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【遠い大地に憧れて】
初秋の風には温もりがある。
昼に暖められたアスファルトの熱をさらい、夏の名残りを、その涼しい夜風に乗せている。
満月に近い、ふっくらとした月。
透明感のある白い月が、雲ひとつない夜空に浮かぶ。
郊外といえど星明かりはあまり見えず、月光だけが輝いている。
明るい夜。
海原(うなばら)みなもは、学校帰りの家路を急ぐ。
夏服の白いセーラー服に身を包む、十三歳の少女。
柔らかな面差しと長い髪、清楚で落ち着いた色調のセーラーカラーと深い臙脂色のスカーフは、古風な女学生といった印象を見た人に与える。
最近は、陽が暮れるのが早いわ。
四季の移ろいを感じ、みなもは微笑む。
部活を終えて校舎を出る頃、夕焼けが綺麗だった。家に近づくにつれ、空は濃紺に塗り替えられて、今ではすっかり夜闇である。夜闇といっても、白く透きとおった月光が煌めいている。眩しい夜。
風が吹く。
スカートの丈は、かろうじて膝が顔を出すくらい長く、白い靴下は細い足首から膝下までを覆い、素肌の部分は多くない。
それでも半袖の腕は涼しさを感じ、膝裏からスカートの中に、風がすぅっと入ってくる。
風だけでない、何かが身体を撫でている。
ふとももが、その内側が、ピクッと震えた。
立ち止まり、みなもは眉間に皺を寄せる。視線はアスファルトの一点を、いや虚空を見つめる。嫌悪感に唇が歪みだす。学生鞄を持った左手に、軽く拳を握った右手に、力が入る。全身が緊張する。
何かが、ふとももに纏わりつく。
実体はない。
それは分かる。
幽霊?
お尻から腰を、それは這うように登り、柔らかな脇腹でヒタリと止まる。そしてそこから入り込む。身体の中に。心の中に。
ウサギさん?
瞬時に、入り込んだ正体を知る。
だが、身体はウサギに乗っ取られ、人外の姿へと変容する。
「あっ」
学生鞄を地面に落とし、両手で自分の身体を抱きしめた。
異物が、身体の内部に拡がっていく。血管を通り、血を塗り替えて。肉に染み出し、臭いがついた。骨は溶かされ、髄液が燃えるように熱くなり。全身の皮膚が裂けるような感覚に襲われて、その裂傷は毛穴に変わる。しなやかで細かった指は縮み、肩は狭まり、首の骨が前へと沈む。しゃんと伸びていた背中は丸まり、みなもは地面に手をついた。尾てい骨に尻尾が生えて、ショーツを下にずらしていく。
骨格が変わっていく、肌が毛深くなっていく。
耳が伸び、頭頂部へと移動していく。
唇の上が痒くなり、途端にヒゲがピヨンと生えた。
いけないっ。
みなもは変身の力にあらがった。
全身に生える毛は透明といっていいほど白く、細く、柔らかく、まるで産毛のようである。身に着けているブラジャーやショーツ、靴下がずれていき、どれくらいの密度で生えているかが分かってしまう。
ローファーが脱げ、足の裏が伸び始める。脚の骨格がヒトのそれからウサギのそれへと変わっていった。怖かった。
「待って、お願い!」
そう言ったつもりだが、口の中はすでに変わってしまっていて、うまく発音できなかった。
身体は奪われてしまっている。だが、気持ちを強くし、精神と心だけは譲らない。インナーフィールドで混融する、みなもと侵入者の精神。みなもはウサギに声をかける。
「怖がらないで」
「怖がってなんかない!」
相手が答えた。
「大丈夫だから」
月から落ちてしまったウサギ。
インナーフィールドに入り込んだウサギの思念から、みなもはその正体を読み取っていた。
「月に帰りたいのよね?」
「帰りたい!」
ウサギはもう一度、力強く言った。
「帰りたい! みんなのところに帰りたい!」
泣き出しそうな声がする。
この子は身体から出ていくことを望んでいる。
それを確かめることができ、みなもはホッと胸をなで下ろす。
「あたしも、あなたを帰らせてあげたい」
心の中で決意すると、身体の変容はようやく止まった。
そこには、地面にうずくまる半人半兎のみなもがいた。
月光に照り返る、全身を覆う白銀の柔毛。
顔はかろうじて毛深くはなく、うっすら産毛が生えている程度。遠目からは色白の少女としてしか分からない。しかし蒼い髪から生えている、白くて長い二つの耳。そして紅色の双眸は、まったく兎のそれである。
怯えたように縮こまる身体。手の指は短くて、足の骨格は兎のままだ。白いソックスは破れ、靴とともにアスファルトに四散している。
スカートの中、ショーツは尻尾のせいでローレグのような位置まで下がっており、さらには獣毛の柔らかさのせいで、いつずり落ちてくるか分からない。ブラジャーも同様に、毛があまりにも柔らかいため、紐が肩から落ちてくる。ずれてくる肩紐を、みなもは拙い指で元に戻す。
セーラー服を着たウサギみなもは、地面に落ちている靴とソックスの残骸を鞄に入れて、その場から去ろうとする。だが、いつもの感覚で走れない。脚は兎のそれであり、しかたなく、跳ねるようにして走る。
慣れてくると、いつもより速く走れることに気づいた。
それでも、この格好のままでは何かと不便だ。そもそも家に帰れない。
そう、自分の家に。
「帰りたい」
ウサギが言った。
それぞれの自我を保ったまま、インナーフィールドで混融するみなもとウサギ。
その対話はインナーフィールドで交わされる。
でも、どうやって月に帰るの?
考えたことは、ウサギにも筒抜けだった。
「どうやって帰ればいいか、ボクにも分からない。お姉ちゃんにも分からない。どうやって……」
ウサギは呻き、泣きだしてしまう。
実体のウサギみなもも泣きだした。
公園の茂みに身をひそめ、うずくまって泣いている。
しばらくすると、ウサギは泣きやみ、落ち着いた。
身体に入り込んだときの、混乱していたウサギではない。何かに怯え、怖がっていたウサギではない。
みなもはようやく、ウサギがどうして地球に降りてきてしまったのかを読み取ることができた。
月のウサギは憧れてしまったのだ。
遠い遠い大地、地球に。
その憧れが、憧憬の想いが、地球の引力に引かれてしまった。
地球の思念体ガイアの魂に引かれてしまった。ガイアの霊的な引力に、ウサギの霊体が引かれてしまったのだ。
すべての物質は魂を持っている。みんな寂しがり屋で、一緒にいたいと引き寄せる。引力を持っている。
「落ちてくるとき、とても、とっても怖かった」
ウサギは今にも泣きだしそうな声で言う。
「そうよね。怖かったよね。だから、地球なんて嫌いよね」
みなもは、ウサギが持つ地球への憧れを消そうとした。
地球への憧れが消えれば、その想いがガイアに引かれることはないだろうと思った。
「でも、あったかい」
ウサギはいった。
その温もりは、ガイアの温もりではない。
みなもの優しさである。
ウサギは今や、地球にではなく、みなもに憧れている。
インナーフィールドで密に接する魂を介し、みなもはそれを知ってしまった。密に接し、ウサギはみなもの性格を、その優しさに安らいでいた。
「ごめんなさい」
みなもは言った。
「あたし、ほんとうは冷たいの」
みなもは駆けた。
紅に光る瞳の残光を、夜闇に流し、駆け抜けた。
銀色に輝く耳を、そして手足を月の明かりに煌めかせ、踊るように街路を跳ねた。
そしてみなもは、水の匂いを嗅ぎつけて、市営プールの飛び込み台に辿り着く。
「どうするの?」
「飛び込むの」
高さ15メートルの飛び込み台から、みなもは跳ねた。
「怖かったよね? 落ちてくるの」
髪の毛が虚空に広がる。
長い耳が、落下の風圧にちぎれそうになる。
全身の柔毛が風になびくなか、制服が濡れるのはまずいかな、とふと思う。
それでも、みなもの気持ちは落下を望んでいた。水に入ることを喜んでいた。
ウサギは、それを恐怖していた。その絶叫がインナーフィールドに響き、実体の口もまた、いなないていた。
水面は豪快な音を立て、ウサギみなもの身体はプールの中に落下した。
学生服が水を吸って重くなり、なかなか水上に顔を出せない。
みなもにとってはたいした時間ではないが、ウサギは苦しくてたまらないようだ。
「じゃあ、もう1回いくね」
みなもはずぶ濡れになった身体をプールサイドに引き上げる。
「寒い、寒いよ」
ウサギみなもの身体はガタガタ震える。
「そんなことないよ」
人魚の末裔であるみなもにとって、初秋の水は寒いうちに入らない。
「行くよ」
またも跳ねるようにして、みなもは飛び込み台に駆けて行く。
「やめて! やめて!」
今度は高さ20メートルの飛び込み台に登っていた。
「それっ」
ウサギみなもの身体が跳ねる。
満月に近い月が、そのシルエットを切り取った。
それは蟹の形でも、餅つく兎の形でもない。
楽しげに宙に舞う、半人半兎の少女の姿。
そして、ウサギは地球を去った。
怖い思いばかりする、地球が嫌になったから。
落下を恐がり、上昇の気持ちを強く持つことができたから。
みなもの身体から抜け出して、月へと昇っていったのだった。
いや、ウサギが大地を去ったのは、これ以上みなもに迷惑をかけたくないと望んだから。本当にそう願ったから、ウサギは月に帰ることができたのだ。
ウサギに嫌がらせをするみなもの、その心が苦しんでいたことを、ウサギは気づいていた。
そしてウサギが気づいていることを、みなもは知っていた。
自分の身体から出ていくウサギに、みなもは「ごめんね」と謝った。
そして聞こえた。
去り際に、ウサギの想いが伝わってきた。
今度また、お姉ちゃんに会いに行くかも。
今度は海の人魚姫に、会いたいな。
(了)
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