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【太陽と月に背いて 後編】
この面の何が気に入ってるって、爪が可愛くなる所が良い。
翳した指先の普段は桜貝のような爪は、今は長く伸び、キラキラと薄青いラメを塗したような輝きを放っている。
雪女の指先。
真っ白な、雪より真っ白な指先の青い爪がそっと、そっと、寝袋の中に収まる幇禍の頬を撫でる。
冷たい、冷たい、幇禍の頬。
鵺が目を細めれば、その指先に凍てつく冷気が纏わりつき、完膚なきまでに幇禍を凍りつかせる。
例え僅かな綻びでさえ、この不死身の体は察知し復活を遂げる。
生半可な能力しか行使できない身の上ゆえに、用心に用心を重ねていた。
もし、彼の身体の、ほんの僅かな箇所でさえ、蘇り状態に突入すれば目覚しい勢いで再生される細胞に、鵺の持つ力は追いつく術を持ち得はしない。
周到に、周到にお膳立てを整えて迎え撃って、漸くからくも勝利を収められた。
もし、今、幇禍が復活を遂げようものなら、何が起こったか分からないままに、きっと息の根を止められる。
「そーいう訳にはいかないのよねん」
だって、自分を待ってくれてる人がいる。
心配してくれてる人も。
大事に思ってくれてる人だって。
倫理も、道徳も、今更したり顔で、分かった振りをする程、恥知らずではないが、少なくとも、いつ死んでもいいなんて嘯く気にもなれなかった。
幇禍を取り戻す。
二人で笑って生きていく。
それが、これまで鵺を愛してくれた人達に対する、最良の恩返し。
「一緒に帰るの。 一緒に」
呟いて握り締めた幇禍の掌は、氷の如く冷たい。
用心して凍らせ、彼の命を奪い続ける事。
それが、今、幇禍に対して示せる唯一の鵺の愛情表現。
いつか今日という日を笑って話し合える未来の為に、鵺は、凍りついた幇禍と共に、彼に課せられた呪術の源を探るべく、彼の出身地でもある中国の地へと向かっていた。
幇禍のルーツを辿ると一言で言っても、中国大陸は広く、手がかりと言えるものなど何も無い状況からすれば、それは途方も無く困難な目論見である事は容易に想像がつく。
だが、鵺には予感があった。
きっと、鵺と幇禍の対決の結果とて、全て知り得ているのだろう。
「神様」
脳裏に浮かぶは、幇禍と同じ顔した派手な男の姿で。
「せめて、今回くらいは鵺を導いてよ」なんて、戯れに呟いてみる。
だが、確信すらしていた。
彼は来る。
機は熟した。 決着もつけた。 覚悟も、とっくに決めている。
待つだけなんて症に合わないから、こうして向こうの本拠地に乗り込んでやろうとしているのだ。
ここまで自分がしてのけて、向こうも無視を決め込むなんて出来やしないだろう。
あとは、時が来るのを待つだけだ。
ゴオオオオ…と低いエンジン音が鼓膜を揺さぶる。
丸い窓の外を見下ろしてみれども、眼下広がるのは白い雲ばかりだ。
神様は、どんな御伽噺でも、いつも空の上にいた。
義父のコネクションを駆使してチャーターした飛行機に乗り込み、上空1万メートル以上の高みから見下ろす世界は退屈極まりなくて、もし、こんな世界ばかりを見ているのなら、成る程、暇を持て余すに違いないと鵺は確信した。
幇禍と自分に纏わる物語は、滅多とお目に掛かる事の出来ないような、物珍しい出来事の連続で、鵺は退屈をこの世の中でもっとも嫌うものだから、自分はそういう意味では運が良いなんて強がるように思ってみせる。
過酷な運命も、苛烈な出生の経緯も、今のスタンス全てが、刺激的な出来事を鵺に齎してくれていて、だから、今回の出来事だって全てが終われば、自分は、これまでと同じようにただ、愉しい事を追い求め、笑って生きていく事を決めていた。
楽しかったでしょ? 神様。
私と幇禍君との物語。
楽しくなかったなんて言わせない。
人の思い通りになんて一度もなった事はない。
一度だってだ。
従うのは、自分の意思、ただ一つきり。
誰にも左右されずに生きてきた。
だから、どの瞬間だって、大事に楽しく、面白おかしく過ごせてきたって胸を晴れる。
面白い人生だよ。
鵺は、そう振り返る。
面白い人生だったさ。
頷いて、幇禍の手を握り「そうでしょ?」と、問いかけてみる。
神様の退屈だって、随分紛らせてやった筈だ。
そろそろ、御代を払ってよ。
大したものは強請らない。
ただ、この人を……
鵺は幇禍の頭をくしゃくしゃっと、万感の思いを込めて撫でる。
自由にして。
タラップから降り立った時に、鵺の鼻先を霞めたのは、嗅ぎ慣れない強烈な香辛料の香りだった。
空港から、ひとまず発狂運輸を使って、義父が経営に関与している中華飯店へとクール便にて幇禍を送る。
流石というべきか、間違いなく非常識で、とんでもない荷物であろう幇禍を平気な様子で運んでいくスタッフの後ろ姿を見送りつつ「手広くやってんのねぇ…」なんて、海外進出を果たしていたらしい運送会社の経営者を思い浮かべて呟いてみる。
中華飯店が、冷凍肉等の保存に使用している冷凍室にて、幇禍を一時預かってもらう手筈になっていた。
鵺は、取り扱いに慎重さと、緊張感を強いる運搬物からとりあえずは解放された安堵感に、うーんと一つ伸びをして、「お腹空いた…」と思わず漏らす。
思い起こせば、昨日は一日、対幇禍戦の準備に追われ、睡眠はおろか食事も、流動食等の簡単なもので済ませてしまっていた。
空港のロビーを振り返れば、近頃の空港は、何処もかしこも、空港内で待ち時間が潰せるよう様々な施設が整えられていて、飲食スペースも驚く程に充実している。
暫し辺りを見回して「中国と言えば…」と思案するでもなく、鵺はフラフラと、「飲茶Cafe」と書かれている店に吸い込まれた。
「小龍包と、海老蒸し餃子。 大根餅も美味しそうかも…」
注文した点心が蒸篭に詰められて運ばれてくる。
ここでは、店内面積が然程広くないからであろう。
ワゴン式ではなく、伝票に予め記載されているmenuを幾つ注文するか、自分で書き込んで注文する方式が採られていて、流石空港内の飲食店というべきか、日本語での表記もされており、中国に堪能とはとても言えない鵺にしてみれば言葉に悩む事無く済んで、とても有難かった。
注文を終えて、足をぶらつかせながら、如何にも異国情緒溢れる照明器具の垂れ下がる店内を見渡す。
赤と黒と、金色の組み合わせで構成されている店内の様子は、日本で多く見られる落ち着いた色合いの装飾を見慣れた鵺の目には如何にも強烈に映ったが、この国では、多少海外からの観光客向けに、過剰を心掛けているとはいえ、これが一般的な飲食店での店内風景と考えて良いのだろう。
如何にも、異国に来たのだ…なんて実感をしみじみ味わってみようとするのだが、日本から二時間〜三時間程で来れる上海の地にて、知らない言葉で交わされる会話の嵐の中に佇んでいると、この気忙しい空気感に、落ち着くどころか、浮き足立つような心地を覚えてくる。
店のスタッフが慌しげな足取りで、鵺のテーブルに蒸篭に入った点心を並べ、温かな烏龍茶の入った急須を置いていった。
熱々の蒸し餃子を口の中に入れて頬張れば海老の風味が口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んだ。
暫く振りの食事は味をゆっくり味わうというような心境になれず、周囲の空気に急かされる様に、一口大の点心が鵺の口中に消えていく。
「んぐっ!」と、大根餅が喉に詰まりかけ、慌てて烏龍茶で飲み下そうとして、今度は、その熱さに目を白黒させれば「あーあー、落ち着けよ」と、隣から呆れたような声を掛けられた。
「…だって、昨日っから、殆ど何も食べてないも同然なんだよ?」
「にしたってよぉ、あー…手掴みで、お前…」と言いつつ、男は勝手に蒸篭の中から桃饅頭を一つ摘み上げて口の中に放り込む。
「んー、俺の知ってる店のが安くて旨ぇな。 連れてってやろうか?」
そう言いながら鵺に顔を向ける男に首を振った。
「いい。 鵺は、それよか連れてって欲しいとこあるし。 分かってるでしょ? 神様」
「蘇鼓」
「ん?」
「俺の名前だよ。 お嬢ちゃん」
蘇鼓の…、幇禍と全く同じ顔をした男の言葉に「そう」と頷いて、「じゃあ、鵺の事も名前で呼んで?」と言っておく。
突如現れた蘇鼓に、驚くような気持ちはもうない。
神出鬼没な存在であろう事は、気持ちの中に、織り込み済みだ。
蘇鼓も、鵺の反応に対し、さしたる感情も抱かなかったのだろう。
何事のないかのように、ズズズと烏龍茶を啜りつつ、「了解。 さて、鵺? 腹は詰んだか? 睡眠は取らなくて良いか?」と問うてくる。
おお、気遣われている…だなんて、目の前の、傍若無人な振る舞いが如何にも似合いそうな美貌を眺める。
やはり、蘇鼓は幇禍と身に纏う空気が違い過ぎていた。
幇禍の方が怜悧で、蘇鼓の方が奔放だ。
派手な店内に、蘇鼓の佇まいは如何にも似合っていて、彼の色彩感覚がこの国で培われたものであろう事を何となく察する。
「大丈夫。 それよりも、早く連れてって」
そう言いながら、手早くナプキンで口を拭って立ち上がった。
「もうこれ以上、待たされんのも、待たせるのもヤなの」
そう鵺が言えば「オーケィ、鵺。 んじゃ、行くか」と蘇鼓はニヤリと笑って告げ、その瞬間、鵺の意識は一瞬真っ白な靄に包まれたような空白に満たされた。
ほこほことした柔らかな毛の感触に頬を擽られていた。
「んー…」と小さく呻いて身を起こす。
冷たい空気に身を震わせれば、蘇鼓が鵺に上着を掛けてくれる。
髪を舞い上げる風が随分強く吹いている事に疑問を感じ、周囲を見渡して、知らず口を空けた。
「蘇鼓、蘇鼓」
「んー?」
「鵺ね、基本的には理解力って高い方だと思うの」
「そだな。 お前は、頭良いと思うぜ? 俺は」
「でしょ? そんで、適応力も高いの」
「そだな。 お前は、かなりメンタル強いと思うぜ? 俺は」
「その上、鵺って、洞察力もピカ一なのね?」
「そだな。 お前の眼力は、一級の才能だと思うぜ? 俺は」
「よーーし、よしよしよし。 その鵺パワーをね、今、三位一体として集結させて、鵺は蘇鼓に言いたいんだけど、お前、ナめとんのか、おんどりゃあ」
思わずそう言いながら、自分の背後に座っている蘇鼓の首を、ぐいっと締め上げる。
「起きる! 飛んでる! 虎の背中の上で! さぁ! どう?! 鵺じゃない女の子だったら、大変さ! アニメとかで見かけがちな、失神から目覚めて、気付いたら飛んでる?!なシチュエーションに、今! 鵺が真っ向勝負! ふっつーに、動揺して落ーちるーよねー?!!!」
そう叫びながらガクガク揺さぶる鵺に「いやいや、まぁ、落ち着きたまえ」と、突然の絞殺ピンチに、蘇鼓は蘇鼓なりに驚いたのか、口調が若干乱れつつも、鵺を何とか押し留める。
「どうしたって、一回は意識を奪わねぇと、連れてけねぇんだって! 住人だったらいざ知らず、お前は、普通の人間…ではねぇけど、とにかく鐘山出身でもねぇお前を、意識保たせたまま連れてこうとすんのは不可能なんだって!」
そう言われ、蘇鼓の首を掴んだまま鵺は「しょーさん?」と言い首を傾げる。
「幇禍と、俺の生まれ故郷だ。 行きたかったんじゃねぇの?」
そう言われるに至って、漸く蘇鼓の首から手を離し、それから背中の上で行われている騒動なぞ知らぬげに、悠々と空を飛び続ける生き物の背中に手を這わせる。
純白の羽の生えた白い虎なんて、御伽噺でも、そうそうお目にかからぬ生き物に溜め息をつき、「えーと…友達?」と問えば「おお。 幼馴染だ」と軽く答えられた。
うん、まぁ、それは許容範囲内…なんて、世間一般の感覚からは大いにズれている事も自覚しつつ、人外の生き物などは、とうに見飽きている鵺にしてみれば、「これは、そういう意味ではオーソドックスな友達よね?」とも考えてしまうあたりに、自分の見てきた世界の異常さを改めて振り返る。
「えーと、じゃあ、今更だけど…、蘇鼓と幇禍君の関係は何?」と聞けば、目を見開いて、鵺をまじまじと眺めると、「あれ? 知らねかったっけ? 鏡のねぇちゃんに全部教えて貰ってんじゃねぇの?!」と驚いた声をあげてきた。
「や、あのね、聞いてはいるんだけど、『鵺の聞いた事だけ』基本的に答えて貰ってて、蘇鼓の存在を知らない以上、聞きようがなかったんだよね。 だから、城で会った時は、びっくりしたっていうか…幇禍君のかみさまなんだろうな…とは分かったけど、出身地が同じとかさ、一体どういう事なんだろうって…まぁ、一応、確認したくて。 とはいえ、そんだけ見た目似通ってるから、大体想像ついてんだけどね」と言い、「や、お察しの通り、一応は兄弟だけど…」と蘇鼓に言われて、うんうんと、鵺は頷く。
「うん、これでやっとすっきりした」と言い、「その、しょーさんに一緒に行けば、幇禍君を助けて貰えるの? 二人のパパに」と問いを重ねる。
「おお。 俺が会わせようとしてる相手も、察せてはいたのか?」と、蘇鼓に問われれば「んー、だって、他に行き先ないっていうか…幇禍君の蘇りの際の様子を見聞きしてても、メサイアビルでの一件について色々考えても、物事全ての根っこは、幇禍君の出生にあるような気がしてたし、だとしたら、普通に両親訪ねるのが解決策の手がかりを求める方法としては一般的でしょ? とはいえ、人格形成的観点から考察するとパパとか、ママと暮してた人とは、到底思えなかったんだけど、まだ、ママはともかく、パパがいる可能性のが強いかな?って幇禍君の性質傾向から分析してね…」と鵺は言葉を並べ立てる。
「流石、流石」と手を打って、「ケケケッ!」と鳥のような声で笑うと、「まぁ、だったら、色々話が早ぇや」と蘇鼓は満足げに呟いた。
「他、知りてぇ事は?」
「幇禍君を自由にしてくれる?っていう、それだけ。 実のところ、他は別にどうでもいいよ。 幇禍君の口から聞かされる訳じゃなく、勝手にプライベート探るのって好きじゃないしね。 幇禍君を縛っているものから解放して欲しいのだけど、その縛っているものがある故に、幇禍君が幇禍君として存在しているのかも知れないし、鵺には、そこら辺の理屈は分からない。 色々相談させて欲しいの。 勿論、前提として鵺の願いに協力的であって欲しいという、希望的観測があるんだけどね」
鵺の言葉に、蘇鼓は「ふん」と鼻から息を吐き出して「つまんねぇな」と嘯く。
「何が?」
「もっと敵意剥き出しで来んのかと思った」
「やだよ。 そんな馬鹿な子になるの。 無駄な労力なんて費やさないに越した事はないでしょ? 鵺ね、どんな事しても、幇禍君を取り戻したいの。 どんな事をしてもって、どういう意味かって分かる? プライドとか、全部投げ出すつもりでいるし、どんな惨めな事も、みっともない事も受け入れるっていうのが、どんな事でもって言える事なんだと思う。 鵺が鵺らしくある事すら放棄する覚悟を決めたの。 そういう覚悟を決めることこそが、何より鵺らしい決意だと思えたから。 自分の気持ち云々よりもね、幇禍君が大事なの。 それだけ」
鵺がそう言いきれば、蘇鼓はまた、「ふん」と息を吐き出す。
見渡せば、水墨画の世界をそのまま三次元化したような、霧の掛かった細長い山々が連なり、眼下には黄土色の河が流れる風景が広がっていて、その内、圧倒的な迫力で聳え立つ大山が目に入り出した。
山頂が雲に隠れて見えない程の、高い、高い、険しい山。
「あれが、鐘山。 俺も、何百年かぶりだぜ…。 お前のせいで、顔出すハメになっちまった」と、まるで田舎の実家に帰るのを厭う、上京した学生の如き口を利きながら、「ちゃっちゃっと連れてってくれ。 オヤジも待ちかねてっだろ?」と、虎の背中を軽く叩く。
「後で、良いオス紹介してやっから」と蘇鼓が言えば、途端やる気が出たのか、虎は大きく頷いて、その瞬間、やけに、なんか、まるで、虎が重いものを咥えてて振り子の原理で、咥えいる物体が大きく揺れたから、虎の身体も揺らいだ…みたいに、背中が不安定な様相を呈したので、咄嗟に鵺はその背中にしがみ付き、まるで…じゃなくて、本気で虎が咥えていた物体を目にしてしまって、思わず、遠い目になった。
「ねぇ、ねぇ、蘇鼓」
「おう」
「キョンシーが…」
「おお」
「キョンシーが、蘇鼓のお友達に咥えられてるんだけど…」
「そだな」
「あー、うん、状況を整理させて貰っていいかな? じゃないと、鵺も、何から突っ込めば良いのか、ちょっと判断できないんだよね」
「おお、好きなだけしろ? 整理しろー?」
蘇鼓の言葉に、鵺は虚ろに、虎に咥えられている、額に赤い筆文字で何やら呪文が書き付けられている黄色い札を、雑に額に貼っ付けられている男の顔を見る。
それは、蘇鼓にそっくりで、すなわち、それは、幇禍だという事で、ご丁寧に腕まで前に両方とも伸ばされていて、何かの悪ふざけとしか思えない状態を晒している。
そんな幇禍が今、ぶらーん、ぶらーんと、寝袋ごと虎に咥えられたまま空を飛んでいるという状況に、何が悲しいって、命懸けで取り戻すために疾走している男が、クライマックスである今の時点にまで、漸く辿り着いて晒している姿が、キョンシー状態であるという事に他ならない。
「冷凍庫に転がってたのを、攫ってきた。 これから、どうしたって、こいつの身柄が必要だしな」と言われれば、正直蘇鼓に対して文句の言いようもないのだが、若干の虚しさを覚える鵺の気持ちも察してやるべきだろう。
「えー…ていうか、このお友達さん、鵺と、蘇鼓と、幇禍君なんて、三人を運んでくれてんだよね? 大丈夫なの?」と蘇鼓に問えば、「おお。 大丈夫だって。 重量制限オーバーは、ちょっとしてるだけだし」と、朗らかに答えられてしまう。
「そっかー! オーバーしてるのかーって、うん、それは、世間一般の基準に照らし合わせると、間違いなく大丈夫じゃない。 エレベーターだったら、ブザーが鳴って動いてくれないレベル。 少なくとも、命預けて良い状況じゃない」と、鵺は思わず真顔で言い募る。
「や、俺は不死身だし」
「黙れ、神! 死ぬ! 鵺だけ! こんな、愉快な不死身メンツと、鵺を同じ扱いにしないで!」と言えども、「大丈夫、大丈夫、だよな?」と、蘇鼓が背中を撫でれば、再び虎は頷いて、先程と同じように不安定に揺れる背中に、咄嗟に身を伏せると、そのままぐりぐりと顎をトラの背中に擦りつけ「や、良いけどさー、良いけどー! 命の危機くらいは覚悟して、中国乗り込んできた訳だし! どんな危険だって、立ち向かうつもりだったよ? 当然ねー! でも、鵺としては、こんな緊張感のない状況ヤなの! もっと、こう、刺激が欲しいの! ここまできたんだから格好をつけさせて欲しいの! なんか、間抜けな命のピンチとか、望んでないの!」と鵺は言い、頬を膨らませる。
「間抜けって…」
そう蘇鼓が言いつつ、「言っとくけどな、移動中、小まめな冷凍措置は施せねぇから、あいつの復活を防ぐために、あの札は貼っといてあんだよ。 リビングアンデット用の、かなり強力な呪符だから、結構精製が面倒なんだぜ? んで、あの手は封呪の影響で筋肉硬直が起こってっから、しょうがねぇんだよ」と教えてくれる。
「や、確かに今の幇禍君の状態は間抜け極まりないけど、他にも色々あるよ? 間抜けポイント。 しかも、命に関わる間抜け達だよ?」と鵺が言葉を遮るのを聞き流し、「そろそろ降りんぞ。 背中しっかりしがみつけ」と促されて、最早、どんな言葉も通じまいと諦め、しっかりと、虎の背中の毛を握り締める。
黄色がかった岩肌に、濃い緑色をした苔や、木々がへばりつくようにして生えている姿を眼前に眺めつつ、ぐんぐんと駆け降りる虎の背から振り落とされないように必死に手に力を込める。
後ろから覆いかぶさるように鵺を滑り落ちぬよう掴んでいてくれる蘇鼓に安心感を覚えつつ、かじかむ手をぎゅっと握り締め、鵺は、眼前にある鐘山の雄大さに圧倒されていた。
鐘山に降り立つと、蘇鼓の懐に身を隠していたらしい、手足と羽の生えた肌色の丸い肉がパタパタと飛び上がり、鵺の顔の周りを飛び回る。
「おりょ? 君、前にも会った事あるよねー?」と嬉しげに問い掛ければ、ペチペチと何故か顔を叩かれて、それから慌てたように、空飛ぶ肉団子は、その場から離脱し、虎の頭に身を潜めた。
「んん? なぁんか、鵺嫌われてる?」
小首を傾げた鵺に「うん、前回、お前が、あいつにした所業を振り返ると、そりゃあ、好かれるわきゃあねぇわな」と蘇鼓は呆れたように言う。
前回の所業…?と、記憶を振り返れば、確か、彼(?)を踏んで豪快なスケーティングの後、壁に激突した鵺は、あの身体の上で、「ワイン作り? もしくは、うどんの麺作り?」という位、足踏みをしまくった挙句、その奇妙な姿に、色々好き勝手言い散らした思い出が蘇ってくる。
「あーあーあー!」と手を叩き、それからひょいと手を伸ばして、虎の頭の上から、肉団子をひょいと持ち上げると「ごめん、ごめん!」と言いながら、頬ずりをしてやった。
「鵺が悪かったです! 許して?」
そう笑いかければ、よっぽど根が単純に出来ているのか、腕組みのようなものをして見せた後、ひょいと小さな手を伸ばしてくる。
鵺が、そっと小さな手を握り返せば、これで、仲直りしたと決めたのか、機嫌良さそうにパタパタとまた空中を飛び始め、鵺はその背中に「ねぇ、ねぇ、君、蘇鼓や幇禍君のパパと仲良い?」と問い掛けてみる。
くるりと振り返り、親指を立てる肉団子に、にこっと笑みを見せ「鵺と、君はもう友達だから、鵺のお願い事をパパがかなえてくれるように、君も協力してね」なんて、ちゃっかり告げていて、「ほんとに、お前手段問わねぇつもりだな…」と蘇鼓に溜息混じりに言われてしまった。
「とーぜん! 何でもするって言ったっしょー?」
そう鵺がえっへんと得意げに言う様に「褒めてねぇよ」と蘇鼓は答え、そのまま呑気な会話を交わしていると、そんな鵺の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。
のそりのそりと、奇妙な生き物が、二人の脇を通り抜けて行こうとする。
「おっす! 久しぶり!」と声を掛ける蘇鼓に、その生き物が驚いたように顔を向け、それから鵺には分らぬ言葉で、「口々に」しかし、如何にも親しげに喋りかけている生き物を、鵺は目を見開いて眺め続ける。
大きな虎の身体にくっ付いた九つの顔が、てんでばらばらに口を開いて、蘇鼓に話しかけていた。
中には、ここまで鵺を連れてきてくれた羽の生えた白い虎に対して言葉を掛ける顔もあり、空飛ぶ肉団子と何やら戯れている顔もいる。
白い虎はと言えば、何だか取り澄ました様子で、短く吼えるのみで随分素っ気無い態度に見えた。
「おいおい、冷たくしてやんなよ」とポンポンと、虎の背を撫で「んじゃ、また、一緒に茶でもしばこうぜ?」と言いつつ九つの人間の顔を持つ虎に手を振れば、のそのそと立ち去る奇妙な後ろ姿を眺めて、鵺は「うはぁ」と感嘆の声をあげた。
「うん、あれにはちょっとは驚いた!」
そう蘇鼓に告げれば「そらぁ良かった」と頷いて「あいつの中の一人が、こいつに惚れててさぁ。 でも、顔が気に入らねぇっつって、態度が冷てぇんだよ。 俺がここ出てからも、ずっとお前一筋だったんだろ? ちっとは相手してやれよ」等と蘇鼓が、白い虎を諭しているのを、ああ、いずこでも、恋愛模様というものは繰り広げられているものなのだな…なんて、とりあえずは飲み下しておく。
「あいつは本来、崑崙山っつう別の山で門番してんだけど、オフの日にはこうして、こいつに会いにこっちに来てんだよ」と説明されて曖昧に「へぇ、情熱的なんだ…」とだけ返すしかない鵺を誰が責められよう。
他にも体は羊のもこもことした毛を身に纏い、曲がった角を頭上に聳え立たせながら、長大な牙を、人の顔から生やしている、如何にも奇態で凶暴そうな生き物や、鬣を生やした獣面をしながら人の体をして歩いてる者がそこらかしこに見かけられ、腕から先が鷹の如き翼の裸の女が赤い髪を靡かせ奇妙な鳴き声をあげながら頭上を飛びまわっている状況に、鵺のわくわく感が次第に高まっていく
足元には見たこともない花が咲き乱れ、何処からともなく、胡弓の美しい音色も聞こえてきていた。
見渡す限り辺りを覆っている薄靄は、乳白色をしていて、桃の香りを漂わせ、途中で目にした蓮の花が咲き乱れる美しい池は、薄紫色をしていて、風に吹かれ、漣が立つたびに、虹の如く、その表面の色を変えた。
人の気配のない、秘境としか言いようのない世界は、同時に、人に踏み荒らされていない極楽浄土の如き幽玄さに満ちていて、先程まで寒さに震えていた鵺は、ここに降り立った時から、春の如き穏やかな陽気に自分の身が包まれている事に漸く気付く。
視界に入る情景を、情報として処理しようと躍起になっていたせいで気付いていなかったが、蘇鼓に借りた分厚い上着を着たままでは、額が軽く汗ばむ程になってきて「ありがと、これ」と言って上着を返す。
「おお」と受け取り小脇に抱えた蘇鼓は、鐘山の麓に広がる大秘境の更に奥地に鵺を案内してくれた。
ソレは、まるで壁の如き姿をしていた。
黄緑色の壁。
身じろぎもせず、ただ、そこに聳え立つ姿は、生き物などとは信じられぬ風体をしていて、凝視すれば、鱗の如き文様が見えるものの、まぁ、おしなべて言えば、ただの壁としか言いようがない。
見上げども、空との境目が見えぬほどに高く、首を巡らせども、壁の先を見通せぬ程に巨大な、その壁の前で「俺のオヤジ」と口にする蘇鼓に視線を向ければ、至極真面目な顔を見せている。
目を閉じる。
嘘か真か悩んだ挙句、とりあえず「蘇鼓…うちの病院のベッド、まだ、空きがあるから…」と己の義父が院長を務めている病院を紹介してみれば「いやいや、マジで、オヤジだって」と心からの声で言葉を返された。
眉を寄せる鵺に、「んじゃ、特別。 ちょと、触ってみ?」と言われ、「いいよな?」と壁に向かって問い掛けた後に、蘇鼓は鵺を「ほれ」と促す。
好奇心に負け、恐る恐る指を伸ばし、壁を一瞬かすめた指先に流れた怒涛の奔流を、どう言葉にして良いのか、鵺は、自分の中にある言葉全て使っても言い尽くせはしないだろう。
眩い光のような漆黒の闇のような、暑いような寒いような、火の如き、日の如き、太陽の如き、それは圧倒的な力の河。
飲み込まれ、流される幻に溺れかけて、鵺は目を見開く。
ほんの一瞬だけ触れた指先を、慌てて引っ込め、胸に抱え込む。
「蘇鼓…」
「おお」
「…これ」
そう言いながら、至極真摯な、言い換えれば鵺に似合わぬ深刻さすら纏わりつかせつつ、鵺は「紙袋」を蘇鼓に手渡した。
「お土産」
そう言われ首を傾げつつ、紙袋の中を覗き込み「これ、東京住んでて買う奴初めて見た…」と呟いた手にあるのは「恨性」と書かれた東京タワーの模型。
「ほら、日本を代表するね、建築物だから」
そう深刻な顔のまま親指を立てる鵺に、「これで良いの? 日本代表選手これで良いの?ってか、誤字だよなぁ? これ、間違いなく誤字だよな…」と蘇鼓は呻けば、その蘇鼓の手の中から、突然模型が消え失せた。
鵺が目をぱちつかせれば、顔を挙げていた蘇鼓が、肩を落とし、かすれたような声で、「…結構な品を悼みいる…だそうだ」と渋々告げてくる。
頭痛を堪えるような顔をしている蘇鼓に、「良かったー! 夜中に髪の着色部分が徐々に伸びてく呪いのこけし人形かこっちか、超悩んだんだよね!」と朗らかに告げ「えっと、玄関とか! 飾り棚とかに、是非、飾ってください!」と言う鵺に、「規格外すぎる。 色んな意味で、お前、規格外過ぎる」と、蘇鼓には更に呻かれる。
しかし、蘇鼓の反応は一切無視し、恋人の父親に初めて会う事になるのだからと頭を悩ませた土産が気に入って貰えた事を素直に喜んでいると、「んじゃ、本題入るぞ?」と蘇鼓に言われて、鵺は自分の目的を思い出して気を引き締めた。
蘇鼓が顔を上げて、目を眇める。
父親の言葉を聞いているのか、ウァァァンと耳鳴りめいた空気の揺れを微かに鵺の鼓膜は捉えるものの、明確な言葉の内容なんて分かったもんじゃなかった。
蘇鼓は暫く後、鵺に顔を向け、静かな声で言葉を発する。
「…生い立ち全部知りたい訳じゃねぇってんだから、あいつがどうして、『ああ』なのかってぇのは、省くわ。 人形になった経緯なんかもな? とにかく、元々、幇禍は鐘山から動けないオヤジに代わって世界を見て回り、様相を伝える伝達人形として創られた。 まぁ、目の代わりみてぇなもんだ。 だが、命ある者として生きる以上、永きに渡り世俗に生きるうち性質が歪んで、人を人とも思わねぇ殺人人形になった。 それは、オヤジの本意ではなかったが、とりたてて忌避すべき状況だったわけでもない」
「分かるよ、それは」
鵺は、頷く。
先程、指先で触れただけで、全て理解できた。
あまりに強大な存在は、個ではなく現象に近い存在となる。
意思など持たず、ただ、泰然自若と、そこにあるだけの現象に対し、時代によって変遷するような道徳・理屈を求めたとて、それは無意味が過ぎるというものだろう。
世に放った人形が、世俗の状況に歪み、殺人人形と変じたのならば、それは人形が歪んだのではなく、世の中自体が歪んでいたのだ。
色即是空。
世にあるもの全てが空。
あるがままに、身を委ねて在り続ける。
「歪んだままの幇禍が、それでも、お前を愛した。 捩れに捩れが重なって、いずれ、もっと手に負えない破壊者となっていたかも知れない。 人の世で納められる事を越える出来事に発展するのなら、見過ごせないと思って、俺は、オヤジに言われてこいつを回収する為に接触を試みた」
「それが、メサイアビルでの、蘇鼓の役目」
「おう。 だが、俺は竜子に止められて、お前に全部任せてみる事にした。 一体、たかだか、妖怪遣い一人の身の上で、何処までやれるか…。 面白い見世物になると、魔女にも約束して貰ったしな」
「どうだった?」
鵺は鮮やかに笑う。
「さいっこーだったでしょ? あの、ショーは」
蘇鼓は、肩を竦めた。
「ああ。 お前と、幇禍の廃墟ビルでの見世物に関しちゃ、そりゃあ、愉しかった。 俺も、オヤジも」
鵺は声をあげて、軽やかに笑う。
「それは良かった!」
蘇鼓は注意深く、そんな鵺の様子を眺めていた。
「何にしろ、お前と出会ってからのこいつの生き様は、いつも俺達の予想を超えていた。 実に、愉快だったとオヤジも満足してるんだ。 世の流れに関与せず、ここにじっとして、あるがままに眺め続ける立場ではあるが、同じ理屈で言うならば、お前がこいつを此処まで連れてきたのも、こいつを解放する時がきたという合図に他ならないのだろう。 勝てる可能性が限りなく低い勝負にお前は勝った。 それが答えだ。 途方もない力が在る故に、必要以上の関与はオヤジも良しとしてねぇんだが、そもそも、こいつの存在自体、最初はオヤジの道楽だ。 二千年以上もの間、俺も、オヤジもこいつと付き合い続けてきた。 ま、やっとこの前、顔合わせしたんだがな、それでも、こっちとしたら、一方的にだが、色々思うところもあるわけよ。 鵺。 お前と一緒にいる事が、こいつにとって一番良い収まり先だっつうなら、そういう覚悟を全部決めてんなら、まぁ、随分面白がらせて貰ったし、構わないってオヤジは言ってる」
蘇鼓の言葉に、鵺は膝の力が抜けるほどの安堵を覚えながらも気丈に立ち続けていた。
ここで、弱さは見せられない。
全て見抜かれていたとしても。
甘く見られるわけにはいかない。
これからの為にも。
感情的に振舞えるのなら、ここで喚きたい事など幾らでもあった。
怒鳴り散らしたいことも、怒りをぶつけたい理不尽も、全部全部飲み込んだ。
そもそも、命とは面白がって、愉快がって扱うべき玩具ではないなんて、鵺が言えた分際でもなかった。
別の領域に生きる存在。
それは、全ての理屈を越え、常識を越え、唯、超然と、そこに在るだけのものとして、鵺は受け入れざるを得ない自分の無力さを知っていた。
この存在達に対する恨み言。
それを口にする権利はきっと、幇禍にしかない。
だから、鵺はただ受け入れる。
幇禍が、もし、この強大な存在に復讐を願うのであれば、鵺は、彼に付き合う気持ちでいたし、蘇った幇禍が心底彼らを恨むのであれば、それは、それで極自然の感情だと思う事が出来た。
まぁ、幇禍の性格を思うに、何もかもを流してしまいそうな気もしているのだが。
白い虎が、咥えていた幇禍をどさりと地面に投げ出す。
空飛ぶ肉団子がふわりふわりと空中を飛び回った。
黄緑色の壁が、微かに、ほんの微かに身を震わせた。
その瞬間地面が大きく揺れ、山全体が脈動するかのようにぐらりぐらりと揺すられる。
「っ!」
しゃがみ込んだ鵺の目の前、寝袋の中の幇禍の身体が徐々に消え、見る間に、サラサラとした灰と、それから、古ぼけた藁、そして、小さな赤子の骨に姿を変じる。
「これが、あいつの材料」
蘇鼓に指差されて息を呑む。
「間引かれた赤子を元にオヤジが創った。 本来は『ない筈の仮初めの命』だ」
「仮初めの…命…」
まるで、鵺の打つ、面のようだと、ぼんやり思う。
仮初めの一つ、宿しまする。
面に打ち込む胡乱な命。
こんな…こんな僅かな材料で、幇禍は成り立ち、自分と出会い、そしてこれまで自分を守ってきてくれたのかと、鵺は息を呑むような思いを味わう。
儚い。
なんと儚い、創られた命。
「…蘇鼓…蘇鼓……幇禍君…の事…助けて……」
不意に懇願の声が零れた。
「ねぇ…パパでも、蘇鼓でも、どちらでも良いから…ね? ちゃんと…たす…助け…助けて…ね…?」
声が震えて、喉を両手で押さえた。
蘇鼓が不思議そうに鵺を見下ろした。
蹲ったまま、鵺は「幇禍だったもの」を見詰め続ける。
藁と、灰と骨。
元がどんなだって構わない。
これが幇禍だったというのなら、例えようも愛しく思うだけだ。
ただ、どうしようもない激情に突然襲われた。
こんなに脆い、こんなに、儚い、こんなに、胡乱な存在なのに、あれ程強く、強く想われた。
こんな命と出会った事、愛された事、愛した事、共に生きたこと、それ全てが奇跡。
健気な、健気な魂一つ。
鵺に返して下さい。
神様。
鵺に返して下さい。
「鵺?」
名前を呼ばれて震えながら見上げた。
蘇鼓が少し後ずさった。
「鵺」
苦しげに、蘇鼓は目を眇めた。
「弟は…幸せ者だ」
まるで、ありきたりの、神様の癖に、ありきたりの台詞を吐く。
「こんなに想われて」
「…に…んぎょうでも…灰でも…藁…でも…ど…どうでも、いいの…」
両手を鵺は組み合わせる。
「会…いたいよぉ…。 幇禍君にっ…」
切れ切れの言葉の弱さに怖気を感じた。
それでも、誰が、鵺を責められよう。
誰が鵺を責められよう。
灰と藁と骨。
それが幇禍の正体。
「…幇禍君……ずっと、鵺の事…こんな身体で守っててくれたんだね。 今度は鵺が守るからね? 守らせてね? 幇禍君…幇禍君…」
両手を握り合わせたまま、額を地面に埋めた。
美しい祈り。
光が降り注ぐ。
鼻腔を、甘い酒の匂いがくすぐった。
見れば、いつの間にか、人一人が余裕では入れそうな、酒が満たした巨大な陶器製の水瓶が目の前に出現していた。
濃く漂う、酒の匂いだけでもくらりと眩暈を覚える鵺。
幇禍を構成していた灰と藁と骨を手に取り「これを、この酒に溶かし込む…」と言いながら、蘇鼓が水瓶の中に沈めていく。
トプンと音を立てて骨が沈む音を聞きながら、鵺は水瓶を凝視し続ける。
不意に背後で、女の声を聞いた気がした。
「いよいよ、大詰めや」
この声は…?
聞き覚えのある声音に振り返る鵺の眼下には、渓谷があり、先程までただの森が広がっていた筈と思うより早く、トンと、鵺は背中を突かれ、あえなく谷底へと身を躍らせた。
・
・
・
・
パタパタパタ。
羽音と、ペチペチと鵺の頬をしつこく小さな何かが叩いてくる感触に、顔を顰めながら目を開く。
「んにぁ?」
猫のような声をあげてしまった鵺の目の前いっぱいを、肌色のちょっと湿った肉壁を覆いつくしており、「ん? んんん?」と首を傾げたまま、顔に張り付いている何かを引き剥がせば、そこには、蘇鼓の幼馴染である、肉団子がぶら下がっていた。
辺りの風景は、先程までいた場所と一切変わりはない。
ただ、靄の濃度が増しているような気がして、不思議気に首を傾げて、きょろきょろと視線を動かす。
「おっよー? どゆ事? てか、そうね! 鵺が、どしたの?っていう状況だよね!」と言い立ち上がろうとして、不意に目に入った一人の子供の姿に瞠目した。
酷く貧しい身なりをした5歳程と見られる子供だった。
ボロボロの衣服を身に纏い、肌も薄汚れている。
しかし、そんなみすぼらしい身なりでは、到底隠しきれない程に整った容貌をした、綺麗な子供だった。
真っ白な白磁の肌に、金色の眼。
細い綺麗な形の眉を下げ、何か言いたげに此方をがめている子供に、鵺は笑いかけて「どうしたの?」と優しく問い掛ける。
まるで、鵺が口を利いた事が、望外の出来事だというように、辺りを見回し、少し混乱したように、手を握ったり開いたりして見せると、薄い形の良い唇を開き、幼い澄んだ声で一言口にした。
「盗られた」
「何を?」
「名を」
子供はヒクリと一度喉を震わせて、今にも泣き出しそうな顔を見せる。
「名前を?」
キョトンとした声で言ってしまう鵺に、こくんと頷いて「折角…父上から…頂いたのに…」と、悲しげに呟いた。
名を奪うとは如何なる所業か分からないながらも、大層なことなのだろうとは理解できる。
実際鵺とて、鵺という名を今、奪われてしまっては、とても困るし、やっぱり返して欲しいと思うだろう。
「誰が盗ったの?」
「兄上」
気丈な声で子供は言う。
「兄上は、盗みの天才で、兄上に盗れないものなんて、一つもないんだ。 この世に一つだって」
そう訴えられて頬を掻く。
周りを見渡して、その靄の濃い風景と、目の前の子供の姿を見比べ、一つ頷くと「じゃあ、鵺が取り返してあげる」と答え立ち上がった。
つまりは、そういう趣向なのだろう。
「RPGみたいなものよね。 次のステージに進むには、この課題をクリアしなさいってやつ」
そううんうんと頷いて、それから、ぽんと、子供の頭に掌を置く。
「行って来るね?」
そういえば、子供は…幇禍はこくんと頷いて、「お願いします。 お嬢さん」と、大人の声で答えてくれた。
鴉天狗の面を装着し、飛び立つ鵺に、蘇鼓の幼馴染が併走する。
ぱたぱたと懸命に羽を動かす小さな肌色の体を眺めつつ「何処にいるの?」と問い掛ければ、小さな指で空中を指差した。
視線を向ければ、まるでこちらを挑発するように、森の中で一際高い木の枝に腰掛此方を眺める綺麗な子供の姿が目に入った。
極彩色の羽を生やして、こちらに手を振っている。
パン!と一つ手を叩き、子供の姿をした蘇鼓が、枝から突如飛び立った。
「鬼さん こちら 手の鳴る方へ!」
そう言いながら飛び上がる蘇鼓を鵺は笑って追う。
「蘇鼓!」
名前を呼べば「ケケケケッ!」と甲高い笑い声が聞こえてきた。
「蘇鼓! 返して! 幇禍君の名前、返して?」
そう呼びかけながら、必死に追う。
こちらを振り返り、振り返り、余裕のある様子なのがむかついて、それからスピードでは、このままだと叶わない事を察すると、木の枝に一旦降り立って、装着する面を変えた。
「韋駄天」
俊足を誇る面を付け、木から木へと飛び移り、蘇鼓の飛ぶ真下まで追いつく。
そこでまた、素早く面を付け替えて、今度は無類のジャンプ力を持つ「猫又」の面に素早く付け替えると「うにゃん!」と声をあげながら、ぴょんと頭上高く飛び上がり、蘇鼓の背中に飛びついて、ギギギ!と背中を引っ掻いた。
「ってぇぇぇぇぇ!」
そう叫び、鵺を振り払おうとする蘇鼓から、その背を蹴って飛び退き、空中でくるりと宙返りをしながら、直ぐ傍を飛んでいた、肉団子をガシリと掴む。
その時には既に、新たな面を着けていて、入道の豪力でもってして、蘇鼓めがけて肉団子を力いっぱい投げつければ、見事顔面に幼馴染の直撃を喰らい、そのまま、よろよろと地面に向かって落下した。
鵺も、後を追って地面に着地すれば、木々の根元にべたんと大の字になって横たわる蘇鼓の姿が目に入り、「まだ、子供だと、鵺の手にも負えるみたいね」と言いながら、その頭の傍にしゃがみ込んだ。
「名前、返してやって?」
鵺の言葉に、蘇鼓が目を開く。
ごしごしと顔を擦りながら、それでも蘇鼓は言った。
「いいのか?」
「ん?」
「幇禍って名前で」
「どして?」
「その名前でいる限り、あいつは俺の弟で、オヤジの息子でい続けなきゃならなくなんだぞ」
いつのまにか、大人へと姿を戻していた蘇鼓が、穏やかな声で問いを重ねた。
「良いのか? それで」
「いいよ。 それが、いいよ」
鵺は笑う。
「所詮名前だよ。 鵺は、鵺の名前を自分でつけた。 幇禍君が嫌だなって思う時が来たら、自分で名前を変えればいい。 その名前を背負って生きてくなら、それも然りだよ。 ね? 蘇鼓、蘇鼓? 鵺はね、今までたくさん幇禍君を束縛してきた。 幇禍君を拾って、育てて、躾けて、我が儘言って、随分と窮屈な思いをさせた事もあるんだろう。 だからね、全部一度選んでもらいたいの。 自分で。 自分の気持ちに従って。 鵺や、蘇鼓や、パパが幇禍君の事に関して決めていい事なんて、そんなにないんだよ。 多分、それは、もう、この先、何もないんだよ。 だから、返そう。 ね? 名前を」
「そうか」
「人生を」
「ああ」
「自由を、返そう。 尊厳を」
鵺の言葉に、蘇鼓は頷く。
「そうか」
目を閉じた。
「なぁ、俺らしくねぇ事を言う。 聞いたらすぐに忘れてくれ」
「うん」
鵺も静かに目を閉じる。
「弟と一緒に生きてくれて、あんがとな」
鵺こそ、幇禍君に会わせてくれて、ありがとう。
目を開けば、ぐらりと揺れ、倒れた水瓶の中から、這い出る若い男の姿が目に入る。
黒髪に銀色のメッシュが入った髪から、酒が滴り落ちていた。
くらり、酩酊した金色の眼差しが、空中を彷徨うさまに笑みを浮かべる。
泣こうか?
笑おうか?
怒ろうか?
叫ぼうか?
みっともなさを、今なら自分は享受出来る。
己のみっともなさを、多分今の自分は赦してやれる。
だけど、鵺は、腰に手を宛てて首を傾げて、男を見下ろす。
「気分は?」
笑いを含んだ平静な声で問えば、「最高です」と言葉を返された。
「ね? 鵺の事、殺したい?」
見上げる眼差しがゆらりと緩む。
幇禍は笑う。
「そんな俺は、俺が殺します」
「そう」
鵺は頷いて、それから「死なないで」と不意に告げた。
幇禍は頷いて答えた。
「死にません。 貴女のお傍にいたいから」
手を伸ばす。
幇禍が鵺の手を握る。
スタールビーの婚約指輪。
ブラックオパールの指輪と並んでキラリ、キラリと光を放つ。
やっと、出会えたというように、二つの指輪がキラキラ光る。
「どうしよう」
鵺は笑う。
「何がです?」
「鵺ね。 普通の女の子になっちゃったみたい」
「普通の?」
「そう、普通の」
引き寄せられて、鵺はその首根っこに齧りついた。
「バカみたいな言葉しか、浮かんでこない」
「どんな?」
「嬉しいとか」
「ええ」
「心配したとか」
「はい」
「会いたかったとか」
「俺もです」
「おかえり…とか」
目を細めて鵺は言う。
幇禍は、優しく笑って、それから、万感の思いを込めた溜息混じりの声で「ただいま」と答え、鵺の顔を間近に眺めた。
「会えましたね」
「会えたね」
「やっとだ」
「やっとだよ」
鵺は、幇禍の手を握ったまま、コツンと幇禍と額を合わせる。
「幇禍君、幇禍君…。 これからも、一緒に歩いていこう。 この手は絶対離さないし、頼まれたって置いてなんていってやんないんだから…、もう、一人にしないから、二人で生きてこう。 ね?」
そう囁く鵺に幇禍が「はい」と掠れた声で答える。
「お嬢さん、約束覚えてます?」
幇禍にいわれて、眉を寄せた。
それから、「鵺、未成年だよ?」と言うのに、声をあげて笑い、それから、ごしごしと唇を拭う。
「大丈夫ですって。 この位。 神様も見逃してくれますよ」
幇禍の言葉に、溜め息をつくと、素早く、ほんの一瞬だけ、鵺は幇禍の唇に自分の唇をくっつけた。
『会いたいよ、幇禍君。 君に、会いたいよ。 やっと分かった。 鵺ね、ずっと幇禍君を探してたんだ。 ずっと、ずっと幇禍君に会いたかったんだ。 もうじき、会えるよ、幇禍君。 そうしたら、また、キスしよう』
廃墟にて自分が行った宣言を、まさか覚えているなんてと思いながら、己の唇から漂う酒の匂いに、クラリとまた、酩酊感を覚える。
「ね? 何処まで覚えてる?」
そう鵺が問えば、「全部です。 まだ、色々混乱してますけどね。 全部、全部です」と幇禍は言い、「怖い思いをさせてすいませんでした」と鵺の背中に手を回す。
「怖い? ぜーーんぜんっ! 鵺は、愉しかったよ? 本気で、幇禍君とやり合える機会なんてもう、ないだろうしね!」
そう朗らかに言う鵺に、「この先あっちゃあ困ります」と幇禍は困ったような声で言う。
「それにね、覚えてるのは、今の俺の記憶だけじゃなくて、これまでの俺の記憶も全部です」と幇禍に言われ「え?」と鵺が言葉の意味が判らず問い返せば、「死と再生を繰り返してきた俺の、寿命を全うした人生も全て全て、ざっと、2000年以上、100人分の記憶全部、今、俺の脳に流れ込んできてて、ちょっと大変なんですけど、まぁ、これも、そのうち落ち着くでしょうね」と言いながら、トントンと自分の頭を叩いた。
「全く、これまでにない人生です。 前代未聞だ。 こんな想いを味わうなんて。 とんでもない…ああ…とんでもな人だ」
幇禍は鵺に向かって笑いかける。
「鵺お嬢さんのせいで、鵺お嬢さんのお陰です。 ありがとうございました。 これまで。 そして、これからも、お世話になりますね」
そう言う幇禍に頷いて、「任せて?」と誇らしげに言うと、鵺は、それから好奇心に目を瞬かせ、「ね? ね? ところで、その、100人分の記憶とか、2000年分の思い出の中で、面白い話ってたくさんあるんでしょ? 色々聞かせてよ? ね?」と強請ってみる。
退屈を何より嫌う、鬼丸・鵺。
自分の恋人が、普段からただでさえ面白い人間だったのに、更に、面白機能を備えて復活を遂げたともなれば、最早、これまでの苦労も、悲劇も、苦悩も全部吹き飛んで、心の中が、期待と、好奇心で埋め尽くされる。
言ってみたら、ロボットアニメで、一度は敵に完膚なきまでの壊された味方ロボットが修復期間を得て、バージョンアップして登場した時のような、子供の如きワクワク感に、今鵺は翻弄されていた。
これぞ怪我の功名というべきか、ピンチはチャンスというやつか(多分どちらも違う)「色々ごたごたあったけど、やっぱ、最後はハッピーエンドがいいよねー♪」と能天気に述べる鵺に溜め息をついてみせ、「俺、今、記憶が混乱しすぎて頭痛が凄いんですけど、この頭痛の成分の中に、お嬢さんへの呆れの気持ちが含まれている事だけは、御伝えさせてください」と言われてしまう。
そんな二人の元に、のそりと、白い虎が現れて、まるで、「乗れ」と言わんばかりに二人の前にしゃがみ込んだ。
「送ってってくれんの?」と聞けば「ガウ」と短く返事をされる。
今更ながら見渡せども、そこには蘇鼓の姿はなく、黄緑色の壁は、壁のまま、ただ、じっとそこに存在している。
幇禍は一瞬だけ、その壁に目を向けて、無表情のまま「行きましょう?」と鵺に声を掛ける。
鵺は、幇禍と彼らの関係について言及すべき立場に自分はないと知っていたので、ただ、頷いて、二人、虎の背に跨った。
のそりと立ち上がり、それから、タンと地を蹴る白い虎。
ぐんぐんと遠ざかる、鐘山の姿を見下ろして、「まるで、長い夢を見てたみたい」と鵺は呟く。
幇禍は、鵺を後ろから抱きかかえたまま、「俺もです」と呟いて、その顎を、鵺の頭に埋めた。
「目を覚ます事が出来てよかった」
そう呟く幇禍に鵺は微笑むも、それから数秒後「酒、臭い!! 奈良漬の匂いがする!!」と、その体を振り払う。
「えええええ?! 今、このタイミングで、その台詞俺に食らわしますか?! ちょっと我慢しましょうよ?! 情緒とか! ロマンとか! 色々あるじゃないですか!」と抗議する幇禍に「シャワー浴びて、その匂い落とすまで、鵺に触るの禁止!」と手酷い言葉を投げつけつつ、鵺は、こんな会話を再び幇禍と交わせる喜びに、声をあげて笑ってしまった。
------------------
「いいのかよ?」
蘇鼓の言葉に、頭の中に直接父親の返答が返ってくる。
「へっ。 まぁ、ガラにもねぇってこったな。 俺も、随分長く生き過ぎた。 そろそろ耄碌し始めたか?」
そう唇を歪めて呟き、それから、蘇鼓は極彩色の美しい妖鳥に姿を変じて、ばさりと飛び立つ。
「俺も行くわ。 ここは、俺には退屈が過ぎらぁ」
そう言い空を駆ける蘇鼓の隣を白い虎が並んで飛び、もう一人の役立たずの幼馴染も、パタパタと必死に飛んでこちらに追いつくと、ちゃっかり、蘇鼓の背中に乗り込んできた。
「…別に、このまま此処に留まったって良いんだぜ? 特に、そっちは、ここに帰ってきたかったクチだろう?」と問う蘇鼓に、虎は、澄ました調子で「ガウルル」と吼える。
「は? んな事ねぇよ。 てか、俺が面倒見てやってんだろ? どっちもよぉ」とぼやけど、二人の友人は、蘇鼓から離れる気は毛頭ないようで、千年王宮の魔女に問われた言葉を思い出す。
「そら、あんた、寂しかないわ。 あんたみたいなんが、そんな殊勝な気持ちになるわけあらへん」
全く、その通りってもんだよ、魔女さんよ。
俺は、寂しさなんかと無縁すぎて、一編位、孤独に浸ってみたくもなるもんさ…と憎まれ口を叩きつつ、二人の幼馴染を交互に眺める。
寂しさの果てにいた弟も、とうとう、鵺に捕まった。
畜生、認めたかねぇが、鵺の言う通り、ハッピーエンドって奴か? 今の状況は。
気に入らなくて眉を寄せる蘇鼓に、「ガウウ」と虎が吼えてくる。
途端、蘇鼓は表情を緩めると、「…ま…そうだな。 そうは簡単にはいかねぇか。 なんてったって、あの二人だ」と頷いて、「また、俺も、退屈しのぎに、ちょっかい出してやっかな」と呟くと、「ケケケケッ!」とけたたましい鳴き声を上げ、美しい妖鳥は極彩色の羽を広げて、暁色の空の下を飛び続けた。
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「じゃあ、幇禍君、はい」
にこりと笑って鵺に渡されたのは、リクルート雑誌で、思わず首を傾げれば「彼氏が無職って、鵺的には、ちょっとな…って感じなので、幇禍君が職を見つけるまでは、鵺達はお友達って事にしようね?」と言われて、思わず瞬いてしまう。
「あと、鵺的には、殺し屋のお仕事が本職っていうのも、ちょっと、友達とかに紹介しにくいから、そっちは副職にして、人に喋れる仕事を是非、みつけてね?」
そう続けられた言葉に、また、瞬きを繰り返せば「まさか、鵺の命狙っておいて、うちの敷居またげるとか思ってないよね? 家庭教師だって辞めちゃったんだし、そこらへんのケジメはきっちりつけて貰うからね?」と笑顔のまま厳しい現実を突きつけられる。
まぁ、こういうトコが好きなんだけど…と心中で嘯いて「分かりました」と幇禍が言えば、鵺は少し驚いたような声をあげた。
「へー! 随分あっさり!」
「だって、仰るとおりですしね。 ご主人様にも、もう、会わせる顔もないでしょう? 暫くは」
幇禍の言葉に「まぁ、鵺が会わせれば、物騒な事にはならないだろうけど、そういう『なぁなぁ』は嫌うしね、パパ」と頷いて、「なんか、いいね。 今の幇禍君」と言いながら、よしよしと頭を撫でられる。
「そうですか?」
「うん。 自立してる感じ」
「えー…、自立って…俺、もう、結構いい年だし、これまでの人生大分足したら、物凄い年月生きてきちゃってるんですけど…」と言えど、「だって、今までだったら絶対『お嬢さんと離れて暮らすなんて、ありえない!』って大騒ぎしてたじゃん。 そんな幇禍君より、今みたいに、筋通す幇禍君のがずっと良いよ」と言われて幇禍は苦笑する。
「そうですね。 俺、お嬢さんに依存してましたから。 でも、言っときますけど、これやせ我慢ですからね?」
そう言いながら指を立て、本当は、もう片時だって離れたくないと喚く本能を理性で抑え込んで、幇禍は笑う。
「凄く我慢して、大人になって筋を通そうとしているんです。 泣き喚いて、傍にいたいって駄々をこねたいんですけどね、それよりも、お嬢さんを…鵺を困らせたくないし、あと、みっともない姿を見せたくない、男の矜持ってヤツですから、そこを察してくれると、嬉しいです」
鵺は、その明け透けな物の言いに、にっと笑って頷いて、トンと幇禍の胸を拳で軽く叩くと、「もっと我慢を覚えて、もっとイイ男になって? 鵺と一緒に生きてく男なんだから、世界一レベルじゃないと、釣り合わないよ?」と傲慢な声で告げる。
幇禍は幸せそうに頷いて、「努力します」と答えると、もう一度鵺にキスしようとして、「調子乗りすぎ」と、その頬を思いっきり叩かれた。
「ぶははははははは…!!」
指差されながら大笑いする、腐れ縁の探偵を睨んで、幇禍はコーヒーを啜る。
「すっげぇな、その痕! うわ、手加減ねぇ!」
そう言って頬を指差し笑う探偵に、「うるさい!」と一言怒鳴ると、「ま、だから、もう、お嬢さんの事、探してもらわなくて良いですから」と、鵺を殺すために追っていた時期に、この興信所に出していた捜索依頼を取り下げた。
「ま、そりゃ、何よりだ」
事情の詳細を説明しない幇禍に対し、別段興味はないと言いたげに紫煙をくゆらせながら探偵は言う。
「ご苦労さんって言ってくれ。 鵺に」
探偵の言葉に珍しく、幇禍は素直に頷いて、「で、物は相談なんだが…」と身を乗り出す。
探偵が胡乱気に此方を眺める眼差しを、いつも通り受け流し「今、大絶賛、俺求職中なんで、美味しい仕事の依頼があったら手伝わせてくれません? あと、正職員の仕事で、職員募集してるトコとかも、教えて貰えるとありがたい。 一応、特技は…人殺し…じゃないな…あー……子供に勉強を教えんのが得意なんだが、どうだろう?」と、幇禍は尋ねた。
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「でね! でね! やっぱ、本場って、全然味が違うの! ラーメンなんかは、日本の方がずっと美味しかったよ? でも餃子はこっちのは絶品だった!」
そう電話口ではしゃいだ声で語る鵺に、竜子が「いーなー…! じゃあさ! じゃあさ! 北京ダックとか、お前喰った?」と聞かれて「食べたー! 飛行機の時間ギリギリだったけど、どうしても食べたくって! 美味しかったけど、鵺的には、点心のがやっぱ、感動だったかなー?」と、明るく言う。
「しっかし、急に王宮からいなくなったと思ったら、今度は中国かよ。 鵺は、ほんと行動が読めねぇなぁ」とぼやくように言われて「にしし」と笑い声を返しておいた。
「んで? どったんだよ。 突然」
「ん?」
「電話」
「なんで?」
「初めてじゃん。 あたいに掛けてくれんのなんて」
携帯を片手に、暫く振りに寝転んだ、自室のベッドの上で竜子と会話を交わしていた。
全ての発端であり、同時に、この幇禍を取り戻す事が出来た、この状況の起因となってくれた、千年王宮の女王。
竜子が蘇鼓に取り縋り、幇禍を連れて行く事を阻止してくれたお陰で、こうして、また、二人で笑い合える状況を取り戻す事が出来た。
どうしてもお礼を述べたくて電話を掛けたはずなのに、事情を知らせないまま、どうやって礼を言えば、訝しがられずに済むか考えているうちに、ついつい話し込んでしまっている。
鵺は、魔女に渡された黒いリボンを手の内で弄ぶ。
千年王宮に繋がる扉を作り出すというリボン。
結局、このリボンを使う事はなく、事の決着を全て付けられた。
面の力を借りたとはいえ、その場合の代償はかなり安く済ませてやると請け負っては貰っている。
「なんか、お掃除とか位で済ませてくれるといーよねー…」と考えてはいるのだが、魔女基準の「安い代償」というのだから、それなりの覚悟はしておいたほうが良いのかもしれない。
「鵺?」と竜子の呼ぶ声に、自分が思考の淵に沈んでいた事に気付く。
「やっぱ、なんかあったろ?」と聞かれて「ないってば!」と答えた後、「お竜さんの声が聞きたくなってっていうんじゃ、駄目?」と言ってみた。
すると竜子は「駄目じゃねぇ。 全然駄目じゃねぇよ」と、どこか懸命な調子で言う。
「あたいも、鵺の声聞きたかったから、すっげぇ嬉しい。 どうしてんのかな?って気になってたしな」
「そっか。 心配掛けてごめんね」
鵺の言葉に、竜子が優しい声で聞いてくる。
「幇禍とは仲直りしたのか?」
「うん、したよー? 一緒に中国料理食べまくってきたもん」
「へぇ。 良いな。 あたいも喰いたい」
「あ、だったら今度は一緒に行こうよ。 今回、ちょっと忙しくって、観光地とか全然巡れなかったから、鵺、また行きたいし」
「うん、行こうな」
「行こう、行こう」
「また、二人で、城にも遊びに来いよ?」
「行く、絶対行く!」
他愛もない会話に、鵺の気持ちが緩んだ瞬間だった。
「鵺」
竜子の優しい声が鼓膜をそっと撫でた。
「がんばったな」
「……」
返す言葉を失った。
「よく分かんねぇけど、鵺が、城に来てから、ずっと一緒にいてさ、なんか、多分大変な事があって、今こいつ必死に闘ってんだなって思ってて、しんどそうだって分かってて、でも、さっきまで電話で声聞いてたら、あん時の張り詰めてる感じとか、落ち込んでる声じゃなくなってて、だから…あー…巧く言えねぇけど…てか、お前、秘密主義過ぎて…多分、そういうお前の、頑張ってるのとか、凄ぇのとか…あんま、誰も知らなさそうだから……あたいも、よく分かってないけど、うん…でも、鵺、がんばったな」
惑ったまま、ぎゅっと携帯を握り締める。
「えらいぞ。 鵺。 あたいが褒める。 いっぱい、いっぱい褒めてやる。 あんたは偉い。 誰にも頼らないで、よくやった。 あんたがダチで、あたいは、凄く凄く誇らしい。 でもな、だけどな、忘れんなよ、鵺? お前は、そらぁ強ぇ。 そんで、あたいは、まぁ、弱ぇ。 オツムも弱ぇし、まぁ、何の力もねぇ。 でもな、あたいは、お前が大好きだから、困った時は頼れ。 助けになる。 一緒に悩む。 あたいに出来る事何でもする。 そんで、全部が終ったら、慰めたり、褒めたり、一緒に喜んだりする。 覚えとけ? そういう人間が、鵺の周りには、たくさん、たくさん、たっくさんいる。 大好きだ。 鵺。 それは、お前が、お前の事を大事に思ってる人を裏切らない生き方をしてきたからだ。 実のところ、それだけだ。 鵺。 あたいは思う。 人生で大事なことって、それだけだ。 自分を大切にしてくれている人を裏切らない。 それだけが、大事だ。 鵺。 無事でいてくれてありがとう。 あたいは、誇らしい。 嬉しい。 そんで、凄い、安心した」
ひゅうっと息を吸い込んで、目を瞑る。
普通の女の子みたいに。
普通の女の子みたいに。
泣いてしまう。
怖かったって、不安だったって、ずっと、ずっと本当は、疲れ果てて、おぼつかなくて、何度も蹲りそうになって、何度も立ち止まりそうになって、途方に暮れて、寂しくて、寂しくて、どうしようもなく辛くて、しんどくて、ただ、ただ、それでも、諦めきれなくて、諦めない事しか出来ない自分が歯痒くて、笑ってても、冗談を言ってても、ずっと、ずっと、ずっと……。
涙が、頬を伝った。
ずっと、それでも、自分がくじけないでいられたのは、竜子や、友人や、家族が支えてくれたからだ。
鵺を大切にしてくれた人達を、裏切らないで生きて行こう。
それが、鵺の出来る最大限の感謝の証。
「お…お…りゅ…う…さん…」
「おお」
「甘えて…いい?」
「どんだけでも、いいぜ?」
「ただいま」
「おかえり」
耳元で声がした。
顔をあげる。
「来ちった」
照れたように笑う竜子の背後、塞がろうとしている次元の穴が見えた。
涙を掌で拭って「来ちゃったの? しょうがないなぁ、お竜さんは」と鵺は言い、それから、堪えきれずに、その胸に飛び込んだ。
抱きすくめ、鵺の頭を優しく優しく竜子は撫でる。
「もう、大丈夫だ。 お竜さんが来たからには、悲しい事も、辛い事も、しんどい事も、寂しい事も、もう、鵺を襲わない。 守るよ。 あたいが。 どんな事があっても守る。 鵺? みんなが、守る。 鵺の事を守る。 大好きだ。 おかえり、鵺」
鵺は、竜子の穏やかな声を聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
いつしか、随分とご無沙汰していた、深い、深い、優しい眠りの闇の中に、鵺は、ゆっくりと、ゆっくりと、落ちていった。
なんだか今夜は、久しぶりに夢の中で、妖怪達に会えるような予感がした。
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指先に仮初めの魂一つ、宿しまする
打ち、打ちて、注ぎ込むのは、我が命
仮初めの魂と入り混じりて打ち上がる、このご面相をとくと御覧あれ
我が打つのは、現でもなく、幻でもなし
仮初めとは、況や偽り
されど、その面により、この身に宿し、御力は、違う事無く、貴方の御身をお守り致しましょう
お会いしとう御座いました
左様
私が 鬼丸・鵺にございます
【太陽と月に背いて 完】
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