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<東京怪談ノベル(シングル)>


寂しい果実




 夏休みに入っても、相変わらずあたしの日常は慌しい。
 ご飯を作って、洗濯をして、掃除をして、妹の宿題を見て。そういった家事をやりつつも、頭の中では夕食をどうしようかと、冷蔵庫の中身を思い浮かべている。
(カレーにしようかなあ。でもジャガイモがあると腐りやすいし……ナスカレーがいいかなあ)
 あたしの宿題もやらなきゃいけない。あと、忘れがちだけど庭のお手入れ! 猫の額ほどとは言っても、真夏では雑草がこれでもかと生えてくるのだ。
(軍手あったかな……?)
 それに友達との約束だってあるし。

(出来れば、アルバイトもしたいなあ)
 漠然と思ってはいたんだけど、なかなか実行出来ないまま、いつの間にか八月も十日ほど過ぎてしまっていた。
 結局、特殊メイク専門学校の生徒さんたちの呼び出しに応じられたのは、八月も半ばのこと――。



「すごく……ね……。真面目な依頼なの」
 普段は怪しい笑顔の生徒さんが、困った顔をして言う。
「なんて説明すればいいのかしら。あまり詮索されると良くないことだし……。そうだ、みなもちゃん、雪豹になったときのことを覚えている?」
「はい、勿論です」
 はっきりと頷くあたし。
 以前、重い病気を患っている女の子のために、動物園の雪豹の代わりを務めたことがあったのだ。雪豹のフリをしながらも彼女を元気付けようと試行錯誤して――忘れられない依頼だった。
「その子とは関係ないんだけど、系統が似ているの。……病気があるのね。心と身体の両方に。身体の病気は教えられないんだけど……、心の方は極度の対人恐怖症なの。健康診断も出来ないくらいの……」
 歯切れの悪い話し方だ。いつもの面白がって含みを持たせる言い方とは違って、言葉を選んでいる感じがする。
(真剣なんですね)
 詳しいことはよくわからないままだけど、自分が何で呼ばれたのかは少し想像がついてきた。
「人間が駄目なら、動物で検査すれば……ってことですよね」
「そうなの。今回は私たちのやってきた特殊メイクの依頼の中でも、初めての試みなのよ。それにね、絶対に人間だとわからないように、最初はみなもちゃんに催眠術をかけることになると思うわ。女の子の精神的なケアも目的になるし、とてもハードなの。無理にとは言わないわ。みなもちゃん、やってくれる……?」
 生徒さんの不安げな顔。
 でもあたしの答えは既に決まっていた。
「やります」
 迷うことなんてない。誰かのために、少しでも自分が必要とされているのなら。

 同性とは言え、人前で肌を見せるのって慣れない。
 でも「やります」なんて決意した手前、ぐずぐずしてはいられないし――。後ろを向いて、黙って脱いだ。
 背後からそっと生徒さんの手が触ってくる。
 氷で冷やしたように冷たい指に、肩が震えた。
(生徒さんの体温が低い?)
(赤面しているせいで、あたしの体温が上がっているの?)
 熱くなった背中も、首すじも、腕も――ひんやりとした掌に撫でられていく。電気を通したようにゾクゾクする。
「……やっぱり、もっと逞しくしないと駄目ね」
 耳元に生徒さんの温かい息がかかる。
 あたしは薄い膜が張られたようにぼんやりしながら、聞き返した。
「……え……?」
 あたしは無言で台の上に仰向けにされ、生徒さんたちから刷毛で触られた。刷毛はガサついているけど、先端にヌメりがあって、それが肌の上を滑っていった。生温かくて、トロみがあって、透明だった。
「くすぐ……ったい…………」
「冷えると固まるの。柔らかすぎず、硬すぎず、身体にくっつく粘着性があって最適なのよ。見えないくらいの細かな穴が開くから皮膚呼吸にも問題ないわ。……太さは胸に合わせないとおかしいわね?」
 どろり。お腹の上に粘ついた池が出来た。それを丁寧に刷毛でなぞって位置を細かに変え、体型を形作る。お腹の凹みは消え、ずんぐりむっくりした身体になっていく。
「ここで初の試みなの」
 生徒さんの手にあるのは、茶色く塗られた機械。テープが仕込まれていて、吸盤もついている。健康診断で心拍数を記録するものに似ているような気もするけど、それにしては吸盤の数が多いし――。
「心拍数を測るの。特注してもらったのよ」
 吸盤を外側に向けて粘っこい液体の中に浸す。液体が固まると綺麗に収まるのかな?
 それからやっぱり茶色く塗られた、細長くて小さな体温計。これじゃあ、あたしの体温を測ってしまいそうだけど、そうはならないらしい――脇に挟む部分が長く伸びていて、外へ突き出ている。メイクを済ませても、わからないように出しておくそうだ。これは胸の谷間に収められた。
 そしておヘソから下腹部にかけては茶色い四角形のモノを。冷たくてずっしりとした感触が上に乗る。
(健康診断って言っていたから)
 体重計……かな?
 あたしたちが乗るところ――数字が表示されるデジタル部分――を外側にして、床に面する側をあたしのお腹につける、ということだ。
(あたしのお腹を台にして測るってことかな?)
 一度測った数値は十件までなら自動的に記録されるそうだ。本来はダイエットなんかに使う機能なんだろうけど、今回の用途においてもすごく便利。だって、女の子を乗せているときにメイクを取る訳にはいかないもの。


 顔以外の全てに塗られた液体を乾かしている最中――。
「人間機械みたいですね」
 私の言葉に生徒さんは軽く笑った。
「正確には動物機械かしら」
「あ、そうですよね。動物さん……」
 ぼうっとしていて忘れていた。あたしは特殊メイクのアルバイトのために来ていて、これから――ええと。
「何の動物さんになるんでしょう?」
「すぐにわかるわよ。ほらね?」
 目の前でちらつかされたのは、なが〜い爪。というか、鉤爪!
 それと茶色い毛。身体にくっつけられた機械と全く同じ色だ。この毛で身体を覆うんだろう。
(機械の色を合わせたのは、もし予想外に機械が露出することがあっても一目でわからないようにするため……かな?)
 そういえば、生徒さんは「もっと逞しくしないと」なんて言っていたっけ。
 茶色の毛に覆われていて、鉤爪があって、人間がなってもおかしくない大きさの生き物で、がっちりしている……あ、とあたしは声をあげた。
「わかりました! クマさんですね」
「そう! ヒグマよ」
 生徒さんがにっこりと笑う。普段はちょっと怪しい笑顔も、今はあたしを朗らかな気持ちにさせてくれる。
(でも、どうしてクマさんなのかな?)
 女の子向けする動物さんって、他にいそうな気がするけど……。
「何の動物にするか、ってすごく悩んだのよ」
「どうしてですか?」
「まず大きさが限定されるでしょう?」
「……ですね」
 いくら八歳の子だって、自分よりずっと大きいウサギが出てきたって信じないだろう。最初に疑いを持たれてしまうと、信じてもらうのは難しい。
(犬さんなら大きいのもいるし、好かれやすいんじゃないかと思うけど……)
「第二条件は、依頼相手の女の子を抱きしめたり、上に乗せても大丈夫な動物だということなの。そうしないと健康診断の機械が作動しないからね」
 んー。
 考え込むあたし。
(そっかあ、体重計を使うには、上に乗ってもらわないといけないもんね)
 犬さんだと背中に設置して乗ってもらうことになるけど―― 一度乗ってもらったあとに退いてもらうのが難しい。言葉で説明する訳にはいかないし、乗られっぱなしではさすがにあたしも身体がもたない。八歳の子って、意外と重いんだから。
(となると、やっぱりクマさんになるのかな?)
 クマさんだと、お腹の上に乗ってもらうことになる。これは寝るときにさりげなくやればいい。犬さんの背中に乗ってもらうよりずっと簡単だ。
 それにお腹の方が受け止めやすいし、辛くなったらゆっくりと自分から身体を退かせばいいし……。
「女の子が怖がらないといいんですけど……」
「問題はそこなのよねえ」
 大きくため息をつく生徒さん。
「本当はパンダにしようと思ったんだけどねえ」
「パンダさん! いいですね!」
 ぽん、と両手を合わせるあたし。
 子供はコアラさんや象さん、そしてパンダさんが大好き。あの白と黒のふわふわした見た目は、すごく女性受けすると思う。
「あたしもパンダさんって可愛いと思います」
「そうよねえ……」
 生徒さんは僅かに頷くと、再びためいきをついた。
「でもねえ、パンダは駄目よねえ」
(生徒さんが諦めるなんて、珍しいなあ)
 好奇心が頭をもたげてくる。
「どうして駄目なんですか?」
「だって……パンダがその辺にいたら……マズいでしょう? 色々と」
 すっごく残念そうな声と、顔。諦めきれないんだけど諦めざるを得ない――そんな表情だ。
(ふふっ)
 生徒さんには悪いけど、ちょっとおかしくなってしまう。
 だってクマさんも、“マズい”ことはマズいと思うけどなあ。違う方面で。
「でも、ま、クマなら大丈夫よ。ヒグマだし。ツキノワグマじゃないから」
 ……生徒さんのフォローって、いつも変だと思う。


 乾いたところで、本格的なメイクを始めることになった。
「と、その前に。これこれっ」
「ひゃっ」
 冷たいものが顔にかかった。さっきのとは違う液体だ。肌に深く染み込んでくる感じがする。
 その次は白くて若干粘り気のあるもの。生徒さんの手があたしの頬に吸い付くようで、ぺたぺたと音がする。
「化粧水と乳液よ。特殊メイクは肌に負担がかかるから、せめて顔にはサービスしようかと思ってね。メイクのせいで肌が乾燥しちゃったら悪いもの」
「わぁっ。いいんですか?」
 人差し指で頬をつついてみる。ぺタ、と指がくっつくみたいな反応がある。
(弾力があって、面白いなあ)
 ……アルバイトをさせていただく身なのに、いいのかなあ。何だか申し訳ない気持ちにもなる。
(でもやっぱり、嬉しいな)
 生徒さんたちの心遣いに、心がぽかぽかする。
「本当にありがとうございます」
「いいのよ、いいの。可愛いみなもちゃんのためだもの。効果抜群でしょう?」
 と、そこまでは笑顔だった生徒さん、ふと下を向いてぽつり。
「…………ちょっと特殊なやつだけどね」
 ――聞こえています、生徒さん……。
(試験段階の材質……と、か……?)
 良い方に捉えよう、良い方に。からかわれているだけに決まっているもん。


 怪しげな(?)化粧水と乳液で顔をガードしたあとは、マスクをつけさせられた。マスクと言っても、面白い形をしていて、口のところが出ている。鼻も少し。あらかじめクマの顔の形として型を取っておいたみたいだ。
 対して、他の部分はとても薄い。多分、別々に作ってくっつけたものなんだと思う。
 ――わざわざそんな手間をかけてあるのは、全ての部分を厚めに作ってしまうと、シンプルにまとめられないからだろう。
 今回は女の子と一緒にいながら、健康診断をしなきゃいけない。ただでさえ機械が入っていて体力を使うのに、顔まで重厚に作る訳にはいかないのだ。それでいて、クマだと信じてもらわなければいけないし……。
 マスクをつけて、さあ植毛――と思ったら違うみたい。
「微調整をしないとね」
 と、生徒さんたち。
 あたしには茶色の粘土に見えるんだけど――、それで主に口周辺を覆っていく。
 これは、もし女の子に触られたときのため。
(「硬い! クマじゃない!」と言われたらジ・エンドだもん)
 頬はともかく、口は硬く出来ているために危険なのだ。
(念には念を、ってことだよね)
 びっくりしたことがもうひとつ。口の部分には既に歯がついているんだけど、この口が少しだけ開いてある。
 ――どうして閉じていないんだろう?
(スペースは僅かだから、もしかして失敗しちゃったのかも……。でも生徒さんたちに限って……)
 言い出し辛くて一人で悶々としていたら、生徒さんが教えてくれた。
「完全に閉じちゃったら、ご飯が食べられないでしょう?」
「あっ」
 そう言えばそうだ。自分の力では口を開閉出来ない以上、あらかじめ少しは開けておく必要がある。
 かと言って、開けすぎていてもおかしい。
(顎が外れたクマさんだと思われてしまうかもしれないよね)
 うう、それは恥ずかしい。クマさんのイメージが台無しだ。
 あたしは、親しみやすくて人に優しいクマさんになるつもりだけど……威厳は保ちたい。
 それが終わると植毛だ。
(過去に何度もやっていること)
 でもいつも不思議な感じがする。自分の体毛ではない毛が、自分の偽の皮膚に組み込まれていって――だんだんと自分の身体の一部のような気がしてくるから。
 呼吸するはずのない偽の皮膚が、息をして、それに合わせるように毛がふわりと動く。命の躍動感――ある訳ないのに。
(なのに……)
 あたしは鉤爪をつけた指で、茶色い毛に軽く爪を立てた。
 微かに獣のにおいがする。
(ううん)

 あたしは。
 あたしは、何?
 獣のにおいは。
 あたしのにおい?

 生徒さんの顔がゆがんでいく。
「みなもちゃん、意識はまだある?」
「ん……はい……」
「そう。じゃあ聞いて。これからみなもちゃんはね、」
 ――獣のにおいが。
「ぁ……」
 頭の中で生徒さんの声は弾けて、脳裏にちりぢりになっていった。
 


「おきて。ね。おきて」
 語尾が強められた子供の声。
 あたしは薄目を開けて声のする方を見る――まっくろな瞳、赤い髪、小さな喉。あたしの“友達”だ。
(もぉ、眠いなあ)
 あたしはごろんと身体の向きを変えて、友達に背中を向けた。
 まだ起きません、という意思表示。人間が見たってちゃんと伝わる反応なはずだ。
 なのに友達ときたら、ぜーんぜん聞いてくれない。あたしの短いしっぽをこねくり回しながら、まだねだってくる。
「ね。おきておきて。ね。ね?」
 ……背中を向けているっていうのに、友達の顔が思い浮かんでしょうがない。きっと眉を下げて、懇願してきているんだろうな。
(…………)
 だめだめ、甘い顔をしていては。今日こそは甘い顔しないんだから。
「わたし、もう眠れないよぅ。いっしょにおきて。ね?」
 だからっ、あたしは眠いのっ。あたしが睡眠不足なのはね、あなたが寝たのを確認するまで起きているせいでもあるんだからね。
「ね?」
 うー。やだやだ。寝るったら寝る。
 あたしは咆哮してみせた。どうだっ、犬に追いかけられるより怖いでしょう?
「ね? おきよ?」
 ……………………………………。
 むくり、と起き上がる。
 あくびもひとつ。ゆ〜っくりと。
 友達は嬉しそうな顔をしているけど――、言うことを聞いた訳じゃないよとあたしは主張したいのだ。
 起きようと思っていたんだもんね。お腹も空いたし。


 あたしは友達と二人でこの家に暮らしている。
 ――人間とクマという、不思議な組み合わせで。
 この家が誰の持ち物なのかも知らない。ただ畳と木の壁があって、トイレやお風呂、布団があって、冷蔵庫には食材がたっぷり入っていることはわかっている。

 いつからここにいるのかも忘れてしまった。
 ただ、その最初の日――あたしが友達に初めて会ったとき――咆哮したことは覚えている。完全な拒絶をこめて。
 人間なら怖がるはずだった。怯えて、叫び声をあげるか泣くかして、逃げてくれればいいと思っていた。
(だけど)
 相手はむしろあたしの傍へ寄ってきて、ちょこんと座った。
「ね、」
 彼女はそう言い、黒くて大きな瞳であたしを見上げた。
 涙ぐんでいたが、意志の強さが芯にあるような、子供とは思えない射抜くまなざしをしていた。
「いくトコロがないなら、いっしょにいよ?」
 ――でなきゃ、さびしい。
 そんな呟きが聞こえて。
 この子を守らなければならない、とあたしは思ったのだ。


 ――友達は起きたあと、まずあたしを起こす。
 それから洗面所へ行って歯磨きをする。それはいいけど、あたしにまで歯磨きさせようとするから厄介だ。あんな変な臭いのする泡なんて嫌いだっ。
 もっとも、これには友達も諦めざるを得ない。何せ、こじ開けようにもあたしの口は大きく開かないから。
(そう)
 あたしの身体は所々妙に出来ている。口は自分で開けないし、食べ物を食べたときには余計違和感が顕著になる。
(そうだ、お腹が空いていたんだった)
 あたしは二本足で立つとガスコンロの上にゴトリとフライパンを置いた。鉤爪で人間の物を持つのも、物を持って二本足で立つのも苦労する。でも、フライパンは重いから友達に持たせるのは危なっかしいのだ。
「ありがと」
 友達はパンケーキが好きだ。上手に作れる。
 あたしの敏感な鼻では、蜂蜜の甘い匂いとバターの粘っこい匂いが交じり合ったものにはクラクラしそうになるけど。友達の好物に文句をつけるのはやめておく。
 ――あたしは果物が好き。ブドウやイチゴ、リンゴにナシ、モモ。何でもいい。ほのかに青っぽい果実の、柔らかな匂いも好きだ。
 五本の鉤爪で器用にブドウを摘むと、潰さないように気をつけながら口に放り込む。
 あたしの口は自由に開かないから、いつも顔を上へ向けて、上から落とすことになる。そこが面倒なところで、気持ちが急いでしまって大事なブドウを潰してしまうこともある。そういうときは爪の先についた汁を口に入れようとあがく。今もだ。
「おじょうひん、じゃなーい」
 と友達に注意されるけど。いーもん、上品なクマなんてクマじゃないんだから。


 友達の日課は二つある。
 一つは児童書を読むこと。
 友達は外に出ることが全くない。外に出たい、とも言わない。景色を見る代わりに本を読むのだ。特に世界を飛び回る冒険譚が大好きで、お気に入りの本を何度も読み返してはあらすじをあたしに語って聞かせた。
 もう一つはDVDを観ること。
 これは友達の好きなことではなくて、彼女の“しなくてはならない”ことだった。友達は憂鬱そうな表情でDVDをプレーヤーに収めると、テレビの画面に視線をやった。
 このDVDに入っているのはドラマでもアニメでも歌でもない。ただ人が歩いていく映像だ。
 一人の少女が歩いている。家を出て、だんだんと人ごみに向かっていく。少女は歌を口ずさみながら陽気に進み、見知らぬ人たちにも笑顔で挨拶を交わす。それだけのものだ。
(何でもない映像)
 でも、友達にとっては違うらしい。
 画面を直視していても問題ないのは最初の数分だけ。少女が人のいる方へ向かっていくにつれて友達は動揺し始める。目が宙を泳ぐようになり、次第に身体が震え出す――。
「いやだ、やだ、やだ、やだ……」
 友達は隣にいるあたしに上半身を寄せてくる。
「いや、いや……」
 あたしは鉤爪の先でリモコンを押す。友達の“怖いもの”を止めるために。
 腕を回して友達を抱きとめる。
 ――怖がらないで。
 あたしがいるよ。
 茶色の毛が友達の涙を飲み込んでいく。こんな風に、悲しみも飲み込んであげられたら良いのに。


 中断しながら時間をかけてDVDを観終えると、窓は暗くなっている。
 二人でご飯を食べて、お風呂に入る。
(というか)
 ううん、あたしがお風呂に入る訳じゃない。浴槽に浸かるなんて、クマの沽券に関わるからだ。だけど、手を繋いで(正確には腕を掴まれて。爪が当たると危ないから)一緒についていかないと、友達はお風呂に入りたがらない。
「ね、いる? ちゃんといる?」
 爪で木の壁をキイキイと擦る。いる、という合図だ。
「ん、まっててね。いなくならないでね」
 友達はあたしに背を向けて頭を洗っている。その背中が小さく心細そうに思えて、あたしの胸は苦しくなる。
 脆い。とても脆い生き物。


 夜はお腹の上に友達を乗せて、この子が眠るまで待っている。眠りやすいように包み込んで、ハンモックのように微かに身体を揺らしながら。
「まだおきてる?」
 眠たそうな声。
 あたしはまた合図する。
「まだねちゃだめだよ。まだ……まだ……」
 小さな声は蜂蜜みたいにトロトロと蕩けていく。
 友達の寝息を聞いてから、あたしもウトウトし始めて――。
 ――泣きじゃくる声で起こされる。
「人が……人がいるの……」
 指をさす方向には木の壁がある。
(木目が顔に見えるんだね)
 友達を上に乗せたまま、身体の向きを変えてあげる。
“何も怖いことはない”。
 そう言いたいけど。
 あたしは人間の言葉を話すことが出来ないから。
 部屋が静かになって数分後、再び声がする。
「おきてる?」
 キイキイ。起きていますとも。
「おトイレいきたい……」
 はいはい。
 友達はあたしから離れて二本足で立ち、代わりにあたしの腕をつかむ。
 ……ちゃんとついていくよ。どこまでも。
(何でこの子はこんなにも不安がっているんだろう?)
 疑問が頭の中で生まれることもある。
 友達のこんな言葉も疑問の一つだ。

「わたしとあなたはにているよ」
「人がよってこない」

 ――わかる訳ない。意味なんて。
 考えたところで解けやしないのだ。あたしには、自分がどうしてここにいるのかすらわからないのだから。
 友達を抱いて夜をすごす。じっと暗闇が過ぎ去るのを待っている。
 朝がくれば食事をし、また夜が来るのを待っている。新たな夜をやり過ごすために、古くなった夜を送り出す。



「ん…………?」
「みなもちゃん、気が付いた?」
「生徒さん?!」
 あたしは飛び起きて鏡を見た。そこには人間の姿で一糸纏わぬ自分がいる。
(夢……?)
 おぼろげな記憶を手繰り寄せる。
 子供……女の子。目の……黒い……。
 ううん、夢なんかじゃない!
「思い出した? みなもちゃんに催眠術をかけていたのよ」
「はい。……あの子は?」
「まだあの家にいるわ。あそこはあの子の家の離れなの。母屋には人の出入りがあって、あの子が怖がるから。テイのいい隔離だけど」
「……あたし、何が何だか……」
「依頼はね、あの子のお父様から受けたのよ。簡単な身体の検査と、精神的なケアのね。みなもちゃんは良くやってくれたわ」
 お父様、の言葉にあたしは少し安らいだ気持ちになった。
 心配してくれる家族が、“友達”にはいるんだ。
「良かった。お父さんから愛されているんですね」
「お母様からは憎まれているわ。自分の子供じゃないから」
 え……。
 言葉を飲み込むあたしに、生徒さんはこの前と同じようにためいきをついた。
「とにかく……体温も体重も心拍数も全て測れているわ。DVDの反応はどうだった?」
「駄目でした。最初から通して最後まで観ることは出来なくて……」
「……そう」
 生徒さんは寂しそうな目をしていた。
「あれはね、直接人と向き合うのが出来ないあの子ために作ったの。他の人が体験している映像を通して“人は怖くない”って思ってもらうために……。でも映像でも怖いのね……。最初の予定では、今日からみなもちゃんのメイクを薄くしていくつもりだったんだけど」
 あたしは大きくかぶりを振った。
「もしあたしが人間だってわかってしまったら……確信は持てなくても想像してしまったら……あの子は大きなショックを受けると思います……。そしたらもう……動物さえ駄目になってしまうかも……」

 脳裏にあの子の泣き顔が浮かぶ。
 人がいる、人がいる、と涙を零す。小さな肩が小刻みに震えている。
 ――出来るだけ悲しませたくなかった。
 ――ショックを与えたくなかった。

「代わりに、全く同じようにクマさんのメイクをしてもらえますか?」
「ええ、それは勿論いいけど……どうするの?」
「DVDを観てきます。いつもみたいに。あの子一人では観られないんです」
「そう……。ありがとう、みなもちゃん」
 生徒さんたちは刷毛を取り出して、前と同じように身体に粘っこい液体を塗っていく。
「あの子……きっとみなもちゃんのこと、待っていると思うわ」
「だと思います」
 あたしは少し寂しい気持ちで微笑んだ。
「果物をテーブルに置いて……迎えてくれる気がします」



終。