔二つ並んでるの見られる機会なんてきっとないのに」
「だったら探すの、手伝ってあげたら良かったじゃん」
「まあ」
 そこで百合子は少し、居心地の悪そうな顔をする。「まあそうなんだけど」
「ねえ、そういうとこあるんだよねえ」
「何そういうとこって」
「面倒臭いんでしょ。実は口で言うほど上がってないでしょ」
「ばれた?」
「ばればれだっての」
「まあ、何を言っても結局のところ、彼は彼であたしではないのだし」
「他人のことなんてどうでもいいし?」
「それもある」
 百合子は照れたように笑う。「だよな」兎月原も笑う。顔を見合わせて、はにかむ。船が、微かに揺れる。

「ねえ」
 兎月原が不意にゆっくりと寝転がり、百合子の膝に頭を預けながら、甘えるよな声を出した。「じゃあさ、また昔やってた仕事の話してよ」
「えー」
 百合子は何が面白いの、と、顔を顰める。「また?」
 兎月原は時折そうして、百合子の昔の仕事の話を聞きたがった。その人生のほとんどの時間を、ホストというある種特殊な世界にのみ費やしてきて、そしてこれからもまた費やしていくことになるだろう兎月原にとっては、ありきたりで平凡な日常の人の営みの話が、興味深く面白いから、らしかった。
「こんな、ロマンチックな夜なのに?」
「こんなロマンチックな夜だからだよ」
 そうだなあ、としぶしぶ百合子は小首を傾げる。小さな運送会社の事務をしていた時の話をすることにした。余り自慢にはならないが、経験した仕事の数なら多い。その中でも何度か話題に出した事のある会社だったので、兎月原は「あの面白い社長が居るところだ」と、目ざとく指摘してきた。
「そう、オモシロ社長」
 その人物を念頭に浮かべる。百合子よりは若干年上だったが、まだ三十代の半ばくらいの、若い社長だった。いわゆる二代目、というやつで、やたらと声が出かかった。勢いがあり威勢は良いが、勇気と知性が見つからない。従業員の文句なら年がら年中言っているが、注意や警告、指導や指摘をする姿は一度だって見たことが無かった。女の腐ったような、という形容詞があるけれど、あたしを腐らしてもあんなに面白くはならないですよ、と辞退を申し出たくなるような人物だった。
「そういえば、ミスをしたんだよねあたし」
 その会社のことはいろいろと話した気がするが、当時を思い出し、ふとこれはまだ話してなかったな、と思い当たった。
「そうなんだ」
「何か、お金のかかるミスだよ。致命的なね。よかれ、と思ってやったことが、良くなかったんだよねえ。あれは本当参ったよ。すぐ社長に報告したよ。隠すのとか性に合わないから。あたしのミスだしさ。怒られるのは、覚悟してたよ」
「当てようか」
「何を」
「怒ったの、社長じゃなくてあの子だろ」
「そう、あの子なんだよねえ」
 百合子は続けてその女性の事を思い出す。毎日美しく化粧を施していた、小柄の女性だった。勤続年数がとにかく長く、気が強く、何事に置いても自分が一番だと信じて疑わないような人だった。社長に代わってあらゆることに口を出し、あらゆる人に恐れられ、その権力を喜んでいるようなところがあった。根性と色気はあったが、誠実さと気品がなかった。
「出てきた出てきた。俺、結構その子好きなんだよなあ。単純で、分かりやすくていい。しかも可愛いなら、文句ないね」
「男って」
 百合子は白々しく作った軽蔑の眼差しを向ける。「むしろ単純」
「それで何て怒られたの」
「うーん、あんま良くは覚えてないんだけどさ。俺はそんな指示出した覚えないって言ってましたからって言われたことは覚えてるなあ」
 そこで言葉を切り、むくれたように唇を尖らせる。当時の不本意さが甦るような気分だった。「いや確かに出されてないけどさ。それはむしろ、いつも出してないんだって」
 兎月原は、ぷ、とふきだした。笑うな、と頬を引っ張る。
「でもそれでもまた次の日も普通に、出勤するんだよねえ」
「もう辞めてやる! とかにはならないんだ?」
「ならないよねえ」
「そうなんだ」
「何か、仕事ってさ、前菜っていうかさ。凄い好きなメインを食べる前の前菜って感じで。まあやっつけますかっていう気分で臨むんだよね。でそれがたまに、あんまりにも不味かったら、後引いて大好きなメイン食ってても影響出たりして。でも、そんなこともそのうち、忘れちゃうんだよね」
「えー。従業員のそんな本音を聞いて社長の俺はどうしたらいいんですか」
「さあ、どうします? クビにとか、しときますか?」
「可愛くないなあ」
 両手が伸びてきて、兎月原の指先が頬を引っ張る。「可愛くない」
 痛いって、とその手を払う。
「今は違うって、とか、素直なこと、言えないわけ?」
「まあその本音がそもそもないですし」
「ああそうですか」
 と拗ねたように目をすわらせる兎月原を見て、くすくす、と百合子は含み笑いを漏らす。寝転んでいる美貌を、何となく眺める。鼻筋を、指でなぞる。
「兎月原さんのところに来るまでは、きっとあたし、目を閉じてる感じだったからね」
 小さな声で呟く。
「ん?」
「はい、話、終わり!」
 パン、と手を叩いて、兎月原の頭を引き上げた。「膝枕、代わって」
「えー」
 不服そうな声を出して起き上がった兎月原が「何もう終わりなわけ」と文句を垂れた。
「終わりだよ。何でも終わりがあるんだよ。交代だよ、交代」
「えー。もう、しょうがないなあ」と嫌そうに膝を差し出す。
「今度は兎月原さんが話す番だからね」
「えー」
「高級ホストの武勇伝。珍場面ベストテンいってみましょう」
「またかよー」
 苦笑した兎月原の手が、百合子の頭を撫でる。膝に鼻先をこすりつけるようにしてしがみつくと、小舟がまた、小さく揺れた。
























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】
【整理番号3787/ RED・FAUST (レディ・ファウスト) / 男性 / 32歳 / MASAのBOSS(ゾンビ)】
【整理番号3356/ シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい) / 男性 / 42歳 / 紳士きどりの内職人+高校生?+α】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。