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And the nightmare comes again
ときどき、夢を見る。
怖い夢だ。怖くて、奇妙で、そしてどこか懐かしいような夢。
こんな風に雨の降りしきる夜。あたしは決まってその夢を見る。
いつから見るようになったか、よく覚えている。数ヶ月前、ある美術家が死んでからのことだ。
──美術家? そうだろうか。よくわからない。新聞やニュースでは、無職ということにされていた男。最愛の娘を事故で失い、精神を病み、娘を取りもどそうとして年頃の少女をつかまえては、『作品』に加工してしまった男──。
彼の作品のひとつひとつを、いまでもよく覚えている。忘れようとしたって忘れられない記憶。無理もない。ほんのすこし成り行きが違っていれば、あたしもまた『作品』のひとつとして彼のギャラリーに並べられていたのだから。
頭が重い。霞のかかったように視界はぼやけて、暗い天井は海の底みたいにユラユラゆれて見える。ここ数ヶ月というもの、雨が降るたびこんな感じだ。
とくに、夜がひどい。雨の夜には馬鹿みたいに霊感が強くなって、おかげで知りたくもないことや知らないほうがいいことが次から次へと頭の中へ流れこんでくる。
あの『作品』たちのことも、その中のひとつだ。
彼女たちは生きたまま美術品や家具にされて、その魂も肉体も永遠に朽ちることのないモノとして、あちら側の空間に封じ込められている。
雨の夜は、彼岸と此岸の境界が入り混じる時間。彼女たちの思念は雨に溶けて、ただよい、ながれて、あたしにとどく。まるで、ラジオ放送みたいに。
──ああ、きっと今夜も同じ夢を見る。
そう思いながらも、ふしぎとリラックスした気分で、あたしは眠りの淵に落ちていく。そうして、深いまどろみに落ちる寸前。いつものように小さな疑念が頭のどこかをよぎる。
ほんとうに──、ほんとうに、これは夢なのだろうか。もしかすると、この夢こそが現実で、現実だと思っていたものが夢のできごとで、そしてあたしは──。
目がさめると、一面真っ白な部屋の中。
あたしは皆から少し離れた壁際にいて、ぼんやりと天井を眺めている。
ここは、FN生体材料研究所。生きたまま『作品』になった少女たちの住んでいる場所だ。この場所では、あたしの姿もまた人間のものではない。木とプラスチックでできた椅子の中に塗りこめられて、ひとつの『作品』となっている。
動くことはできない。指一本もちあげることができないし、そもそも指がどこにあるかのかさえもわからないのだ。口を開くことも、まばたきをすることもできない。指と同じで、目も口もどこにあるのかわからない。
けれど、べつに動きたいという気持ちもないのだ。だから、なにも不自由は感じない。この空間にいるとき、あたしはただ椅子でありさえすればいいのだ。動きたがる椅子なんて、存在するわけがないし、存在してはならない。なにも悩む必要はない。あたしは、ただの椅子なのだから。
「おかえり」と、安楽椅子の少女。彼女はいつでも部屋の真ん中にいて、だれにでも分け隔てなく声をかける。もちろん、新入りのあたしにも。
「ただいま」と答えたとたん、心の底からほっとする。自分のあるべき場所に帰ってきたような、言い知れない安堵感。その気持ちが安楽椅子の少女にも伝わったのだろう。彼女からもまた、ふわりとした温かい感覚が返ってくる。
形容しがたいその感覚が波紋のように部屋全体に広がると、眠りからさめたように『作品』たちは交流をはじめた。
その交流は、どことなく妖精たちのおしゃべりを想像させる。つかみどころがなくて、けれど心の躍るような会話。
だれも、言葉を口には出さない。心に思えば、それがそのまま皆に伝わる。最初はテレパシーのようなものかと思ったけれど、どうやら違うらしいことに最近気付いた。
この部屋の少女たちは──あたしも含めて──霊魂の寄り集まった、一個の集合体のようになっているらしいのだ。だから、だれかの考えたことはそのまま伝わるし、あたしの考えたことも同じように伝わる。そもそも、「伝える」というよりは「共有している」というほうが正しいのかもしれない。
彼女たちは、皆仲良しだ。それはそうだろう。他人は自分の一部であり、逆もまた同様なのだから。ここでは、決して争いが起こらない。時の流れはゆるやかで、皆平穏そのものの心を持っている。もしかすると、こういう場所こそを楽園と呼ぶのかもしれない。いや、きっとそうだ。
どれぐらいのあいだ、そんな風にしていただろう。わからない。ここにいると、時間の感覚がなくなる。たぶん、時間なんてものは最初から存在しないのだろう。
けれど、終わりが近付いていることはわかる。ゆっくりと、向こう側に引きもどされる感覚。引き潮みたいに、あたしの中から何かが遠ざかっていく。
きっと、朝がやってきたのだ。すべての魔法が解ける時間。まるでシンデレラみたいに、あたしは向こう側へ帰らなければならない。つらく、悲しい、争いごとばかりの、あの世界へ。
できることなら、永遠にこの空間にいられればと思う。けれど、どうやったってそれは許されないのだ。あたしは楽園に住むことを自ら拒否して、向こう側の世界に住むことを選んでしまったのだから。──そう。まるで悪夢のような、あの世界に。
「もう行っちゃうの?」と、安楽椅子の彼女が問いかけてきた。ニスを塗られたその表面は、なぜだか涙で濡れているようにも見える。もしかすると、あたしの姿も同じように見えるのかもしれない。彼女の目から見れば。
「うん。もう時間みたい。でも、またすぐに帰ってくる」
「わかった。みんな、いつでも待ってるから。無事に帰ってきてね、みなも」
心の底から心配してくれているのだということがわかる、見送りの言葉だった。まるで、戦争に行く兵隊の気分だ。──実際、あちら側の世界にもどるというのは、それに近いのかもしれない。
「ありがとう。今度はもっと長くいられるとおも……」
そこまで言ったとき。まるでカメラのフラッシュみたいに視界が真っ白になった。
気がつくと、目覚まし時計が鳴っていた。
午前七時半。カーテンの隙間からは細長い陽光が差し込んで、遠くからカラスの声が聞こえる。いつもの朝だった。いつもどおりの、東京の朝。嘘と、争いと、死と、そして申しわけ程度の幸せに満たされた、東京の朝。
時計のアラームを止めて、あたしは深く息を吐いた。
今回もまた、どうにかこっちの世界へ帰ってくることができた。そういう、安堵の溜め息だった。
研究所の彼女たちは、いつでもあたしを呼んでいる。そうして、あたしを仲間にしようとしている。
おそらく、彼女たちの世界で暮らしつづけることも可能なのだ。あたしが、心の底からそう願えば。けれど、悪夢のようなこの東京にもいくらか良いところはあって、おかげであたしはこの世界を捨てることができずにいる。──それがいつまで続くか、わからないけれど。
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